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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第29話「二人分の一杯」

 翌朝、ガルドが来た。


 開店前だった。


 扉を叩く音で、俺は気づいた。


 「どうぞ」


 「ヴァルドが戻ったと聞いた。今日、ここにいるか」


 「もうすぐ来ます」


 ガルドは何も言わずにカウンターに座った。


 水を一口飲んで、扉の方を見た。


 それだけだった。


 ルナが二階から降りてきた。


 ガルドを見て、俺を見た。


 何も聞かなかった。


 シロを抱えたまま、静かにフロアを磨き始めた。


---


 三十分ほどして、扉が開いた。


 ヴァルドが入ってきた。


 昨夜より顔色が良かった。


 よく眠れたのだと思った。


 カウンターを見た。


 ガルドが座っていた。


 一瞬だけ、止まった。


 「久しぶりだな」とガルドが言った。


 「……お前が来るとは思っていなかった」


 「なぜだ」


 「治療は終わったと聞いた」


 「終わった。ただ今日は別の用事がある」


 ガルドが横の椅子を、顎で示した。


 「座れ」


 「お前に言われることではないが」


 「俺の方が先にここにいる」


 ヴァルドは少し間を置いてから、隣に座った。


 二人が並ぶと、カウンターが狭く感じた。


---


 二人分のグラスを用意した。


 ガルドへは薬草の入っていない透明なカクテルだ。


 ヴァルドへはボウモア12年にした。


 ただし今朝は少しだけ違う出し方をした。


 ウイスキーを注ぐ前に、泉の水を数滴だけグラスの底に落とした。


 水が香りと出会うことで、閉じていたものが少し開く。


 「どうぞ」


 二人がほぼ同時に一口飲んだ。


 何も言わなかった。


 ただ並んで、グラスを傾けた。


---


 しばらくして、ガルドが言った。


 「三ヶ月間、入口にいた」


 「聞いた」


 「礼を言う」


 ヴァルドは少し間を置いた。


 「……お前が来てくれた。それで十分だ」


 「礼は受け取れ」


 「わかった。ありがとう」


 ガルドはグラスを傾けた。


 「毎週ここに来るたびに、お前が入口にいた。お前がいない間だけ、あの扉が違う重さに見えた」


 ヴァルドは何も言わなかった。


 「俺は剣が使えなくなった時期があった」とガルドが続けた。「六ヶ月間、どこにも行けなかった。ここに来て、変わった。お前が三年間、冤罪を抱えて生きてきたのとは違う話だが」


 「違う話とは思わない」


 ガルドがヴァルドを見た。


 「どういう意味だ」


 「行き場をなくした時間があった、という点では同じだ」


 ガルドは少し考えてから、また前を向いた。


 「……騎士団の頃から、お前は言葉が少ないと言われていたな」


 「言われていた」


 「それで伝わると思っているのか」


 「今伝わっているだろう」


 ガルドが低く笑った。


 「まあ、そうだな」


 二人はまたしばらく、何も言わずにグラスを飲んだ。


 三ヶ月間、毎週同じ空間にいながら、きちんと話したことがなかった。


 今朝が、初めてだった。


---


 ルナがグラスに水を足しに来た。


 二人の間に挟まるように立って、両方のグラスを確認した。


 「おかわりいりますか」


 「いらない」とガルドが言った。


 「もう少し待ってください」とヴァルドが言った。


 ルナはヴァルドを見た。


 それからガルドを見た。


 「……二人とも、よかった」


 「何がだ」とガルドが聞いた。


 「ヴァルドさんが戻ってきて、ガルドさんが来てくれて」


 「来てよかったか、俺は」


 「よかった」


 ルナは迷いなく言った。


 ガルドは少し目を細めた。


 ヴァルドはグラスを見たまま、何も言わなかった。


 でも、持っていたグラスをゆっくりとカウンターに置いた。


---


 シロが足元を歩いてきた。


 ガルドの前で止まって、鼻先を近づけた。


 ガルドが右手を差し出した。


 シロが一度だけ触れて、またゆっくりと歩いた。


 ヴァルドの前で止まった。


 じっと見た。


 ヴァルドが、そっと手を差し出した。


 シロが鼻先を近づけた。


 それから、ヴァルドの足元に座った。


 昨夜と同じだった。


 ガルドがそれを見て、短く言った。


 「始まりの守護者に気に入られているな」


 「そのようだ」


 「騎士団の頃から、お前は動物に好かれやすかった」


 「そんな話をしていたか、俺たちは」


 「していない。ただ見ていてそう思った」


 ヴァルドは少し間を置いてから、言った。


 「……お前は昔から、余計なことをよく覚えている」


 「剣聖の記憶力だ」


 「自慢するな」


 ガルドはまた低く笑った。


---


 昼前に、ガルドが帰った。


 「また来る」


 「お待ちしています」


 「次はレンも連れてくる。ヴァルドに稽古をつけてもらえるか聞きたい」


 ヴァルドがガルドを見た。


 「俺にか」


 「それがだめなら」


 「……いや、構わない」


 「そうか」


 ガルドはコートを手に取った。


 「入口、頼む」


 「わかった」


 扉が閉まった。


 ヴァルドがしばらく扉を見ていた。


 俺はグラスを片付けながら、何も言わなかった。


 「……レンの稽古相手か」とヴァルドが言った。


 「そうですね」


 「ガルドは、俺に何かを任せたいのか」


 「そう見えますか」


 「剣聖が自分の弟子の相手を、他に頼むとは思っていなかった」


 「信用されているということだと思います」


 ヴァルドは少し考えてから、また扉を見た。


 「……変わった男だ」


 「そうですね」


 「でも」


 「でも?」


 「悪くない」


 ヴァルドは定位置に向かった。


 入口の前に立って、腕を組んだ。


 三ヶ月ぶりのその姿を見て、俺は炭酸水を一口飲んだ。


 店が、元の形に戻っていた。


---


 昼過ぎ、ノアが厨房から出てきた。


 「今日、蒼天亭に行く」


 「一人でですか」


 「そうだ。カルには言っていない」


 「わかりました」


 ノアはコートを羽織った。


 それから少し間を置いて、言った。


 「……正式な引き渡しは来週だ。でも今日一度だけ、あの場所に立ちたい」


 言いかけて、止まった。


 「……なんでもない。行ってくる」


 「いってらっしゃい」


 扉が閉まった。


 少しして、カルが厨房の入口から顔を出した。


 「師匠、どこに行ったんですか」


 「蒼天亭です」


 カルが少し表情を変えた。


 「……蒼天亭に」


 「カルさんも、一度行ってみてはどうですか。師匠より先に着いてもいい」


 「でも」


 「ノアさんはあそこで一人の時間が必要です。あなたはあなたで、空の店の前に立ってみてください。師匠が継がせると決めた場所が、どんな場所なのか」


 カルはしばらく考えた。


 「……行っていいですか」


 「もちろんです」


 「……行ってきます」


---


 夕方、二人が戻ってきた。


 時間を置いて、別々に。


 どちらも何も言わなかった。


 でも、顔が違った。


 ノアは何かを置いてきた顔をしていた。


 カルは何かを受け取ってきた顔をしていた。


 夜の仕込みが始まった。


 厨房から、包丁の音が聞こえた。


 一人の音ではなかった。


 重なって聞こえた。


 ルナが俺の隣に来て、その音を聞いていた。


 しばらくして、小さく言った。


 「……二人とも、向こうで会ったんだね、きっと」


 「わかりません」


 「おにーさんが行かせたんでしょ」


 「それぞれに声をかけただけです」


 ルナが少し笑った。


 「それを行かせたって言うんだよ」


---


 夜、旅人が来た。


 二十代後半の男だった。


 背中に弦楽器を背負っていた。


 カウンターに座って、店内を一度見回した。


 目が鋭かった。


 何かを記録しようとしている目だ。


 「いらっしゃいませ」


 「ここが、噂のBAR ZEROか」


 「そうです」


 「各地で話を聞いた。王国の人間も、隣国の人間も、みんな同じことを言う。『一度は行くべき場所だ』と」


 「そうですか」


 「だから来た。ただ飲みに来ただけだ。特別な用事はない」


 「何をお飲みになりますか」


 「任せる」


 「少し聞かせてください。最近、よく眠れていますか」


 男は少し考えてから、答えた。


 「眠れている。ただ、声が出なくなる夢を見る。年に何度か」


 「いつ頃からですか」


 「三年前から。理由はわからない」


---


 今夜の一杯を作った。


 声で生きている男への一杯だ。


 「声草」という薬草がある。


 喉に優しく、声楽家や語り手が大切な日の前に飲む。


 月蜜と炭酸水で割ると、淡い緑色になった。


 「どうぞ」


 「名前は」


 「飲んでから決めます」


 男がグラスを手に取った。


 香りを嗅いだ。


 一口飲んだ。


 目を細めた。


 「……甘い。それから、喉が開く感じがする」


 「声草の効果です」


 「声が出なくなる夢を見ると言ったから、これを選んだのか」


 「そうです」


 男はしばらくグラスを見た。


 「……お前の名前を聞いていいか」


 「水無月零です」


 「俺はリオ・ファーン。吟遊詩人をしている」


 「いらっしゃいませ、リオさん」


 リオはグラスを飲み干した。


 「今夜の一杯の名前、まだもらっていない」


 「『声が戻る夜の一杯』にしましょう」


 リオが少し笑った。


 「シンプルだな」


 「シンプルが一番伝わります」


 「また来る」


 「お待ちしています」


 リオは弦楽器を背負い直して、出ていった。


---


 深夜、全員が帰った後。


 カウンターを磨いていると、郵便口から一通の手紙が落ちてきた。


 拾い上げた。


 差出人の欄が、空白だった。


 (SOMA)


 ――読む前に言っておく。この差出人を、俺は特定できていない。


 俺は手を止めた。


 SOMAが特定できない。


 今まで一度もなかったことだ。


 封を開けた。


 一行だけ書いてあった。


 「世界の終わりについて、話がしたい。BAR ZEROが適切な場所だと思っている」


 読んだ。


 もう一度、読んだ。


 (SOMA)


 ――怖いか。


 「整っていれば、怖くはないです」


 ――整っているか。


 「整えます。今から」


 俺は一枚の紙を取り出した。


 書いた。


 「お待ちしています。いつでもどうぞ」


 封をして、返信箱に入れた。


 カウンターを磨く手を動かした。


 開店から、もうすぐ百日になる。


 この店が始まった夜を思い出した。


 雨の夜に、泥で汚れたローブを着た少女が、震える声で言った。


 「営業していますか」


 その一言から、百日。


 扉を叩いてくれた全員が、続きを生きている。


 次に来る者が、誰であっても。


 俺は一杯を出す。


 それだけだ。


---


≪第29話・了≫





次話――開店から、ちょうど一年が経った夜。BAR ZEROはいつも通り開いていた。カウンターの端に、ルナが作ったものが置かれていた。小さなノートだ。表紙に、一言だけ書いてあった。「来てくれた全員の名前」


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