第28話「守護者の名前」
二週間後の夜。
俺はカウンターの中で、グラスを磨いていた。
ルナがフロアを掃除していた。
シロがルナの足元にいた。
ノアが厨房にいた。
アリシアが素材の部屋にいた。
いつもと変わらない夜だった。
ただ、全員がどこか、扉の方を気にしていた。
(SOMA)
――第三回の審問が、今日の午後に終わった。
「そうですか」
――結論が出た。
「どうでしたか」
――全面的に、ヴァルドの無実が認められた。マルクス・ハインが提出した証拠書類の偽造が明らかになった。ハインは今日の夕方、王国法務省に身柄を確保された。
俺はグラスを磨く手を止めなかった。
「ヴァルドさんは」
――今、こちらに向かっている。
ルナが顔を上げた。
シロの耳が、扉の方を向いた。
扉が開いた。
ルナが走った。
気づいたらもう走っていた。
フロアを駆けて、扉まで。
ヴァルドの前で止まった。
見上げた。
何も言わなかった。
ヴァルドも何も言わなかった。
ただ、大きな手が、ルナの頭の上に置かれた。
それだけだった。
ルナは動かなかった。
ヴァルドも動かなかった。
しばらく、二人はそのままだった。
ノアが厨房から顔を出した。
アリシアが素材の部屋から出てきた。
シロがヴァルドの足元に来て、静かに座った。
全員が、何も言わなかった。
俺もグラスを磨く手を止めて、見ていた。
やがて、ルナが言った。
「……おかえり」
ヴァルドが短く答えた。
「ただいま」
ヴァルドがカウンターに座った。
痩せていた。
三ヶ月前より、少し頬がこけていた。
でも目が、変わっていた。
三年間抱えてきた何かが、今夜なくなった目だ。
「お疲れ様でした」と俺は言った。
「終わった」
「そうですね」
「全面的に無実だと認められた」
「知っています」
「ハインが捕まった」
「知っています」
ヴァルドは少し間を置いた。
「……お前は、全部知っていたのか」
「SOMAが教えてくれます」
「そうか」
ヴァルドはカウンターに手を置いた。
「一杯もらえるか」
「お待ちしていました」
ヴァルドへの一杯を考えていた。
三ヶ月間、審問の場で戦い続けた男への一杯だ。
冤罪が晴れた夜の一杯だ。
強い酒でいい。
でも、今夜だけは「戦いが終わった」味にしたい。
アイテムボックスに手を入れた。
取り出したのは、ボウモア12年だった。
「また同じ酒?」とルナが言った。
「三回目です」
「なんでいつもボウモアなの?」
「ヴァルドさんに合う酒だからです」
「どうして合うの」
俺は少し考えてから、答えた。
「嵐の島で二百年以上作り続けてきた酒です。嵐の中でも作ることをやめなかった。ヴァルドさんが三年間やめなかったことと、似ています」
ルナはヴァルドを見た。
ヴァルドはグラスを見ていた。
グラスに注いだ。
深い琥珀色が、静かに揺れた。
「どうぞ」
ヴァルドがグラスを手に取った。
一口、飲んだ。
目を閉じた。
長い間、目を閉じたまま、何も言わなかった。
「……潮の香りがする」
「嵐の海の隣で作られた酒です」
「三年間、こういう香りを忘れていた」
「どういう香りですか」
「戦場の夜明け前の香りに似ている。始まる前の、あの空気だ」
俺は何も言わなかった。
「ただし」
ヴァルドがまた一口飲んだ。
「今夜は、始まる前ではない。終わった夜だ」
「そうですね」
「だから、今夜のこの酒は違う意味がある」
「どういう意味ですか」
ヴァルドはグラスを置いた。
「……戦いが終わった夜に飲む酒だ。今夜初めて、そういう味がした」
ノアが厨房から皿を持って出てきた。
「今夜の分だ」
「余り物ですか」と俺は聞いた。
「今日は違う。ヴァルドが帰ってくる日だとわかっていたから、作った」
ヴァルドがノアを見た。
「俺のために?」
「そうだ」
「……礼を言う」
「いらない。三ヶ月、入口にいてくれた。それへの返礼だ」
二人は少し沈黙した。
「入口は、ガルドに頼んでいた」
「知っている」
「ガルドに礼を言いたい」
「次来た時に言え」
「そうする」
ノアは厨房に戻りながら、一度だけ振り返った。
「……帰ってきて良かった」
それだけだった。
厨房に消えた。
ヴァルドは皿を見た。
一口食べた。
「……うまい」
「そうですね」
「ノアの料理は、いつ食べてもうまい」
「そうですね」
「でかいの」という呼び方は、今日は使われなかった。
食事が終わった頃、アリシアが来た。
「ヴァルドさん、おかえりなさい」
「ただいま」
「今夜、一つ報告があります」
「なんだ」
「シロのことです」
全員がアリシアを見た。
アリシアはノートを持っていた。
「ダンジョンの古代文字の解読が、昨日完成しました。老学者と一緒に、三ヶ月かけて」
「全部読めたの?」とルナが言った。
「全部ではありません。でも、重要な部分が読めました」
アリシアはノートを開いた。
「まず、この遺跡を建造した文明について書かれていました。三百年以上前に存在した文明で、複数の世界の存在を知っていた。そして、世界と世界の境界を守るために、守護者を選んだ」
「シロの種族ですね」と俺は言った。
「そうです。そして、守護者の正式な名前が書かれていました」
アリシアがルナを見た。
「ルナさん、シロを連れてきてもらえますか」
ルナがシロを抱えて、アリシアの前に来た。
アリシアはシロを見た。
シロも、アリシアを見た。
「古代語で書かれた守護者の名前は」
アリシアが少し間を置いた。
「『始まりの守護者』です」
静寂があった。
「始まりの守護者」と俺は繰り返した。
「そうです。世界の始まりを守る存在。世界が始まった時からある境界を守り続ける、最初の守護者」
ルナがシロを見た。
「……シロが、始まりの守護者?」
「そうです」
ルナはシロを抱きしめた。
「……シロって、そんなにすごい子だったの」
シロは何も言わなかった。
ただ、ルナの腕の中で、静かにしていた。
「もう一つ」とアリシアが言った。
「なんですか」
「守護者の役割について書かれた一文があります」
アリシアはノートを読んだ。
「『守護者は、世界の始まりを守る。境界が乱れる時、守護者は声を発する。その声は、守護者が認めた者にだけ届く』」
全員が静かになった。
ルナがゆっくりシロを見た。
「……声を、発する」
「そうです」
「あたしに聞こえたことがある」
アリシアが頷いた。
「知っています。ルナさんはシロが認めた人間です」
「他の人には聞こえないの?」
「今のところ、ルナさんだけです」
ルナはシロを見た。
「……シロ」
シロが、ルナを見た。
金色の目が、細くなった。
「ここにいるよね」
シロは耳を動かした。
「……うん、そうだよね」
ルナはシロを抱きしめた。
それから、俺を見た。
「おにーさん」
「なんですか」
「シロが言った」
俺は手を止めた。
「何と」
「『ここにいる』って」
全員が静かになった。
シロが初めて言葉を発した。
ルナにだけ届いた言葉だった。
「そうですか」と俺は言った。
「うん」
「良かったです」
ルナはまた、シロを抱きしめた。
今度は強く。
ヴァルドがシロを見た。
「始まりの守護者、か」
「そうです」
「二十年間、一人でここを守っていた」
「そうです」
ヴァルドは少し間を置いてから、言った。
「……俺と似ているな」
「どういう意味ですか」
「三年間、一人で抱えていた。守るべきものが何か、わからなくなった時期もあった」
「そうですか」
「でも今、ここにいる」
「そうですね」
ヴァルドはシロを見た。
シロがヴァルドを見た。
しばらく、二人は見つめ合った。
シロが、ヴァルドの足元に歩いていった。
そして、静かに座った。
ヴァルドが、右手を下に差し出した。
シロが鼻先を近づけた。
「……認めてもらえたか」
「そうだと思います」
「始まりの守護者に認めてもらうとは」
「光栄ですね」
ヴァルドは低く笑った。
「まったくだ」
深夜、全員が集まった。
ノアが「今日は余り物がある」と言って、皿を五枚持ってきた。
今日ばかりは誰も「作りすぎです」と言わなかった。
五人と一匹が、テーブルを囲んだ。
ヴァルドの席が戻っていた。
ルナがヴァルドの隣に座った。
「三ヶ月間、どうだった?」
「長かった」
「ガルドさんが来てくれてたよ」
「知っている。礼を言わなければならない」
「ガルドさんは『礼はいい』って言うと思う」
「そうかもしれない」
「でも言った方がいい」
「そうするか」
ルナは少し考えてから、また言った。
「ヴァルドさんがいない間、扉が寂しそうだった」
「扉が?」
「なんか、いつもと違う気がしてた。ヴァルドさんがいる時の空気と、いない時の空気が違う」
「……そうか」
「だから早く帰ってきてほしかった」
ヴァルドは少し間を置いてから、言った。
「……ここは、居場所か」
「そうじゃないの?」とルナが聞いた。
「俺にとってはそうだ。ただ、そういう場所ができたのは初めてだったから」
「初めて?騎士団は?」
「仕事場だった。居場所とは違う」
ルナは少し考えた。
「じゃあここが初めての居場所なんだ」
「そうだ」
「……なんか、嬉しい」
ヴァルドは何も言わなかった。
でも、グラスを持つ手が、少し穏やかになった。
アリシアがルナに言った。
「シロが言葉を発したこと、どう感じましたか」
「嬉しかった」
「どんな声でしたか」
「声というより……なんか、気持ちが届いた感じ。音じゃない」
「感情として届いた、ということですか」
「うん。『ここにいる』って。なんか、すごく安心した」
アリシアは少し考えた。
「シロの能力は感情を知覚して、感情に作用することです。言葉を発するというより、感情を直接届けた可能性があります」
「じゃあ、言葉じゃないの?」
「言葉でもあり、感情でもある。それがシロの声だと思います」
ルナはシロを見た。
「……シロ、また話しかけてね」
シロは耳を動かした。
「今また言った」とルナが言った。
「何と」と俺は聞いた。
「『わかった』って」
全員が少し笑った。
(SOMA)
――今夜の整理をする。
(頼む)
――ヴァルドの冤罪が完全に晴れた。マルクス・ハインが法務省に身柄を確保された。三年間の審問の結論が出た。
「そうですね」
――シロの真名が明らかになった。「始まりの守護者」。アリシアと老学者が三ヶ月かけて解読した。
「そうですね」
――シロが初めて言葉を発した。ルナにだけ届いた。「ここにいる」という一言だった。
「そうですね」
SOMAが少し間を置いた。
――零。
(なんだ)
――今夜で、大きな区切りになった。
「そうですね」
――ここから先は、また別のことが始まる。
「そうですね」
——その準備は。
俺はグラスを磨きながら、答えた。
「できています」
――そうか。では今夜はゆっくり休め。
「ありがとうございます」
ルナが二階に上がる前に、俺に言った。
「おにーさん」
「なんですか」
「今日、いい日だったね」
「そうですね」
「ヴァルドさんが帰ってきて、シロが話してくれて」
「そうですね」
「この店って、こういう日があるんだね」
「どういう意味ですか」
「普通の日と、特別な日と、両方ある。でもどっちも大事な日だね」
俺は少し間を置いてから、答えた。
「そうですね」
「……あたし、ここにいてよかった」
「俺もそう思います」
ルナはシロを抱えて、二階に上がった。
足音が消えた。
店が静かになった。
ヴァルドが入口の定位置に戻った。
「ただいま」と一言、言った。
俺は答えた。
「おかえりなさい」
≪第28話・了≫
次話――翌朝。ガルドが来た。「昨夜、ヴァルドが帰ったと聞いた」「そうです」「会えるか」「もうすぐ来ます」。ガルドとヴァルドが、カウンターで初めて並んで座った。何も言わなかった。ただ、二人の間に、一杯ずつグラスが置かれた。




