第27話「情報の値段」
朝、ガルドが来た。
開店前だった。
扉を叩く音で、俺は気づいた。
「どうぞ」
扉が開いた。
ガルドだった。
「今日、ヴァルドの審問があると聞いた」
「そうです。第二回です」
「一日ここにいてもいいか」
俺は少し間を置いてから、頷いた。
「もちろんです」
「邪魔はしない。入口にいる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ここが気に入っているから来る。それだけだ」
ガルドはそのまま入口の前の椅子に向かった。
腰を下ろして、腕を組んで、目を閉じた。
ヴァルドがいつも座っていた場所だった。
椅子の大きさが、ガルドにも合っていた。
ルナが二階から降りてきた。
ガルドを見た。
俺を見た。
「今日は」
「ヴァルドさんの審問の日です」
ルナはガルドを見た。
「……そっか」
それだけ言って、朝食の準備を始めた。
しばらくして、ルナがガルドの横にお椀を持っていった。
「朝ごはん。食べてください」
ガルドが目を開けた。
「……気を遣うな」
「食べないと集中できないでしょ」
「俺はこれくらいで集中が切れない」
「でも美味しいから食べてください」
ガルドは少し間を置いてから、お椀を受け取った。
一口飲んだ。
「……うまい」
「でしょ」
ルナは満足そうに、厨房に戻った。
(SOMA)
――今日来る人間の数を伝えておく。
(言え)
――三組だ。全員、同じ目的で来る。「情報を買いたい」という目的だ。
「そうですか」
――ただし、背景がそれぞれ違う。整理して送る。
俺はグラスを磨きながら、聞いた。
最初に来たのは午前中だった。
四十代の男だ。
外交官の服装をしていた。
某国の紋章が入った上着を着ている。
「BAR ZEROの主人に会いたい」
「俺です。いらっしゃいませ。一杯飲んでから、話を聞かせてください」
男が少し止まった。
「急いでいる」
「それでも、どうぞ」
男は仕方なく座った。
泉の水を炭酸で割って出した。
男は一口飲んで、少し目を細めた。
「……なんだこの水は」
「ダンジョンの泉から湧いた水です」
「あのダンジョンの、か」
「そうです」
男は続きを飲んでから、言った。
「単刀直入に言う。このダンジョンに関連する情報と、王国内の政治的な動向について、定期的に情報提供をしてほしい。対価は十分に払う」
「お断りします」
「なぜだ。お前の情報網がどれほどのものか、我々は知っている」
「知っていても、売りません」
「理由を聞かせてくれ」
俺は少し考えてから、答えた。
「情報を売った瞬間、この店に来る人間が変わります。本当に話したい人間ではなく、情報を持った人間に話しかける人間が来るようになる。それは俺の望みではありません」
「……哲学の話をしているのか」
「商売の話です。この店の価値は情報の量ではない。だから情報を売ることが、商売的に得にならない」
男はしばらく俺を見た。
「……別の条件を提示することはできるか」
「条件に関わらず、情報は売りません」
「最終的な答えか」
「最初からそうです」
男は立ち上がった。
「……交渉の余地はないのか」
「ここでは、全員が一人の客です。国の代表として来てもらっても、カウンターではただ一人の人間です。情報の売り買いをする場所ではなく、一杯飲む場所です」
男は少し間を置いてから、財布を出した。
水の代金を払って、出ていった。
昼過ぎに、二組目が来た。
今度は商人だった。
三十代の女性だ。
「マリア・ヴェロンさんの紹介で来ました」
「そうですか」
(SOMA)
――マリアの紹介は本当だ。ただし、マリアがこの人物の目的を知って紹介したかどうかは不明だ。
(目的は)
――競合他社の動向についての情報収集。商業スパイに近い。
俺は女性に一杯出した。
日向果のカクテルだ。
明るい橙色だった。
「マリアさんの知り合いですか」
「取引先です。良いお店だと聞いて」
「ありがとうございます。ご用件を聞かせてください」
女性は少し考えてから、言った。
「実は、ある商会の動向を知りたいのですが。この店なら、情報を持っているかと思いまして」
「情報は売っていません」
「売る、というより、教えていただけないかと」
「形が変わっても、同じことです」
「でも、マリアさんは」
「マリアさんもここで情報を買ったことはありません」
女性が少し止まった。
「……そうなんですか」
「この店は、来てくださった方に必要なものをお出しする場所です。情報は、来てくださった方自身の問題を解決するためだけに使います。他者の動向を探るために使うことはしません」
女性はしばらくカクテルを見ていた。
「……では、何をしてくれる店なんですか」
「あなた自身の悩みがあれば、聞きます。一杯飲んで、話してください」
女性は少し間を置いた。
「……実は、取引がうまくいっていなくて」
「聞かせてください」
女性の話は、競合他社の動向とは全く別のことだった。
自分の商会の内部の問題だった。
俺はそれを聞いて、一枚の紙を書いた。
「あなたの商会の問題は、競合他社ではなく内部の伝達経路にあります。この紙に、改善できる点を書きました」
「……なぜわかるんですか」
「話を聞けばわかります」
女性は紙を読んだ。
表情が変わった。
「……これは」
「本当の問題は、どこにあったかわかりましたか」
「……はい」
「ではお代は、今日の一杯分です」
女性は財布を出しながら、言った。
「……最初から、こっちを聞いてくれれば良かった」
「来てくれた方が、自分で気づいてくれることが大事です」
女性は頷いて、出ていった。
夕方、三組目が来た。
二人組だった。
上等な服を着た中年の男と、護衛らしき人物だ。
(SOMA)
――北部の貴族だ。ファルグ伯爵の知人に近い人物だが、今回は独自の判断で来ている。目的は、王国と隣国の外交情報だ。
俺は二人をカウンターに案内した。
泉の水と、炭酸割りを出した。
男が一口飲んで、言った。
「この水は有名になってきたな」
「ありがとうございます」
「本題に入らせてもらう。王国と隣国の外交交渉について、現在の状況を聞きたい」
「お断りします」
「値段は」
「値段に関係なく、お断りします」
「なぜだ。これは商売的な提案だぞ」
「そうですね。でも」
俺はグラスを磨きながら、続けた。
「この店には、王国の人間も隣国の人間も来ます。全員が一人の客として来ます。どちらかの情報を売ることは、どちらかの信頼を売ることになります。信頼は売りません」
「……中立を標榜するのか」
「標榜するのではなく、中立でいることが、この店の存在価値だからです」
男はしばらく俺を見た。
「……面白い商売だ」
「ありがとうございます」
「儲からないだろう」
「会員制があります。情報ではなく、体験に値段をつけています」
「体験、か」
「来てくださった方が変わって帰っていく体験です。それに値段がついています」
男は少し考えてから、また水を一口飲んだ。
「……実は俺も、少し相談がある」
「聞かせてください」
「北部の利権の話だが」
「一杯、もう少し飲みながら話してください」
(SOMA)
――面白いな。
(なんですか)
――三人とも、情報を買いに来て、違う話をして帰っていった。
「そうですね」
――外交官は「この店の哲学」を理解して帰った。商人の女性は「本当の問題」に気づいて帰った。貴族は「自分の悩み」を話して帰った。
「情報を売らないから、情報以外のものを受け取って帰ってくれた」
――そういうことだ。
「それでいい」
夜になった。
ガルドはまだ入口にいた。
昼も、夕方も、ずっとそこにいた。
ルナが何度か水を持っていった。
ガルドは毎回、短く「ありがとう」と言って受け取った。
それだけだった。
午後九時を過ぎた頃、扉が開いた。
セルジオ・メナだった。
「また来た」
「お待ちしていました」
セルジオはカウンターに座った。
大きな鞄を持っていた。
「今日は手ぶらではない」
「そうですか」
「前回、次は料理を食べると言ったが、今日は別のものも持ってきた」
「なんですか」
セルジオは鞄から、一本のボトルを取り出した。
「ベルタニアの北部、山間の蒸留所で作られたものだ。百年以上続いている家族経営の蒸留所で、王都にはほとんど出回らない」
俺はボトルを受け取った。
ラベルは手書きだった。
ベルタニア語で何か書いてある。
「これを飲んでほしい。この店なら、正確に評価できると思った」
「ありがとうございます」
俺はボトルを開けた。
香りが広がった。
(SOMA)
――分析する。
(頼む)
――ピート(泥炭)を使って乾燥させた麦芽を使っている。蒸留は二回。熟成は十年以上。樽はオーク材。全体的な製法が、スコットランドの島嶼部のシングルモルトに非常に近い。
俺は少し間を置いた。
「飲んでみてください」と俺はセルジオに言った。
「お前は飲まないのか」
「飲めないので。ですがグラスに注ぐことはできます」
小さなグラスに少量注いだ。
色は深い琥珀色だった。
セルジオがグラスを手に取った。
香りを嗅いだ。
「……煙の香りがする。泥の香りもある。でも奥に、甘みも」
「そうですね」
「ボウモアに似ているか?」
俺は少し止まった。
「……ボウモアをおぼえてますか?」
「前の世界の酒だったか?あれに近い気がして」
「そうです。製法が非常に近い」
「ということは」
「ベルタニアの北部と、前の世界のスコットランドの島で、似た発想で作られた酒が生まれた。そういうことかもしれません」
セルジオは一口飲んだ。
目を閉じた。
「……同じではない。でも、兄弟みたいな味だ」
「そうですね」
「これを、この店に置かせてもらえるか」
「使わせてもらえますか」
「そのつもりで持ってきた。ベルタニアから持ってくるたびに、補充する」
俺はグラスを磨きながら、頷いた。
「ありがとうございます。大切に使います」
「礼は、うまい酒が飲めた時にもらう」
ノアが厨房から出てきた。
「今日は料理を食べると言っていたな」
セルジオが顔を上げた。
「ノア・ブラントか」
ノアが少し止まった。
「……知っているのか」
「蒼天亭の名前は知っている。王都まで足を運んだことがある。なくなる直前に」
ノアはしばらくセルジオを見た。
「……その時の飯は、どうだったか」
「あの蒼天果のデザートは、ベルタニアには存在しない味だった。今でも覚えている」
ノアは少し間を置いてから、言った。
「今夜、出せる」
「本当か」
「昨日から考えていた版がある。食べていけ」
セルジオは少し笑った。
「喜んで」
ノアが皿を持って出てきた。
蒼天亭の看板デザートの、現BAR ZERO版だった。
昨日ガルドに出したものをさらに改良していた。
一晩で、また変えていた。
セルジオが一口食べた。
止まった。
「……これは」
「蒼天亭の味に近いですか」
「近い。でも」
セルジオはもう一口食べた。
「……違う。でも、好きだ。こちらの方が」
ノアが少し目を細めた。
「どう違う」
「あの時のは、完成されていた。今のは、まだ育っている感じがする。どちらが良いかではなく、今食べる価値があるのはこちらだ」
ノアは何も言わなかった。
でも、耳が少し赤くなっていた。
深夜、セルジオが帰った。
「次はベルタニアの王子と来るかもしれない」
「お待ちしています」
「あの王子、この店を気に入ったらしい。手紙が来た」
「そうですか」
「うちの国の王子が、別の国の裏路地のバーを気に入るとは思わなかった」
「そういう店です」
「そういう店だな」
セルジオは出ていった。
ガルドがカウンターに来た。
「俺もそろそろ帰る」
「一日、ありがとうございました」
「ヴァルドから連絡はあったか」
「まだです。明日の朝に来ると思います」
「そうか」
ガルドはコートを手に取った。
「……あいつは、うまくやっているか」
「ダリウスさんが隣にいます。うまくやっていると思います」
「そうか」
ガルドは出口に向かった。
扉の前で、振り返った。
「ヴァルドに伝えてくれ。今日も俺がいたと」
「伝えます」
「それだけでいい」
ガルドは出ていった。
翌朝。
SOMAが告げた。
――ヴァルドから連絡が来た。
「第二回の結果は」
――想定以上に進んだ。相手側の証拠が不十分であることが明らかになった。第三回で結論が出る見込みだ。
「いつが第三回ですか」
――二週間後だ。
俺はグラスを磨きながら、頷いた。
もうすぐだ。
ヴァルドが帰ってくる。
(SOMA)
――それと零。
(なんだ)
――ヴァルドが「ガルドが来てくれていると聞いた。入口の椅子で、か」と言っていた。
「そうです」
――「……礼を言う機会を、二週間後まで待ってくれ」と伝えてほしいとのことだ。
俺は少し間を置いた。
「わかりました。伝えます」
ルナが朝ごはんを持ってきた。
「おにーさん、今日のご飯できたよ」
「ありがとうございます」
「ヴァルドさんから連絡あった?」
「ありました。第三回が二週間後です。うまく進んでいます」
ルナが少し息を吐いた。
「……よかった」
「そうですね」
「早く帰ってきてほしい」
「もうすぐです」
ルナはシロを抱えながら、また言った。
「昨日、ガルドさんが一日いてくれたから、なんか安心できた」
「そうですね」
「ガルドさんって、来る理由が変わってきてるよね」
「どういう意味ですか」
「最初は治療のために来てた。今は、なんか、ここが居場所になってきてる気がする」
俺はルナを見た。
「鋭いですね」
「ちがう?」
「正しいと思います」
ルナはシロを少し上に持ち上げて、顔を見た。
「シロも、ガルドさんのこと好きだよね」
シロは耳を動かした。
「好きって言ってる」
「そうですね」
「この店、動物も人も、好き嫌いがはっきりしてるね」
「シロが気に入っている人間は、みんないい人間です」
「じゃあシロの判断を信じればいいじゃん」
「そうですね」
ルナは満足そうに、朝ごはんを食べ始めた。
(SOMA)
――今日のことを整理しておく。
(頼む)
――今日、三組が情報を買いに来た。全員、断られた。全員、別の何かを受け取って帰った。
「そうですね」
――そしてセルジオが来た。ベルタニア産の酒を持ってきた。ノアが蒼天亭の一皿を出した。
「そうですね」
――ガルドが一日いた。ヴァルドの審問が進んだ。
「そうですね」
SOMAが少し間を置いた。
――零。
(なんだ)
――この店が「中立の場所」だということが、今日の三組によって確定した。情報を売らない。どの国にも属さない。来た人間が変わって帰る。それがBAR ZEROの定義だ。
「そうですね」
――これはもう変わらない。
「変えるつもりはないです」
――それでいい。
俺はグラスを棚に戻した。
開店八十日目の朝が、静かに始まっていた。
≪第27話・了≫
次話――二週間後。ヴァルドが帰ってきた夜。扉が開いた瞬間、ルナが走った。ヴァルドの前で止まって、見上げた。何も言わなかった。ヴァルドも何も言わなかった。ただ、大きな手が、ルナの頭の上に置かれた。それだけだった。




