第26話「最後の一駅と、最初の夜」
朝、俺はアイテムボックスから一本のボトルを取り出した。
ラベルに「山崎12年」と書いてある。
前の世界から持ち込んだ、数少ない一本だ。
テーブルに置いた。
光が当たって、琥珀色が透けた。
(SOMA)
――今夜、二つのことが重なる。
(わかっています)
――ガルドの最終回と、ブラック会員第一号の来店だ。どちらを先に考えておく。
(ガルドさんから)
俺はボトルを見た。
三ヶ月前、ガルドが初めて来た夜を思い出した。
背中を丸めて、乱暴にコートを脱いで、「酒をくれ。一番強いやつを」と言った。
手が震えていた。
「俺は終わりなのか」と言った声の重さを、今も覚えている。
今夜、その男が最後の一杯を飲む。
この酒を出す理由が、ある。
---
ノアに声をかけた。
「今夜、ガルドさんの最終回です。一皿お願いできますか」
ノアは少し間を置いた。
「どんな一皿がいい」
「ノアさんに任せます」
「ガルドさんの好みは」
「三ヶ月、毎週来てくれた。好みは全部把握しています」
「俺には教えてくれないのか」
「ノアさんなら、自分で考えた方がいい皿ができます」
ノアはしばらく俺を見た。
「……わかった」
厨房に戻った。
すぐに包丁の音が始まった。
カルが厨房から顔を出した。
「今夜は特別な客が来るんですか」
「そうです」
「師匠が朝から気合いが入ってます」
「そうですね」
「怖いくらいの気合いです」
「そういう料理人です」
カルは少し頷いて、また厨房に戻った。
---
午後になった。
アリシアが素材の部屋から出てきた。
「今日の泉の水、少し魔法処理をしてもいいですか」
「今夜使う予定があります」
「ガルドさんの最終回ですね。わかっていました」
「処理をお願いできますか」
「もちろんです。三ヶ月間毎週来てくれた方への最後の一杯ですから」
アリシアは素材の部屋に戻り、処理を始めた。
ルナが俺の隣に来た。
「今夜、どんな夜になるの?」
「大事な夜です。二つの意味で」
「ガルドさんの最後と、あと何かあるの?」
「夜になったらわかります」
ルナは少し考えてから、言った。
「……なんか、いつもと違う空気がする」
「そうですか」
「シロも朝からそわそわしてる」
俺はシロを見た。
金色の目が、少し落ち着かない様子だった。
「そうですね」
「……大事な夜だね」
「そうです」
「謎の人、誰なの」
「来てからのお楽しみです」
「おにーさんも焦らすようになってきた」
「そうですか」
「ガルドさんみたい」
俺は少し笑った。
---
夕方、ガルドが来た。
後ろに、レンがいた。
二人が扉を開けた瞬間、店の空気が少し変わった。
ガルドの背中が、三ヶ月前とは違った。
丸まっていない。
真っ直ぐだった。
剣聖の背中だ。
「来た」とガルドが言った。
「お待ちしていました」
レンが店内を見回した。
「今日もここに来ていいですか」
「もちろんです」
二人がカウンターに座った。
ガルドが右手を開いて、閉じた。
完全に止まっていた。
「今日で最後か」と言った。
「そうです」
「三ヶ月、毎週来た」
「そうですね」
「あっという間だったような、長かったような」
「十二回です」
ガルドは少し間を置いてから、言った。
「最後の一杯、見せてくれ」
---
俺はボトルを取り出した。
カウンターに置いた。
ガルドがボトルを見た。
ラベルを読んだ。
「……山崎十二年。見たことのない酒だ」
「前の世界から持ち込みました。十二年熟成させた、日本という国のウイスキーです」
「十二年、か」
「そうです」
俺はグラスを二つ用意した。
ガルドの分と、レンの分だ。
「レンさんにも飲んでもらいたい」
レンが少し驚いた顔をした。
「俺にも?」
「師匠が三ヶ月かけて戻ってきた夜を、弟子にも覚えていてほしいので」
レンはガルドを見た。
ガルドは何も言わなかった。
でも、少し目が細くなった。
---
山崎12年をグラスに注いだ。
琥珀色の液体が、静かに流れた。
ガルドのグラス、そしてレンのグラスへ。
「この酒を作った男の話をしていいですか」
「聞かせてくれ」
「鳥井信治郎という人物が、百年以上前に日本の最初のウイスキー蒸留所を作りました。最初の酒は大失敗でした」
「失敗か」
「でも諦めなかった。山崎という霧が深い土地、三つの川が合流する場所に蒸留所を置いた。霧が樽に湿気を与えて、ウイスキーを育てる。そうして十二年かけて作ったものが、ある日、世界に認められた」
ガルドはグラスを見た。
「……失敗して、諦めなかった」
「そうです」
「三ヶ月、毎週来た」という言葉は言わなかった。
言わなくても、ガルドはわかるだろう。
「一口、飲んでみてください」
---
ガルドがグラスを手に取った。
一口、飲んだ。
目を閉じた。
何も言わなかった。
レンも一口飲んだ。
レンは目を細めて、師匠を見た。
師匠は目を閉じたまま、静かにしていた。
俺もルナも、何も言わなかった。
アリシアが素材の部屋の入口に立っていた。
気づかないうちに出てきていた。
ノアが厨房から顔を覗かせていた。
カルがノアの隣に立っていた。
全員が静かに、ガルドを見ていた。
長い沈黙があった。
ガルドがグラスをカウンターに置いた。
「……フルーツの甘みが来て」
「そうです」
「それから、もっと深いところから、何かが溶けるような」
「ミズナラという日本固有の木で作った樽の香りです」
「東洋の、霧の中で眠り続けたものが」
「十二年です」
ガルドはしばらく何も言わなかった。
「……六ヶ月間、剣を持てなかった。それから三ヶ月、毎週ここに来た。合わせて九ヶ月だ」
「そうですね」
「この酒の十二年には及ばないが」
「十分です」
ガルドは俺を見た。
「……良かったのか」
「何がですか」
「ここに来て」
俺は少し間を置いてから、答えた。
「あなたが来てくれて良かったです」
ガルドは目を細めた。
泣かなかった。
でも、グラスを持つ手が、一度だけ、少し強くなった。
---
そこで、厨房の扉が開いた。
ノアが皿を持って出てきた。
カルが後ろについていた。
皿が二枚。
ガルドの前に、レンの前に、一枚ずつ置かれた。
「今夜の一皿だ」
俺はその皿を見た。
見た瞬間、わかった。
蒼天亭の料理だった。
正確には、今のBAR ZEROで手に入る素材で再現した、蒼天亭の看板料理だ。
蒼天果に近い柑橘を使った、あのデザートの系譜だった。
「……これは」とガルドが言った。
「今作れる最高の版だ。蒼天亭の本物じゃない。でも、あの味に一番近いものを作った」
ガルドは皿を見た。
長い間、見ていた。
「……お前がここにいて良かった」
ノアが少し間を置いた。
「礼はいい。お前が毎週来てくれたから作れた」
「どういう意味だ」
「素材の使い方を毎週少しずつ変えた。三ヶ月かけて、この版に辿り着いた」
ガルドはノアを見た。
「……お前も、三ヶ月かけたのか」
「そうだ」
二人はしばらく、何も言わなかった。
ガルドが一口、食べた。
目を閉じた。
それだけだった。
言葉は要らなかった。
---
二人が帰った。
レンが帰り際に言った。
「また来ていいですか」
「いつでも」
「師匠が来なくても?」
「あなた自身が来てください」
レンは少し頷いた。
「……師匠みたいには、まだなれないです」
「師匠が行けない場所に行ってください。それが弟子の仕事です」
レンは少し考えてから、また頷いた。
「……わかりました」
ガルドが外から言った。
「行くぞ、レン」
「はい」
レンが走って出ていった。
扉が閉まった。
---
静寂があった。
ルナが言った。
「……ガルドさん、泣いてた?」
「泣いていなかったです」
「でも、なんか」
「グラスを持つ手が、一度だけ強くなりました」
「それって、泣くより強い感じがする」
「そうかもしれません」
ノアが厨房に戻りながら、一言だけ言った。
「……蒼天亭、来週戻ってくる」
「そうですね」
「あの一皿が、正式に出せるようになる」
「楽しみにしています」
「カルに教えながら完成させる」
ノアは厨房に消えた。
カルが俺の方を見て、少し頭を下げた。
嬉しそうだった。
---
深夜になった。
通常の客が帰り、店が静かになった頃。
専用の裏口から、静かな足音がした。
VVIP個室への入口だ。
(SOMA)
――来た。
俺は個室に向かった。
扉を開けた。
中に、一人の男がいた。
二十代後半。
目立たない服装だったが、立ち姿が違った。
訓練された体の動きだ。
でも、エドワード王子とも、リーナ将軍とも違う。
別の国の、別の空気をまとっていた。
男は俺を見た。
「BAR ZEROか」
「そうです。いらっしゃいませ」
「手紙の返事、受け取った。『お待ちしています』と書いてあった」
「そうです。お待ちしていました」
男は個室に入って、椅子に座った。
「名前を聞くか」
「必要ありません」
「ここはそういう店か」
「そうです。来てくださった方は全員、一人の客です」
男は少し間を置いてから、言った。
「俺はベルタニア王国の第三王子だ」
「知っています」
「知っていたのか」
「情報が入ってくるんです。勝手に」
「……それでも名前を聞かないのか」
「必要ないので」
王子は俺を見た。
「……なぜ俺の申し込みを受け入れた」
「来てほしい方だったので」
「なぜだ」
「この店は中立の場所です。どの国の方も、一杯飲んでいただける。あなたがそれを求めているなら、お迎えする理由があります」
---
王子のために、グラスを用意した。
(SOMA)
――今夜の王子の状態を伝える。三日前、ベルタニアで政変の前兆があった。父王の体調が悪化している。第一王子と第二王子が権力争いを始めている。第三王子であるこの男は、その争いに巻き込まれたくない。
(なぜここに)
――「どの国にも属さない場所が必要だ」と思い始めた。リーナ将軍がエドワード王子に話した「BAR ZEROは全員が一人の客だ」という言葉が、巡り巡って届いた。
「そうですか」
俺はアイテムボックスに手を入れた。
今夜の王子への一杯は、決まっていた。
前の世界から持ち込んだ、ボトルを取り出した。
「シャトー・マルゴー」だ。
深い赤色のワインだった。
「これは」と王子が言った。
「前の世界から持ち込んだワインです。ボルドーという地方で作られたものです。二百年以上、『王のワイン』と呼ばれてきました」
「王のワイン、か」
「でも」
俺はグラスに注ぎながら、続けた。
「今夜、あなたに出すのは別の理由があります」
---
「このワインがある土地に、かつてトーマス・ジェファーソンという人物が来ました。後にある国の大統領になった人間です。その時彼は若く、まだ名もなかった。でも、このワインを飲んで言いました。『世界最高だ』と」
「名もない頃に?」
「そうです。彼が大統領になったのは、それから何年も後のことです。でも、ワインはその前から最高でした。名前がつく前から」
王子はグラスを見た。
「……名前がつく前から、最高だった」
「そうです。このワインは今夜、あなたが名前のない客として来てくれたことに合うと思いました」
王子は少し間を置いてから、グラスを手に取った。
一口、飲んだ。
目が、静かに細くなった。
「……黒い果実の香りだ。それから」
「スミレの花の香りです。それからシダーウッドの香りが奥にある」
「飲み込んだ後も、消えない」
「百年以上、この土地で作り続けてきたものが、余韻に残っています」
王子はもう一口飲んだ。
「……名前のない客として来た俺に、王のワインを出すのか」
「名前があるかどうかと、価値があるかどうかは別の話です」
「どういう意味だ」
「このワインも、大統領に認められる前から最高でした。あなたも、王子という名前の前に、一人の人間として価値があります」
王子はしばらく、グラスを見ていた。
---
「一つ、頼みたいことがある」
王子が言った。
「どうぞ」
「この店を、どの国にも属さない中立の場所にしてほしい。俺が来る時も、他の国の人間が来る時も、同じ扱いをしてくれ」
「もともとそうしています」
「エドワード王子も来ていると聞いた」
「会員の方の情報はお答えできません」
「……わかった。ただ、俺の国の人間がここに来ても、同じ扱いをしてくれるか」
「もちろんです。来てくださった方は全員、一人の客です」
「俺の国と、この国が争っていたとしても」
「それでも」
「なぜそこまで言い切れる」
俺はグラスを磨きながら、答えた。
「カウンターを挟んで座っている時、人間は国でも立場でもない。ただ一杯飲みに来た人間です。それだけです」
王子は長い間、俺を見ていた。
それから、静かに言った。
「……ここが欲しかった」
「そうですか」
「こういう場所が、世界のどこかにあってほしかった」
「ここにあります」
「今夜から、俺もここの客か」
「今夜から、ブラック会員第一号です」
王子が少し目を細めた。
「ブラック会員、か。どういう特典がある」
「深夜の完全クローズド営業。他に客はいません。記録もありません。完全な匿名です」
「今夜のような条件か」
「そうです」
「……気に入った」
王子はグラスの残りを、ゆっくりと飲み干した。
---
王子が帰る前に、一つだけ聞いた。
「セルジオ・メナという商人をご存知ですか」
王子が少し止まった。
「……ベルタニアの商人か。知っている」
「この店の常連です」
「そうか」
「次に来る時、セルジオさんと一緒にいらしてもいいですよ。中立の場所なので」
王子は少し考えてから、言った。
「……それは面白い提案だな」
「彼はいい商人です。信用できます」
「お前が言うなら、そうなんだろう」
王子は立ち上がった。
「また来る」
「お待ちしています」
「次は、もう少し早い時間に来られるようにする」
「いつでも」
王子は扉を開けた。
「……零」
「はい」
「お前の名前は、覚えた」
「ありがとうございます」
「俺の名前は?」
「存じています。でも今夜は名前のない客として来ていただいたので」
王子はしばらく俺を見てから、小さく笑った。
「……そうだな」
扉が閉まった。
---
全員が帰った後、ルナが言った。
「今夜の謎の人、誰だったの?」
「隣の国の王子です」
ルナが目を丸くした。
「王子がまた来たの?」
「別の国の王子です」
「……この店、王子が二人来てるの?」
「そうですね」
ルナはしばらく考えてから、言った。
「なんか、すごい店になってきたね」
「そうですね」
「最初は、裏路地の小さなバーだったのに」
「そうですね」
「でも」
ルナはシロを抱えて、俺を見た。
「雰囲気は変わってない気がする」
「そうですね」
「おにーさんがカウンターを磨いてて、ノアさんが厨房にいて、ヴァルドさんが入口にいて。それは変わってない」
「ヴァルドさんは今は審問中ですが」
「でも戻ってくるじゃん」
「戻ってきます」
ルナはシロの頭を撫でながら、また言った。
「……この店、これからどうなるの」
「わかりません」
「でもおにーさんはわかってるでしょ」
「一杯ずつ出し続けるだけです」
「それだけ?」
「それだけです」
ルナは少し考えてから、頷いた。
「……じゃあ大丈夫だ」
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(SOMA)
――今夜の二つのことが終わった。
(そうですね)
――ガルドの治療が完了した。三ヶ月、十二回だ。
(そうですね)
――ブラック会員第一号が来た。
(そうですね)
――それと零、一つだけ。
(なんだ)
――ヴァルドから連絡が来た。第二回の審問が来週だ。「守っていてくれているか」と聞いてきた。
「守っています」と返事してください。
――わかった。それと。
(なんだ)
――ヴァルドが「ガルドさんが来てくれているという伝言、届いた。帰った時に礼を言う」と言っていた。
俺は少し間を置いた。
「そうですか」
――それだけだ。今夜はゆっくり休め。
「ありがとうございます」
俺はグラスを磨く手を動かしながら、今夜のことを静かに整理した。
ガルドが、三ヶ月かけて戻ってきた。
ノアが、三ヶ月かけて蒼天亭の一皿を再現した。
隣国の王子が、この店を中立の場所として選んだ。
全部、今夜だった。
カウンターは同じ場所にある。
グラスは同じ棚に並んでいる。
俺は同じように立っている。
それだけは変わらない。
---
≪第26話・了≫
次話――翌週。ヴァルドの第二回審問の日。朝、ガルドが珍しく時間外に来た。「今日、ヴァルドの審問があると聞いた。一日ここにいてもいいか」。俺は頷いた。「もちろんです」。その夜、ガルドは入口の椅子で目を閉じた。ヴァルドがいつも座っていた場所で。
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今話で一番書きたかったのは、ガルドさんが山崎12年を飲んだ後、
「グラスを持つ手が一度だけ強くなった」という場面でした。
三ヶ月、十二回。
失敗して諦めなかった男の酒が、
失敗して諦めなかった男に届いた夜。
もし「続きが気になる」と感じてくださったなら、
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ぜひ聞かせてください。作者が飛び上がって喜びます。
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