第24話「この店に触れるな」
朝、ノアの弟子が来た。
二十代前半の、細身の青年だった。
茶色の髪に、大きな目。
市場でノアが声をかけた、あの料理人だ。
名前はカルだ。
緊張しているのが、全身から伝わってきた。
「お邪魔します」と言いながら、店の中を見回した。
カウンターを見た。
グラスを見た。
厨房の入口を見た。
「……ここが、蒼天亭のノアさんが働いている店ですか」
「そうです。いらっしゃいませ」
カルは深呼吸した。
ノアが厨房から出てきた。
「来たか」
「はい、師匠」
ノアが少し眉を動かした。
「まだ師匠と呼ぶな。見習いの段階だ」
「わかりました。ノアさん」
「厨房を見せる。ついて来い」
二人が厨房に消えた。
ルナが俺の隣に来た。
「ノアさん、嬉しそうだった」
「そうですね」
「口では師匠と呼ぶなって言ってたけど」
「耳が赤かったですね」
「うん」
---
(SOMA)
――零。動き始めている。
(ファルグ伯爵か)
――今朝七時に、護衛七名と出発した。ここに向かっている。到着は午前十時頃だ。
(外の準備は)
――ダリウスの部下は昨夜から配置についている。リーナ将軍の部隊が路地の周囲に展開している。
(全部、昨日のうちに)
――昨日の夜、手紙を三通出した。ダリウスへ。将軍へ。そして、ハロルドへ。
「ハロルドへ?」
――今日の件に、ハロルドが関係してくる。
俺は少し間を置いてから、頷いた。
アリシアに声をかけた。
「今朝から、素材の部屋を離れないでください」
「何かありますか」
「午前中に来てほしくない客が来ます。準備が整った時に出てきてください」
アリシアは俺を見た。
「……魔力の制御が必要ですか」
「必要になるかもしれません。でも、アリシアさんが光った方が効果的な場面があります」
「……わかりました」
アリシアは素材の部屋に戻った。
ルナを呼んだ。
「今日は、俺の近くにいてください」
「何があるの?」
「大切な日です」
ルナはシロを抱えて、頷いた。
シロの耳が、扉の方を向いていた。
---
午前九時を過ぎた頃、ガルドが来た。
扉を開けて、店内を見回した。
「伝言通り来た」
「ありがとうございます」
「何時に来る」
「もうすぐです」
ガルドはカウンターの端に座った。
グラスをもらって、水を飲んだ。
「ヴァルドは今日は来ないか」
「審問中です」
「あいつがいない時ばかり、こういうことが起きる」
「運が悪いのか、運がいいのか」
「どちらだ」
「ヴァルドさんがいない日に、こういうことが起きるから、ヴァルドさんが帰ってきた時に報告できます。それはいいことだと思います」
ガルドは低く笑った。
「……そういう考え方もあるか」
---
午前十時。
裏路地に人の気配が増えた。
(SOMA)
――来た。ファルグ伯爵が路地の入口に立っている。護衛が七名、周囲を囲んでいる。
「わかりました」
俺はカウンターの中に立った。
グラスを一つ、磨いた。
扉が、勢いよく開いた。
ファルグ伯爵が入ってきた。
護衛が二名、後に続いた。
残りの五名は外に留まっている。
伯爵はカウンターを見た。
俺を見た。
「昨日の続きをしに来た」
「いらっしゃいませ」
俺は微笑んだ。
「今日は一杯、どうぞ」
「飲む気分じゃない」
「そうですか」
伯爵はカウンターに近づいた。
「昨日は随分と準備が良かったな。でも今日は違う」
「どう違うんですか」
「書状など関係ない。物事は力で決まる。それがこの世界の現実だ」
俺はグラスを磨く手を止めなかった。
「そうですか」
「この店を出て行け。ダンジョンの権利を渡せ。それだけだ」
「お断りします」
---
その瞬間だった。
ルナが、俺の前に出た。
小さな体で。
何も言わなかった。
ただ、そこに立った。
伯爵が止まった。
子供が前に出てきたことへの戸惑いだったかもしれない。
でもルナの目は、戸惑っていなかった。
金色の目をしたシロが、ルナの腕の中で、伯爵を見ていた。
細くなった目で。
厨房の扉が開いた。
ノアが出てきた。
エプロンをつけたままだった。
手に何も持っていなかった。
でも、腕を組んで、伯爵を見た。
蒼天亭の料理人が持つ、食材を見る目ではなかった。
別の目だった。
カルが厨房の入口から顔を出して、固まった。
師匠の顔を、初めて見た顔だった。
素材の部屋の扉が、静かに開いた。
アリシアが出てきた。
いつも穏やかなアリシアの、魔力が、光り始めた。
白い光が、指先から薄く溢れていた。
本人は気づいていないかもしれない。
でも、その光は確かに広がっていた。
「……な」と伯爵が言いかけた。
シロが、唸った。
静かな、低い声だった。
この店でシロが声を出したのは、初めてだった。
---
扉が、また開いた。
ガルドが立ち上がっていた。
カウンターから離れて、伯爵と護衛の間に立った。
剣は抜かなかった。
腕を組んだ。
ただ、そこに立った。
双剣の剣聖が、そこにいた。
護衛の一人が、剣の柄に触れた。
ガルドが、その護衛を見た。
ただ見ただけだった。
護衛の手が、柄から離れた。
伯爵の護衛が二名いた。
ガルドは一人だ。
それでも、護衛の二名が動けなかった。
俺は全員が止まっているのを確認してから、口を開いた。
---
「ファルグ伯爵」
全員が俺を見た。
「この店では、どなたがいらしても、全員が一人の客です」
穏やかな声だった。
「昨日もお伝えしましたが、今日も同じです。力で決まるものがあることは知っています。ただ、この店の中では、力よりも別のものが優先されます」
「何が優先されるんだ」
「誠実さです」
伯爵が少し止まった。
「誠実さ?」
「来てくださった方が、本当に必要なものに向き合える場所でありたいと思っています。力で奪うことより、本当に必要なものを見つける方が、長い目で見て得だと思いませんか」
「……何が言いたい」
俺はカウンターに一枚の書状を置いた。
「これを読んでください」
---
ファルグ伯爵が書状を手に取った。
読んだ瞬間、顔が変わった。
護衛の一人が覗き込んだ。
同じように顔が変わった。
「……これは」
「王国法務省の文書です。この遺跡への強制的な権利主張を、不当な財産権侵害として調査対象に指定するという通知です。ダリウス・クレイン中佐の申請が昨日、受理されました」
伯爵は書状を見た。
「……昨日の今日で、こんな書類が」
「昨日の夜中に動きました。それと」
俺は続けた。
「外を確認していただけますか」
---
護衛の一人が、扉から外を覗いた。
固まった。
裏路地の出口に、黒いコートの人間が数名立っていた。
王国情報省の人間だ。
「……いつから」
「昨夜から」と俺は答えた。
護衛がもう一方の出口を確認した。
そちらには、軍の制服を着た人間が立っていた。
「……軍が」
「リーナ将軍の部隊です。今朝届いた手紙に『力が必要なら使ってくれ』と書いてありました」
伯爵が俺を見た。
「……いつから準備していたんだ」
「三日前から」
「三日前?」
「ダンジョンが発見された翌日から、どう動くかを考えていました。ファルグ伯爵が動くことは、その時点でわかっていました」
「なぜわかった」
「北部の採掘業で財を成した方が、地下からダンジョンが見つかったと聞けば、動かない理由がない。当然の判断です」
伯爵はしばらく俺を見た。
「……情報屋か、お前は」
「バーテンダーです」
---
そこで、裏口から声がした。
「……零さん」
ハロルドだった。
老人が、杖をついて入ってきた。
「ハロルドさん」と俺は言った。「来てくれましたか」
「使いが来たから。今日、大事なことがあると」
ハロルドは伯爵を見た。
伯爵は老人を見た。
「……あなたは」
「この建物の持ち主です」とハロルドが言った。「ハロルド・ベックといいます」
「あなたが土地の所有者か」
「そうです」
「ならば話が早い。土地ごと買い取りたい。値段はいくらでも出す」
ハロルドは少し間を置いた。
「……売りません」
「なぜだ。老人一人に、この土地は管理できないだろう」
「管理は、ここの方にお任せしています」とハロルドは言った。「零さんに」
「それは賃貸契約だ。金を積めば」
「金の話ではないんです」
ハロルドは穏やかに言った。
「亡くなった家内が言っていました。この建物はいつか誰かの役に立てる、と。今、その言葉が本当になっています。だから売りません。売れないんです」
老人の声は、震えていなかった。
「家内との約束ですから」
---
伯爵はしばらく、ハロルドを見ていた。
それから俺を見た。
「……これも、計算のうちか」
「ハロルドさんに来てもらったのは計算です。ただし、ハロルドさんの言葉は計算ではありません」
「どう違う」
「俺はハロルドさんに、今日来てほしいとだけ頼みました。何を話すかは、ハロルドさんが決めました」
伯爵は老人を見た。
老人は、穏やかに立っていた。
「……わかった」
伯爵は小さく言った。
「今日のところは引く」
護衛を連れて、扉に向かった。
扉の前で、振り返った。
「お前は何者だ」
俺は答えた。
「バーテンダーです」
「バーテンダーが、なぜここまでできる」
「来てくださった方のために、全力で考えるからです。今日来た方全員のために」
伯爵は少し間を置いてから、出ていった。
扉が閉まった。
---
静寂があった。
ルナが俺を見た。
「……終わった?」
「今日は終わりました」
ルナは息を吐いた。
シロが、ルナの腕の中で、耳を元の位置に戻した。
ノアが腕を組んで、厨房に戻ろうとした。
「ノアさん」と俺は言った。
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。厨房が気に入っているから守った。それだけだ」
厨房の扉が閉まった。
カルが厨房の入口から、恐る恐る顔を出した。
「……あの、蒼天亭のノアさんって、ああいう方なんですか」
「どういう方だと思いましたか」
「料理だけをする方だと思ってました」
「料理だけをする方です。ただ、守りたいものがある時は別です」
カルはしばらく厨房の扉を見てから、また中に入った。
---
ハロルドが、カウンターの椅子に座った。
「……大変なことになっていたんですね」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや」
ハロルドは首を振った。
「家内の建物が、こんなに大事な場所だったとは」
「そうですね」
「家内が言っていた通りでした。『誰かの役に立てる』と」
「本当にそうなりました」
ハロルドは少し間を置いた。
目の縁が、赤くなった。
泣かなかった。
でも、節くれだった手が、カウンターの上でゆっくりと握りしめられた。
「……今日、来て良かった」
「来てくださってありがとうございます」
「零さん」
「はい」
「この建物は、ずっとここに置いておいてください」
「わかりました」
「家内も、そう望んでいると思うから」
俺は何も言わなかった。
グラスを磨く手だけが、静かに動いていた。
---
昼過ぎ、ダリウスが来た。
「終わったか」
「今日は」
「ファルグ伯爵は引いたが、完全には諦めていない」
「知っています」
「法的な手続きを進めている。文化財申請が認定されれば、問題は大きく減る」
「いつ認定されますか」
「一ヶ月から三ヶ月だ。急がせている」
「ありがとうございます」
ダリウスはカウンターに座った。
「水以外のものを頼む」
「今日は特別なものを用意しています」
俺はアイテムボックスに手を入れた。
ダリウスへの一杯を、ずっと考えていた。
今日の仕事を終えた男への一杯だ。
情報省の中佐として、三日間動き続けた。
「正しいことだったから動いた」という男への一杯だ。
取り出したのは、バランタイン17年だった。
「これは」
「スコットランドという場所の酒です。前の世界から持ち込みました。四十種類以上の原酒を、十七年かけて一つにまとめた酒です」
「四十種類を一つに」
「それぞれの個性が、時間をかけて溶け合います。バラバラに動いていたものが、一つの味になる」
ダリウスが少し止まった。
「……情報を一つに整理する仕事に、似ているな」
「そう思いました」
ダリウスはグラスを手に取った。
一口飲んだ。
目が、静かに細くなった。
「……まろやかだ」
「四十が一つになった後の、丸さです」
ダリウスはもう一口飲んだ。
「……悪くない」
「ありがとうございます」
---
夕方、リーナ将軍が来た。
変装していなかった。
「次は変装しない」と言った約束通りだった。
カウンターに座った。
「今日は終わったか」
「ありがとうございました。部隊を動かしてもらって」
「礼はいい。必要だったから動かした」
将軍はカウンターに手を置いた。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「ここは、続くか」
俺は少し考えてから、答えた。
「続けます」
「確かか」
「確かです」
将軍は少し間を置いてから、言った。
「……なら、また来る。今日みたいな日に、ここがなくなったら困る」
「どういう意味ですか」
「ここに来れば、笑って帰れる。十四年間笑っていなかった俺が、ここで笑った。そういう場所は、なかなかない」
俺は何も言わなかった。
将軍は炭酸水を一口飲んでから、また言った。
「今日、軍を動かした理由も、同じだ」
「同じ?」
「笑って帰れる場所を守りたかった。それだけだ」
俺は手を止めた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
将軍に、ボウモア12年を出した。
一口飲んで、将軍の目が細くなった。
「……潮の香りがする」
「嵐の島で作られた酒です。戦場を知る人間には懐かしい味がすると思います」
将軍はしばらくグラスを見ていた。
「……そうだな」
「前にも、そうおっしゃっていました」
「また同じ酒を出したのか」
「今日の夜に合う一杯です」
将軍は残りを飲み干した。
静かに、テーブルに置いた。
「今日は、嵐の後の夜だからな」
---
夜、エドワード王子が来た。
裏口から、護衛なしで。
VVIP個室の専用入口を開けた。
二回目だった。
「また来た」
「お待ちしていました」
「今日、ここで何かあったと聞いた」
「将軍から聞きましたか」
「ああ。心配していたが、問題なかったようだな」
「おかげさまで」
王子はVVIP個室に向かった。
扉の前で、振り返った。
「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「今日、この店を守ったのは誰だ」
俺は少し考えてから、答えた。
「全員です」
「全員?」
「ルナが前に立った。ノアが厨房から出てきた。アリシアの魔力が光った。シロが声を出した。ガルドさんが立った。ダリウスさんが書状を動かした。将軍が部隊を動かした。ハロルドさんが来てくれた」
「……それを全部、動かしたのはお前だろう」
「俺は、一杯ずつ出しただけです」
王子はしばらく俺を見た。
それから、個室に入った。
「今夜は、ゆっくり飲みたい。任せる」
「かしこまりました」
---
深夜、全員が帰った後。
ルナがカウンターに来た。
「今日、一番怖かったのっていつ」
「何度かありました」
「どこが一番」
俺は少し考えてから、答えた。
「ルナが前に出た瞬間です」
ルナが目を丸くした。
「あたしが?なんで」
「あなたに何かあったらと思いました」
「……あたしは大丈夫だよ」
「わかっています。でも一番怖かったです」
ルナはしばらく俺を見てから、シロをぎゅっと抱えた。
「……おにーさんも、あたしのこと守ってくれてるんだね」
「当たり前です」
「じゃあ、あたしもおにーさんの前に立つ。当たり前だから」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「ノアさんみたいなことを言いますね」
「ノアさんに教わった」
俺は小さく笑った。
(SOMA)
――今日の件、記録した。
(今後は)
――ファルグ伯爵は法的な手段を続けるが、文化財認定が下りれば詰みだ。時間の問題だ。
(ヴァルドへの報告は)
――明日、使いを出す。「今日も守れた」と伝える。
「ありがとうございます」
――それと零。
(なんだ)
――今日、この店を守るために動いた人間の数を数えたか。
「数えていません」
――ルナ、ノア、アリシア、シロ、ガルド、ダリウス、将軍、ハロルド。エドワード王子は間接的に。
「そうですね」
――この店を開けて、六十三日だ。
「そうですね」
――全員、この短い時間で、この店のために動いた。
俺は少し間を置いた。
「……そうですね」
――バーテンダーの仕事は、酒を出すことじゃない、と言っていたな。
「言いました」
――続きを生きる理由を見つけてもらうこと、だったか。
「そうです」
――今日、全員がその理由でここに来た。
俺は手を止めた。
グラスを磨く手が、静かに動いていた。
今夜は、それだけで十分だった。
---
≪第24話・了≫
次話――三日後。文化財申請の審査が、異例の速さで進んでいた。ダリウスが言った。「通常なら一ヶ月かかる。でも今回は一週間で結論が出る見込みだ」。「なぜですか」。「エドワード王子が、昨夜、学術院の長に直接会いに行ったらしい」。俺は手を止めた。「……それは」。「お前は何もしていない。王子が自分で動いた




