第21話「地下で何かが」
翌月の最初の夜。
ヴァルドが扉を開ける前に、俺に言った。
「守っていてくれ」
「もちろんです」
それだけだった。
ヴァルドは黒いコートを着て、裏路地を歩いていった。
背筋が真っ直ぐだった。
いつもと変わらない背中だったが、今夜だけは少し違う。
三年間、ひとりで抱えてきたものを、今日から清算しに行く男の背中だった。
俺は扉の前に立ったまま、見送った。
路地の角を曲がって、消えた。
(SOMA)
――ダリウスが同行している。情報省の人間として、審問の場に立ち会う手はずになっている。
(それは良かった)
俺はカウンターに戻った。
今夜のBAR ZEROは、ヴァルドがいない。
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午後九時を少し過ぎた頃、扉が開いた。
ガルドだった。
九回目だ。
弟子のレンは今日は連れていない。
一人で入ってきて、いつものカウンターに座った。
そして店内を一度見回して、俺に言った。
「入口が空いている」
「今夜、ヴァルドさんは審問に行っています」
ガルドは少し間を置いた。
「……審問か。冤罪の件か」
「そうです」
「いつから」
「今日が第一回です。三回で結論が出る予定です」
ガルドはカウンターに手を置いた。
「今夜は誰が入口を守る」
「俺がなんとかします」
「なんとかというのは」
「困ったことがあれば呼びます」
ガルドはしばらく俺を見てから、立ち上がった。
椅子を持って、入口の前に移動した。
腰を下ろした。
腕を組んだ。
「今夜はここに座っている」
俺は手を止めた。
「九回目のカクテルを飲みながらではないですか」
「後で飲む。今は飲まない」
「そうですか」
「入口は常に誰かが守るべきだ。ヴァルドがいないなら、俺がいる」
俺は少し間を置いてから、言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。ここは俺が毎週来る店だ」
「そうですね」
「俺が守りたいから守る。それだけだ」
ガルドは目を閉じた。
ヴァルドとは違う。
ヴァルドは「護衛」として立つ。
ガルドは「客」として、ただそこにいる。
でも、その重さは同じだった。
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夜が進んだ。
三人の客が来た。
全員に対応した。
ガルドは入口で目を閉じたまま、動かなかった。
でも、一度だけ目を開けた。
三人目の客が帰る時、路地の外に妙な人影があった瞬間だ。
ガルドが立ち上がった。
腕を組んだまま、外を見た。
人影は消えた。
ガルドはまた座った。
目を閉じた。
「何でしたか」と俺は聞いた。
「野次馬だ。この店が気になって覗いているだけだ」
「わかりますか」
「敵意のある目と、好奇心の目は違う」
「そうですね」
「ヴァルドも同じ判断をしているはずだ」
「おそらく」
ガルドは低く言った。
「……あいつは、うまくやるだろう」
「そう思います」
「三年間、不当に扱われてきた。それが今日から清算される」
「そうです」
「……よかった」
それだけだった。
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客が全員帰った後、ガルドがカウンターに戻ってきた。
「今夜の分を飲む」
「お待ちしていました」
九回目のカクテルを作った。
森脈草をさらに減らした。
ほぼ「維持」だけの処方だ。
残り三回で、治療は終わる。
「どうですか、体の調子は」
「問題ない。先週、若い剣士と手合わせした」
「レンさんですか」
「そうだ。六ヶ月前なら一方的だったが、今は少し手を抜かないといけない」
「手を抜く必要が出てきた」
「本来なら手を抜く必要のない相手だ。それが今は少し押してくる」
「それは」と俺は言った。「ガルドさんが戻ってきたということですか」
「ああ」
ガルドはグラスを飲み干した。
「……あと三回だな」
「そうです」
「最後の一杯が楽しみだ。お前が特別なものを出すと言っていた」
「準備しています」
「何だ」
「来てからのお楽しみです」
ガルドは低く笑った。
「……焦らすな」
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ガルドが帰った後、俺はカウンターを磨いた。
ルナが二階から降りてきた。
「ヴァルドさん、大丈夫かな」
「大丈夫です」
「ガルドさんが守ってくれてたね」
「そうですね」
「ガルドさん、何も言わずに入口に座ったの、かっこよかった」
「そうですね」
「……おにーさん、この店の人たちってみんないい人だよね」
「そうですね」
「客も、仲間も」
「そうですね」
ルナはシロを抱えながら、また言った。
「こういう店って、他にあるのかな」
「ないと思います」
「なんで」
「こういう店にするのに、時間がかかるからです。ここに来てくださった全員が、時間をかけて作ってくれた」
ルナはしばらく考えてから、頷いた。
「……そっか。みんなで作った店なんだ」
「そうです」
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翌日の午後、ノアが厨房から顔を出した。
「マリアから連絡が来た」
「食材の件ですか」
「北部の農家と直接話ができるという。来週、サンプルが届く」
「どんな素材が来ますか」
「山間部で育つ植物が中心だ。珍しい香りのものが多いとのことだ」
「それは楽しみですね」
「俺も楽しみだ」
ノアは少し間を置いてから、また言った。
「それと」
「なんですか」
「蒼天亭の手続きが来週完了する」
俺は手を止めた。
「正式に?」
「ああ。クレスタ侯爵家が最終の手続きを終えた。来週、俺の名義に戻る」
「おめでとうございます」
「礼はいい。それと」
「まだあるんですか」
「弟子に声をかけた」
俺は少し驚いた。
「手続きが終わる前に?」
「素材を見に市場に行った時に会った。目が良かった。迷う理由がなかった」
「なんと言いましたか」
「『蒼天亭を継がないか』と言った」
「返事は」
ノアは少し間を置いた。
「泣いた」
「泣いた?」
「蒼天亭の名前を知っていたらしい。王都で一番美味い飯屋だったと聞いていたと言っていた」
「そうですか」
「……お前のところでも修行させたいと言った」
俺は少し考えてから、言った。
「いつでも来てください」
ノアは頷いて、厨房に戻った。
また包丁の音が始まった。
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夕方、クレスタ侯爵から使いが来た。
「今夜、伺いたい」という連絡だった。
(SOMA)
――ゴールド会員の申し込みだ。侯爵は昨日、マリアからシルバー会員の仕組みを聞いた。「上の会員はないのか」と聞いたらしい。マリアが「来週できるかもしれない」と答えた。
「マリアさんが先に言ったんですか」
――そうだ。
(まだゴールド会員は設計途中でしたが)
――問題ない。今夜、侯爵が来る前に設計を完成させればいい。
俺は少し笑った。
(マリアさんらしいですね)
――商人だ。先に需要を作ってから供給する。
アリシアを呼んだ。
ノアを呼んだ。
ルナを呼んだ。
「今夜、ゴールド会員の申し込みが来ます。急ですが、設計を完成させましょう」
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四人でカウンターを囲んだ。
「シルバーとゴールドの差は何にする」とノアが言った。
「三つ考えています」と俺は言った。
「一つ目。完全個室の優先権。シルバーは一般のカウンターだが、ゴールドはVVIP個室を優先的に使える」
「二つ目。ノアさんのコース料理が全種類使える」
「三つ目。アリシアさんの魔法処理が施されたカクテルを、毎回確実に提供できる」
アリシアが言った。
「シルバーでも提供していますが、ゴールドは優先かつ、より時間をかけた処理にできます」
「そうです」
ノアが言った。
「コース料理の内容はゴールドの方が上にする。シルバーは三皿、ゴールドは五皿にする」
「わかりました。値段は」
「俺が決める」
ノアがまた紙に数字を書いた。
見た瞬間、俺は少し目を細めた。
「これは高い」
「それだけの価値がある」
「わかりました」
ルナが言った。
「シロはどうするの?ゴールドだとシロに会えるとか」
「シロは相変わらず気まぐれです。ゴールドでも保証はできません」
「じゃあシロが自分で選ぶってこと?」
「そうです」
ルナはシロを見た。
「シロ、ゴールドの人には会ってあげてね」
シロは耳を一度動かした。
「……気まぐれのままでいいって言ってます」
「そうですね」
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夜、クレスタ侯爵が来た。
エレナも一緒だった。
「一人で来ようとしたら、娘がついてきた」と侯爵が言った。
「また来てもいいと言いましたから」と俺は言った。
エレナが少し笑った。
「父がゴールド会員に申し込むと聞いて、私も来たかった」
二人がカウンターに座った。
侯爵が会員証を見た。
金色の縁取りだ。
「これが」
「ゴールド会員証です。今日が最初の一枚です」
侯爵は会員証を手に取った。
「申し込む理由を、聞いていいか」
「どうぞ」
侯爵は少し間を置いた。
「娘の命を救ってもらった。その借りは、まだ返しきれていない」
「十分返していただいています」
「俺はそう思っていない」
侯爵は会員証を置いた。
「だから、この店が続く限り、支え続けたい。会員制とはそういうものだろう」
「そうです」
「ならば、入る」
「ありがとうございます」
侯爵は俺を見た。
「今夜は、俺自身の話を聞いてほしい。前に言ったことを、まだ果たしていなかった」
「覚えています。お待ちしていました」
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侯爵のために、個室を用意した。
エレナはカウンターで待つことにした。
ルナがエレナの隣に座った。
「またここに来てくれた」
「来たくなったから来ました」とエレナが言った。
「モクテルは同じのがいいですか」
「少し変えてください。前より少し大人のものを」
「わかった」
ルナがアリシアを呼んだ。
「エレナさんに、前より少し大人のモクテルを」
アリシアが素材を選び始めた。
ルナが横で、アリシアの手つきを見ていた。
エレナがルナを見た。
「ルナさんは魔法の練習をしているの?」
「してます。アリシアさんに教えてもらってる」
「どんな魔法を」
「まだ基礎だけど。感知を安定させる練習」
「感知?」
「人の感情がなんとなくわかる。それをもっと正確にする」
エレナは少し考えた。
「……前に来た時、あなたが気づいてくれていた気がした」
「何に?」
「私が泣きそうだったこと」
ルナは少し間を置いてから、言った。
「泣きそうだったけど、泣かなかった。帰る時は強くなってた」
エレナが目を細めた。
「……あの夜のことを覚えているの?」
「全員覚えてます」
エレナは少し笑った。
「不思議な子ね」
「よく言われます」
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個室では、侯爵が静かに話していた。
「北部の利権争いがある。俺の商会が絡んでいる。表では動けない」
俺はグラスを磨きながら、聞いていた。
「誰にも相談できない。家族には心配させたくない。側近は信用できるかわからない」
「そうですか」
「ここに来れば、話せる気がした。将軍がそう言っていた。『ここでは全員が一人の客だ』と」
「そうです」
「侯爵として来たのではない。今夜は、一人の父親として来た」
俺はグラスを棚に戻した。
今夜の侯爵への一杯は、グレンリベット12年だ。
でも今夜は、ストーリーよりも先に、聞くことが必要だった。
「話を、続けてください」
侯爵は頷いた。
静かな個室で、侯爵の言葉が続いた。
俺は何も言わずに、全部聞いた。
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深夜、全員が帰った後。
ノアが厨房から出てきた。
「今日の工事チームからの連絡が来ている」
俺は手を止めた。
「工事の連絡?」
「隣の廃墟の地下、さらに改築している部分だ。職人から伝言が来ている」
ノアが紙を差し出した。
俺は受け取って、読んだ。
「壁を壊していたら、向こうに空間がある。扉のような構造がある。どうすればいいか」
(SOMA)
――知っていた。
(いつからだ)
――シロが初めてあの地下から出てきた時から。ただ、お前が気づくタイミングを待っていた。
俺はしばらく紙を見ていた。
「明日の朝、確認しに行きます」と職人に返事を書いた。
(SOMA、あの空間は何だ)
SOMAが一拍置いた。
――建造年代はこの街が作られるより、少なくとも三百年は前だ。
「三百年前」
――そうだ。そしてもう一つ。
(なんだ)
――シロが今夜、あの方向を向いていた。ずっと。
俺はシロを見た。
ルナの腕の中で眠っているシロは、夢の中でも何かを感じているのか。
耳が、少し動いていた。
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≪第21話・了≫
次話――翌朝、地下への扉を開けた。石造りの通路が続いていた。壁に、文字が刻まれていた。アリシアがそれを見た瞬間、顔色が変わった。「零さん……これは、古代語です。この文明は、三百年前に滅びたとされています」。俺はSOMAに確認した。「シロの種族と関係があるか」。SOMAが静かに答えた。「ある。それだけじゃない」




