表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/20

第19話「商売の話」

 三日後の夜、マリア・ヴェロンが来た。


 前回は商人の実務的な服装だったが、今夜は少し格が上がっていた。


 仕立てのいい上着。髪が整えられている。


 「商売の話をしに来た」という気合いが、全身から出ていた。


 俺はそれを見て、少し笑った。


 心の中で。


 「いらっしゃいませ」


 「今夜は仕事の話だ。座っていいか」


 「どうぞ」


 マリアはカウンターに座った。


 鞄から書類を取り出した。


 「一杯飲んでから、と言っていたな」


 「そうです」


 「なら飲みながら話す。同時でいいか」


 「構いません」


---


 (SOMA)


 ――マリアが持ってきた書類の内容、把握しているか。


 (教えてくれ)


 ――三種類の提案が書かれている。一つ目は「BAR ZEROの出店支援」。彼女の商会の資金と流通ネットワークを使って、この店を複数の都市に展開する計画だ。二つ目は「食材の安定供給ルート」。ノアの料理の質を保つための素材を定期的に確保する提案。三つ目は「情報の整理と販売」。零の情報網を商業的に活用する提案だ。


 俺はグラスを磨きながら、整理した。


 三つのうち、二つは検討に値する。


 一つは断る。


 (どれが断りか、わかるか)


 ――「情報の整理と販売」だろう。


 (そうです)


 マリアへの一杯を作りながら、考えた。


 今夜のマリアには何が必要か。


 「商売の話をしに来た」という目は本物だ。


 でもその奥に、別のものも見えた。


 認められたい、という気持ちだ。


 元・行商人が一から事業を作り上げた。


 でも、まだ「本物の商人」として認められていないと感じている。


 そういう目をしていた。


---


 取り出したのは三つ。


 「明慧草」——頭の働きを助ける薬草で、複雑な物事を整理しやすくする効果がある。


 「柑橘の実」——爽やかな酸味と香り。思考を澄ませる。


 少量の蒸留酒。


 明慧草を少量のお湯で煮出して、冷ました。


 柑橘の実を絞って加えた。


 蒸留酒を少量。


 グラスに注ぐと、薄い黄緑色になった。


 「どうぞ」


 「これは」


 「頭が整理される一杯です。商談前に向いています」


 マリアは一口飲んだ。


 「……すっきりする」


 「そうです」


 「頭が、なんだか、なめらかに動く気がする」


 「明慧草の効果です」


 マリアは感心したように頷いて、書類を広げた。


 「では話す」


---


 マリアの提案を、俺は黙って聞いた。


 三つ、順番に説明した。


 「出店支援」の計画は具体的で、数字も出ていた。


 「食材の安定供給」は実用的で、ノアが聞いたら興味を持つ内容だった。


 「情報の整理と販売」は…丁寧に設計されていたが、根本的にこの店の哲学と合わなかった。


 マリアが全部話し終えた後、俺は口を開いた。


 「一つずつ、答えます」


 「どうぞ」


 「出店支援について。今は考えていません」


 マリアが少し止まった。


 「なぜだ。リスクは全部うちが負う」


 「リスクの話ではないです」


 「では何の話だ」


 俺は少し考えてから、答えた。


 「この店は、裏路地にあることに意味があります。探さないと辿り着けないことに、意味がある。どこにでもあるものには、なりたくない」


 マリアは俺を見た。


 「……つまり、うちの提案は店の価値を壊すということか」


 「あなたの提案は誠実です。でもこの店とは合わない」


 「……わかった。それは引っ込める」


 「ありがとうございます」


---


 「食材の安定供給について」と俺は続けた。


 「これは、一度詳しく聞かせてもらえますか」


 マリアが少し身を乗り出した。


 「王都から北部にかけての農家と、うちは長年取引がある。珍しい素材も扱っている。定期的に確保することが難しい素材があれば、ルートを作ることができる」


 「ノアさんに聞いてみます」


 「料理人に判断を委ねるのか」


 「厨房のことは、ノアさんが決める。俺が口を出すことではない」


 マリアは少し驚いたような顔をした。


 「……店主なのに」


 「職人の仕事に、経営者が口を出すのはよくない。俺はバーテンダーで、ノアは料理人です。それぞれが最高の仕事をするために、領域を分けています」


 マリアはしばらく俺を見てから、書類に何かを書き込んだ。


 「……それは、理にかなっている」


---


 「三つ目の提案について」と俺は言った。


 「情報の整理と販売。これは」


 「断るか」


 「はい」


 マリアは顔を上げた。


 「なぜだ。あなたには情報がある。それを活用すれば、莫大な利益が出る」


 「情報は売りません」


 「それは知っている。だから『整理』して、形を変えて、合法的に流通させる方法を提案している」


 「形を変えても、同じことです」


 「なぜだ」


 俺はグラスを磨く手を止めて、マリアを見た。


 「来てくださった方の話を、外に出すことはしません。形を変えても、それは変わらない。来てくださった方が、ここを信頼してくれているから、話してくれる。その信頼を売ることはしない」


 マリアは黙った。


 少し間があった。


 「……あなたは損をしている」


 「そうかもしれません」


 「でも、しない」


 「しません」


 「なぜだ」


 「この店の価値は、情報の量ではありません。来てくださった方が、続きを生きる理由を見つけられること。それだけです」


 マリアは長い間、俺を見ていた。


 それから、書類を閉じた。


 「……わかった。三つ目は取り下げる」


---


 「一つだけ聞いてもいいか」とマリアが言った。


 「どうぞ」


 「なぜそこまで徹底できるんだ。損をしていることはわかっているだろう」


 「わかっています」


 「なのに、なぜ」


 俺は少し考えてから、答えた。


 「銀座という町にいた頃の話です。情報を持っていたから、いくらでも売れた。でも一度も売らなかった」


 「なぜだ」


 「売った瞬間に、来てくれる人間が変わると思っていたから。本当に話したい人間ではなく、情報を持った人間に話しかける人間が来るようになる。それは嫌だった」


 マリアは少し黙った。


 「……あなたは、頑固だな」


 「よく言われます」


 「でも」


 マリアはグラスを持った。


 「頑固さと誠実さは、商売では最強の武器だ。俺は長年、それを知りながらもっと賢く立ち回ろうとしてきた」


 「それで上手くいっていますね」


 「いっている。でも」


 マリアはグラスの残りを飲んだ。


 「……もっと早くあなたみたいな考え方を知っていたら、違う商売人になっていたかもしれない」


 俺は何も言わなかった。


 グラスを磨く手だけが動いていた。


---


 しばらくして、マリアが言った。


 「会員証はまだ空きがあるか」


 「あります」


 「入れてくれ」


 ルナがカウンターに会員証を置いた。


 「お待ちしていました」とルナが言った。


 マリアがルナを見た。


 「……前も思ったが、この子は」


 「うちのフロア担当です」と俺は言った。


 「強い子だな」


 「そうですね」


 ルナは少し照れたように、カウンターを拭いた。


 マリアは会員証を受け取りながら、また言った。


 「食材の件、料理人に話を通したら連絡してくれ。うちのネットワークを使えば、珍しい素材も定期的に確保できる」


 「わかりました。ノアさんに伝えます」


 「それから」


 マリアは少し間を置いた。


 「この店がこれ以上大きくなりたくないというなら、邪魔はしない。でも、困ったことがあったら声をかけてくれ。商人として力になれることがある」


 「ありがとうございます」


 「礼はいらない。投資だ」


 マリアは立ち上がった。


 「また来る」


 「お待ちしています」


 「次は、ただ飲みに来る。商売の話じゃなく」


 「そういう時間も、大切ですね」


 「そうだな」


 マリアは小さく笑って、扉を開けた。


 「……いい店だ」


 扉が閉まった。


---


 ノアが厨房から顔を出した。


 「食材の話、聞こえていた」


 「そうですか」


 「あの商人、使えそうか」


 「信頼できます。あなたが判断してください」


 ノアは少し考えた。


 「……蒼天果を安定して手に入れたい」


 「伝えます」


 「それと」


 「なんですか」


 「コース料理の値段を決めた」


 俺は手を止めた。


 「いくらですか」


 ノアはカウンターに紙を置いた。


 数字が書いてあった。


 見た瞬間、俺は少し笑った。


 「高いですね」


 「それだけの価値がある」


 「わかりました。この値段でいきます」


 「文句はないのか」


 「あなたの料理の値段は、あなたが決める。俺が口を出すことではない」


 ノアは少し間を置いてから、頷いた。


 「……わかった」


 厨房に戻っていった。


---


 夜が更けた頃、もう一人客が来た。


 若い男だった。


 二十代前半。服は安くて、顔は疲れていた。


 「……酒を飲みに来た」


 「どうぞ」


 男はカウンターの端に座った。


 肩が落ちていた。


 何かを言いたそうで、言えずにいた。


 (SOMA)


 ――名前はカイン。王都の下級文官。今日、三年間働いた部署からの異動を命じられた。理由は上司の意向だ。本人に落ち度はない。


 (本人は気づいているか)


 ――自分のせいだと思い込んでいる。


 俺はグラスを選んだ。


 今夜のカインに必要なのは、説明でも情報でもない。


 ただ、体が温まる一杯だ。


 取り出したのは二つ。


 「暁白果」——張り詰めたものをほどく果実。


 少量の樽熟成蒸留酒。


 シンプルだ。


 複雑な夜には、シンプルな一杯の方がいい。


 「どうぞ」


 男はグラスを受け取った。


 一口、飲んだ。


 「……温かい」


 「そうです」


 「体の中が、じわじわする」


 「そうです」


 男はもう一口飲んだ。


 「……俺、今日異動を命じられました」


 「そうですか」


 「三年間、同じ部署で頑張ってきたのに。理由もよくわからなくて」


 俺は何も言わなかった。


 グラスを磨く手だけが動いた。


 「……自分のせいかと思って」


 「そうですか」


 「でもよく考えると、よくわからなくて」


 「そうですね」


 男はまた一口飲んだ。


 「……なんか、少し楽になった気がします」


 「そうですか」


 「この酒、なんか体がほぐれる」


 「暁白果の効果です」


 「暁白果?」


 「張り詰めたものをほどく果実です」


 男はグラスを見た。


 「……俺、張り詰めてたんですかね」


 「三年間、一人で抱えてきたものがあったと思います」


 「そんなに大したものじゃないですけど」


 「三年は、長い時間です」


 男は少し黙った。


 それから、グラスを飲み干した。


 「……もう一杯もらえますか」


 「もちろんです」


---


 二杯目を置いた後、俺はカウンターに一枚の紙を置いた。


 「これは」


 「異動先の部署について書いてあります」


 カインが固まった。


 「……なぜそれを」


 「情報が入ってくるんです。勝手に」


 カインは紙を手に取った。


 読みながら、目が変わっていった。


 「……これは、思ったより悪くない部署ですね」


 「そうです。あなたの能力が活かせる仕事が多い部署です。上司との相性も、今の部署より合うと思います」


 「……なんで異動させられたのか」


 「今の上司が、あなたに優秀すぎてほしくなかったんだと思います」


 カインは紙を見た。


 「……俺が優秀すぎた?」


 「邪魔になるほど、という意味です」


 男はしばらく紙を見ていた。


 それから、小さく笑った。


 「……なんか、見方が変わりました」


 「それは良かったです」


 「この異動、そんなに悪くないかもしれないですね」


 「そうだと思います」


 カインはグラスを飲み干して、立ち上がった。


 「お代は」


 「二杯分です」


 男は金を払った。


 「……ありがとうございました」


 「またいつでも」


 「絶対また来ます」


 男は扉を開けた。


 「……なんか、今日いい日になった気がします」


 扉が閉まった。


---


 ルナが俺の隣に来た。


 「あの人、来た時と帰る時で全然顔が違った」


 「そうですね」


 「最初は、消えそうな顔してた」


 「そうですね」


 「でも帰る時は、ちゃんとした顔してた」


 「良かったです」


 ルナはシロを抱えながら、また言った。


 「今夜、お客さんが三人来た。みんな違う顔で帰ったね」


 「そうです」


 「マリアさんは、スッキリした顔。異動の人は、明るい顔。もう一人の人は」


 ルナが少し考えた。


 「落ち着いた顔、かな」


 「三人三様ですね」


 「でも全員、来た時より良くなってた」


 俺は頷いた。


 「それがこの店の仕事です」


 ルナはまた少し考えてから、言った。


 「あたしも、そういうことができるようになりたい」


 「今も、できています」


 「え?」


 「ルナが水を音なく置いた時、客の目が少し柔らかくなります。ルナが笑った時、店の空気が変わります。それも同じ仕事です」


 ルナはしばらく黙っていた。


 シロが、ルナの頬に鼻先を近づけた。


 「……そっか」


 ルナは小さく言った。


 「じゃあ、あたしはもう少しちゃんと笑う練習をする」


 「今のままで十分です」


 「でも、もっとうまくなりたい」


 俺は手を止めた。


 「それはいいことですね」


 「うん」


 ルナは決意したような顔で、フロアの掃除を始めた。


---


 深夜、SOMAが告げた。


 ――零。


 (なんだ)


 ――ガルドが今週で七回目の来店になる。


 (三ヶ月で十二回の計算だから、折り返しか)


 ――そうだ。手の震えはほぼなくなった。先週、試しに剣を握ったという報告がある。


 (どうだった)


 ――問題なかったと言っている。むしろ、震えていた頃より力が入るとのことだ。


 俺は小さく息を吐いた。


 (あと六週間か)


 ――そうだ。三ヶ月後の最後の来店には、何か特別なものを用意しているか。


 (考えています)


 ――山崎12年か。


 (どうしてわかるんですか)


 ――「三ヶ月、毎週来てくれた。その時間に合う一杯」と言うなら、あれしかないだろう。


 俺はカウンターを磨きながら、頷いた。


 (そうですね。まだ六週間ある。それまでに準備します)


 ――楽しみにしている。


 「SOMAが楽しみにするのは珍しいですね」


 ――たまにはある。


---


 (SOMA、もう一つだけ)


 ――なんだ。


 (エドワード王子について)


 ――「また行く」と言った日から、十日が経った。そろそろだと思うか。


 (そうですね。ノアの専用メニューも、少しずつ形になってきた)


 ――王子が来る前日には、必ず連絡が入る。将軍経由で。


 (わかりました)


 俺はグラスを棚に戻した。


 開店四十三日目の夜が、静かに終わっていく。


 三人の客が来て、三人が変わった顔で帰った。


 シルバー会員が三名になった。


 ノアのコース料理に値段がついた。


 ガルドの治療が折り返しを過ぎた。


 エドワード王子が、またいつか来る。


 少しずつ、確実に、この店は次の形に向かっている。


---


≪第19話・了≫


次話――翌週、ガルドが八回目の来店の夜に、若い男を一人連れてきた。「弟子だ」とガルドは言った。「俺が教えている剣士の卵だ。お前のところに連れてきたかった」。その青年は、カウンターに座るなり言った。「剣聖の師匠が通う店とは、どんなところかと思っていました」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ