第19話「商売の話」
三日後の夜、マリア・ヴェロンが来た。
前回は商人の実務的な服装だったが、今夜は少し格が上がっていた。
仕立てのいい上着。髪が整えられている。
「商売の話をしに来た」という気合いが、全身から出ていた。
俺はそれを見て、少し笑った。
心の中で。
「いらっしゃいませ」
「今夜は仕事の話だ。座っていいか」
「どうぞ」
マリアはカウンターに座った。
鞄から書類を取り出した。
「一杯飲んでから、と言っていたな」
「そうです」
「なら飲みながら話す。同時でいいか」
「構いません」
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(SOMA)
――マリアが持ってきた書類の内容、把握しているか。
(教えてくれ)
――三種類の提案が書かれている。一つ目は「BAR ZEROの出店支援」。彼女の商会の資金と流通ネットワークを使って、この店を複数の都市に展開する計画だ。二つ目は「食材の安定供給ルート」。ノアの料理の質を保つための素材を定期的に確保する提案。三つ目は「情報の整理と販売」。零の情報網を商業的に活用する提案だ。
俺はグラスを磨きながら、整理した。
三つのうち、二つは検討に値する。
一つは断る。
(どれが断りか、わかるか)
――「情報の整理と販売」だろう。
(そうです)
マリアへの一杯を作りながら、考えた。
今夜のマリアには何が必要か。
「商売の話をしに来た」という目は本物だ。
でもその奥に、別のものも見えた。
認められたい、という気持ちだ。
元・行商人が一から事業を作り上げた。
でも、まだ「本物の商人」として認められていないと感じている。
そういう目をしていた。
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取り出したのは三つ。
「明慧草」——頭の働きを助ける薬草で、複雑な物事を整理しやすくする効果がある。
「柑橘の実」——爽やかな酸味と香り。思考を澄ませる。
少量の蒸留酒。
明慧草を少量のお湯で煮出して、冷ました。
柑橘の実を絞って加えた。
蒸留酒を少量。
グラスに注ぐと、薄い黄緑色になった。
「どうぞ」
「これは」
「頭が整理される一杯です。商談前に向いています」
マリアは一口飲んだ。
「……すっきりする」
「そうです」
「頭が、なんだか、なめらかに動く気がする」
「明慧草の効果です」
マリアは感心したように頷いて、書類を広げた。
「では話す」
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マリアの提案を、俺は黙って聞いた。
三つ、順番に説明した。
「出店支援」の計画は具体的で、数字も出ていた。
「食材の安定供給」は実用的で、ノアが聞いたら興味を持つ内容だった。
「情報の整理と販売」は…丁寧に設計されていたが、根本的にこの店の哲学と合わなかった。
マリアが全部話し終えた後、俺は口を開いた。
「一つずつ、答えます」
「どうぞ」
「出店支援について。今は考えていません」
マリアが少し止まった。
「なぜだ。リスクは全部うちが負う」
「リスクの話ではないです」
「では何の話だ」
俺は少し考えてから、答えた。
「この店は、裏路地にあることに意味があります。探さないと辿り着けないことに、意味がある。どこにでもあるものには、なりたくない」
マリアは俺を見た。
「……つまり、うちの提案は店の価値を壊すということか」
「あなたの提案は誠実です。でもこの店とは合わない」
「……わかった。それは引っ込める」
「ありがとうございます」
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「食材の安定供給について」と俺は続けた。
「これは、一度詳しく聞かせてもらえますか」
マリアが少し身を乗り出した。
「王都から北部にかけての農家と、うちは長年取引がある。珍しい素材も扱っている。定期的に確保することが難しい素材があれば、ルートを作ることができる」
「ノアさんに聞いてみます」
「料理人に判断を委ねるのか」
「厨房のことは、ノアさんが決める。俺が口を出すことではない」
マリアは少し驚いたような顔をした。
「……店主なのに」
「職人の仕事に、経営者が口を出すのはよくない。俺はバーテンダーで、ノアは料理人です。それぞれが最高の仕事をするために、領域を分けています」
マリアはしばらく俺を見てから、書類に何かを書き込んだ。
「……それは、理にかなっている」
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「三つ目の提案について」と俺は言った。
「情報の整理と販売。これは」
「断るか」
「はい」
マリアは顔を上げた。
「なぜだ。あなたには情報がある。それを活用すれば、莫大な利益が出る」
「情報は売りません」
「それは知っている。だから『整理』して、形を変えて、合法的に流通させる方法を提案している」
「形を変えても、同じことです」
「なぜだ」
俺はグラスを磨く手を止めて、マリアを見た。
「来てくださった方の話を、外に出すことはしません。形を変えても、それは変わらない。来てくださった方が、ここを信頼してくれているから、話してくれる。その信頼を売ることはしない」
マリアは黙った。
少し間があった。
「……あなたは損をしている」
「そうかもしれません」
「でも、しない」
「しません」
「なぜだ」
「この店の価値は、情報の量ではありません。来てくださった方が、続きを生きる理由を見つけられること。それだけです」
マリアは長い間、俺を見ていた。
それから、書類を閉じた。
「……わかった。三つ目は取り下げる」
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「一つだけ聞いてもいいか」とマリアが言った。
「どうぞ」
「なぜそこまで徹底できるんだ。損をしていることはわかっているだろう」
「わかっています」
「なのに、なぜ」
俺は少し考えてから、答えた。
「銀座という町にいた頃の話です。情報を持っていたから、いくらでも売れた。でも一度も売らなかった」
「なぜだ」
「売った瞬間に、来てくれる人間が変わると思っていたから。本当に話したい人間ではなく、情報を持った人間に話しかける人間が来るようになる。それは嫌だった」
マリアは少し黙った。
「……あなたは、頑固だな」
「よく言われます」
「でも」
マリアはグラスを持った。
「頑固さと誠実さは、商売では最強の武器だ。俺は長年、それを知りながらもっと賢く立ち回ろうとしてきた」
「それで上手くいっていますね」
「いっている。でも」
マリアはグラスの残りを飲んだ。
「……もっと早くあなたみたいな考え方を知っていたら、違う商売人になっていたかもしれない」
俺は何も言わなかった。
グラスを磨く手だけが動いていた。
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しばらくして、マリアが言った。
「会員証はまだ空きがあるか」
「あります」
「入れてくれ」
ルナがカウンターに会員証を置いた。
「お待ちしていました」とルナが言った。
マリアがルナを見た。
「……前も思ったが、この子は」
「うちのフロア担当です」と俺は言った。
「強い子だな」
「そうですね」
ルナは少し照れたように、カウンターを拭いた。
マリアは会員証を受け取りながら、また言った。
「食材の件、料理人に話を通したら連絡してくれ。うちのネットワークを使えば、珍しい素材も定期的に確保できる」
「わかりました。ノアさんに伝えます」
「それから」
マリアは少し間を置いた。
「この店がこれ以上大きくなりたくないというなら、邪魔はしない。でも、困ったことがあったら声をかけてくれ。商人として力になれることがある」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。投資だ」
マリアは立ち上がった。
「また来る」
「お待ちしています」
「次は、ただ飲みに来る。商売の話じゃなく」
「そういう時間も、大切ですね」
「そうだな」
マリアは小さく笑って、扉を開けた。
「……いい店だ」
扉が閉まった。
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ノアが厨房から顔を出した。
「食材の話、聞こえていた」
「そうですか」
「あの商人、使えそうか」
「信頼できます。あなたが判断してください」
ノアは少し考えた。
「……蒼天果を安定して手に入れたい」
「伝えます」
「それと」
「なんですか」
「コース料理の値段を決めた」
俺は手を止めた。
「いくらですか」
ノアはカウンターに紙を置いた。
数字が書いてあった。
見た瞬間、俺は少し笑った。
「高いですね」
「それだけの価値がある」
「わかりました。この値段でいきます」
「文句はないのか」
「あなたの料理の値段は、あなたが決める。俺が口を出すことではない」
ノアは少し間を置いてから、頷いた。
「……わかった」
厨房に戻っていった。
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夜が更けた頃、もう一人客が来た。
若い男だった。
二十代前半。服は安くて、顔は疲れていた。
「……酒を飲みに来た」
「どうぞ」
男はカウンターの端に座った。
肩が落ちていた。
何かを言いたそうで、言えずにいた。
(SOMA)
――名前はカイン。王都の下級文官。今日、三年間働いた部署からの異動を命じられた。理由は上司の意向だ。本人に落ち度はない。
(本人は気づいているか)
――自分のせいだと思い込んでいる。
俺はグラスを選んだ。
今夜のカインに必要なのは、説明でも情報でもない。
ただ、体が温まる一杯だ。
取り出したのは二つ。
「暁白果」——張り詰めたものをほどく果実。
少量の樽熟成蒸留酒。
シンプルだ。
複雑な夜には、シンプルな一杯の方がいい。
「どうぞ」
男はグラスを受け取った。
一口、飲んだ。
「……温かい」
「そうです」
「体の中が、じわじわする」
「そうです」
男はもう一口飲んだ。
「……俺、今日異動を命じられました」
「そうですか」
「三年間、同じ部署で頑張ってきたのに。理由もよくわからなくて」
俺は何も言わなかった。
グラスを磨く手だけが動いた。
「……自分のせいかと思って」
「そうですか」
「でもよく考えると、よくわからなくて」
「そうですね」
男はまた一口飲んだ。
「……なんか、少し楽になった気がします」
「そうですか」
「この酒、なんか体がほぐれる」
「暁白果の効果です」
「暁白果?」
「張り詰めたものをほどく果実です」
男はグラスを見た。
「……俺、張り詰めてたんですかね」
「三年間、一人で抱えてきたものがあったと思います」
「そんなに大したものじゃないですけど」
「三年は、長い時間です」
男は少し黙った。
それから、グラスを飲み干した。
「……もう一杯もらえますか」
「もちろんです」
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二杯目を置いた後、俺はカウンターに一枚の紙を置いた。
「これは」
「異動先の部署について書いてあります」
カインが固まった。
「……なぜそれを」
「情報が入ってくるんです。勝手に」
カインは紙を手に取った。
読みながら、目が変わっていった。
「……これは、思ったより悪くない部署ですね」
「そうです。あなたの能力が活かせる仕事が多い部署です。上司との相性も、今の部署より合うと思います」
「……なんで異動させられたのか」
「今の上司が、あなたに優秀すぎてほしくなかったんだと思います」
カインは紙を見た。
「……俺が優秀すぎた?」
「邪魔になるほど、という意味です」
男はしばらく紙を見ていた。
それから、小さく笑った。
「……なんか、見方が変わりました」
「それは良かったです」
「この異動、そんなに悪くないかもしれないですね」
「そうだと思います」
カインはグラスを飲み干して、立ち上がった。
「お代は」
「二杯分です」
男は金を払った。
「……ありがとうございました」
「またいつでも」
「絶対また来ます」
男は扉を開けた。
「……なんか、今日いい日になった気がします」
扉が閉まった。
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ルナが俺の隣に来た。
「あの人、来た時と帰る時で全然顔が違った」
「そうですね」
「最初は、消えそうな顔してた」
「そうですね」
「でも帰る時は、ちゃんとした顔してた」
「良かったです」
ルナはシロを抱えながら、また言った。
「今夜、お客さんが三人来た。みんな違う顔で帰ったね」
「そうです」
「マリアさんは、スッキリした顔。異動の人は、明るい顔。もう一人の人は」
ルナが少し考えた。
「落ち着いた顔、かな」
「三人三様ですね」
「でも全員、来た時より良くなってた」
俺は頷いた。
「それがこの店の仕事です」
ルナはまた少し考えてから、言った。
「あたしも、そういうことができるようになりたい」
「今も、できています」
「え?」
「ルナが水を音なく置いた時、客の目が少し柔らかくなります。ルナが笑った時、店の空気が変わります。それも同じ仕事です」
ルナはしばらく黙っていた。
シロが、ルナの頬に鼻先を近づけた。
「……そっか」
ルナは小さく言った。
「じゃあ、あたしはもう少しちゃんと笑う練習をする」
「今のままで十分です」
「でも、もっとうまくなりたい」
俺は手を止めた。
「それはいいことですね」
「うん」
ルナは決意したような顔で、フロアの掃除を始めた。
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深夜、SOMAが告げた。
――零。
(なんだ)
――ガルドが今週で七回目の来店になる。
(三ヶ月で十二回の計算だから、折り返しか)
――そうだ。手の震えはほぼなくなった。先週、試しに剣を握ったという報告がある。
(どうだった)
――問題なかったと言っている。むしろ、震えていた頃より力が入るとのことだ。
俺は小さく息を吐いた。
(あと六週間か)
――そうだ。三ヶ月後の最後の来店には、何か特別なものを用意しているか。
(考えています)
――山崎12年か。
(どうしてわかるんですか)
――「三ヶ月、毎週来てくれた。その時間に合う一杯」と言うなら、あれしかないだろう。
俺はカウンターを磨きながら、頷いた。
(そうですね。まだ六週間ある。それまでに準備します)
――楽しみにしている。
「SOMAが楽しみにするのは珍しいですね」
――たまにはある。
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(SOMA、もう一つだけ)
――なんだ。
(エドワード王子について)
――「また行く」と言った日から、十日が経った。そろそろだと思うか。
(そうですね。ノアの専用メニューも、少しずつ形になってきた)
――王子が来る前日には、必ず連絡が入る。将軍経由で。
(わかりました)
俺はグラスを棚に戻した。
開店四十三日目の夜が、静かに終わっていく。
三人の客が来て、三人が変わった顔で帰った。
シルバー会員が三名になった。
ノアのコース料理に値段がついた。
ガルドの治療が折り返しを過ぎた。
エドワード王子が、またいつか来る。
少しずつ、確実に、この店は次の形に向かっている。
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≪第19話・了≫
次話――翌週、ガルドが八回目の来店の夜に、若い男を一人連れてきた。「弟子だ」とガルドは言った。「俺が教えている剣士の卵だ。お前のところに連れてきたかった」。その青年は、カウンターに座るなり言った。「剣聖の師匠が通う店とは、どんなところかと思っていました」




