第18話「銀の会員証」
一週間後の夜、ダリウスが扉を開けた。
黒いコートだった。
いつもと同じ歩き方で、いつもと同じようにカウンターに向かってきた。
ただ今夜は、出口に近い席ではなく、カウンターの中央に座った。
少しだけ、違った。
「いらっしゃいませ」と俺が言う前に、ルナが動いた。
カウンターの内側から、小さな手でテーブルに何かを置いた。
長方形の、重みのある紙だ。
銀色の縁取りがされていた。
「水以外のものを最初から頼むって言ってましたよね」
ルナが言った。
ダリウスが止まった。
紙を見て、ルナを見た。
「……なぜ覚えている」
「全員覚えてます」
ダリウスはルナをしばらく見てから、俺を見た。
「……この子は何者だ」
「うちのフロア担当です」
「何歳だ」
「十歳前後です」
「……末恐ろしい」
「よく言われます」
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ダリウスは紙を手に取った。
「これは」
「シルバー会員証です」と俺は言った。「先日、会員制を導入することにしました」
「いつの間に」
「一週間前に決めました」
ダリウスは紙を見た。
表に「BAR ZERO SILVER MEMBER」と刻まれている。
裏に、月額のデポジット金額と特典の一覧が書かれていた。
「……なぜ俺が最初なんだ」
俺はグラスを磨きながら、答えた。
「この店に最初に来てくれた方に、最初の会員になってもらいたかったので」
「最初に来た時は、偵察だったが」
「それでも来てくれました」
ダリウスは会員証を見た。
少し間を置いてから、言った。
「払ってもいいが」
俺は手を止めた。
「俺が払う理由を教えてくれ」
ここだ、と思った。
「あなたがここにいる理由を守るためです」
ダリウスが少し止まった。
「どういう意味だ」
「ダリウスさんがここに来る理由がある。その理由を、この店が守り続けられるように。会員の方のデポジットは、この店が何があっても続けられるための力になります」
「……俺のためではなく、店のためか」
「あなたのためでもあります。店が続く限り、あなたの居場所も続く」
ダリウスは会員証を、もう一度見た。
それから、静かに言った。
「……わかった。入る」
「ありがとうございます」
「で」
「はい」
「今夜、水以外のものを頼む。任せる」
ダリウスは会員証をコートの内側に収めた。
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俺はアイテムボックスに手を入れた。
ダリウスへの一杯を、ずっと考えていた。
1度目で「水一杯」で去った男が、初めて「任せる」と言った夜。
2度目で「次は水以外を頼む」と言った約束が、今夜果たされる。
情報省の中佐として、ずっと動き続けてきた男だ。
「正しいことだから動いた。それだけだ」という言葉が、今でも残っている。
今夜の一杯は、強くなくていい。
この男には、すでに十分な強さがある。
必要なのは、静かな夜の一杯だ。
取り出したのは四つ。
深みのある赤い「烈果」——強い香りと長い余韻。2度目でダリウスに出した「仕事終わりの一杯」にも使った素材だ。
山から採れる「霧水」——冷たくて、すっきりとした清涼感がある。
少量の樽熟成した蒸留酒。
そして「岩塩」——一粒だけ。
シェイカーに材料を入れた。
烈果を少量絞って、霧水を加えた。
蒸留酒を少量。岩塩を一粒だけ、先にグラスに落とした。
シェイカーを静かに振った。
激しく振らない。
ゆっくりと、混ぜるように。
グラスに注いだ。
深い赤と、透明が混ざり合った。
岩塩が底に沈みながら、液体の中でゆっくりと溶けていく。
「どうぞ」
俺はグラスをダリウスの前に置いた。
「名前は」
「『初めての一杯』にしようと思います。今夜だけの名前です」
ダリウスは少し間を置いてから、グラスを手に取った。
一口、飲んだ。
目を閉じた。
何も言わなかった。
もう一口、飲んだ。
「……烈果か」
「そうです。前に一度使ったことがある素材です」
「覚えていたのか」
「来てくださった方の記録は、全部残っています」
ダリウスはグラスをカウンターに置いた。
「……悪くない」
「ありがとうございます」
「前の時より、柔らかい」
「今夜は、強さが必要ない夜だと思ったので」
ダリウスは少し間を置いてから、また一口飲んだ。
「……そうかもしれない」
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ダリウスがグラスを飲みながら話していた頃、扉が開いた。
入ってきたのは、小太りの男だった。
四十代。商人の服装で、少し格が上がっていた。
前に来た時より、顔色が良かった。
目に光がある。
(SOMA)
――オスカー・ベインだ。商会の復活報告と共に来た。売上が前年比で一・四倍になった。法務官の動きで不正が公式に認定され、カルテル商会への損害賠償請求も通った。
「オスカーさん」
俺が声をかけると、男は顔をほころばせた。
「覚えていてくれたか!」
「もちろんです。いらっしゃいませ」
オスカーはカウンターに座った。
ダリウスと一席空けて。
「報告に来た。あの夜のお礼を言いたくて」
「それは良かったです。どうぞ」
オスカーは嬉しそうに話し始めた。
「証拠が認定されて、カルテル商会への賠償が決まった。取引先も全部戻ってきた。今月の売上は開業以来最高だ」
「おめでとうございます」
「全部、あの夜の一杯のおかげだ」
「オスカーさんが動いたおかげです」
「いや、俺一人じゃ無理だった」
オスカーは少し照れたように、カウンターに手を置いた。
「今夜は、お礼の一杯を飲みたい」
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オスカーへの一杯を作りながら、ルナがカウンターに何かを置いた。
また、会員証だった。
「オスカーさんも、どうぞ」とルナが言った。
オスカーが目を丸くした。
「なんだこれは」
「会員証です」と俺は言った。「先日から会員制を始めました。オスカーさんには二番目にお渡ししたいと思っていました」
「なぜ俺が二番目なんだ」
「この店との縁が深い順です」
オスカーは会員証を手に取った。
「……月額デポジット?」
「そうです。払っていただいた分、特典があります」
「どんな特典だ」
「専用席の確保、優先予約、それからこの奥の料理人が作るコース料理が食べられます」
「コース料理?」
「この店の料理人は、元・蒼天亭のノアといいます」
オスカーが固まった。
「……蒼天亭のノア?」
「ご存知ですか」
「知ってる!王都で一番美味いと言われてた飯屋じゃないか!なくなって残念に思ってたんだ!」
厨房の扉が少し開いた。
ノアが一瞬だけ顔を出して、また閉めた。
聞こえていたのだと思った。
「……あそこの料理人がここに」
「そうです」
「入る!絶対入る!今すぐ払う!」
ダリウスが隣で、静かにグラスを傾けた。
「……元気な男だ」
「そうですね」
「悪くない」
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オスカーへの一杯を作った。
商会が復活した夜の一杯だ。
今夜は「橙色のカクテル」ではない。
前に出したものと同じものは、二度出さない。
取り出したのは三つ。
黄金色に輝く「日向果」——昼間だけ太陽を浴びて育つ果物で、強い甘みと明るい香りを持つ。
炭酸水。
少量の白い蒸留酒。
日向果を絞った。
黄金色の果汁がグラスに落ちる。
炭酸水で満たすと、泡が黄金色の中を上に昇った。
蒸留酒を少量、最後に加えた。
グラスの中が、太陽みたいな色になった。
「どうぞ」
「明るいな!」とオスカーが言った。
「今夜に合う色だと思いました」
オスカーは一口飲んで、目を細めた。
「……うまい!甘くて明るい!」
「ありがとうございます」
「この店は本当に毎回うまいな!」
ダリウスがまたグラスを傾けた。
「……声が大きい」
「すみません、嬉しくて!」
「悪いとは言っていない」
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夜が更けた頃、二人が帰った。
ダリウスが帰り際に言った。
「また来る」
「お待ちしています」
「今度は、もう少し早い時間に」
「いつでも」
「……」
ダリウスは少し間を置いてから、言った。
「ルナという子のことは、大切にしろ」
俺は少し止まった。
「そのつもりです」
「あの記憶力と観察眼は、俺の部下でも欲しい人材だ」
「うちの子です」
「わかっている。ただ、言いたかった」
ダリウスは扉を開けて、夜の裏路地へ消えた。
オスカーも帰った。
「また食べに来るぞ!」という声が路地に響いた。
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閉店後、五人がカウンターに集まった。
「今日、二人の会員が生まれました」と俺は言った。
「少ないな」とノアが言った。
「最初はこれでいいです」
「いつ満員になる」
「シルバーの上限は二十名にしようと思っています。時間をかけて」
「二十名か」
「この店の空気が変わらない人数です」
ヴァルドが頷いた。
「妥当だ」
ルナが言った。
「ダリウスさん、私のこと欲しい人材って言ってた」
「聞こえていましたか」
「うん。嬉しかった。でも」
ルナはシロを抱えながら、俺を見た。
「おにーさんのところがいい」
俺は少し止まった。
「ありがとうございます」
「うちの子、って言ってくれたし」
「言いました」
「……当然のことみたいに言ってくれたのが、嬉しかった」
ルナはそれだけ言って、少し俯いた。
シロが、ルナの頬に鼻先を近づけた。
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「一つだけ」と俺は言った。
全員が俺を見た。
アイテムボックスに手を入れた。
取り出したのは、細長い緑色のボトルだった。
「なんだそれは」とノアが言った。
「前の世界からのシャンパンです。泡のある酒です」
「シャンパン?」
「モエ・エ・シャンドンといいます」
俺は六つのグラスを用意した。
アリシアのグラスとルナのグラス、そしてシロ用の小さな皿には、シャンパンを注がない。
代わりに、三人には星脈水の炭酸割りを入れた。
「シャンパンは炭酸のある酒です。泡だけは同じです」
グラスに注ぐと、細かい泡がゆっくりと上に昇った。
「乾杯の酒です」と俺は言った。
「なぜ今夜」とヴァルドが言った。
「この酒を作ったのは、ナポレオンという皇帝に愛された酒房です。その皇帝が言ったそうです。勝っても負けても、シャンパンが必要だ、と」
「どういう意味だ」とノアが言った。
「勝利を祝うために。敗北を乗り越えるために。どちらの夜にも、この酒はそこにあった」
俺はグラスを持った。
「今夜は勝利の夜です。ただ小さな勝利です。会員が二人生まれた。それだけです。でも」
全員がグラスを持った。
「始まりの日を、ちゃんと祝いたかった」
ヴァルドが低く言った。
「……珍しいことを言う」
「たまにはいいです」
ルナが星脈水のグラスを両手で持って、シロを見た。
「シロも乾杯できる?」
シロは小さな皿に鼻先を近づけて、一口だけ舐めた。
「飲んだ」とルナが言った。
「乾杯です」と俺は言った。
五人と一匹のグラスが、静かに触れ合った。
---
飲み終わった後、ノアが言った。
「このシャンパン、味は絶品だな」
「青りんごと、白い花の香りがします。それから、トーストのような香りが奥にある」
「飲んでみればいいじゃないか」
「飲めないので」
ノアが少し間を置いた。
「……お前が飲めないのに、この酒を選んだのはなぜだ」
「飲んだことのある人間の表情を、前世で何度も見ていたから」
「どんな表情だ」
「泡が鼻先に触れた瞬間、みんな少しだけ子供の顔になりました。どんなに疲れていても。どんなに偉い人でも」
ノアは少し考えてから、また言った。
「……俺たちも、今そういう顔をしていたか」
「していました」
ノアは少し間を置いてから、立ち上がった。
「明日も早い。寝る」
厨房に向かいながら、一度だけ振り返った。
「……悪くない夜だった」
「そうですね」
「次の会員が来たら、コース料理の準備をする。値段も決める」
「任せます」
ノアは厨房に消えた。
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(SOMA)
――零。シルバー会員制が始まった。
(ああ)
――今夜の二人が話した内容で、来週中にさらに三名が会員に興味を持つ。
(誰だ)
――ダリウスの同僚が一名。オスカーの取引先の商人が二名。
「自然に広まる」
――そういうことだ。それともう一つ。
(なんだ)
――マリア・ヴェロンが今夜の噂を聞いた。「BAR ZEROが会員制を始めた」という話だ。
「どう動いた」
――「入りたい」と言っている。
「いつ来る」
――三日後だ。
俺はグラスを磨きながら、頷いた。
三日後。
マリア・ヴェロンが来る。
「なぜこんなに安いんだ」と言った女性が、会員として戻ってくる。
(SOMA)
――わかってる。彼女に出す一杯は、もう考えてあるか。
「まだです」
――珍しい。
「これから考えます」
――そうか。
俺はカウンターに手をついた。
銀の会員証が、二枚、今夜生まれた。
この店が変わり始めている。
でも、カウンターは同じ場所にある。
グラスは同じ棚に並んでいる。
俺は同じように立っている。
それだけは変わらない。
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≪第18話・了≫
次話――三日後、マリア・ヴェロンが会員証を手に戻ってきた。カウンターに座るなり言った。「今度は商売の話をしたい。この店をもっと大きくしたいなら、俺が力になれる」。俺はグラスを磨きながら答えた。「一杯飲んでから、聞かせてください」




