第17話「値段の話」
朝、厨房からノアの独り言が聞こえた。
「前菜は……いや、この時季の素材はまだ早い。主菜は……肉か魚か。あの客の体格なら」
続いている。
昨夜の帰り際に「あの客専用の一皿を考える」と言ってから、もう半日が経っている。
ルナが俺の隣に来た。
「ノアさん、朝から独り言がすごい」
「設計しているんだと思います」
「なにを」
「来るかどうかもまだわからない客のための料理を」
ルナが少し考えてから、言った。
「……ノアさんって、料理が好きなんだね」
「そうですね」
「前に蒼天亭がなくなって六ヶ月間作れなかったって言ってたけど、その間どうしてたんだろう」
「辛かったと思います」
「……今は毎日楽しそうだよね」
「そうですね」
ルナはシロを抱えながら、また厨房の方を見た。
「よかった」
それだけ言って、フロアの掃除を始めた。
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昼前、アリシアが素材の部屋から出てきた。
「零さん、一つ相談があります」
「どうぞ」
「魔法処理の素材について、効果の一覧表を作り終えました。全部で四十七種類です」
アリシアがノートを差し出した。
細かい字で、素材の名前・魔法処理後の効果・持続時間・相性のいいカクテルの種類が書かれていた。
「……よくこれだけ調べましたね」
「三週間かかりました」
俺はノートを受け取って、ページをめくった。
素晴らしい仕事だった。
「ありがとうございます。これは大事に使います」
「それで、相談というのは」
アリシアが少し間を置いた。
「この魔法処理には、値段をつけるべきではないかと思っています」
俺は手を止めた。
「値段、ですか」
「はい。処理に時間と魔力を使います。効果も確かにあります。でも今は、全部カクテルの代金に含まれている」
「そうですね」
「……無償でやることに、不満があるわけではありません。ただ、価値がわかるようにした方が、お客様にも伝わりやすいと思って」
俺はアリシアを見た。
「少し考えさせてください」
「もちろんです」
アリシアは頷いて、また素材の部屋に戻った。
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午後、ノアが厨房から出てきた。
珍しく、材料ではなく紙を持っていた。
「零」
「なんですか」
「俺の料理に、値段をつけろ」
俺はグラスを磨く手を止めた。
「今日、同じ話を二人から聞きました」
「誰からだ」
「アリシアさんも、今朝同じことを言っていました」
ノアは少し間を置いた。
「あの術師は賢い」
「同意します」
「料理の値段がないのは、料理人として正直おかしいと思っていた。腕に値段がついていない状態だ」
「そうですね」
「一皿あたり、いくらにするかはお前が決めていい。ただ、値段をつけること自体は俺が要求している」
ノアは紙をカウンターに置いた。
「今夜、話し合いの時間を作ってくれ」
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夜になった。
今夜の客は五人来た。
全員に丁寧に対応して、全員が変わった顔で帰っていった。
その中に、一人だけ帰り際に妙なことを言った客がいた。
四十代の女性商人だった。
「少しいいか」
「どうぞ」
「この店は、なぜこんなに安いんだ」
俺は手を止めた。
「安いですか」
「安い。私はこの国の商人として十五年やってきた。今夜飲んだものと、受け取った情報の価値を計算すれば、この代金は十分の一以下だ」
女性は俺をまっすぐに見た。
「商売として成り立っているのか」
「成り立っています」
「なぜ上げないんだ。上げても客は来る。あなたにはその力がある」
俺は少し考えてから、答えた。
「今夜は、いい問いを持ち帰っていただいた気がします」
女性は少し首を傾けた。
「どういう意味だ」
「この店の値段について、今夜スタッフと話し合うつもりでした。あなたの言葉が、その出発点になります」
女性は俺を見て、それから小さく笑った。
「……面白い店だ」
「ありがとうございます」
「また来る」
「お待ちしています」
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閉店後、五人でカウンターを囲んだ。
ノアが口を開いた。
「値段の話だ」
ルナが言った。
「あたしも聞いていい?」
「お前も関係者だ」とノアが言った。
ルナはシロを膝に乗せて、椅子に座った。
「まず現状を確認したい」と俺は言った。「今の値段設定に、何か不満がある人はいますか」
ノアが言った。
「不満というより、疑問だ。なぜ俺の料理がカクテルの代金に含まれている。料理人として、腕に値段がついていない状態は正しくない」
アリシアが続けた。
「魔法処理も同じです。効果は確かにある。でも今は目に見えない」
ヴァルドが言った。
「護衛としての立場から言う。値段が安すぎると、この店が軽く見られる可能性がある。来てほしくない人間が来やすくなる」
「来てほしくない人間というのは?」とルナが聞いた。
「シロを狙ったような人間だ」とヴァルドが答えた。
ルナは少し考えてから、でもと言った。
「値段が安いから、最初に来やすいんじゃないの。アリシアさんだって、最初は全部無料だったじゃん」
アリシアが少し目を丸くした。
「……そうですね」
「高くしたら、最初の一杯を飲みに来られない人が増える。あの剣士の人も、最初は所持金がなかったって言ってたし」
ヴァルドが少し黙った。
「……それはそうだ」
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俺は全員を見た。
「整理します。今出た意見は三つです」
「一。料理と魔法処理に、適切な値段をつけるべき。これはノアさんとアリシアさんの意見」
「二。値段を上げると、この店が舐められにくくなる。これはヴァルドさんの意見」
「三。値段が安いことで、最初のハードルが下がる。これはルナの意見」
全員が頷いた。
「三つとも正しいです」
「どういうことだ」とノアが言った。
「矛盾していない。解決策があります」
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俺はグラスを磨きながら、続けた。
「この店に、二つの層を作ります」
「二つの層?」とアリシアが言った。
「一つ目は、今のまま。誰でも来れる一般のカウンター。値段は適正なまま。最初の一杯のハードルは下げておく」
「二つ目は」とヴァルドが言った。
「会員制です。月額のデポジットを払った方だけが使える特典がある。ノアさんのコース料理、アリシアさんのバフ付きカクテル、専用席の確保、優先予約」
ノアが少し考えた。
「会員の費用はいくらにする」
「一般の客が一ヶ月何回か来た場合の合計より、少し高い程度。でも受け取る価値はその数倍にする」
「……腑に落ちる」
「ノアさんの料理の値段も、会員向けのコース料理として設定します。一般向けには今まで通り、アテとして出す。でもそこに値段は別でつける」
ノアはしばらく考えてから、頷いた。
「それなら料理人として筋が通る」
アリシアが言った。
「魔法処理も、会員向けのカクテルにだけ付与する特典にすれば、価値が可視化されます」
「そうです」
ヴァルドが言った。
「会員になれる人数は限りがあるのか」
「上限を設けます。満員になったら次の枠が空くまで待ってもらう」
「なぜ上限を?」
「多すぎると、この店が何かを失います」
ヴァルドはしばらく考えてから、頷いた。
「……わかった」
ルナが言った。
「会員じゃない人も、最初は普通に来れるんだよね」
「そうです。最初の扉は開けたままにしておく」
「じゃあいい」
ルナはシロの頭を撫でながら、また言った。
「でも一つだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「なんで今まで安くしてたの?最初から」
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俺は少し間を置いた。
全員が俺を見ていた。
「銀座にいた頃の話です」
「前の世界か」とノアが言った。
「そうです。俺の店は予約が取れない店でした。価格も高かった。でも、最初はそうじゃなかった」
「どうだったんだ」
「最初は、誰も来なかった。俺は無名で、実力も証明されていなかった。だから安くして、まず来てもらうことを優先した」
「……なるほど」
「来た人が変わって帰って、また来て、その人が誰かに話して。それが繰り返されて、予約が取れない店になった。値段が上がったのは、最後だった」
俺はカウンターに手をついた。
「この店も同じです。まず来てもらうことが最初だった。今は来てもらえている。だからそろそろ、次の段階に移っていい」
「じゃあ安くしてたのは、戦略だったのか」とヴァルドが言った。
「半分は戦略です。でも」
俺は少し考えてから、続けた。
「もう半分は、本音です」
「本音とは」
「どん底で来る人間に、値段で躊躇してほしくなかった。アリシアさんが最初に来た夜、泥だらけのローブで、震えながら扉を叩いた。あの夜に高い値段がついていたら、来られなかったかもしれない」
アリシアが、少し目を細めた。
「……そうですね」
「この店は、来てほしい人間を選ばない。でも来てほしくない人間は、自然に来なくなる仕組みにしたかった。会員制はその仕組みの一つです」
「来てほしくない人間とは」とルナが聞いた。
「シロを狙ったような人間です。力と金だけで全てを手に入れようとする人間。そういう人間は、会員になれない」
「なぜわかるの」
「来た時の顔でわかります。ヴァルドさんが来た時の顔と、バルスが来た時の顔は、全然違った」
ヴァルドが少し笑った。
「……比べるな」
「似ていないです。全然」
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シロが動いた。
ルナの膝から降りて、カウンターを歩いた。
俺の前で止まった。
金色の目で、俺を見た。
「なんですか」
シロは答えなかった。
ただ、俺の手の甲に、鼻先を近づけた。
触れるか触れないかの距離で。
ルナが言った。
「シロ、おにーさんのこと応援してると思う」
「どうしてわかるんですか」
「なんとなく」
ノアが低く笑った。
「……変な店だ」
「そうですね」と俺は言った。
「でも」
ノアは続けた。
「悪くない変さだ」
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会議はそれで終わった。
ヴァルドが定位置に戻った。
アリシアが素材の部屋に入った。
ルナがシロを抱えて二階に向かいながら、一度だけ振り返った。
「おにーさん」
「なんですか」
「会員になったら、シロに会えるの」
俺は少し考えた。
「シロは会員かどうか関係なく、気に入った人のところに行きます」
「じゃあ会員になっても、シロに無視されることもある?」
「あります」
ルナはにやっとした。
「それいいね。公平だ」
二階に消えた。
ノアが厨房の扉を開ける前に、俺に言った。
「会員制の設計は任せる。ただし」
「なんですか」
「コース料理の値段だけは、俺が決める」
「わかりました」
「高くする。それだけ価値があると思っているから」
「それで正しいです」
ノアは厨房に入った。
包丁の音が始まった。
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(SOMA)
――零。今夜来た商人の女性について追加情報がある。
(なんだ)
――名前はマリア・ヴェロン。王都の中堅商会の当主。元々は行商人出身で、一から事業を作り上げた人物だ。今夜、この店に来る前に別の商会との交渉が決裂していた。
(それで「安すぎる」と気になったのか)
――金の価値に人一倍敏感な人間だ。安すぎるものには必ず理由があると思っている。
俺は小さく笑った。
(SOMA)
――なんだ。
(彼女が来た時、俺が今夜の話し合いをしようと思っていたことを、SOMAは知っていたか)
――知っていた。
(彼女を呼び込んだのか)
SOMAが一拍置いた。
――呼び込んだわけではない。ただ、この店に来ようかどうか迷っていた彼女に、来やすい状況が整っていた。
「それを呼び込むと言う気がしますが」
――そうかもしれない。
俺は炭酸水を一口飲んだ。
「ありがとうございます」
――俺は何もしていない。
「いつもそう言いますね」
――事実だ。ただ情報を整理して提供しているだけだ。
「それが一番大事な仕事です」
SOMAは何も言わなかった。
それが答えだと思った。
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(SOMA、会員制の告知はどうする)
――告知しなくていい。
(なぜだ)
――この店に来た人間が、口コミで広める。「BAR ZEROに会員制ができた」という噂が自然に広まる。それを聞いた人間が来る。その人間がまた話す。
「噂で広めるということか」
――今まで全部そうしてきただろう。
「そうですね」
――最初の会員は誰にするつもりだ。
俺は少し考えた。
「ダリウスさんです」
――なぜだ。
「一番最初に水一杯で来てくれた方だから。この店の歴史を最初から知っている人に、最初の会員になってもらいたい」
SOMAが一拍置いた。
――……そうか。
「次はオスカーさん。商会が立ち直った報告を持ってくると思うので、その時に」
――わかった。
俺はグラスを棚に戻した。
開店から、もうすぐ一ヶ月になる。
この店は、少しずつ変わっていく。
でも、変わらないことがある。
扉を叩いた人間に、続きを生きる理由を見つけてもらうこと。
それだけは、値段がついても変わらない。
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≪第17話・了≫
次話――一週間後の夜。ダリウスが扉を開けた瞬間、ルナがカウンターに会員証を置いた。「水以外のものを最初から頼むって言ってましたよね」。ダリウスが止まった。「……なぜ覚えている」「全員覚えてます」




