第16話「名前のない客とグレンリヴェット」
VVIP個室の扉は、重かった。
ヴァルドが一人で作った扉だ。
厚い木材を組み合わせて、金具を打って、防音のための詰め物を入れた。開けた瞬間にわかる。この扉の向こうは、外の音が届かない。
俺は扉の内側に立って、部屋を確認した。
テーブルが一つ。椅子が四脚。照明は間接光だけだ。
カウンターから独立した、完全な個室だった。
「どうだ」
後ろからヴァルドの声がした。
「完璧です」
「扉の建て付けが少し固い。時間が経てば馴染む」
「それでいいです」
ヴァルドは部屋を一度見回して、また扉の前に戻った。
騎士の目だった。
守れる構造かどうかを確認する目だ。
(SOMA)
――今夜来る。昨夜の時点でリーナ将軍から連絡が入った。「一人で伺いたい。護衛は連れない」とのことだ。
(将軍本人か)
――違う。将軍が紹介した人物だ。
(誰だ)
SOMAが一拍置いた。
――王国第二王子、エドワード・ファルクス。二十代後半。
俺の手が、わずかに止まった。
(王族が、一人で来るのか)
――「名前のない客として来たい」という言葉を、将軍経由で伝えてきた。
俺はカウンターに戻りながら、ヴァルドを見た。
「今夜の客について、一つだけ話しておきます」
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ヴァルドに話した。
男の目が、わずかに細くなった。
「……第二王子が、護衛なしで来るのか」
「そうです」
「なぜそれを許す」
「この店のルールです。来てくださった方は、全員一人の客です」
「それはわかっている。ただ」
ヴァルドは腕を組んだ。
「王族が一人で夜の裏路地を歩くことへの危険を、お前は理解しているか」
「理解しています。だからヴァルドさんには、路地の外を一度確認してもらいたい」
「外の警戒か」
「そうです。中での護衛はしなくていい。ただ、外に余計な目がないかだけ見てほしい」
ヴァルドは少し間を置いてから、頷いた。
「わかった」
それ以上は聞かなかった。
この男が余計なことを言わないのは、今さらわかっている。
---
(SOMA、エドワード王子について教えてくれ)
情報が流れ込んできた。
第二王子、エドワード・ファルクス。二十九歳。
国王には二人の息子がいる。第一王子は武勇で知られる次期国王候補。エドワードは政務に長けているとされるが、表に出ることは少ない。
(なぜリーナ将軍と繋がりがある)
――北部防衛の予算を管轄しているのがエドワードだ。将軍とは定期的に会議で顔を合わせる間柄だ。
(今夜来る理由は)
――「王族である自分」ではなく「一人の人間」として息ができる場所を探していた。将軍が「BAR ZEROには笑って帰れた」と言った。それだけだ。
俺はグラスを磨きながら、整理した。
王族として生きてきた人間が、王族でない夜を求めている。
それだけの話だ。
シンプルだから難しい。
アイテムボックスに手を入れた。
今夜のために用意していたものを、取り出した。
小さなボトルだ。
前世の銀座で、棚の奥にしまっていたものだ。
「ザ・グレンリベット12年」。
静かな谷で、裏切り者と呼ばれながら正しいことをした男が作った酒だ。
今夜、この酒を出す理由がある。
---
夕方、ノアに声をかけた。
「今夜、VVIP個室に一名来ます。コース料理をお願いできますか」
ノアが振り返った。
「VVIP個室の初仕事か」
「そうです」
「素材は」
「アイテムボックスから必要なものを出します。今夜作りたいものを教えてください」
ノアは少し考えてから、言った。
「三皿だ。前菜、主菜、デザート。アリシアに魔法処理を頼む」
「わかりました」
「客の状態は」
俺は少し間を置いた。
「重いものを、ずっと一人で持っている人です」
ノアはそれを聞いて、また考えた。
「……軽いものを作る」
「ありがとうございます」
「礼はいい。仕事だ」
厨房に戻っていった。
アリシアに魔法処理の依頼をしに行くルナが、俺の横を通りすがりに小声で言った。
「今夜の客、大事な人なんだよね」
「そうですね」
「シロが朝からずっと個室の方を向いてる」
俺はシロを見た。
金色の目が、VVIP個室の扉の方を向いていた。
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夜になった。
店を開けた。
カウンターには通常通り、数名の客が来た。
ルナが丁寧に対応していた。
水の出し方も、立ち方も、もう教えることがない。
午後九時を過ぎた頃、ヴァルドが一度だけ俺に目を向けた。
(来た)
その目が言っていた。
俺は頷いた。
裏口から、足音がした。
静かな足音だった。
慣れている。夜の移動に慣れている人間の足音だ。
VVIP個室への専用入口の扉が、静かに開いた。
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入ってきたのは、若い男だった。
二十代後半か。
背が高く、細身で、立ち姿に品がある。地味な色の旅人風の服を着ているが、仕立ての良さが隠せていない。
顔立ちは整っていた。
でも今夜は、その顔が疲れていた。
目の下に影がある。三日は睡眠が浅かったと思った。
男はカウンターに向かわず、直接VVIP個室の扉の前で止まった。
俺を見た。
「……BAR ZEROか」
静かな声だった。
「はい。いらっしゃいませ」
俺は微笑んだ。
「今夜のご予約の方ですね。個室にご案内します」
男が少し止まった。
「名前を聞かないのか」
「必要ありません」
「なぜだ」
「この店では、来てくださった方は全員、一人の客です。名前は関係ない」
男は俺を見た。
長い間、見ていた。
それから、小さく言った。
「……リーナが言っていた通りだな」
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その時だった。
ヴァルドが、カウンターの端から動いた。
一歩だけ、前に出た。
右手が、腰の剣の柄に触れた。
反射だった。
体に染みついた動作だ。
護衛任務の時の、自動的な反応だ。
男がヴァルドを見た。
ヴァルドが男を見た。
二秒間の沈黙があった。
俺は静かに言った。
「ヴァルドさん」
ヴァルドの手が、剣の柄から離れた。
「……失礼しました」
男はヴァルドを見たまま、小さく言った。
「元・第一騎士団か」
ヴァルドは答えなかった。
「あの団には、そういう動きをする人間が多かった。俺への護衛任務が多いから」
「……存じています」
「今はここにいるのか」
「今はここを守っています」
男はヴァルドを見て、それから俺を見た。
「……それは、良かった」
その一言に、何かが込もっていた。
俺はそれを聞いて、VVIP個室の扉を開けた。
「どうぞ」
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個室に案内した。
重い扉が閉まった瞬間、外の音が全部消えた。
男はテーブルの前に立って、部屋を見回した。
シンプルな内装だ。装飾は少ない。でも、全てが上質だった。
「……こんな場所が、裏路地にあるとは思わなかった」
「外から見えないので」
「わざとか」
「わざとです」
男は椅子に座った。
背筋が真っ直ぐだった。
染みついた姿勢だ。
でも肩が、少しだけ落ちていた。
「何を飲みますか」
「……お前に任せる」
「少し聞かせてください」
「なんだ」
「最近、よく眠れていますか」
男が止まった。
「……三日、浅い」
「食事は」
「食べている。ただ、味がわからない」
「そうですか」
俺はアイテムボックスを開けた。
(SOMA)
――今夜の男の状態を一言で言うなら、「孤独」だ。権力の頂点に近い場所にいる人間の、誰にも言えない孤独だ。
(わかった)
俺は棚から、ボトルを取り出した。
前世の銀座から持ち込んだ一本だ。
小さなグラスを二つ用意した。
男が、ボトルを見た。
「……それは」
「前の世界から持ち込んだ一本です」
「前の世界?」
「遠い場所の話です」
俺はグラスに少量だけ注いだ。
「まず香りだけ確かめてください。飲む前に」
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男はグラスを手に取った。
鼻を近づけた。
目が少し細くなった。
「……花と、果物の香りがする。それと、かすかに蜂蜜」
「そうです。スペイサイドという霧の深い土地の、静かな谷で作られた酒です」
男はグラスをテーブルに置いた。
「話を聞かせてくれるか」
「もちろんです」
「その酒の話だ」
俺は椅子を引いて、テーブルの向かいに座った。
バーテンダーがカウンターを離れて客と同じ目線に座ることは、普通はしない。
でも今夜は、そうすることが正しいと思った。
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「この酒を作ったのは、ジョージ・スミスという農夫の息子でした」
男は静かに聞いていた。
「彼の国では、当時、ウイスキーを作ることに高い税金がかけられていた。だから多くの人が山の奥に隠れて密造していた。ジョージもその一人でした」
「密造酒か」
「そうです。でもある時、政府が法律を変えて、正式な許可証を取れるようにした。ジョージは仲間の中で最初に許可証を取りに行きました」
男は少し眉を動かした。
「……仲間が怒ったのか」
「怒りました。裏切り者と呼ばれました。命を狙われた。護身用の拳銃を常に持ち歩いていたという記録が残っています」
「なぜそれでも許可証を取ったんだ」
「正しいことだと思ったからだと、俺は思います。長く続けるために、正しい道を選んだ」
男は少し黙った。
「……それで、どうなった」
「百年後、その酒だけが本物と認められました。他の酒は全部、偽物になった」
男はグラスを見た。
「……長い話だな」
「百年かかった話です」
男は一口、飲んだ。
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目を閉じた。
何も言わなかった。
俺もテーブルに手を置いたまま、何も言わなかった。
男がもう一口、飲んだ。
「……バニラと、蜂蜜の甘みだ」
「そうです」
「それから、もっと奥から、何かが来る」
「十二年という時間です」
男はグラスを置いた。
長い間、グラスを見ていた。
「……俺は第二王子だ」
「存じています」
「お前は最初からわかっていたのか」
「来てくださった方の情報は、自然と入ってきます」
「それでも名前を聞かなかったのか」
「ここでは必要ないので」
男は俺を見た。
少し間を置いてから、続けた。
「兄は次期国王だ。父は今の国王だ。俺はその二人の間で、政務を処理し続けている。誰も俺のことを人間だと思っていない。機能だと思っている」
俺は何も言わなかった。
「リーナ将軍が言っていた。あの店では将軍ではなく、ただの客として扱われたと。笑って帰れたと」
「そうですか」
「俺はそういう場所を、ずっと探していた」
男はグラスをもう一口飲んだ。
「ここに来て良かった」
---
そこで扉が静かに開いた。
ノアだった。
エプロンをつけたまま、皿を一枚持ってきた。
前菜だ。
薄く切られた食材が美しく並んでいた。
白と緑と、少しの赤。
ノアは皿をテーブルに置いて、男を見た。
男もノアを見た。
「……料理人か」
「そうだ」
「今夜のために作ってくれたのか」
「今夜この部屋に入る客のために作った。お前がその客だった」
男はノアを見て、それから皿を見た。
「……名前を聞いても良いか」
「ノアだ」
「ノア、か」
男は一口、食べた。
目が、静かに細くなった。
「……軽い」
「軽くなるように作った」
「なぜわかった。俺が何を必要としているか」
ノアはノアで、少し間を置いた。
「バーテンダーが教えてくれた」
それだけ言って、厨房に戻った。
男は俺を見た。
「……よくできた仕事仲間だ」
「仲間です」
男はまた料理を食べて、グラスを飲んだ。
交互に、ゆっくりと。
俺はその間、何も言わなかった。
言葉が必要な時に、言葉は出てくる。
---
二皿目が来た。
温かい主菜だ。
男は食べながら、静かに話し始めた。
「父は今年で六十になる。体が少し悪い。兄は北部の遠征から戻っていない。政務が全て俺に回ってくる」
俺は聞いていた。
「誰にも言えない。側近に言えば漏れる。家族に言えば心配させる。一人で抱えている」
「そうですか」
「この一ヶ月、笑った記憶がない」
俺はグラスを傾けた。
「リーナ将軍は、十四年間笑っていなかった方です」
男が少し止まった。
「……将軍が、か」
「この店で笑いました。二週間前の話です」
男はしばらく黙っていた。
「……将軍が笑うのか」
「笑います」
「俺は見たことがない。十年以上、顔を合わせているのに」
「ここでは、みんな笑います。早い人も、遅い人も」
男は少し間を置いてから、また食べ始めた。
「……俺はどちらだろうか」
「今夜わかります」
---
デザートが来た。
アリシアが魔法処理をした素材を使った、淡い光を持つ一皿だった。
甘みの中に、ほっとするような温かさがある。
男は一口食べて、手を止めた。
「……この料理は、魔法がかかっているのか」
「少し」
「どんな魔法だ」
「食べ終わった時に、体が一番いい状態になるように設計しています」
「体が、か」
「気持ちも、少し」
男は残りを食べた。
ゆっくりと。
最後の一口を食べ終えた後、男は長い息を吐いた。
それから、笑った。
小さかった。
声も出なかった。
でも、確かに笑った。
(SOMA)
――今夜、エドワード王子が笑った。公式記録に笑顔が残っているのは七年前が最後だ。
俺はそれを聞いて、グラスを磨く手を動かし続けた。
---
男が帰る前に、グラスを最後まで飲み干した。
「お代は」
「食事と酒の代金です」
「……安すぎる」
「適正価格です」
男は金をテーブルに置いた。
立ち上がりながら、言った。
「また来たい」
「いつでも」
「名前のない客として」
「もちろんです」
男は扉に向かった。
扉の前で振り返った。
「一つだけ教えてくれ。なぜ今夜の酒を選んだ」
俺は答えた。
「裏切り者と呼ばれながら、正しい道を選んだ男の酒だからです」
男は少し考えてから、頷いた。
「……なるほど」
「その男は、百年後に本物と認められました。今夜の一杯が、何かのヒントになればと思いました」
男は扉を開けた。
「バーテンダー」
「はい」
「今夜のことは、誰にも言わない。ここがどこにあるかも」
「ありがとうございます」
「言ったら自分が損をするからだ」
男は小さく笑った。
今度は、少し大きかった。
扉が静かに閉まった。
---
カウンターに戻ると、ヴァルドが入口に立っていた。
「無事に出たか」
「出ました」
「……護衛なしで来るとは、無謀な方だ」
「そうかもしれません」
ヴァルドは少し間を置いてから、言った。
「第一騎士団にいた頃、あの方の護衛任務が何度かあった」
「そうですか」
「護衛をしていた時も、今夜のような顔は一度も見なかった」
「どんな顔でしたか」
「疲れていたが、軽くなっていた」
俺は小さく頷いた。
「それで十分です」
ヴァルドは定位置に戻りながら、一言だけ言った。
「……いい店だ」
めったに言わない言葉だった。
---
深夜、厨房からノアが出てきた。
「どうだった」
「食べてくれました。全部」
「……そうか」
「最後に笑っていました」
ノアは少し間を置いた。
「笑ったか」
「そうです」
ノアはカウンターに腕を置いた。
「料理で笑わせたのは初めてだ」
「今夜のノアさんの料理でした」
「お前が客の状態を教えてくれたからだ」
「連携の話です」
ノアは少し間を置いてから、また厨房に戻った。
扉の前で止まった。
「……グレンリベットか」
「ご存知ですか」
「名前は聞いたことがないな。どんな酒だ」
「静かな谷で作られた、正しい男の酒です」
ノアは少し考えてから、また言った。
「今度、俺にも飲ませてくれ」
「ストックはもう少しあります」
「頼む」
厨房の扉が閉まった。
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(SOMA)
――零。報告がある。
(なんだ)
――今夜のエドワード王子の動きを、情報省が把握している。ダリウスだ。
俺の手が止まった。
(ダリウスが動いているのか)
――王族が護衛なしで夜間外出したことへの確認だ。ただし、ダリウスはこの店に連絡を入れてきていない。
(なぜだ)
――「この店なら問題ない」と判断したからだ。それだけだ。
俺は少し考えてから、小さく笑った。
ダリウスが「この店なら問題ない」と判断した。
水一杯から始まった関係が、そこまで来た。
(SOMA)
――もう一つ。
(言え)
――エドワード王子が帰り道、護衛に一言だけ言ったという報告がある。護衛が驚いて情報省に連絡を入れた。
(何と言ったんだ)
SOMAが一拍置いた。
――「また行く」だ。
俺はグラスを磨きながら、頷いた。
それで十分だった。
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≪第16話・了≫
次話――翌朝、ノアが厨房から出てきて言った。「零。一つ聞いていいか」「どうぞ」「昨夜のあの客、また来るか」「来ると思います」ノアは少し間を置いてから、言った。「なら、あの客専用の一皿を考える」 零は手を止めた。「なぜですか」「あの客には、毎回同じものじゃなく、その時の状態に合わせたものを出したい」




