第15話「この店の生き物に触れるな」
翌朝、SOMAが言った。
――零。噂が広まっている。
(どのくらいだ)
――昨夜のリーナ将軍が帰った後、将軍の護衛の一人が路地の外で待っていた。将軍がどんな顔で出てきたかを見ていた。その護衛が、朝になって話した。「将軍が笑っていた」と。
「それが広まったのか」
――そうだ。「裏路地のバーに、白い生き物がいる。その生き物に触れると抱えていたものが軽くなる」という話が、王都の上流階級を中心に広まっている。
(昨夜の今日で)
――噂の速度は、その話の価値に比例する。将軍が笑ったという話の価値は、それだけ高かった。
俺は少し考えてから、言った。
「それで、動いた人物というのは」
――名前はバルス・ガン。王都の大商人だ。希少な魔法生物を収集することで知られている。昨夜の噂を聞いて、今日の昼前に動いた。
(目的は)
――シロを買いたい。値段はいくらでも出すと言っている。
俺はグラスを磨く手を止めなかった。
「今日来ますか」
――午後には来る。断られることを想定していない人間だ。
俺は少し間を置いてから、言った。
「わかりました」
(SOMA、一つだけ)
――なんだ。
(シロに、今日来る人間のことを話す必要があるか)
SOMAが一拍置いた。
――必要ない。シロは自分で感じ取る。
朝食の後、ルナがシロを抱えながら俺に言った。
「おにーさん、今日なんかあるよね」
「なぜわかるんですか」
「シロが朝からずっと、扉の方を向いてる」
俺はシロを見た。
金色の目が、扉の方を向いていた。
昨夜のように、誰かの感情を捉えているのではない。
もっと別の何かを、感じているような目だった。
「今日、少し面倒な客が来ます」
「どんな人」
「シロを欲しがっている人です」
ルナの腕の中で、シロの耳が少し動いた。
ルナは一瞬、目を細めた。
それから、俺を見た。
「……渡さないよね」
「渡しません」
「絶対に」
「絶対に」
ルナは頷いた。
それだけで、何も言わなかった。
でも、シロを抱く腕が、少しだけ強くなった。
昼前にヴァルドに伝えた。
「今日、午後にシロを買いに来る人間が来ます」
ヴァルドは腕を組んだまま、俺を見た。
「売るのか」
「売りません」
「ならば」
「もしもの時は、頼みます」
ヴァルドは短く頷いた。
「わかった」
それ以上は何も聞かなかった。
厨房のノアに声をかけた。
「今日、少し来てほしい客ではない人が来ます」
ノアが振り返った。
「シロの話か」
「聞いていましたか」
「扉は閉まっていたが、聞こえた」
ノアは包丁を置いて、俺を見た。
「売るつもりはないな」
「ないです」
「ならば」
ノアは包丁を、もう一度手に取った。
「仕込みを続ける」
それだけだった。
アリシアには素材の部屋で伝えた。
「今日、シロを狙っている人物が来ます。もしもの時、アリシアさんには何もしなくていいです」
アリシアは俺を見た。
「わかりました」
少し間を置いてから、続けた。
「でも、もしもの時というのは、どんな時ですか」
「そういう時が来たら、わかります」
アリシアは頷いた。
「……シロを守りたいと思ったら、動いていいですか」
「その時は、一緒に動いてください」
午後、バルス・ガンが来た。
五十代の男だ。
体が横に大きく、首が短い。仕立ての良い上着を着ているが、ボタンが少し弾けそうだ。指に宝石の指輪をいくつも嵌めている。
男は扉を開けた瞬間、店内を一度だけ見回した。
それから、カウンターに向かってきた。
椅子に座りもせず、カウンターの前に立った。
「ここの主人はお前か」
「BAR ZEROの水無月零です。いらっしゃいませ」
「商談に来た。酒を飲みに来たわけじゃない」
「そうですか。何を飲まれますか」
男が少し止まった。
「聞いていたのか」
「どうぞ、お座りください」
俺は椅子を引いた。
男は少し間を置いてから、椅子に座った。
「単刀直入に言う。ここに白い生き物がいると聞いた。買いたい」
「シロのことですね」
「値段はいくらでも出す。希少な魔法生物の収集が俺の趣味でな。その生き物の魔力量は尋常じゃないという話だ。ぜひ手元に置きたい」
「お断りします」
男が少し固まった。
「まだ値段を言っていないが」
「値段に関係なく、お断りします」
「なぜだ。その生き物はこの店の所有物だろう」
俺はグラスを磨きながら、静かに答えた。
「シロは所有物ではありません。この店にいることを、シロ自身が選んでいます」
男は俺を見た。
「……生き物が選ぶ、とはどういう意味だ」
「そのままの意味です」
その時、ルナが動いた。
カウンターの内側から、俺の前に出てきた。
小さな体で、男の正面に立った。
何も言わなかった。
ただ、そこに立った。
男がルナを見た。
「……子供か。邪魔をするな」
ルナは動かなかった。
金色の目をした生き物、シロが、ルナの腕の中にいた。
シロの目が、男を見ていた。
警戒の目だった。
次に、ヴァルドが動いた。
入口から、カウンターに向かって、ゆっくりと歩いてきた。
腕は組んでいない。
剣にも触れていない。
ただ、歩いてきた。
二メートル超えの体が、男の隣に立った。
男の首が、上を向いた。
「……な、なんだ」
ヴァルドは何も言わなかった。
ただ、そこに立った。
それだけだった。
厨房の扉が開いた。
ノアが出てきた。
エプロンをつけたまま。
包丁は持っていない。
でも、腕を組んで、男を見た。
料理人の目ではない。
別の目だった。
「……な」
男が、また何か言おうとした。
素材の部屋の扉が、静かに開いた。
アリシアが出てきた。
いつも穏やかな表情をしているアリシアの、魔力が、ほんの少しだけ漏れていた。
白い光が、指先から薄く滲んでいる。
本人は気づいていないかもしれない。
でも、その光は確かにそこにあった。
男は四人を見回した。
子供と、巨人と、料理人と、光る術師。
誰も声を荒げていない。
誰も脅していない。
ただ、そこにいるだけだ。
それでも、男の額に、汗が浮いた。
俺はグラスを棚に戻した。
「バルスさん」
男が俺を見た。
「この店では、お客様全員に同じルールが適用されます」
「……ルール?」
「静寂と敬意です」
俺は穏やかに続けた。
「シロはこの店を選んでいます。この店にいる全員が、シロとともにいることを選んでいます。その選択を尊重していただけますか」
男は俺を見た。
四人を見た。
シロを見た。
シロは男を見ていた。
金色の目が、細くなっていた。
「……わかった。今日のところは引く」
「ありがとうございます」
「ただし、考えが変わったら連絡をくれ」
「変わることはないと思いますが、来てくださるのはいつでも」
男は立ち上がった。
財布を取り出した。
「飲み物の代金は」
「今日は何もお出しできていないので、結構です」
「……また来る」
「お待ちしています。次回は、ゆっくり飲んでいただけると」
男は俺を見て、また四人を見て、シロを見た。
それから、何も言わずに扉を開けた。
扉が閉まった。
一拍の沈黙があった。
ルナが俺を見た。
「……終わった?」
「終わりました」
「本当に?」
「今日のところは」
「また来るって言ってたけど」
「来ても同じです」
ルナはシロを見た。
シロの耳が、少しずつ元の位置に戻っていった。
「……シロ、怖かった?」
シロは耳を動かした。
ルナが少し考えてから、俺に言った。
「怖くなかったって言ってる気がする」
「どうしてわかるんですか」
「なんとなく」
ヴァルドが定位置に戻りながら、俺に言った。
「次に来た時はどうする」
「同じです」
「それでも来たら」
「また同じです。ただし」
俺は続けた。
「バルスさんは、次に来る時には別の顔で来ると思います」
「別の顔?」
「客として、ちゃんと飲みに来ます。さっきのやり方では手に入らないとわかったので」
ヴァルドは少し間を置いてから、言った。
「……面白い見立てだ」
「バーテンダーですから」
ノアが厨房に戻りながら、一言だけ言った。
「次来た時は、飲み物を出してやれ。腹が立つ人間ほど、美味い酒を飲ませると大人しくなる」
「それは経験ですか」
「俺自身の話だ」
厨房の扉が閉まった。
アリシアが自分の手を見た。
「……私、光ってましたか」
「少しだけ」
「気づきませんでした」
「シロが感じ取ったんだと思います。シロの影響で、感情が魔力に出やすくなっているかもしれません」
アリシアは少し考えてから、頷いた。
「……練習します。感情が出ないように」
「出た方がいいと思いますよ、あの場合は」
アリシアが、小さく笑った。
(SOMA)
――零。バルス・ガンについて、追加情報を送る。
(言え)
――男は今、路地を出た所で立ち止まっている。考えている。
(何を)
――「あの子供が前に立った時、なぜ自分は引いたのか」だ。
俺はグラスを磨きながら、聞いた。
(答えは)
――わかっていない。ただ、引かざるを得なかった。
(シロの目か)
――そうだ。シロが男を見た時、男は自分の中に何かを見た。長年、希少な生き物を「物」として扱ってきた自分を。シロはそれを、ただ見ていた。
「責めるでもなく」
――そうだ。ただ、見ていた。それが一番、堪えた。
俺は少し考えてから、言った。
(シロは、わかってやっていたのか)
――わからない。ただ、シロが「感情に作用できる」という昨夜の話を覚えているか。
(ああ)
――今日の件も、その延長かもしれない。
俺はシロを見た。
ルナの腕の中で、丸くなっていた。
いつも通りの顔だ。
「……大したやつだ」
小さく言った。
シロの耳が、ぴくりと動いた。
夕方、ヴァルドが工事の状況を確認して戻ってきた。
「拡張部分の内装が、ほぼ終わった」
「そうですか。早かったですね」
「職人たちが良かった。それと」
ヴァルドは少し間を置いた。
「個室の扉を、俺が作った」
俺は手を止めた。
「個室の扉を?」
「元々、建築の仕事をしていた時期がある。騎士団に入る前の話だ」
俺はヴァルドを見た。
「……見ていいですか」
「まだ完成していない。明日の朝には終わる」
「楽しみにしています」
ヴァルドは短く頷いた。
「個室は三つ、作った。四人用が二つ、八人用が一つ。VVIP用の個室は、別に一つ追加した」
「VVIP用?」
「完全に独立した部屋だ。防音も、入口も、全部別にした。ノアのコース料理を出せる広さも確保した」
「いつ決めたんですか」
ヴァルドは少し間を置いた。
「お前が『VVIPの客が来る』と言った日から、考えていた」
俺はしばらくヴァルドを見た。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。護衛の仕事の延長だ」
ヴァルドは定位置に戻った。
俺はカウンターを磨きながら、思った。
この男は、言わない。
やってから、言う。
それが、ヴァルド・クロイスという人間だ。
夜になった。
今日は通常営業をした。
四人の客が来た。
全員に、一杯ずつ出した。
シロは、四人のうち一人の前に移動した。
一番疲れた目をしていた男の前だった。
男はシロを見て、少し目を丸くして、それからゆっくりと頷いた。
「……こいつが、噂の」
「シロといいます」
「触れていいか」
「シロが嫌がらなければ」
男がそっと手を伸ばした。
シロは逃げなかった。
男の手が、シロの頭の上に触れた。
一度だけ、撫でた。
それで十分だった。
男の顔から、ゆっくりと何かが抜けていった。
肩が下がった。
「……今日、いい日じゃなかったんだ」
「そうですか」
「でも」
男はシロを見た。
「……少し、いい日になった」
深夜、閉店後にルナがシロに言った。
「今日、頑張ったね」
シロは耳を動かした。
「怖い人が来たのに、逃げなかった」
シロはまた耳を動かした。
「ここにいたかったから?」
シロは、ルナの頬に、鼻先を近づけた。
触れるか触れないかの距離で。
ルナが少し目を細めた。
「……そっか」
それだけ言って、シロを抱きしめた。
シロは逃げなかった。
(SOMA)
――零。明日、個室が完成する。
(ああ)
――最初の個室客について、一つだけ言っておく。
(なんだ)
――「私は名前のない客だ」と言って来る人物がいる。明後日の夜だ。
「名前のない客」
――そうだ。この店のルールを、誰かから聞いてきた。「ここでは全員が一人の客だ」と。だから「名前のない客」として来ることにしたと言っている。
俺は少し考えた。
(誰から聞いた)
――リーナ将軍だ。
俺は静かに息を吐いた。
将軍が、誰かに話した。
「この店では、将軍も商人も関係ない。全員が一人の客だ」と。
それを聞いて、来ることを決めた人物がいる。
(どんな人間だ)
SOMAが一拍置いた。
――それは、来てから確認しろ。ただし一つだけ。
(なんだ)
――個室を使いたいと言っている。ヴァルドが作った、VVIP専用の部屋を。
俺はグラスを磨きながら、カウンターを見た。
明後日。
ヴァルドが作った扉が、初めて開く。
≪第15話・了≫
次話――「私は名前のない客だ」。VVIP個室の扉を開けた人物を見た瞬間、ヴァルドの手が、初めて剣の柄に触れた。零が静かに言った。「ヴァルドさん。この方も、一人の客です」




