第14話「王国一の剣士が泣いた夜」
翌朝、シロが動いた。
ルナの足元で丸くなっていたシロが、突然顔を上げた。
扉の方を見た。
まだ誰も来ていない。
開店まで、二時間以上ある。
「シロ?」
ルナが声をかけた。
シロは答えなかった。
ただ、扉を見ていた。
金色の目が、細くなっていた。
(SOMA)
――零。
(感じてるか)
――シロが今、外にいる人間の感情を知覚している。
(外に誰かいるのか)
――まだ路地の入口にいる。来るかどうか、迷っている。
俺はグラスを磨く手を止めずに、続けた。
(どんな人間だ)
――それを言う前に、一つだけ聞いてくれ。
(なんだ)
――この人物は、ここに来てはいけない人間ではないか、と思うかもしれない。
俺の手が、わずかに止まった。
(どういう意味だ)
――見ればわかる。ただし零、答えを先に言う。
「言え」
――逆だ。この人物こそ、ここに来なければいけない人間だ。
三十分後、扉が開いた。
入ってきたのは、女性だった。
四十代の前半だろうか。
背が高く、肩幅が広い。立ち姿が、軍人のように真っ直ぐだ。
黒い外套を深く着込んで、帽子を目深に被っている。
変装のつもりだろう。
しかし、変装しても隠せないものがある。
体の動かし方だ。
一歩一歩が、無駄なく、正確で、静かだ。
長年、剣を持ち続けてきた人間の動きだ。
女性はカウンターを見て、俺を見た。
その目が、一瞬だけ揺れた。
来るかどうか、まだ迷っている。
「いらっしゃいませ」
俺は微笑んだ。
「どうぞ」
女性はしばらく立ったまま、店内を見回した。
それから、ゆっくりとカウンターに近づいた。
椅子に座った。
「……一人でいいか」
「もちろんです」
(SOMA)
――鑑定完了。名前はリーナ・クロード。異名「鉄壁の盾将」。王国の女性将軍で、北部防衛の総司令官だ。二十年間、一度も戦場で負けたことがない。
(なぜここに来た)
――三日前、部下が戦死した。十八歳の新兵だ。リーナ自身が直接訓練していた部下だった。戦場での判断は正しかった。彼女のせいではない。それでも。
(それでも、か)
――二十年間、一度も泣いていない。部下の前でも、家族の前でも、一人の時でも。「泣いたら終わりだ」と思って生きてきた。でも三日前から、泣き方を忘れた人間がどこにいけばいいか、わからなくなった。
俺はグラスを磨きながら、整理した。
王国の将軍が、裏路地のバーに来た。
変装して、一人で、迷いながら。
それが答えだ。
(SOMA、なぜ「来てはいけない人間」だと言った)
――この人物の来店が知れれば、王国内の政治的な動きに影響する。将軍が個人的に特定の店を訪れたという事実は、利用される可能性がある。
(だから「来てはいけない」かもしれないと)
――そうだ。しかし零、この人物は今夜ここに来なければ、明日の朝、戦場に戻る。泣き方を忘れたまま。
「わかりました」
俺は静かに答えた。
「何をお飲みになりますか」
「……何でもいい。酒を」
「かしこまりました。少し聞かせてください」
「なんだ」
「最近、よく眠れていますか」
女性が少し止まった。
「……三日、眠れていない」
「食事は」
「食べていない。喉を通らない」
「そうですか」
俺はアイテムボックスに手を入れた。
(SOMA、今夜の素材の方向は)
――零が決めることだ。ただし、一つだけ。
(なんだ)
――この人物に必要なのは、「強くなる」一杯じゃない。
「わかっています」
今夜の素材は、五つだ。
淡い白色の「暁白果」――夜明け前の短い時間にだけ咲く花から作られる果実で、口に含んだ瞬間に、張り詰めた何かがほどける感覚がある。
深い青の「蒼水草」――川の底でしか育たない薬草で、長く溜め込んだものを、静かに流す作用を持つ。
「星蜜」――花から採れる、通常の蜂蜜より遥かに繊細な甘みを持つ液体。
少量の麦の蒸留酒。
そして最後に、「記憶草」――アリシアが今朝、静かに魔法処理をしておいてくれていたものだ。
暁白果の果汁を、ゆっくりと絞った。
白い液体が、グラスに落ちる。
蒼水草のエキスを加えた。
白い液体が、淡い青に変わった。
蒸留酒を少量。
星蜜を、一滴だけ。
それから最後に、記憶草のエキスを、グラスの縁からゆっくりと落とした。
記憶草が触れた瞬間、液体の色が少しだけ、温かくなった。
淡い青の中に、白と金が溶けていく。
夜明け前の空みたいな色だった。
まだ暗いけれど、確かに明けようとしている、あの空の色だ。
「どうぞ」
俺はグラスを、女性の前に置いた。
「名前はありません。ただ、三日間抱えてきたものを、今夜だけ、ここに置いていってください」
女性はグラスを見た。
長い間、見ていた。
「……置いていっていいのか」
「ここは、そのための場所です」
その時、シロが動いた。
ルナの足元から立ち上がって、カウンターの上を歩いた。
女性の前で止まった。
金色の目で、女性を見た。
女性がシロを見た。
「……なんだ、これは」
「シロといいます。この店にいます」
「猫か」
「違うと思いますが、正確な種族はまだわかっていません」
女性はシロを見た。
シロは動かなかった。
ただ、女性を見ていた。
「……なぜ俺を見ている」
「シロは、感情を感じ取ります。あなたの今の状態を、感じているんだと思います」
女性の目が、わずかに揺れた。
「……俺の状態、か」
「グラスを飲んでみてください」
女性はグラスを手に取った。
両手で、包むように。
一口、飲んだ。
目を閉じた。
何も言わなかった。
俺もグラスを磨く手だけを動かして、何も言わなかった。
ルナが隣で静かにしていた。
厨房からノアの音が止まっていた。
ヴァルドが入口で、微動だにしなかった。
アリシアが素材の部屋の扉を、静かに閉めた。
店全体が、息を潜めていた。
女性がもう一口、飲んだ。
その時、シロが動いた。
カウンターの上を、ゆっくりと歩いた。
女性の腕のそばに、静かに座った。
触れてはいない。
ただ、そこにいた。
女性の手が、グラスを持ったまま、止まった。
「……あの子は、何歳だった」
突然の言葉だった。
「十八歳です」
女性が少し止まった。
俺の名を言っていない。
何の話かも言っていない。
でも、俺はわかっていた。
「……俺が直接、訓練した」
「知っています」
「判断は正しかった。俺のせいじゃない。そう言われた」
「そうですね」
「でも」
女性の手が、グラスの上で震えた。
「……でも、俺が訓練した。俺が戦場に連れて行った。俺が」
そこで、声が止まった。
シロが、女性の腕に、そっと頭を寄せた。
触れるか触れないかの距離で。
女性の体が、わずかに固まった。
それから、少しずつ、ほどけた。
泣かなかった。
声も出なかった。
ただ、グラスを両手で持ったまま、うつむいた。
肩が、一度だけ、小さく震えた。
それだけだった。
二十年間、一度も泣かなかった女性の、それが精一杯だった。
俺は何も言わなかった。
シロも動かなかった。
ただ、腕の隣に、静かにいた。
グラスを磨く音だけが、店の中に低く響いていた。
しばらくして、女性が顔を上げた。
目が、少しだけ赤くなっていた。
「……みっともない姿を見せた」
「そんなことはありません」
「将軍が、こんな場所で」
「ここに来てくださった方は、全員、一人の客です。将軍も、商人も、関係ない」
女性は俺を見た。
「……お前は、俺が誰か知っているのか」
「知っています」
「なぜ何も言わない」
「バーテンダーの仕事は、客が何者かを問うことではありません」
女性はしばらく俺を見てから、グラスに視線を落とした。
「……この酒は、何が入っている」
「蒼水草です。長く溜め込んだものを、静かに流す作用があります」
「だから、か」
「はい」
女性はグラスの残りを、ゆっくりと飲み干した。
グラスを置いた。
長い間、何も言わなかった。
シロが、女性の腕の隣で、静かに目を細めていた。
「もう一杯、頼んでいいか」
「もちろんです」
「今度は、強いやつを」
「わかりました」
俺は二杯目を作った。
今度は違う。
一杯目は「流す」ための酒だった。
二杯目は「立つ」ための酒だ。
深い琥珀色の蒸留酒をベースに、「烈果」を少量絞った。
強い香りと、長い余韻。
氷を一つ入れて、それだけだ。
シンプルに、強く、真っ直ぐな一杯だ。
「どうぞ」
女性が受け取った。
一口飲んで、目を細めた。
「……さっきと全然違う」
「今のあなたに必要なものが違うので」
「どうしてわかる」
「一杯目を飲み終えた時の、あなたの背筋の伸び方で」
女性は少し間を置いた。
それから、また一口飲んだ。
「……明日、戦場に戻る」
「そうですか」
「北部はまだ、安定していない」
「そうですね」
「でも」
女性はグラスを見た。
「……今夜、ここに来て良かった」
「また来てください」
「将軍がこんな裏路地に来ることを、部下が知ったら呆れる」
「知らせなければいいです」
女性は小さく鼻を鳴らした。
「……そうだな」
それから、シロを見た。
シロも女性を見た。
「お前が俺を引き止めてくれたのか」
シロは耳を一度だけ動かした。
女性は、二十年ぶりに、静かに笑った。
女性が帰る前に、カウンターに金を置いた。
二杯分の代金だ。
「お代は」と俺が言う前に、女性が言った。
「これだけでは足りないかもしれない」
「適正価格です」
「……この一杯の価値が、これだけのわけがない」
「値段はそれです」
女性はしばらく俺を見てから、頷いた。
「……また来る」
「お待ちしています」
「次は変装しない」
「そうしていただけると」
「なぜだ」
「変装している方が、目立ちます」
女性は一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、また笑った。
さっきより、少しだけ大きかった。
「……そうか」
女性は帽子を脱いで、手に持ったまま扉に向かった。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「バーテンダー」
「はい」
「お前の名前は」
「水無月零です」
「……零か」
女性は頷いた。
「覚えた」
扉が、静かに閉まった。
ルナが俺の隣に来た。
「……強い人だったね」
「そうですね」
「でも、シロが隣に座った時、少し震えてた」
「見ていましたか」
「うん。肩が、一回だけ」
俺はグラスを磨きながら、頷いた。
「強い人ほど、抱えているものが大きいです」
ルナは少し考えてから、また言った。
「……シロ、すごいね。あの人が来るって、開店前からわかってた」
「そうですね」
「魔力で感じたの?」
「そうだと思います」
ルナはシロを見た。
シロはルナの足元に戻って、丸くなっていた。
「……シロって、悲しい人のところに行くんだね。毎回」
「そうみたいですね」
「でも、悲しい人ってどうしてわかるの。顔も見えてないのに」
「感情が、魔力みたいに漏れているんだと思います。シロにはそれが見える」
ルナはしばらく考えてから、また言った。
「……あたし、シロと一緒にいると、なんか自分も感じやすくなる気がする」
俺の手が、わずかに止まった。
(SOMA)
――聞こえていた。それは気のせいじゃない。
(どういうことだ)
――後で話す。今は、ルナに何も言わなくていい。
(わかった)
「そうかもしれませんね」
俺はルナに、それだけ言った。
深夜、閉店後にアリシアが俺に声をかけた。
「今夜の方。将軍の方ですよね」
「そうです」
「……記憶草を今朝処理した時、なんとなくわかりました。今日来る方には、これが必要だと」
俺はアリシアを見た。
「処理する前に、わかったんですか」
「なんとなく、ですが」
「それは」
「魔法的な感覚です。説明が難しいのですが、素材が『今日使われる』という状態になっていました」
(SOMA)
――アリシアの魔法的感知能力が上がっている。シロの影響だ。
(シロの影響で?)
――シロの魔力が、この店全体に薄く作用し始めている。店にいる人間の感知能力が、少しずつ上がっていく。
俺は少し間を置いた。
(それは、意図的なものか)
――シロ自身は気づいていない。ただ存在しているだけだ。それでもそうなっている。
「そうですか」
俺はアリシアに言った。
「ありがとうございます。今日の記憶草、とても良かったです」
アリシアは少し照れたように、頷いた。
「……また、必要な時は言ってください」
「はい」
(SOMA)
――零。最後に一つだけ。
(なんだ)
――今夜、リーナ将軍が笑った。
(ああ)
――王国の記録によると、リーナ・クロードが人前で笑ったのは、十四年ぶりだ。
俺は手を止めた。
(十四年)
――そうだ。部下が初めて死んだ日から、笑っていなかった。
俺は何も言わなかった。
グラスを棚に戻した。
カウンターを磨いた。
BAR ZEROに来た人間は、続きを生きる理由を見つけて帰っていく。
それは今夜も変わらなかった。
ただ今夜は。
シロがいなければ、あの笑顔はなかったかもしれない。
シロの足元に、俺はそっと炭酸水のグラスを置いた。
シロが目を開けた。
金色の目が、俺を見た。
「ありがとう」
俺は小さく言った。
シロは耳を一度動かして、また目を閉じた。
≪第14話・了≫
次話――翌日の朝、王都の複数の場所で同じ噂が広まっていた。「裏路地のバーに、白い不思議な生き物がいる。その生き物に触れると、抱えていたものが軽くなる」。その噂を聞いて、ある人物が動いた。「その生き物を、手に入れたい」




