第13話「シロ」
工事が始まって三日目の朝だった。
地下への入口を開けた時、ルナが先に降りたがった。
「あたしが見てくる」
「一人は危ない」
「大丈夫。すぐ戻る」
止める間もなく、階段を降りていった。
ヴァルドが俺の隣に来て、地下への入口を見た。
「降りるか」
「少し待ちましょう」
三分も経たないうちに、足音がした。
ルナが上がってくる音だ。
でも、いつもより慎重な足音だった。
階段の上に顔が出た。
ルナは両腕で何かを抱えていた。
白くて、小さい。
「おにーさん」
ルナが言った。
「これ、どうしよう」
白い生き物だった。
手のひらよりひとまわり大きい程度の大きさだ。
体は柔らかそうな白い毛で覆われている。
耳が少し大きい。
目が金色だった。
丸くて、深くて、こちらをじっと見ている目だ。
ルナの腕の中で、震えてもいない。
逃げようともしていない。
ただ、金色の目で、俺たちを一人ずつ見ていた。
(SOMA)
――見た。
(何だ、これは)
――絶滅したとされている種族に近い。詳細はまだ調べている。ただ一つだけ言える。
(言え)
――害はない。絶対に。
ヴァルドが腕を組んで、生き物を見た。
「……危険ではないか」
「害はないとのことです」
「SOMAが言っているのか」
「はい」
ヴァルドはしばらく生き物を見てから、俺を見た。
「どこから来た」
「地下です。廃墟の地下に、ずっといたようです」
「あの廃墟は二十年、放置されていた」
「そうですね」
ヴァルドはまた生き物を見た。
「……二十年、一人でいたのか」
その声が、少しだけ低くなった。
俺は何も言わなかった。
ノアが厨房から出てきた。
腕を組んで、入口のところから生き物を見た。
「何だそれは」
「地下にいました」
「種族は」
「調べ中です」
ノアは少し間を置いてから、また近づいてきた。
生き物の前で立ち止まった。
金色の目が、ノアを見た。
ノアが目を細めた。
「……怖がっていないな」
「そうですね」
「怖がらないということは」
ノアは少し考えてから、言った。
「……ここが安全だとわかっているのかもしれない」
俺はノアを見た。
「料理人みたいな言い方ですね」
「どういう意味だ」
「素材を見る時と同じ目をしていました」
ノアは少し間を置いてから、厨房に戻った。
「俺には関係ない」
「そうですか」
「ただ」
扉の前で止まった。
「……寒い場所に長くいたなら、温かいものを食べさせろ。小さい生き物は体温が下がりやすい」
厨房に消えた。
ルナが俺を見た。
「ノアさん、関係あるじゃん」
「そうですね」
「……優しいね、ほんとは」
「内緒にしておいてください」
「もちろん」
アリシアが素材の部屋から出てきた。
生き物を見て、足が止まった。
「……これは」
「知っていますか」
アリシアはゆっくりと近づいた。
生き物の前でしゃがんだ。
魔力を持った人間が近づいた時、生き物がどう反応するか見ていた。
生き物はアリシアを見た。
金色の目が、少し細くなった。
警戒ではない。
興味だ。
アリシアが手を差し出した。
生き物が、鼻先をアリシアの手に近づけた。
くんくんと嗅いだ。
それから、また元の位置に戻った。
アリシアが立ち上がった。
「……魔力を持つ存在に慣れています。この子自身も、魔力を持っている」
「どのくらいですか」
「計測できないくらい」
「計測できないくらい、少ないということですか」
アリシアは首を振った。
「逆です。多すぎて計測できない」
俺の手が、グラスを磨く動作を一瞬止めた。
(SOMA)
――その通りだ。ただし今は話すタイミングではない。
(わかった)
ルナが生き物を抱えたまま、カウンターの端に座った。
生き物はルナの腕の中で、ようやく少し丸くなった。
「……落ち着いてきた」
「ルナの腕が、一番安心するんでしょう」
「なんで?」
「最初に抱えてきたのがルナだったから」
ルナは少し考えてから、生き物を見た。
「……名前、つけていい?」
「本人に聞いてみてください」
「え、聞けるの?」
「反応を見れば、わかるかもしれません」
ルナは生き物を見た。
金色の目が、ルナを見た。
「……シロ」
ルナが言った。
「シロって呼んでいい?」
生き物は何も言わなかった。
でも、耳が少し動いた。
ルナがにやっとした。
「……シロだ。この子、シロ」
(SOMA)
――零。
(なんだ)
――シロが今、何を感じているか、わかるか。
(わからない。教えてくれ)
――安心だ。純粋な、安心。
俺はシロを見た。
ルナの腕の中で、小さな体が少しずつほぐれていく。
二十年、誰もいない地下にいた。
それがどういうことか、俺には想像しかできない。
(SOMA、シロのことをもっと調べてくれ)
――すでに始めている。ただし零、時間がかかる。この種族の記録は、ほとんど残っていない。
(わかった。急がない)
――一つだけ、今言える。
(なんだ)
――この子は、この店が気に入っている。
昼過ぎ、ノアが厨房から小さな皿を持って出てきた。
温かい何かが乗っている。
小さく切った肉と、柔らかく煮た根菜だ。
ノアはルナの前に皿を置いた。
「食べさせてみろ」
「ありがとう、ノアさん」
「俺じゃなくてシロに言え」
ルナはシロに皿を近づけた。
シロが鼻先を皿に近づけた。
少し間を置いてから、食べ始めた。
小さな口が、ゆっくりと動いた。
ルナが俺を見た。
「食べてる」
「そうですね」
「ノアさんの料理、シロも美味しいって思ってる気がする」
「そうかもしれません」
ノアは腕を組んで、シロが食べる様子を見ていた。
何も言わなかった。
でも、厨房に戻らなかった。
夜になった。
店を開けた。
シロはルナの隣に座っていた。
カウンターの内側、ルナの足元に。
丸くなって、目を細めている。
最初の客が来た時、シロが少し顔を上げた。
金色の目で、入ってきた客を見た。
それから、また丸くなった。
(SOMA)
――今夜の最初の客について。名前はエド・クランツ。三十代の行商人。疲れている。体だけじゃなく、気持ちが。
(何があった)
――三年前から一人で行商を続けている。もともとは二人でやっていた。相棒を病気で亡くして、それからずっと一人だ。誰かと話したくて来た。でも自分でそれに気づいていない。
俺はグラスを磨きながら、客を迎えた。
「いらっしゃいませ」
「……一人でいいか」
「どうぞ」
男がカウンターに座った。
疲れた目をしていた。
でも、悲しい目ではなかった。
三年間、一人で走り続けてきた目だ。
「何をお飲みになりますか」
「何でもいい。温かいやつを」
「かしこまりました」
俺は素材を選んだ。
三年間、一人で走り続けた男に必要なのは何か。
休息ではない。
この男はもう、十分に頑張れる人間だ。
必要なのは、「一人じゃなかった」と思える一杯だ。
アイテムボックスから取り出したのは三つ。
深みのある紫色の「宵闇果」――夜に収穫される果物で、温かく、長く続く甘みを持つ。
「共鳴草」――二種類以上の素材を合わせると、それぞれの香りが引き立て合う薬草だ。
そして、少量のウイスキー。
宵闇果を温めた。
甘みが凝縮されていく。
共鳴草のエキスを加えると、宵闇果の香りが一段と深くなった。
ウイスキーを少量、後から加えた。
温かい液体が、グラスの中で深い紫色に落ち着いた。
湯気が細く上がる。
「どうぞ」
俺はグラスを男の前に置いた。
「名前はありません。ただ、長い道のりを一人で歩いてきた方に飲んでもらいたい一杯です」
男がグラスを見た。
一口、飲んだ。
目が、少しだけ止まった。
もう一口、飲んだ。
「……なんか、懐かしい味がする」
「そうですか」
「誰かと一緒に飲んだような気がして」
俺は何も言わなかった。
グラスを磨く手だけが、静かに動いていた。
その時、シロが動いた。
ルナの足元から立ち上がって、カウンターの上をゆっくりと歩いた。
男の前で止まった。
男がシロを見た。
「……なんだ、これ」
「シロといいます。今日から、この店にいます」
シロは男をじっと見た。
金色の目で。
それから、男の腕のそばに、静かに座った。
触れてはいない。
ただ、そこにいた。
男はシロを見た。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、男の手がゆっくりとシロの頭に伸びた。
シロは逃げなかった。
男がシロの頭を、一度だけ、撫でた。
「……温かいな」
小さな声だった。
「相棒が死んでから」
男はグラスを見た。
「誰かに触れたのは、久しぶりだ」
俺は何も言わなかった。
シロも動かなかった。
ただ、男の隣で、静かにそこにいた。
男が帰る前に、ゆっくりとグラスを飲み干した。
財布を出した。
「お代は」
「一杯分です」
「……また来ていいか」
「いつでも」
「シロも、いる?」
「いると思います」
男は立ち上がりながら、もう一度だけシロを見た。
シロも男を見た。
「……ありがとう」
男がシロに言った。
シロは耳を一度だけ動かした。
男は扉を開けて、夜の裏路地へ消えた。
扉が閉まった後、ルナがシロを抱き上げた。
「シロ、すごかった」
シロはルナの腕の中で、小さく息を吐いた。
「おにーさん、シロって感情がわかるの?」
「そうみたいですね」
「あの人が寂しいって、わかったの?」
「わかったんだと思います」
ルナはシロを見た。
「……そっか」
少し間を置いてから、また言った。
「じゃあシロって、あたしと同じだ」
「同じ?」
「あたしも、人の感情がなんとなくわかる。でもシロは魔力でわかるんだね」
俺は手を止めた。
この子は、自分とシロが似ていることを、もう見抜いている。
「そうかもしれません」
「だからシロ、あたしに懐いたのかな」
「そうかもしれません」
ルナはシロをもう少しだけ抱きしめた。
シロは逃げなかった。
深夜、閉店後にヴァルドが俺に言った。
「シロの警備、どうする」
「どういう意味ですか」
「この店に珍しいものがいると知れれば、欲しがる人間が出てくる。特に、魔力が高いとなれば」
俺はヴァルドを見た。
「さすがですね。気づいていましたか」
「アリシアが『計測できないくらい多い』と言っていた。聞こえていた」
「そうですか」
「守る必要があるか」
俺は少し考えてから、答えた。
「今は、シロ自身が選んでここにいます。それで十分です。ただし」
「ただし」
「何かあれば、頼みます」
ヴァルドは短く頷いた。
「わかった」
それだけ言って、定位置に戻った。
(SOMA)
――零。
(なんだ)
――今夜、シロが行動した時のことだ。
(エドの隣に座った時か)
――そうだ。あの時、シロの魔力が、ほんの少しだけ動いた。
俺の手が止まった。
(どういう意味だ)
――シロは感情を知覚するだけじゃない。感情に、作用できる。
(安心させる、ということか)
――今夜は「ほんの少し」だけだ。意識してやったわけでもない。ただ。
SOMAが一拍置いた。
――この子が本気を出した時に何ができるか、今はまだわからない。
俺はカウンターを磨きながら、シロを見た。
ルナの腕の中で、丸くなって眠っている。
白い体が、静かに上下していた。
小さな生き物だ。
でも、この店に来た理由が、どこかにある気がした。
(SOMA)
――わかってる。調べ続ける。
「頼みます」
シロが、眠りながら耳を一度だけ動かした。
聞こえているのかもしれない。
それとも、ただ眠っているだけかもしれない。
どちらでも、今夜はそれでよかった。
≪第13話・了≫
次話――翌朝、シロが初めて「悲しい客」に反応した。その客の名前を聞いた瞬間、俺はSOMAに確認した。「この人物は、ここに来てはいけない人間ではないか」。SOMAが答えた。「逆だ。この人物こそ、ここに来なければいけない人間だ」




