第12話「隣の扉」
朝、ノアが厨房から出てきた。
エプロンをつけたまま、腕を組んで、カウンターの前に立った。
「零」
「なんですか」
「厨房が狭い。どうにかしろ」
開口一番だった。
おはようございますも、今日もよろしくもない。
「わかりました」
「わかりましたって、どうするんだ」
「隣の建物を使います」
ノアが少し止まった。
「……隣の廃墟か」
「そうです」
「あそこは持ち主がいるだろう」
「今夜来ます」
ノアはしばらく俺を見ていた。
「……いつからわかってたんだ」
「三日前から」
「なぜ言わなかった」
「ノアさんが自分で言ってくるまで待っていました」
ノアは少し間を置いてから、また厨房に戻った。
扉が閉まる前に、一言だけ言った。
「……性格が悪い」
「よく言われます」
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(SOMA)
――廃墟の持ち主について、改めて整理する。
(頼む)
――名前はハロルド・ベック。六十二歳。元・建築職人。二十年前に妻と二人でこの建物を買い、一階で小さな工房を営んでいた。しかし十年前、妻が病で亡くなった。以降、工房を閉めて建物を放置している。
(なぜ売らないんだ)
――妻との約束だ。「この建物はいつか誰かの役に立てる。売らずに待ちなさい」と言われた。それを守っている。ただし。
SOMAが一拍置いた。
――ハロルドには息子がいる。三十代。王都で別の仕事をしている。最近、息子がハロルドに「建物を売って老後の資金にしろ」と迫り始めている。ハロルドは妻との約束と息子の言葉の間で、身動きが取れなくなっていた。
(今夜来る理由は)
――この店の噂を聞いたからだ。「一杯飲んだら答えが出た」という話を、工房仲間から聞いた。藁にもすがる思いで来る。
俺はグラスを磨きながら、整理した。
妻との約束。息子からの圧力。
今夜の一杯に、何を入れるべきか。
もう、わかっていた。
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昼間、ルナがフロアを掃除しながら言った。
「おにーさん、今夜の客、もう知ってるんでしょ」
「そうですね」
「どんな人?」
「六十二歳のおじいさんです」
ルナが少し考えた。
「……悩んでる人?」
「悩んでいる人です」
「解決できそう?」
「できると思います」
ルナは掃除の手を止めずに、また言った。
「じゃあ大丈夫だ」
根拠を聞かなかった。
ただそれだけ言って、また箒を動かした。
この子のこういうところが、この店に合っていると思った。
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夕方、アリシアが素材の分析をしながら俺に声をかけた。
「今夜の客の方に、魔法処理が必要な素材はありますか」
「一つだけお願いできますか」
「どの素材ですか」
「『記憶草』です。アイテムボックスに入っています」
アリシアが素材を手に取った。
薄い緑色の、小さな葉だ。
「……これは」
「知っていますか」
「魔法省で使ったことがあります。亡くなった人への想いを整理する時に使う薬草です。悲しみを流すのではなく、大切に抱えられる形に変える作用があります」
「その通りです」
アリシアは記憶草を見た。
「……今夜の方は、誰かを亡くされているんですね」
「十年前に奥さんを」
アリシアは少し間を置いてから、処理を始めた。
魔法処理をされた記憶草は、少しだけ温かい光を帯びた。
「……丁寧にやります」
「ありがとうございます」
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夜になった。
ヴァルドが入口に立った。
ルナがカウンターの内側に立った。
ノアが厨房に入った。
アリシアが素材の最終確認をした。
五人が、それぞれの場所に、自然にいた。
俺はグラスを一つ選んだ。
背が低く、丸みのある、手のひらに収まるサイズのグラスだ。
大きなグラスじゃない。
六十二歳のおじいさんが、両手で包めるサイズだ。
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午後八時を過ぎた頃、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、白髪の老人だった。
背中が少し丸まっている。足取りが慎重だ。
でも目が、まだ生きている。
長年、手を動かしてきた人間の目だ。
老人はカウンターを見て、椅子を見て、それから俺を見た。
「……ここが噂の店か」
「BAR ZEROです。いらっしゃいませ」
「一人でいいか」
「もちろんです。どうぞ」
老人はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
両手をカウンターに置いた。
節くれだった手だった。
石を削り、木を組み、長年建てものと向き合ってきた手だ。
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「何をお飲みになりますか」
「わからん。任せる」
「少し聞かせてください。今日の体の状態は」
「まあ、年寄りにしては普通だ」
「よく眠れていますか」
老人が少し止まった。
「……最近は浅い。考えごとがあって」
「そうですか」
俺はアイテムボックスに手を入れた。
今夜の素材は四つだ。
アリシアが処理した「記憶草」。
温かみのある琥珀色の「暮果」――熟した果物の、落ち着いた甘みを持つ。
少量の蒸留酒。
そして「星砂糖」――細かく砕いた結晶で、溶けると液体に星のような光を残す素材だ。
暮果をゆっくりと絞った。
琥珀色の果汁がグラスに落ちる。
記憶草のエキスを加えた。
アリシアが処理した記憶草は、加えた瞬間に果汁の色を少しだけ温かくした。
蒸留酒を少量。
最後に星砂糖を、指でひとつまみだけ、グラスの上から落とした。
結晶がゆっくりと沈みながら、液体の中で小さな光を残した。
消えない光ではない。
ゆっくりと、時間をかけて、馴染んでいく光だ。
「どうぞ」
俺は両手で包めるグラスを、老人の前に置いた。
「名前はありませんが、大切なものを抱えて眠れない夜に飲む一杯です」
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老人はグラスを見た。
両手でそっと包んだ。
俺が選んだ通りのサイズだった。
一口、飲んだ。
目を閉じた。
何も言わなかった。
俺もグラスを磨く手だけを動かして、何も言わなかった。
ルナが隣で静かにしていた。
厨房からノアの音が止まっていた。
老人がもう一口、飲んだ。
それから、グラスを両手で包んだまま、カウンターの上に置いた。
長い間、グラスを見ていた。
やがて、小さな声で言った。
「……家内の声が、聞こえた気がした」
俺は何も言わなかった。
「馬鹿みたいだろう」
「そんなことはありません」
「十年も前に死んだ人間の声が聞こえるなんて」
「十年経っても聞こえるなら、それだけ大切にしてきたということです」
老人の目の縁が、赤くなった。
泣きはしなかった。
ただ、グラスを見つめたまま、動かなかった。
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しばらくして、老人が言った。
「実は、相談がある」
「どうぞ」
「隣の建物のことだ。俺の持ち物だが、もう二十年、使っていない」
俺はグラスを磨く手を止めなかった。
「家内と二人で買った建物だ。家内が死ぬ前に言っていた。『いつか誰かの役に立てる。売らずに待ちなさい』と」
「大切な約束ですね」
「しかし息子が、売れと言う。老後の資金にしろと。息子の言うことも、わかる。でも」
老人は少し間を置いた。
「……家内の言葉を、守りたい」
俺はグラスを棚に戻した。
「ハロルドさん」
老人が顔を上げた。
名前を言っていないのに、と思っただろう。
「俺がその建物を使わせてもらえますか」
老人が止まった。
「……あなたが」
「隣にある俺の店が、手狭になってきました。厨房を拡張したい。あなたの建物を、この店の一部として使わせてください」
「売れということか」
「売買ではありません。使わせてもらいたいということです。奥さんとの約束通り、誰かの役に立てる形で」
老人はしばらく俺を見ていた。
「……賃料は」
「払います。毎月、適正な額を」
「息子が納得するかどうか」
「息子さんが懸念しているのは老後の資金の話ですね」
老人が少し止まった。
「……そうだ」
俺はカウンターに一枚の紙を置いた。
「息子さんが現在相談している王都の不動産業者について書いてあります。その業者の評判と、適正な賃料の相場も書きました。賃料収入があれば、売却より長期的に安定します。息子さんにそのまま渡してください」
老人は紙を手に取った。
読みながら、目が少しずつ大きくなった。
「……なぜこんなことまで」
「来てくださった方に必要なものをお出しするのが仕事なので」
老人はしばらく紙を見ていた。
それから、グラスを手に取った。
残りをゆっくりと飲んだ。
最後の一口を飲み干してから、グラスを置いた。
「……家内が笑っている気がする」
俺は何も言わなかった。
「いい店だ」
老人は静かに言った。
「使ってくれ。家内の望んだ通りにしてくれ」
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ハロルドが帰った後、ノアが厨房から出てきた。
「決まったか」
「決まりました」
「いつから使える」
「来週から鍵を渡してもらいます」
ノアは少し間を置いた。
「……あのじいさん、ずっとグラスを両手で持っていたな」
「そうですね」
「奥さんの形見か何かか」
「グラスは俺が出したものです」
「じゃあなぜ」
「あのサイズを選んだのは、両手で包んでほしかったからです」
ノアが俺を見た。
「……なんでそんなことを考える」
「一人で抱えてきたものを、両手で包める形にしたかった。それだけです」
ノアは少し間を置いてから、また厨房に向かった。
途中で止まった。
「……性格が悪いと言ったが、取り消す」
「そうですか」
「悪くない。バーテンダーだ」
それだけ言って、厨房に戻った。
ルナが俺の袖を引いた。
小声で言った。
「……ノアさんに褒められた」
「そうですね」
「めったにないことだよ」
「知っています」
ルナは少し間を置いてから、にやっとした。
「……記録しとく」
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深夜、五人でカウンターを囲んだ。
ノアが珍しく、自分から話を切り出した。
「拡張したら、厨房はどう使う」
「ノアさんに任せます」と俺は言った。
「任せるって、お前は何も考えてないのか」
「ノアさんが一番よくわかっているので」
ノアは少し考えてから、言った。
「……今の厨房の倍の広さがあれば、コース料理が作れる」
「個室で出すコース料理ですか」
「そうだ。今は一皿しか出せない。場所があれば、流れが作れる」
アリシアが言った。
「各コースにバフを付与した素材を使えば、食事が終わる頃に体の状態が整います。デザートを食べ終えた時に、一番いい状態になるように設計できます」
ノアがアリシアを見た。
「……それは面白い」
「ありがとうございます」
ヴァルドが言った。
「個室を使うなら、警備の配置も変える必要がある。設計の段階で話し合いたい」
「わかりました」
ルナが言った。
「あたしは何をすればいい?」
「拡張した後のフロアを覚えてください。どこに何があるかを全部」
「全部覚える。余裕」
五人が、それぞれの言葉で話していた。
同じ方向を向いて。
俺はグラスを磨きながら、それを聞いていた。
銀座の頃、こういう夜がたまにあった。
店が次の形になろうとしている夜だ。
来週から、BAR ZEROは変わる。
でも、変わらないものがある。
カウンターは同じ場所にあって、グラスは同じ棚に並んでいて、俺は同じように立っている。
それだけは変わらない。
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(SOMA)
――零。一つだけ。
(なんだ)
――拡張工事を始めると、廃墟の地下部分に入ることになる。
(知ってる)
――地下に、何かいる。
俺の手が、わずかに止まった。
(何だ)
――まだ特定できていない。ただ、生き物だ。小さい。害はない。ただし。
(ただし、何だ)
――非常に古い種族に近い反応がある。現在、絶滅したとされている種族だ。
俺はグラスを棚に戻した。
工事は来週から始まる。
その時に、わかる。
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≪第12話・了≫
次話――工事が始まった三日目の朝、ルナが地下から何かを抱えて上がってきた。白くて小さい。目が金色だった。「おにーさん、これ、どうしよう」




