第11話「五人の夜が始まった」
開店十四日目の朝、アリシアは時間通りに来た。
白いローブに、仕事用の小さな鞄。
扉を開けて、真っ直ぐカウンターに向かってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今日から働きます。何から始めますか」
緊張はしていない。決意している顔だ。
「まずアイテムボックスの素材を全部確認してください。魔法的な効果を分析して、一覧を作ってもらいたい」
「わかりました」
アリシアは鞄から羽根ペンとノートを取り出した。
準備してきていた。
素材を一つ手に取った瞬間、目が変わった。
魔法省で十年間、魔法陣と向き合ってきた人間の目だ。
(SOMA)
――戦力になる。
(知ってます)
ルナが厨房から顔を出した。
アリシアを見て、俺を見た。
「あの人が今日から働く人?」
「そうです」
ルナはアリシアに近づいた。
「……あたし、ルナ。よろしく」
アリシアが顔を上げた。「アリシアです。よろしくお願いします」
「知ってる。お酒飲めないんだよね」
「……飲めません。魔力が暴走するので」
「あたしも飲めない。年齢的に」
アリシアが少し目を丸くした。「……そうですね」
「だからモクテル仲間だね」
アリシアはしばらくルナを見てから、小さく笑った。「……そうですね」
ルナは満足そうに頷いて、フロアの掃除に戻った。
アリシアが俺に小声で言った。
「あの子、面白いですね」
「そうですね」
「最初の夜の、路地の子ですか」
「そうです」
アリシアは少し考えてから、また素材に視線を戻した。
「……大事にしてあげてください」
「しています」
ノアとアリシアの初対面は、昼の仕込み時間だった。
アリシアが素材の分析をしながら、厨房の入口に立った。
「ノアさん」
ノアが振り返った。
「この森脈草ですが、魔法的な処理を加えると神経修復の効果が三倍になります。ガルドさんの治療に使っているカクテルに応用できると思うのですが」
ノアはしばらくアリシアを見た。
「……俺の料理にも使えるか」
「使えます。熱を加える前に魔法処理をすれば、効果を食材に定着させられます」
「やり方を教えてくれ」
「わかりました」
それだけだった。
ノアは名前を聞かなかった。
でも翌日から、アリシアのことを「術師」と呼び始めた。
ルナがこっそり俺に言った。
「ノアさん、アリシアさんのこと気に入ったと思う」
「どうしてわかるんですか」
「ヴァルドさんのことはいまだに『でかいの』って言ってるのに、アリシアさんのことは『術師』って呼んでるから」
俺は手を止めた。
「ヴァルドさんには内緒にしておいてください」
「もちろん」
十五日目の夜から、店が本格的に忙しくなった。
一夜で七人来た。
全員が「噂を聞いて来た」と言った。
七人それぞれに、一杯ずつ出した。
仕事の壁にぶつかった職人。夫婦の仲がこじれた商家の妻。師匠との関係に悩む若い魔法使い。
全員、帰り際に顔が変わっていた。
ルナが全員のグラスを音なく下げて、全員の名前と好みをすでに覚えていた。
ノアが七人分の小さなアテを、誰にも言わず厨房から出してきた。
アリシアが若い魔法使いのモクテルに魔法処理を施して、通常の三倍の鎮静効果を持たせた。
ヴァルドが入口で、酔った通りすがりの男が入ろうとするのを、一言も発さず腕一本で止めた。
閉店後、俺はカウンターを磨きながら思った。
店になっている。
十六日目の夜、ガルドが来た。
三回目だ。
扉を開けて、店内を見回して、止まった。
「……人が増えたな」
「少し増えました」
ガルドはカウンターに座った。
それから厨房を見た。
ノアが出てきた。
二人は、しばらくの間、黙って見つめ合った。
「……生きてたか」
ガルドが先に言った。
「生きてます」
ノアが短く答えた。
「蒼天亭がなくなった時、どこへ行ったかと思っていた」
「あちこち」
「心配した」
ノアは少し間を置いた。
「……ガルドさんが心配するようなことじゃないです」
「お前の飯を十年食った。心配するだろう」
ノアはまた間を置いた。
今度は長かった。
「……店がなくなって、料理ができなくなりました。六ヶ月間」
ガルドが低く言った。
「そうか」
「ここに来て、また作れるようになりました」
「そうか」
ガルドはカウンターに手をついた。
「蒼天亭の飯が食えなくなって、飯が美味くなくなった。正直に言う」
ノアは何も言わなかった。
「ここで食えるか」
「食えます」
「蒼天亭と同じ飯か」
「違います」とノアは言った。「ここはここの飯です」
ガルドは少し間を置いてから、頷いた。
「それでいい」
ノアは短く頷いて、厨房に戻った。
しばらくして、皿が一枚出てきた。
ガルドが一口食べた。
目を閉じた。
「……違う味だな」
「そうですか」と俺は言った。
「でも」
ガルドはもう一口食べた。
「美味い」
厨房から、また包丁の音が始まった。
ガルドが帰り際に俺に言った。
「ノアのことを、頼む」
「どういう意味ですか」
「あいつは料理しか知らない人間だ。料理ができなくなると、どうしていいかわからなくなる。六ヶ月間、どれだけ辛かったか」
俺は少し考えてから、答えた。
「今は毎日、包丁の音がしています」
ガルドは厨房を一度見た。
「……そうだな」
「ノアさんがいる限り、この店から包丁の音が消えることはないです」
ガルドは短く笑った。
「頼もしいバーテンダーだ」
「バーテンダーですから」
十七日目の夜、小さな騒動があった。
酔っ払いが三人、連れ立って扉を開けようとした。
ヴァルドが入口で止めた。
「満席です」
「うそつけ、中に人がいないじゃないか」
「満席です」
「どけ、でかいの」
ヴァルドは動かなかった。
腕を組んで、目を細めて、ただそこに立っていた。
三人は三十秒ほどヴァルドを見上げてから、引き返した。
厨房からノアが顔を出した。
「何だ」
「酔っ払いです」
「追い払ったか」
「ヴァルドさんが」
ノアはヴァルドを見た。
「……でかいの、役に立つな」
「聞こえていますよ」とヴァルドが静かに言った。
ノアは何も言わずに厨房に戻った。
アリシアが小さく笑っていた。
ルナが俺に小声で言った。
「ノアさんって、ヴァルドさんのこと認めてるんだよね」
「そうですね」
「じゃあなんで名前で呼ばないの」
「照れているんだと思います」
ルナはヴァルドを見て、ノアが消えた厨房を見た。
「……ヴァルドさんも気づいてるよね、絶対」
「気づいていると思います」
「じゃあなんで何も言わないの」
「それが二人の距離感なんだと思います」
ルナはしばらく考えてから、頷いた。
「……なんかわかる気がする」
二十日目の夜、閉店後に五人でカウンターに座った。
ノアが厨房から皿を持ってきた。
「余り物だ。食え」
アリシアが小さく笑った。
「……また余り物ですね。毎日」
「たまたまだ」
「六日連続でたまたまですか」
「そうだ」
ノアは皿を置いて、カウンターの端に座った。
ルナがすでに箸を手に持っていた。
「いただきます」
ヴァルドが一口食べて、短く言った。「美味い」
ノアは何も言わなかった。
でも、また耳が赤くなっていた。
俺は五人分の飲み物を作った。
ヴァルドには烈果のカクテル。
ノアには蒼天果の蒸留酒割り。
ルナには夜想果のモクテル。
アリシアには星脈水と月乳のモクテル。
俺には、炭酸水。
アリシアが俺のグラスを見た。
「……毎回それですか」
「飲めないので」
「炭酸水だけ?」
「美味しいですよ、炭酸水も」
ルナが言った。
「おにーさんが炭酸水飲んでると、なんか安心する」
「なぜですか」
「わかんない。でもそう思う」
ヴァルドが短く言った。
「お前がいつも通りだから、俺たちもいつも通りでいられる。そういうことだろう」
誰も何も言わなかった。
ノアが立ち上がって、皿を片付けようとした。
「……ノアさん」
ルナが呼んだ。
「なんだ」
「美味しかった。毎日食べたい」
「毎日作るつもりはない」
「でも毎日余り物が出てるじゃないですか」とアリシアが静かに言った。
ノアは何も言わずに厨房に戻った。
包丁の音が始まった。
ルナがアリシアに小声で言った。
「明日も余り物が出ると思う?」
「出ると思います」
二人が小さく笑った。
(SOMA)
――零。一つ報告する。
(なんだ)
――今朝、ノアが独り言で言っていた。「厨房が狭い」と。
「明日、言ってくるでしょう」
――間違いなく。
俺はカウンターを磨いた。
開店から二十日。
五人になった。
毎夜、客が来る。
毎夜、一杯が生まれる。
毎夜、誰かの顔が変わって帰っていく。
それで十分だった。
でも、足りなくなってきている。
明日、ノアが言ってくるだろう。
「厨房が狭い。どうにかしろ」と。
≪第11話・了≫
次話――翌朝、ノアが厨房から出てきて言った。「零、厨房が狭い。どうにかしろ」 それが始まりだった。




