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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第10話「裁きの夜」

 朝、一通の書状が届いた。

 使いの男が扉を叩いて、黙って差し出した。

 封蝋には、見覚えのある紋章が押してある。

 王国評議会の外部委員を示す紋章だ。

 俺はそれを受け取って、開いた。

 「王都商業法第十二条に基づき、BAR ZEROに対して営業停止の審査を開始する。審査完了まで、一切の営業行為を禁ずる」

 使いの男は、返事を待たずに帰っていった。

 俺は書状をカウンターに置いた。

 それから、笑った。

 声に出さずに。でも、確かに笑った。

 (SOMA)

 ――わかってる。差出人は昨夜バルトロが接触した評議会外部委員だ。名前はヴィクター・ロス。

 (命令書が証拠になった)

 ――そういうことだ。バルトロが昨夜接触して、今朝動いた。この速度と、差出人の名前が、全てを物語っている。

 俺はカウンターに手をついた。

 バルトロはこの命令書を「武器」のつもりで送ってきた。

 だが今この瞬間、この紙は俺の手の中で「証拠」になった。

 「ダリウスさんに使いを出します」

 ルナが厨房から顔を出した。

 「朝から何か来たの?」

 「書状です。今日、少し忙しくなります」

 「店は開けるの?」

 俺は書状を折りたたんだ。

 「開けます。営業停止命令が出ても、それが正当かどうかは別の話です」


 ヴァルドに書状を見せた。

 男は一度だけ読んで、俺に返した。

 「動くか」

 「動きます。ただし今日も、ヴァルドさんは入口にいてください」

 「わかった」

 ノアに声をかけた。

 厨房から顔を出したノアに、書状の内容を簡単に伝えた。

 「今日の営業は続けます。ノアさんは通常通り、厨房で仕込みをお願いします」

 「……店が潰れるかもしれないのに、通常通りか」

 「潰れません」

 断言した。

 ノアは俺を見た。

 「……根拠は」

 「昨夜、全部準備しました」

 ノアは少し間を置いてから、頷いた。

 「わかった。仕込みをする」

 厨房に戻っていった。

 ルナが俺の隣に来た。

 「おにーさんが根拠って言う時は、本当に根拠があるんだよね」

 「そうです」

 「じゃあ大丈夫だ」

 それだけ言って、フロアの掃除を始めた。

 この子たちの信頼を、裏切るわけにはいかない。


  午前中に、ダリウスへの使いを出した。 


昼前に、ダリウスへ使いを出した。

 昨夜バルトロが話した内容の記録書と、届いた営業停止命令書の写しを同封した。

 手紙には一行だけ書いた。

 「全部、バルトロが自分で話してくれました」

 使いが出て行った後、SOMAが言った。

 ――ダリウスはすでに動いている。今朝この命令書を確認した情報省が、「評議会案件への外部からの不当介入」として緊急審問を申請した。来月の予定が、今日に前倒しになった。

 「バルトロが自分で前倒しにした」

 ――そういうことだ。

 俺は小さく息を吐いた。

 命令書を送ることが、こんなに早く自分に返ってくるとは、バルトロは思っていなかっただろう。

 アリシアは今朝、評議会へ向かっている。

 あとは、待つだけだ。


 昼過ぎ、SOMAが審問の状況を伝え始めた。

 俺はカウンターの中でグラスを磨きながら、聞いた。

 「聞きたい人は聞いていい」と少し声を上げると、厨房からルナが出てきた。

 ノアは出てこなかったが、包丁の音が止まった。

 聞いているのだと思った。

 ――アリシアが証言台に立った。第一話でお前が渡した、改竄前の設計書の写しを提出した。

 「バルトロは」

 ――「偽造だ」と異議を申し立てた。

 「来ましたね」

 ――しかしダリウスが、昨夜バルトロがこの店で話した内容の記録書を証拠として提出した。「証言者の信用を傷つける情報を流してくれ」という依頼の事実が、証人妨害の未遂として正式に記録された。

 ルナが小さく言った。

 「……昨夜の話が、そのまま使われた」

 「そうです」

 ――バルトロが「そのような店に行ったことはない」と否定した。しかし記録果の効果で、自分が昨夜何を話したか、正確に覚えている。否定しながら、記憶が正確すぎて言葉が揺れた。

 「自分の記憶が、自分を縛った」

 ――そういうことだ。

 ルナがぽつりと言った。

 「……全部自分でやってる」

 俺は頷いた。

 「最初からそうでした」


 夕方、SOMAが短く告げた。

 ――決定が出た。バルトロは魔法省から即時追放。本日中に身柄が確保される。アリシアの冤罪は正式に撤回。地位が完全に回復された。

 俺はカウンターに手をついた。

 第一話から、十二日だ。

 雨の夜に、泥で汚れたローブを着た少女が震える声で言った。

 「営業していますか」

 あの一言から、十二日。

 「SOMA」

 ――わかってる。

 「ありがとうございます」

 一拍置いて。

 ――俺は何もしていない。お前がしたことだ。

 俺は何も言わなかった。

 グラスを磨く手だけが、静かに動いていた。


 ルナが俺を見ていた。

 「……決まったの?」

 「決まりました」

 「アリシアさん、助かったの?」

 「助かりました」

 「……銀色の髪の人?前に見たことある気がする」

「開店初日の夜です。あなたがまだ店の外の路地にいた頃」

ルナが少し目を丸くした。

「……あの夜の人か」

「この店の、最初の客です」

ルナは少し間を置いてから、また言った。

「……じゃあ、ここから始まったんだね」

 「そうです」

 

 ルナはそれ以上は言わなかった。

 でも、フロアを磨く手が、いつもより丁寧になっていた。

 厨房から、ノアが出てきた。

 「決着がついたのか」

 「つきました」

 「……そうか」

 それだけ言って、厨房に戻ろうとした。

 「ノアさん」

 ノアが止まった。

 「今夜、一人お客さんが来るかもしれません。その方のために、何か一皿お願いできますか」

 「どんな客だ」

 「ずっと追い詰められていた人間が、やっと息ができるようになった夜に来る客です」

 ノアは少し考えてから、頷いた。

 「わかった」

 厨房に戻っていった。

 包丁の音が始まった。


 夜になった。

 営業停止命令書は、今日の審問でヴィクター・ロスが権限を停止されたことで、自動的に無効になっていた。

 BAR ZEROは、今夜も開いている。

 ヴァルドが入口に立った。

 「今夜は誰が来る」

 「大事な客が来ます」

 「守るか」

 「守ってください」

 ヴァルドは短く頷いて、定位置についた。

 俺はカウンターの中で、グラスを一つ選んだ。

 今夜の一杯を、頭の中で設計した。

 ずっと追い詰められていた人間が、やっと自由になった夜の一杯だ。

 解放の味がする一杯にしたい。

 でも軽すぎない。

 この十二日間の重さを、ちゃんと飲み込める一杯にしたい。


 午後九時を少し過ぎた頃、扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、銀色の髪の女性だった。

 白いローブだ。

 でも今日は、泥で汚れていない。

 きちんと整えられた、清潔な白だ。

 アリシアだった。

 十二日前と同じ顔で、でも全然違う顔で、入ってきた。

 俺を見て、止まった。

 「……また来てもいいですか」

 俺は微笑んだ。

 「いつでも」


 アリシアはカウンターに座った。

 俺は何も聞かなかった。

 今夜の体の状態も、よく眠れているかも、聞かなかった。

 ただ、素材を選んだ。

 アイテムボックスから取り出したのは、五つだ。

 白く丸い「暁果」――夜明け前にだけ咲く花から作られる果実で、食べると視界が開けたような感覚になる。

 薄い金色の「蜜花水」――花から抽出した甘い液体。後味が長く続く。

 炭酸水。

 静月草のシロップ。

 そして、最後に一つ。

 第一話でアリシアに出した「星屑のモクテル」で使った、深紅のドラゴンフルーツだ。

 アリシアが、その果物を見て、止まった。

 「……それ」

 「覚えていますか」

 「最初の夜に、使っていた」

 「そうです」

 俺は暁果を薄く切って、グラスの内側に沿わせた。

 白い果肉が、グラスの中で淡く光った。

 蜜花水を底に注いで、炭酸水で満たす。

 静月草のシロップをグラスの縁からゆっくりと落とした。

 それが沈んでいく前に、ドラゴンフルーツを薄くスライスして、液体の中に浮かべた。

 赤と白と金が、グラスの中でゆっくりと混ざり合っていく。

 第一話の「星屑のモクテル」とは、似ているようで違う。

 あの夜は、追い詰められた人間のための一杯だった。

 今夜は、そこから生き延びた人間のための一杯だ。

 「名前はまだありません」

 俺はグラスをアリシアの前に置いた。

 「でも、今夜あなたのために作りました」

 アリシアはグラスを見た。

 長い間、見ていた。

 「……最初の夜と、似てる」

 「同じ素材を一つだけ使いました」

 「なぜですか」

 俺は答えた。

 「あの夜から、今夜まで、繋がっているから」


 アリシアが一口飲んだ。

 目が、静かに細くなった。

 「……甘い。でも、最初の夜より、ずっと軽い」

 「あの夜は重いものが必要でした。今夜は違います」

 「そうね」

 アリシアはもう一口飲んだ。

 しばらく、何も言わなかった。

 俺も何も言わなかった。

 グラスを磨きながら、静かに待った。

 銀座でも、こういう夜があった。

 言葉がいらない夜だ。

 ただ、グラスがそこにあればいい夜だ。

 やがてアリシアが、小さく言った。

 「今日、評議会で証言しました」

 「知っています」

 「緊張しました。立っていられないくらい」

 「そうですか」

 「でも、あなたが最初の夜に渡してくれた書類が、ちゃんと使えました」

 「良かったです」

 「証言台に立った時、あの夜のことを思い出しました」

 アリシアはグラスを見ながら、続けた。

 「雨で、泥だらけで、もう終わりだと思っていた。それでもここに来て、このモクテルを飲んだ。そうしたら、続きを生きることができた」

 俺はグラスを磨く手を止めずに、聞いていた。

 「だから今日、証言台に立てました」

 アリシアが俺を見た。

 「ありがとうございます」

 俺は静かに答えた。

 「来てくださったのは、あなたです」

 「でも」

 「扉を叩いたのは、あなたです。俺は開けただけです」

 アリシアは少し間を置いてから、また一口飲んだ。


 しばらくして、厨房の扉が開いた。

 ノアが皿を一枚持って出てきた。

 白い皿の上に、小さな料理が一つ乗っている。

 暁果を使ったデザートだ。

 白い果肉を薄く切って、重ねて、上から蜜花水をかけている。

 シンプルだった。

 でも、果物の白と蜜の金色が、皿の上で静かに光っていた。

 ノアはアリシアの前に皿を置いた。

 「今夜のデザートだ」

 「私に?」

 「今夜の客はお前だけだ。当たり前だろう」

 ノアは厨房に戻っていった。

 アリシアはデザートを見た。

 それからグラスを見た。

 「……同じ素材を使っている」

 「ノアさんと事前に共有しています。カクテルとデザートが同じ話を語るように設計しました」

 アリシアは一口、食べた。

 しばらく黙っていた。

 「……なんでこんなに優しい味なんだろう」

 ノアの料理の話なので、俺には答えられない。

 「料理人に聞いてみてください」

 「あの人、怖そうだから聞けない」

 「怖くないですよ。不愛想なだけです」

 アリシアは小さく笑った。

 十二日前には見えなかった笑顔だった。


 アリシアが帰る前に、俺はカウンターに一枚の名刺を置いた。

 何も書いていない。ただ、「BAR ZERO」とだけある。

 「これを」

 「何ですか」

 「もし、また行き詰まった時に。あるいは、誰かが行き詰まっている時に」

 アリシアは名刺を手に取った。

 「……紹介していいということですか」

 「この扉を叩く理由は、何でもいいです」

 アリシアはしばらく名刺を見ていた。

 「……魔法省に戻るかどうか、まだ決めていません」

 「急がなくていいです」

 「ここで働く、という選択肢はありますか」

 アリシアが言った。

 「魔法的な素材の分析が得意です。カクテルやモクテルに特殊な効果を付与することもできます。お酒が飲めないので、モクテルには特に詳しくなれると思う」

 俺はアリシアを見た。

 「ぜひ、来てください」

 アリシアが少し目を丸くした。「……即答なんですね」

 「あなたが必要だと思っていたので」

 アリシアはしばらく俺を見ていた。

 「……いつから来ればいいですか」

 「準備ができた時で構いません」

 「……わかりました」

 アリシアは名刺を握って、立ち上がった。

 「今夜のモクテルとデザートの代金を」

 「今夜はいいです」

 「なぜですか」

 「今夜は特別な夜なので」

 アリシアは少し考えてから、財布をしまった。

 「……ありがとうございます」

 「またいつでも」

 アリシアは扉に向かった。

 扉の前で、一度だけ振り返った。

 「最初の夜、続きを生きる理由を見つけてもらえました」

 「そうですか」

 「今夜は、もっと先を生きる理由を見つけました」

 俺は何も言わなかった。

 アリシアは微笑んで、夜の裏路地へ出ていった。


 扉が閉まった。

 しばらく、静寂があった。

 ルナが俺の隣に来た。

 「……綺麗な人だった」

 「そうですね」

 「前に来た時と、全然違う顔してた」

 「そうですね」

 「おにーさん、あの人のこと覚えてた?最初の夜から」

 「覚えていますよ。来てくださった方のことは、全員」

 ルナは少し考えてから、また言った。

 「……じゃあ、あたしのことも覚えてる?最初に会った夜」

 「雨上がりの路地で、壁に背中をつけて座っていた。パンを受け取る手が、小さかった」

 ルナが俯いた。

 「……覚えてるんだ」

 「覚えています。全部」

 「……なんで」

 「来てくださった方のことは、全員」

 ルナはしばらく俯いていた。

 それから、顔を上げた。

 目が少し赤くなっていたが、泣いてはいなかった。

 「……あたしも、ちゃんとやる」

 「わかっています」

 「おにーさんが全員覚えてるなら、あたしも全員覚える。顔も、名前も、好きなものも、全部」

 「それがルナの武器になります」

 ルナは頷いた。

 それから、グラスを一つ手に取って、磨き始めた。

 俺の隣で、音を立てずに。


 深夜、ヴァルドが巡回から戻ってきた。

 「外は静かだ」

 「ありがとうございます」

 「バルトロという男は、今夜どうなった」

 「身柄が確保されました」

 ヴァルドは短く頷いた。

 「……お前は、何も動いていないように見えた」

 「動いていません」

 「それでこうなったのか」

 「バルトロが自分で動いたんです。俺はただ、それを見ていた」

 ヴァルドは少し間を置いてから、言った。

 「騎士団にいた頃、そういう上官がいた。何もしないように見えて、全部動かしていた」

 「どんな人でしたか」

 「死んだ」

 静かな声だった。

 「そうですか」

 「お前は死ぬな」

 突然の言葉だった。

 俺は少し間を置いてから、答えた。

 「努力します」

 ヴァルドは短く笑って、入口の定位置に戻った。


 (SOMA)

 ――報告がある。

 (なんだ)

 ――今夜のアリシアの来店が、また噂になった。「冤罪が晴れた術師がBAR ZEROに行った」という話が、評議会の関係者の間で広まり始めている。

 「また客層が変わりますね」

 ――そうだ。加えてもう一つ。

 (言え)

 ――アリシアが「ここで働く選択肢を考えている」と今夜、帰り道に知人に話した。

 「本人に言うつもりはないですが」

 ――わかってる。ただし、その知人が評議会の人間だ。明日以降、「BAR ZEROがアリシアを引き抜いた」という話が出回る可能性がある。

 「それはそれで」

 俺は小さく笑った。

 「面白いですね」

 ――そう思うのはお前だけだ。

 「よく言われます」

 俺はグラスを棚に戻した。

 開店十三日目。

 BAR ZEROの最初の大きな試練が、今夜終わった。

 バルトロは身柄を確保された。

 アリシアは名誉を取り戻した。

 営業停止命令は無効になった。

 何も変わっていない。

 カウンターは同じ場所にあって、グラスは同じ棚に並んでいて、俺は同じように立っている。

 ただ、この店が今夜、一つだけ変わった。

 扉を叩いた人間が、続きを生きた。

 それが証明された夜だった。


 厨房からノアの声がした。

 「明日の仕込み、素材を三つ追加してくれ」

 「何が必要ですか」

 「蒼天果と、暁果と、それから見たことのない赤いやつ。名前は知らない」

 「緋暮果ですか」

 「そうだ。あれをもう一度使いたい」

 「わかりました。明日の朝に用意します」

 「頼む」

 包丁の音が再び始まった。

 ルナが小さく言った。

 「ノアさん、機嫌いいね」

 「そうですか」

 「料理したい時は機嫌がいい。あの人」

 「それは」

 俺は微笑んだ。

 「料理人として、正しい状態だと思います」


≪第10話・了≫

次話――翌朝、アリシアから手紙が届いた。一行だけ書いてあった。「明日からお世話になります」


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