第9話「最高の一杯」
開店十二日目の昼間、SOMAが言った。
――バルトロが動いた。今夜、この店に来る。
(変装か)
――ああ。商人の格好をして、名前を変えて来るつもりだ。「レオン・マルク」という偽名を用意している。
(目的の詳細は)
――来月の評議会本審問に向けて、この店に「証言を止めさせたい」のだろう。ただし直接そう言うつもりはない。まず「情報を買いたい」という話から入って、様子を見ながら本題に近づく算段だ。
(昨日接触した有力者二名は何者だ)
――一人は評議会の外部委員。もう一人は王都の大手法律事務所の所長だ。バルトロは「法的手段でBAR ZEROを黙らせる」ことを模索している。ただし現時点では具体的な手を打てていない。
俺はグラスを磨きながら、整理した。
バルトロが今夜来る。
全部知っている。偽名も、目的も、昨日の動きも。
問題は、それをどう使うかだ。
(SOMA、今夜の方針を確認したい)
――言え。
(バルトロには気づいていないふりをする。最高の一杯を出して、気持ちよく帰す)
SOMAが一拍置いた。
――理由は。
(気づいていることを知られたら、次の手を変えてくる。今夜、バルトロが話す内容と取る行動を全部記録する。それが来月の審問で使える)
――なるほど。罠を張るわけだ。
(罠という言い方は好きじゃないですが)
――事実だろう。
「まあそうですね」
俺は小さく息を吐いた。
銀座でも、何度かこういう夜があった。
全部わかっていながら、何も知らないふりで最高のサービスをする夜だ。
夕方、ノアに声をかけた。
「今夜、少し特別な客が来ます」
ノアが厨房から顔を出した。
「料理を出すか」
「出さなくていいです。今夜はカクテルだけで対応します」
「なぜだ」
「その客に、ノアさんの料理を食べてほしくないので」
ノアは少し間を置いた。
「……わかった」
それ以上は聞かなかった。
ルナには、「今夜は厨房でノアさんの手伝いをしていてください」と伝えた。
ルナは一瞬だけ俺を見た。
「……特別な事情がある客?」
「そうです」
「わかった。厨房から出ない」
即答だった。
この子は余計なことを聞かない。
それが、スラムで生き延びてきた子供の知恵だと思った。
夜になった。
ヴァルドが入口に立った。
俺はカウンターの中に立った。
グラスを磨きながら、待った。
午後九時を少し過ぎた頃、扉が開いた。
入ってきたのは、五十代の男だった。
商人風の茶色い上着。目立たない色の帽子を深く被っている。顎に短い髭を生やして、歩き方をわざとゆっくりにしている。
変装としては、悪くない。
よく研究した変装だ。
ただ、目が隠せていない。
細い目の奥に、常に何かを計算している光がある。長年、評議会という政治的な場所で生き残ってきた人間の目だ。
男はカウンターに座った。
「いらっしゃいませ」
俺は微笑んだ。
「何をお飲みになりますか」
「何かおすすめはあるか。俺はこの国の酒に詳しくない」
「では少し聞かせてください。今日の体の状態は」
「まあ、普通だ。特に問題はない」
「よく眠れていますか」
男が少し止まった。
「……昨夜は少し浅かった。考えごとがあって」
「そうですか」
俺はアイテムボックスに手を入れながら、SOMAに確認した。
(考えごと、か)
――評議会の中間報告を受けて、昨夜は三時間しか眠れていない。焦りが体に出始めている。
(わかった)
取り出したのは、四つの素材だ。
深い紺色をした「夜紺果」――熟すと甘みが凝縮されるが、そのままでは少し渋みがある。火を通すことで渋みが甘みに変わる珍しい果物だ。
この国で広く飲まれる白い蒸留酒。
透明な蜂蜜。
それと、「宵草」――夜にだけ採れる薬草で、飲んだ者に「安心感」を与える効果がある。
夜紺果を薄切りにして、軽く火で炙った。
渋みが甘みに変わる瞬間に、取り出す。
グラスに蒸留酒を注いで、宵草のエキスを数滴加えた。
炙った夜紺果を沈めて、蜂蜜を一滴落とした。
深い紺色の液体の中で、夜紺果がゆっくりと沈んでいった。
グラスの底が、夜の湖のように静かに光った。
「どうぞ」
俺はグラスを男の前に置いた。
「名前はありませんが、よく眠れなかった夜の翌日に飲む一杯です。体の緊張がほぐれます」
男はグラスを見た。
それから俺を見た。
「……なぜ眠れなかったとわかる」
「目の下に影があります。商人の方はよく来られますが、考えごとで眠れない方の目は独特です」
男は少し間を置いてから、グラスを手に取った。
一口、飲んだ。
「……甘い。でも後から」
「渋みが少し来ますが、すぐ消えます」
「……ああ、消えた。不思議な味だ」
「宵草の効果です。少し、力が抜けませんか」
男は肩を一度動かした。
「……確かに」
俺はグラスを磨きながら、静かに待った。
男が二口目を飲んだ頃、切り出してきた。
「実は、情報を買いたいと思って来た」
「情報は売っていません」
「そうか。では、頼みたいことがある」
「聞かせてください」
男はグラスを置いた。
「知り合いの女性が、評議会で不当な扱いを受けている。俺はその女性とは利害関係はないが、見ていて気の毒で。なんとかしてやれないかと思って」
俺は微笑みを崩さずに言った。
「具体的にはどういうことですか」
「評議会に証言を出している人間がいる。その証言が、信憑性に欠けるという話をしてほしいんだ。この店には、情報網があると聞いている。それを使って、証言者の信用を傷つけるような情報を流してほしい」
「誰の証言ですか」
男が少し止まった。
「……それは言えない」
「そうですか」
俺はグラスをカウンターに置いた。
「お断りします」
「なぜだ。金なら払う。いくらでもいい」
「金額の問題ではありません」
「では何の問題だ」
俺は静かに答えた。
「この店は、誰かを傷つけるために情報を使いません。どんな理由があっても」
男は俺を見た。
計算している目だ。
次の手を探している。
「……では、別の話をしよう」
「どうぞ」
「この店に、評議会が調査に入る可能性がある。商業許可の問題だ。そうなると、営業できなくなるかもしれない」
俺は表情を変えなかった。
「そうですか」
「困るだろう」
「困りますね」
「だから、協力してくれれば、その調査を止めることができる」
「それは」
俺はグラスを手に取った。
「脅しですか」
男が止まった。
「……そんなつもりはない。ただ、現実的な話として」
「わかりました」
俺は穏やかに続けた。
「ただ、一つだけ確認させてください」
「何だ」
「その評議会の調査とやらは、どなたが動かせるんですか」
男の目が、わずかに揺れた。
「……それは」
「商人の方がそういうことを動かせるとは思えないので。評議会の内側に、よほど顔が利く方でないと」
男は口を閉じた。
俺は続けた。
「お名前を聞いていませんでしたね」
「……マルク。レオン・マルクだ」
「マルクさん」
俺は微笑んだ。
「グラスが空になっています。もう一杯、いかがですか」
男は断らなかった。
断れない雰囲気だったからだと思う。
俺はもう一杯、作った。
今度は違う素材を選んだ。
「記録果」――このあたりでは珍しい透明な果物で、食べると直前の体験の記憶が鮮明になる効果がある。
少量の白ワインと、炭酸水で割った。
無色透明の液体だ。
グラスに注ぐと、何も入っていないように見える。
「二杯目です」
俺はグラスをカウンターに置いた。
「さっきより、すっきりした味です」
男はグラスを受け取った。
(SOMA)
――わかってる。記録果の効果で、今夜ここで話した内容の記憶が明日以降も鮮明に残る。
(それだけじゃない)
――そうだ。今夜の会話は全て記録されている。零、お前が今夜この店で聞いたことを、明日ダリウスに渡せる。
(それが今夜の答えだ)
男は二杯目を飲みながら、また話した。
今度は、より具体的な話になった。
評議会の外部委員の名前が出た。
法律事務所の所長の名前が出た。
「この二人が動けば、この店への調査を正式に申請できる」という話が出た。
俺は全部、黙って聞いた。
頷いて、相槌を打って、時々質問した。
「その方は信頼できる人ですか」
「その手続きはどのくらいかかりますか」
男は饒舌になっていた。
宵草の効果で体の緊張がほぐれていた。
二杯目の記録果が、記憶を鮮明にしていた。
俺は何も警告しなかった。
これが今夜の仕事だ。
男が帰る前に、一度だけ本題に戻った。
「最終的に、協力してもらえるか」
「お断りします」
「なぜだ。俺の話を全部聞いておいて」
「話を聞くことと、協力することは別です」
男は俺を見た。
「……この店は、潰れても構わないのか」
俺はグラスを磨きながら、答えた。
「この店が潰れるかどうかは、俺が決めることじゃないです」
「では誰が決める」
「来てくださった方が、決めます」
男は少し間を置いた。
その言葉の意味を、正確には理解しなかっただろう。
「……最後にもう一度だけ聞く。本当に断るのか」
「はい」
男は立ち上がった。
財布を出して、二杯分の代金をカウンターに置いた。
「……美味い酒だったが、残念だ」
「またいつでもどうぞ」
「次はない」
男は帽子を被り直して、扉に向かった。
扉の前で、一度だけ振り返った。
俺を見た。
「お前は、後悔することになる」
俺は微笑んだ。
「それはわかりません。ただ」
一拍置いた。
「今夜の一杯は、本当に美味しかったと思っていただけたなら、それで十分です」
男は何も言わずに、夜の裏路地へ消えた。
扉が閉まった瞬間、厨房からルナが顔を出した。
「……帰った?」
「帰りました」
「なんか、嫌な感じの人だった」
「厨房から感じましたか」
「うん。声が、笑ってるのに目が笑ってないみたいな声だった」
俺は手を止めた。
声だけで、それがわかったのか。
「鋭いですね」
「そう?」
「そうです」
ルナは少し考えてから、また言った。
「おにーさん、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「なんか心配で」
「心配しなくていいです。今夜の話は、全部うまくいきました」
ルナは俺を見た。
「……うまくいったの?断ってたのに?」
「断ったから、うまくいったんです」
ルナはしばらく考えた。
それから、小さく頷いた。
「……よくわかんないけど、おにーさんがそう言うなら」
「ありがとうございます」
ルナは厨房に戻っていった。
深夜、ヴァルドが俺の隣に来た。
「さっきの客。商人じゃなかったな」
「そうですね」
「手が、商人の手じゃない。何かを書き続けてきた人間の手だ」
俺はヴァルドを見た。
「気づいていましたか」
「ただ、お前が何も言わなかったので俺も動かなかった」
「正解です。今夜は動く必要がなかった」
ヴァルドは少し考えてから、言った。
「あの客が帰った後、お前の顔が少しだけ変わった」
「どう変わりましたか」
「安堵、とも違う。……終わった、という顔だ」
俺は小さく笑った。
「鋭いですね」
「長く人を見てきた」
「そうですね」
ヴァルドは定位置に戻りながら、一言だけ言った。
「何かあれば言え。俺はここにいる」
「ありがとうございます」
(SOMA)
――今夜の記録を整理した。
(全部取れたか)
――完璧だ。バルトロが今夜話した内容:
評議会外部委員の名前、法律事務所所長の名前、具体的な調査申請の手続き、そして「証言者の信用を傷つけるよう依頼した」という事実。
全て記録した。
(ダリウスに渡せるか)
――明日の朝、使いを出せ。
「わかった」
俺はカウンターに手をついた。
バルトロは今夜、自分が「うまくやった」と思って帰った。
断られたが、この店が怖がっているとも思っている。
次の手を打つだろう。
でも、遅い。
今夜の話が、来月の審問で全部使われることを、あの男はまだ知らない。
(SOMA)
――一つだけ言っておく。
(なんだ)
――バルトロが今夜飲んだ「宵草」と「記録果」の効果で、今夜の会話の記憶が明日以降も異常に鮮明に残る。本審問で証言台に立った時、今夜ここで何を話したか、バルトロ自身が正確に思い出せる状態になっている。
俺は少し間を置いた。
(それは意図してやったことですか)
――お前が素材を選んだ。俺は効果を教えた。
「……そうですね」
俺はグラスを棚に戻した。
バーテンダーは、酒を出す。
ただ、どの酒を出すかは、バーテンダーが決める。
開店十二日目の夜が、静かに終わっていく。
厨房からは、ノアが明日の仕込みをしている音がした。
二階では、ルナが眠っているだろう。
入口には、ヴァルドがいる。
俺はカウンターを磨いた。
来月、決着がつく。
アリシアが雨の夜に扉を叩いてから、まだ十一日しか経っていない。
≪第9話・了≫
次話――翌朝、BAR ZEROに営業停止の命令書が届いた。差出人の名前を見て、俺は初めて笑った。「ありがとうございます」。ダリウスに使いを出しながら、俺はそう思った。




