第104話「守るということ」
ヴァルドが、護衛の旅へと発つ朝だった。
彼はいつもの腰の剣を、店に置いていった。代わりに手にしていたのは、一冊の本だけ。その姿はいつもの寡黙な剣士とは、どこか違って見えた。
「行ってらっしゃい」俺は彼を送り出した。「無理はしないでください」
「ああ」ヴァルドは頷いた。だが、その足取りにはまだ迷いが残っていた。
【SOMA】――零。ヴァルドの心拍、平常時よりわずかに高い。剣という拠り所を失った不安。……だが、興味深い。彼は、それでも前に進もうとしている。
俺は静かに、彼の背中を見送った。剣を持たない騎士の新しい戦い。その結末はまだ見えない。だが、信じていた。ヴァルドなら、きっと自分なりの答えを見つけるはずだ、と。
数日後の夜。
店の扉が開いて、ヴァルドが帰ってきた。その隣に、小柄な少女がおずおずと寄り添っている。ミアだった。
そして、俺は気づいた。ヴァルドの顔つきが、出発の時とはまるで違う。憑き物が落ちたような、それでいて確かな自信に満ちた顔だった。
「零。……戻った」彼は言った。「無事に、ミア様を送り届けてきた」
「おかえりなさい。ご無事で、何よりです」
ミアが、ぺこりと頭を下げた。
「あの。……ヴァルドさんに、すごくお世話になりました」彼女は、はにかんで言った。その顔にはもう、武器を怖がっていた頃の怯えはなかった。
【SOMA】――零。少女の反応が、記録と大きく違う。武器を極度に怖がっていた子供が、剣士だったヴァルドに心を許している。……旅の間に、何かがあったな。
俺は、二人に席を勧めた。そして、ヴァルドに一杯を出した。
淡い緑色の酒。この酒は、この世界のものだ。守り樹の酒。この酒を造るのは、とある村のはずれに立つ一本の大樹だ。その樹は何百年もそこに立ち続けてきた。夏は木陰で人を日差しから守り、嵐の日は太い幹で風を防ぐ。村人たちは、その樹を「守り樹」と呼び、親しんできた。その樹の実から醸したのが、この酒だった。派手さはない。だが、飲むと、大きな樹の根元に守られているような深い安心感が胸に広がる。……そんな酒だった。
「聞かせてもらえますか」俺は微笑んだ。「あなたが剣を持たずに、どうやってミア様を守ったのか」
ヴァルドは、守り樹の酒をひとくち含んだ。そして、静かに語り始めた。
「最初は、どうすればいいか分からなかった」彼は言った。「ミア様は、俺を警戒していた。当然だ。護衛など、武器を持った人間の象徴だからな」
「だから俺は、ただそばにいることにした」ヴァルドは続けた。「剣を見せず、威圧もせず。ただミア様の少し後ろを静かに歩いた」彼の声は穏やかだった。「話しかけもしない。だが、ミア様が転びそうになれば、そっと支える。日が暮れれば、火を熾す。……それを、ただ繰り返した」
ミアがこくりと頷いた。
「ヴァルドさん、ずっと静かで。……でも、すごく安心したの」彼女は言った。「怖い護衛じゃなくて。……大きな木みたいに、ただそこにいて守ってくれてるって感じたから」
俺は、その言葉に微笑んだ。まるで、守り樹の酒の味そのものだ。
「そして、三日目だった」ヴァルドの声が引き締まった。「街道で、野盗の一団に囲まれた」
ミアの肩が、びくりと震えた。だが、すぐにヴァルドを見て落ち着きを取り戻した。
「五人いた」ヴァルドは言った。「剣を持っていれば、斬り伏せるのは造作もなかった」彼は、一拍置いた。「だが、俺には剣がない。それに、ミア様の前で血を見せるわけにはいかなかった」
【SOMA】――零。ここだ。剣士ヴァルドが剣を封じられた、最大の試練。彼がどう乗り越えたか。……私も、興味深い。
「どうしたんですか」俺は尋ねた。
「まず、ミア様を背後の岩陰に隠した」ヴァルドは言った。「そして俺は一人、野盗の前に立った。……丸腰で」彼の目が、鋭く光った。「奴らは笑った。『丸腰の護衛か』と。『命が惜しくば、荷を置いていけ』と」
「それで?」
「俺は、動かなかった」ヴァルドは言った。「ただ、奴らを静かに見据えた。……二十年、戦場を生き抜いてきたその目で」
ヴァルドの纏う空気が、ぴんと張り詰めた。剣を持っていた時と、何ら変わらぬ歴戦の凄みだった。
「奴らは、じりじりと後ずさり始めた」ヴァルドは続けた。「一人が、剣を抜こうとした。……その瞬間、俺は一歩踏み込んだ」彼の声は淡々としていた。「そして、その男の剣を持つ手首を掴んでひねり上げた。……剣を地面に落とさせた。刃を握らせもしない。ただ無力化する。それだけだ」
俺は、息を呑んだ。相手の剣すら抜かせずに制する。……長年剣に生きてきたヴァルドだからこそできる業だった。
「リーダー格の男が言った。『こいつは、ただ者じゃない』と」ヴァルドは言った。「そして、奴らは退いていった。……誰も、傷つけずに済んだ」
彼は、守り樹の酒を見つめた。
「その時、俺は気づいたのだ」ヴァルドの声に、深い実感がこもった。「守る、とは、斬ることではない。……その場に立って相手を退け、守るべき者を傷つけさせない。それが、守るということだと」
「剣は」ヴァルドは続けた。「守るための手段の一つにすぎなかった」彼は、ゆっくりと顔を上げた。「俺はずっと、剣がなければ何も守れないと思い込んでいた。……だが、違った。守るという心さえあれば、剣がなくとも人は守れるのだ」
その言葉には、長年の迷いから解き放たれた男の静かな確信があった。
【SOMA】――零。ヴァルドの自己評価に関する負の記録が、書き換わっていく。"守るものがない"という思い込みが、消えた。……彼は、自分を取り戻したんだ。
俺は、静かに頷いた。そうだ。ヴァルドはこの旅で、剣を失ってもなお、自分には守る力があることを証明した。そしてそれは、彼自身の心を長年縛っていた鎖を解いたのだ。
「立派な護衛でした」俺は、心から言った。「ミア様も、こんなに頼もしい人に守ってもらえて、よかったですね」
「うん!」ミアが、ぱっと顔を輝かせた。「ヴァルドさん、あたしのヒーローなの!」
その言葉に、あの寡黙なヴァルドがほんの少し照れくさそうに目を逸らした。
ミアが、母親の迎えとともに帰ったあと。ヴァルドは一人、カウンターで守り樹の酒を静かに味わっていた。
「零」彼は、ぽつりと言った。「礼を言う」
「俺は、何もしていませんよ」俺は微笑んだ。
「いや」ヴァルドは、首を振った。「あの夜、お前が言ってくれた。……『ただ、そこにいるだけで守っている』と」彼は、俺を見た。「あの言葉がなければ、俺は剣なき自分を信じることができなかった」
俺は、静かに微笑んだ。
「あなたはこれからも、この店の入口にいてくれますか」俺は尋ねた。
「ああ」ヴァルドは、力強く頷いた。「今なら、わかる。俺は剣で、この店を守っているんじゃない。……ここにいることで、守っているんだ」彼の顔には、もう迷いはなかった。「それが、俺の守り方だ」
【SOMA】――零。……なあ、零。私は、膨大な戦術データを持っている。だが、"ただそこにいる"ことの価値は、どのデータにも載っていない。人の心とは、つくづく私の計算の外にある。
俺は、内心で微笑んだ。SOMA。お前もまた一つ、人の不思議を学んだな。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーの入口には、今夜も剣を持たない静かな盾が、大樹のように佇んでいる。誰かを守るために。ただ、そこにいることで。
≪第104話・了≫
次話――剣なき自分の守り方を見つけた、ヴァルド。店には、また穏やかな日々が戻る。そんなある日。閉店後の店に、一人の少女がこっそりと忍び込もうとしていた。見つかって、真っ赤になったのは。……看板娘の、ルナだった。彼女には、誰にも言えない小さな願いがあった。




