第105話「ないしょの一杯」
その夜、俺は忘れ物を取りに閉店後の店へ戻った。
暗いはずの店内に、ほのかな灯りがともっている。おかしい。誰かいるのか。俺はそっと中をうかがった。
カウンターの中に、小さな人影があった。ルナだ。真剣な顔で、何かをかき混ぜている。グラスや果実や瓶が、所狭しと並んでいた。
「ルナ?」
俺が声をかけると、ルナは飛び上がった。手にしていたグラスを、慌てて背中に隠す。その顔が、みるみる真っ赤になった。
「お、おにーさん! ど、どうして!」
「忘れ物を取りに来たんです」俺は微笑んだ。「あなたこそ、こんな時間に何を?」
「な、なんでもない!」ルナは、ぶんぶんと首を振った。「なんでも、ないの!」
【SOMA】――零。カウンターの状況を分析した。果実の搾りかす、複数のグラス、混合の痕跡。彼女は何かの飲み物を、繰り返し試作している。……これは、練習だ。
俺はSOMAの分析を聞きながら、ルナを見た。彼女は隠しきれない何かを抱えて、もじもじしている。
無理に問いただすのは、野暮というものだ。俺は優しく声をかけた。
「片付けは、手伝いますよ」
「だ、だめ!」ルナは、必死に俺を止めた。「見ちゃ、だめ! これは……ないしょ、なの」
「ないしょ、ですか」
「うん」ルナはうつむいた。その頬は、まだ赤い。「もうちょっとで、できそうなの。だから……あとちょっとだけ、ないしょにさせて」
俺はしばらく考えた。そして、頷いた。
「わかりました。では、俺は何も見なかったことにします」俺は背を向けた。「ただ、一つだけ。……もし手伝いが必要になったら、いつでも言ってください」
ルナの顔が、ぱっと明るくなった。
「うん! ありがと、おにーさん!」
俺は店を出た。だが、胸の中には温かい疑問が残っていた。あの子は、何を作ろうとしているのだろう。
【SOMA】――零。推論を述べていいか。彼女が試作していたのは、果実を主体とした酒精を含まない飲み物だ。つまり、ノンアルコール。……子供の彼女が飲むためではない。誰か特定の相手に、飲ませるためのものだ。
「特定の相手?」俺は内心で問い返した。
【SOMA】――零。この店で、酒を飲まない人物が一人いる。……お前だ、零。
俺は、はっとした。
そうだ。俺は下戸だ。この世界に来てから、いつも乾杯は水でしてきた。バーテンダーでありながら、自分の店の酒を一度も飲めない。ルナはそれを、ずっとそばで見てきた。
まさか、あの子は。
【SOMA】――零。断定はできない。だが、可能性は高い。彼女はお前のために、お前が飲める一杯を作ろうとしているのかもしれない。
俺は言葉を失った。胸の奥が、じんと熱くなる。あの小さな手が。俺のために。何度も失敗を繰り返しながら。
翌日から、俺は気づかないふりを続けた。
ルナは昼間、いつも通り明るく店を手伝っている。だが時々、真剣な顔で何かを考え込んでいた。厨房のノアに、こっそり果実のことを聞いたり。二階のアリシアに、何かの相談をしたり。
【SOMA】――零。ルナの行動を記録している。ノアには果実の甘みについて。アリシアには、香りを引き出す方法について。彼女は店の仲間を頼りながら、試行錯誤を続けている。
「みんな、協力しているんですね」俺は微笑んだ。
【SOMA】――零。興味深い。ノアもアリシアも、ルナの"ないしょ"をお前に漏らさない。全員が、彼女の想いを守っている。
俺は胸が温かくなった。この店のみんなが、ルナの小さな願いをそっと応援している。その光景は、それだけで、もう十分すぎるほど幸せなものだった。
コハクが、俺の肩で小さく鳴いた。
《おにいさん。ルナ、いっしょうけんめい。……あまくて、やさしい、においがするよ》
俺はそっと微笑んだ。コハクにも、ルナの想いが届いているのだろう。
そして数日が過ぎた、ある夜のことだった。
閉店後の店に、ルナが俺を呼びに来た。その顔は、緊張と期待で赤くなっている。両手には、一枚のお盆を持っていた。
「おにーさん」ルナは、消え入りそうな声で言った。「あのね。……できたの」
お盆の上に、一つのグラスがあった。淡い桃色の飲み物が、注がれている。果実の優しい香りが、ふわりと漂った。
「これ……ルナが?」
「うん」ルナは、こくりと頷いた。その手は、かすかに震えていた。「おにーさん、いつもお水でかんぱいするでしょ。だから……」
彼女はまっすぐに、俺を見上げた。その瞳はまっすぐで、まぶしかった。
「おにーさんにも。おいしい一杯を、飲んでほしくて」
俺は、言葉が出なかった。
このグラスの一杯のために。あの子は、どれだけの時間を費やしたのだろう。何度、失敗しただろう。仲間に頭を下げて、教わっただろう。……すべては、下戸の俺が飲めるように、と。
「いただいても、いいですか」俺は、震える声で言った。
「うん!」
俺はグラスを手に取った。そっと、口に運ぶ。
その瞬間、優しい甘さが口いっぱいに広がった。果実の、みずみずしい味。ほんのりとした酸味。そして、その奥に。何か、温かくてまっすぐな。……ルナの心そのものの味がした。
「……おいしい」俺は呟いた。気づけば、目に涙が滲んでいた。「すごく、おいしいです。ルナ。……こんなにおいしい一杯は、初めてです」
ルナの顔が、くしゃくしゃになった。
「ほんと? ほんとに?」
「ええ、本当です」俺は頷いた。「ありがとう。……俺のために、こんな一杯を」
【SOMA】――零。……なあ、零。私はこの一杯の成分を分析できる。糖度も、酸度も、香気成分も。だが。この一杯がなぜこんなにも、お前の心を震わせるのか。その答えだけは、どの数値にも出てこない。
俺は内心で微笑んだ。そうだ、SOMA。この味は、データには決して表せない。ただ一つ、確かなことがある。これは、世界でいちばん優しい一杯だ。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーで。今夜は、俺が一杯の酒に救われる番だった。小さな、優しい看板娘の手から。
≪第105話・了≫
次話――ルナが贈ってくれた、世界で一番優しい一杯。その味に、俺は救われた。だが、ルナには、この一杯を作ろうとした、もう一つの理由があった。それは、彼女がずっと胸の中にしまってきた小さな決意に繋がっていた。




