逆鱗③
嫌な予感に背を押され、私たちは急いで本邸の屋敷へと向かった。
だが、屋敷は妙なほど静まり返っていた。
門を抜け、中へ足を踏み入れると、目の前にはいつもと変わらぬ広大な庭が広がっている。
……はずだった。
だが、そこにいるはずの庭師も、メイドも、誰一人として姿がない。
本来、この屋敷には百人以上の使用人と騎士がいる。それなのに人の気配が、まるで感じられなかった。
「……誰も、いない?」
「これって、どういうこと……?」
私たちは顔を見合わせ、小さく頷くと、警戒しながら屋敷へと進む。
そして扉を開けた。
すると、目に飛び込んできたのは、公爵家の使用人や騎士たちが、床に倒れ伏している光景だった。
「――っ」
私は思わず息を呑む。
そしてその中に、見覚えのある顔を見つける。
「ディル⁉」
私は倒れているディルに駆け寄り、肩を掴んで揺さぶる。
だが反応はない。
「も、もしかして……死んでるの?」
アリサの言葉に私は慌ててディルの口元に耳を近づけた。
……かすかに、呼吸の音が聞こえる。
「……大丈夫。生きてる。ただ眠ってるだけみたい。」
その言葉に、場の空気がわずかに緩む。
しかし、何度強く揺すっても、ディルが目を覚ますことはなかった。
それほど深く眠っているみたいだ。
おそらくこれは、『ローズエンペラー』のラスボスである魔王が使っていた、昏睡の魔法。
つまり、これは、お嬢様の仕業だ。
異変を察した私たちは、急いで屋敷の中へと駆け込んだ。
扉を開け、部屋を一つ一つ確認していく。
どの部屋にも、人はいるが、誰も起きていない。
一階を確認し終えると、私たちはそのまま二階へ向かう。
まずはお嬢様が勉強しているはずの部屋も覗いたが、そこには誰もいない。
そして次に夫人の部屋へと向かうと扉を開けたその瞬間、私たちは、言葉を失った。
その部屋では他と同じようにエリスや使用人たちが、床に倒れ込むように眠っており、部屋の中心には魔王の力を開放して、黒い靄を纏いマライヤ夫人を持ち上げているお嬢様の姿があった。
「お嬢様!」
私たちの声に反応するようにお嬢様と夫人がこちらを向く。
「あなた達、無事だったのね。」
そしてお嬢様は私たちの姿を確認すると、ほっとしたように表情を緩めた。
だが、すぐにその視線は再び夫人へ向けられる。
「ちょっと、待っていてちょうだい。今、こいつを殺すから」
その言葉と同時に、闇の力がさらに膨れ上がる。
宙に吊られた夫人の顔が、みるみる絶望に染まっていった。
「あ、あんた達! た、助け……」
掠れた声で、必死に手を伸ばしてくる。
……このままでは、本当に殺される。
私はアリサとカリーナは慌てて、その暴走を止めに入った。
「お嬢様! 私たちは全員無事です、ですから――いったん落ち着きましょう!」
「あら? 私は十分落ち着いているけれど?」
「殺してしまえば、もうのんびり暮らせなくなりますよ!」
「大丈夫よ。屋敷の人間はこいつ以外、全員眠らせているもの。賊に襲われたことにすればいいわ。」
私たちはどうにか宥めようと、説得を試みるがお嬢様は意に介した様子もない。
その間にも、宙に吊られた夫人の顔から血の気が引いていく。
息は浅く、今にも途切れそうだった。
どうしよう?
焦りだけが募り、言葉がうまく出てこない。
何か、決定的な一言を――
慌てふためきながらそう考えていると、
そんな私たちの様子を見て、お嬢様が、呆れたように小さく息を吐いた。
「……わかったわよ。」
お嬢様の言葉と共に夫人を持ち上げていた黒い靄が霧散し、夫人の身体が力なく床へと落ちる。
それを見て、私たちは二人の元へ駆け寄った。
「まったく……そんな顔を見せられたら、興が削がれるじゃない。」
そう言って、お嬢様は呆れつつも、口元に僅かな笑みを浮かべる。
その表情は、いつものお嬢様だった。
「ハァ……ハァ……っ、く……こ、こんなことをして、ただで済むと思わないことね……!」
解放された夫人は息も絶え絶えになりながら、それでもお嬢様を睨みつける。
「主人が帰ったら、すぐに報告するわ……! そうしたら、あなたは――」
「……どうして、お前はそこまで愚かなのかしら。」
お嬢様の声が、すっと冷えた。
「もういっそ、“殺して”と懇願するまで痛めつけてあげようかしら?」
「ひっ――⁉」
あー、ダメダメ!
この夫人はなんでこんなにバカなのか。
せっかく収まりかけていたのに、再びお嬢様から殺気が溢れ出してくる。
これ以上夫人に喋らせたら、本当にお嬢様が殺してしまう。
そう判断した、私は迷わず夫人の後頭部を殴りつけた。
「――グゲっ」
夫人は短い呻き声を漏らし、そのまま力なく崩れ落ちる。
「これで、良し。」
夫人が気絶したのを確認すると、私は一つ息を吐いた。
「あら、やるじゃない。」
私の行動に、お嬢様は一瞬だけ意外そうに目を見開いた。
だがすぐに、楽しげに口元を緩める。
「改めて、あなた達、全員無事ね?」
「はい。」
短く答えると、お嬢様は小さく頷いた。
「そう。」
その一言は、どこか安堵を含んでいた。
そして次の瞬間――
小さな体が、すっと近づく。
気づいたときには、私たちの背に腕が回されぎゅっと、抱きしめられる。
先ほどまで人を殺しかねなかったその腕は、今は驚くほど優しかった。
「お嬢様……」
「ごめんなさい。私の落ち度だわ。」
その声は、ひどく静かだった。
「こいつがあなた達に敵意を向けることくらい、容易に想像できたはずなのに……また、同じ過ちを犯すところだったわ。」
ぎゅっと、抱きしめる腕にわずかに力がこもる。
その表情は、初めて見るものだった。
いつもの余裕も、冷酷さもない。
ただ、ぽっかりと穴が空いたような、寂しげな顔。
お嬢様は確か前世で、王位継承争いで兄の刺客に襲われて母や、乳母といった身近な人を殺されている。
ゲームでは軽く語られた程度だったけど、実際はもっと壮絶な状況だったのかもしれない。
私はそっと、その腕から抜け出す。
そして、真正面からお嬢様を見つめた。
「お嬢様、ありがとうございます。」
「……え?」
驚いたように目を瞬かせるお嬢様に、私は深く頭を下げた。
「今回、私たちはお嬢様に鍛えていただいたおかげで助かりました。もし、ただの使用人のままだったら……きっと、何もできずに捕まっていたと思います。」
「でも、あなた達が襲われた原因は私にあって――」
「いいえ、それは違いますよ。」
その言葉をアリサが遮った。
「賊や暴漢に襲われるなんて、珍しいことじゃありません。冒険者をやっていれば……嫌でも分かるでしょう?」
「それに私たちみたいな身分の低い者は、そういう目に遭っても、誰も助けてくれないことの方が多いんです。だからこそ、自分で身を守れる力があるって……すごくありがたいことなんですよ。」
続いて、カリーナも告げる。
「あなた達……」
そのとき、お嬢様の瞳が、わずかに揺れた……気がした。
そう見えたが瞬きを一つしただけで、それは跡形もなく消えたので実際どうだったかはわからない。
そして気づけばいつもの力強い眼差しに戻っていた。
「そう。なら、これからもっと鍛えなくてはね。」
「いえ、それ以上はもう結構です――」
「駄目よ。こんな世界なんだから、一人で一小隊くらいは潰せるようになってもらわないと。」
カリーナが肩を落とし、露骨に顔をしかめる。
思わず、アリサも小さく笑みを漏らした。
先ほどまでの張り詰めた空気が、少しだけ緩むとお嬢様はふと、その場にしゃがみ込んだ。
そして、気を失っている夫人の顔へと、そっと手を伸ばす。
すると黒い靄が、夫人の顔から滲み出るように広がった。
「お嬢様、それは何を……」
「安心しなさい。幻覚魔法と闇魔法の応用で一部の記憶を消しているだけよ。ここにいる者たちには、今日一日の記憶を忘れてもらうわ。」
そして、ふっと微笑む。
「――まあ、恐怖までは消せないでしょうけどね。」
その言葉には、わずかな愉悦が滲んでいた。
お嬢様は、眠る夫人の耳元へと顔を寄せる。
「いい?私に危害を加えようとするのは構わないわ。でも、私の“大切なもの”に手を出すのなら……
殺すわよ。」
その声が落ちた瞬間、眠っているはずの夫人の身体が、びくりと跳ねた。
その後、目を覚ました屋敷の者たちは、この日の出来事を綺麗に忘れ去っていた。
だがそれ以降。誰一人として、私たちに干渉しようとする者はいなくなった。




