#09 深夜の囁き
午前二時。救命センターのモニターは休日の都心並みに騒がしい波形を写していたが、ナースステーションだけは異様に静かだった。
白石あかりは椅子に浅く腰掛け、カップ麺の湯が戻るのを待ちながら眠気と戦っていた。目の下に貼った冷却シートがひんやりする。ふと視線を上げると、曲がり角の向こうに紫色の瞳が一瞬だけ光った。
「黒瀬さん?」
呼びかけに応える声はない。気のせいだったのだろうか——そんなはずはない。玲奈は確かにさっきまでここにいた。
お湯のタイマーが鳴る。ふたを開けると同時に、背後からさらに静かな声が落ちてきた。
「——今日はカレー味なんですね」
振り向くと玲奈が立っていた。手に持つ懐中電灯の光が床だけを照らし、彼女の顔は陰に沈んでいる。
「びっくりしたぁ……。夜勤って、ほんと心臓に悪いね」
あかりが笑うと、玲奈は小さく首をかしげた。
「それでも白石さんは、夜のほうが似合います」
「え? どういう意味?」
返事の代わりに、玲奈はそっと差し出した封筒を机に置いた。白い封筒の端には——あの“花マーク”。
「誰かが落としたんじゃ……」
「違います。あなた宛てです。開けてみてください」
胸の奥がざわついた。湯気の中、カレーの匂いが突然遠のく。あかりは封筒を開いた。中から滑り落ちた写真。病棟の廊下に俯せで倒れる男性の背中。見覚えのある後ろ姿——安藤拓真ナース。
「た、拓真くん? これ、いつ——」
玲奈は微笑んだ。その唇だけが、非常灯の緑に濡れている。
「心配しなくても、まだ生きています。でもどうしますか? あなたが『助けて』と言えば、私が処置をして差し上げます」
「何を言って……! どうしてあなたが——」
カップ麺のふたがしゅるりと捲れ落ち、湯気が真上へ逃げた。
「ねえ、白石さん。あなたが選ぶべきは、私でしょう?」
鼓動が頭の後ろで鳴り始める。カレーの匂いはもうしない。ナースステーションを包む消毒液のにおいが、やけに甘く思えた。
玲奈の指先がそっと頬に触れた。
「逃げないで、白石さん。――私だけを見て」
次の瞬間、病棟警報灯がけたたましく点滅した。




