#08 ナースステーションのカフェイン騒動
夜勤の山場を越え、時計は深夜二時を示していた。救命センターの廊下は消灯モード、非常灯が床を淡く照らすだけだ。白石あかりはカルテを書き終えると、両腕を思いきり伸ばす。
「ふぁぁ……眠気の波が来る。コーヒー淹れてきますね」
隣の席で点滴記録を入力していた黒瀬玲奈が、ほとんど瞬きしない瞳をあかりに向けた。
「白石さん、カフェインの過剰摂取は不整脈を招きます」
「だ、大丈夫です、ドリップ一杯だけ!」
そう言い残し、あかりはナースステーション奥のミニキッチンへ向かう。豆を計量しながら鼻歌を漏らしていると、背後からひょっこり顔を出したのは整形外科の若手医師・霧島拓真だった。
「おっ、いい香り。僕も一杯いただける?」
「あ、霧島先生! どうぞどうぞ」
あかりがカップを差し出すと、霧島は何故か目を潤ませる。
「白石さんが淹れてくれたコーヒー……それだけで当直がご褒美だ」
「先生、大げさですよ」
カップを受け取った霧島は、くいっと小首を傾け――
「……んっ、熱いのがいい」
熱い? いや、それは温度の話ではなさそうだ。あかりが苦笑を浮かべた瞬間、ミニキッチンの入り口で気配が止まる。振り向けば、懐中電灯を胸元に当てた玲奈が無表情で立っていた。
「霧島先生、医局で処置オーダーが滞っていると連絡が来ています」
「え? 今?」
「はい。至急、とのことです」
玲奈の静かな声は、しかし拒絶を許さない冷たさを帯びていた。霧島は嬉しそうな顔のまま「あ、はいっ」と返事し、そそくさと退室していく。
扉が閉まると、キッチンにはあかりと玲奈だけ。灯りは電球色で、カップから湯気が立ちのぼる。
「……ありがとうございました、黒瀬さん。霧島先生、ああいうところあるから」
あかりが笑って礼を言うと、玲奈はほんのわずか視線をそらし、白衣の袖口を整えた。
「いえ。白石さんに不要な負担をかけさせたくないだけです」
その声音は穏やかだが氷の膜が張りついている。あかりは少し戸惑いながらも、スティックシュガーを探して棚を開けた。
「お砂糖……あれ、いつもここに──」
「甘味は眠気を増強します」
「でもブラックだと苦くて眠気が……」
「私が――」
玲奈が言いかけ、ふと口を閉ざす。かわりに引き出しの奥から、小さな白い封筒を取りだした。
「これを。カフェイン飴です。血糖を急に上げず、覚醒を保てます」
そう言って差し出された封筒には、あかりがどこかで見覚えのある小さな白い花のシールが貼ってあった。
「花……? かわいいシールですね」
「ええ、白石さんに似合うと思って」
玲奈は微笑む。紫の瞳がわずかに細まり、電球色の光の中でガラス玉のように光った。
あかりは胸の奥がわずかにざわめくのを感じながら、それでも礼を述べて封筒を受け取る。まだ知らない。これが、夜の病棟をめぐる新たな“印”であることを──。




