#07 玲奈とコーヒー差し入れ
終業のチャイムが鳴ったのは二十三時。外来フロアが静まり返ると、夜勤の白石あかりはエレベーターに乗り込んだ。コートを羽織る暇もなく、点滴カートを押して救命センターへ向かう――それが月曜深夜のルーティンだ。
ナースステーションは蛍光灯の白だけがやけに眩しい。コーヒーメーカーの横に、紙カップが二つ、湯気を立てて置かれていた。
「……こんな時間に?」
首を傾げるあかりの背後から、ひそやかな声。
「白石さん、お疲れさま。」
黒瀬玲奈が現れた。無表情のまま、手には新しい紙カップ。
「あ、ありがとうございます! でも、こんなに沢山……?」
机上には三つ目のコーヒーが並ぶ。
「眠気覚まし。今日の急患はまだ来ていないから、今のうちに糖分を取っておいた方がいい。」
「玲奈さんも飲みます?」
「私はもう頂きました。」
玲奈はそう言うと、一歩引いて壁際へ寄った。あかりが口をつける瞬間を、紫の瞳がじっと見ている。
(何となく……視線が熱い?)
甘さ控えめのブラックだ。あかりが口角をほころばせたそのとき、カートの上でバインダーがすべり落ちた。
ガシャン、と派手な音。床に散らばる患者カード。
「あわっ……!」
「危ない。」
玲奈が屈み、カードを丁寧に拾い集める。指が触れた。冷たい。
「あ、ごめんなさい……。」
「いいえ。こういう時のために私がいる。」
玲奈はカード束をそっと揃えると、最後に一枚だけ抜き取った。桜色の付箋が貼ってあり、そこに――小さな白い花のシール。
あかりは眉をひそめた。
「こんな付箋、貼った覚えないけど……。」
「誰かの悪戯かもしれませんね。」
玲奈の声は、なぜかほんのわずかに弾んで聞こえた。
その瞬間、救急搬送用の自動ドアが開いた。ストレッチャーの金属音。
「外傷患者です! 道路交通事故!」
救命医の怒号が駆け抜け、あかりは一気に業務モードへ。
「はい、31番ベッド空いてます!」
玲奈が応じてダッシュする。二人が並んで走る廊下、非常灯が赤く瞬いた。
コーヒーメーカーの横には、三つ目のカップが取り残されたままだった。湯気はもう、昇らない。
搬入されたのは若い男性。頭部擦過傷に胸部打撲、意識レベルJCS1。
「あかりさん、バイタル!」
「BP104/70、HR112、SpO298です!」
玲奈は静脈路確保を終えると、あかりの肩に軽く触れた。
「心配ない。白石さんの手は正確だから。」
その囁きは、患者を励ますより自分自身に言い聞かせているようで、あかりは胸の奥がくすぐったくなる。
一段落し時計を見ると、もう午前一時を回っていた。戻ったナースステーションに、紙カップは四つ目が増えていた。
「あれ、誰か飲んだのかな……?」
しかしフタは未開封。タグシールには《白石》と手書き。
(いつ入れたんだろ……?)
カップの横で、一枚のメモ用紙が風に揺れた。
『白石さんへ――夜は長い。どうか、立ち止まらないで』
走り書きの最後に、またしても白い花の小さなシール。
「……だれ?」
背後を振り返る。廊下は闇。
その奥に一瞬、紫の瞳が光った気がした。
その夜、救命センターはそれ以上の急患を迎えることはなかった。
明け方四時、椅子に身体を預けたあかりのまぶたが落ちかけたとき、玲奈がそっとブランケットを肩に掛けた。
「起きてください、白石さん。仮眠室の方が楽ですよ。」
あかりは半分眠った声で笑った。
「ありがとう……でも、玲奈さんも休んで……」
「私は平気。白石さんが無防備だと、何が起こるか分かりませんから。」
微笑みとともに、紫の瞳が細められる。
その底に揺れる光を、あかりは眠気に霞んだ視界で見落とした。
紙カップのコーヒーはまだ熱い。
湯気の向こう、白い花のシールが静かに滲んでいた。




