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#03 花の刻印

 救命センターの夜勤が明けた午前五時三十分。白石あかりは仮眠室の硬い簡易ベッドで目を覚ました。首筋にまとわりつく汗をぬぐい、ロッカーへ戻ろうと廊下に出ると、粘ついた緊張が空気を満たしている。ICU から心電アラームの連続音――“ピー、ピー”――が規則正しく鳴り続けていた。


「エンドレスモードだね……」


 ぼそりとつぶやいたのは、夜勤を共にした同期ナースの三宅ゆか。彼女は紙コップのコーヒーを両手で包み込みながら、眠そうに半眼でモニター室の方角を睨んでいる。


「誰のベッド?」あかりが尋ねると、ゆかは肩をすくめた。「例の交通外傷の患者さん。花のメモと一緒に運ばれて来た人」


 胸がかすかにざわめく。花のメモ――あかり自身が拾った、例の白い花のシンボルを思い出した。運ばれてきた男性患者の私物ポーチにも同じ花マークが貼られていたという話を、夕方の申し送りで聞いたばかりだ。


 そこへ紫の瞳がひらひらと揺れる。黒瀬玲奈が、ICU から出てくる医師とすれ違い様に軽く会釈し、あかりたちへ近づいて来た。白衣は乱れなく整えられているが、袖口に茶色く乾いた血痕がかすかに付着している。


「白石さん、お疲れさまです。仮眠は取れましたか?」


「うん、ちょっとだけ。そっちこそ平気? ICU だいぶバタついてたでしょ」


「一時停止しました。いまは安定しています」


 玲奈は決して “大丈夫” と言わない。いつもの冷静な言葉選びに、あかりはかえって不安を覚える。それでも笑おうとして、ポケットを探った途端――指先に硬い紙片が触れた。


(え……? さっきは何も入ってなかったはず)


 取り出してみると、名刺大のメモ用紙。中央には、くっきりと白い花のスタンプが押されている。心臓が嫌なリズムを刻んだ。


「どうしたんですか?」玲奈の声が静かに落ちてくる。


「あ……また、これ。誰が入れたんだろ」


 ゆかが紙コップを傾けながら顔を寄せた。「あかり、人気者~。っていうか不気味だよね、その花」


「患者さん宛じゃない? 返しておきなよ、念のため」


 ――返す? 誰に? 手が震える。病棟の安堵を壊すように、遠くで再び心電アラームが鳴った。


 


◆ ◆ ◆


 午前七時。日勤チームとの引き継ぎを終え、ナースステーションのガラス越しに ICU を見やると、酸素マスクを装着した例の交通外傷患者のモニター波形は槍のように突き刺さるピークを描いていた。不整脈。眼を閉じたままの患者の手首には、昨日は無かった白い紙テープが巻かれている。そこにもまた “花”。


 手首テープは通常、術前マーキングや血液型記載に使われるが、落書きは禁止のはず――。


 ガラスに映る自分の表情を見つめたまま、あかりは背後の気配に気づく。振り向けば、玲奈が備品棚の前で注射器トレイを整えていた。整列したシリンジの銀色の針先が、早朝の青白い光を吸い込んで艶めく。


 ――この人は、何を考えているんだろう。


 玲奈の横顔は穏やかで、どこにも乱れは無い。ただ、あかりが握り締める花マークのメモに視線が触れた瞬間、ほんの一拍――針先より鋭い光が瞳に走った。


「そのメモ、預かっておきますね。追跡が必要ですから」


 玲奈は手袋をはめたまま、自然な仕草であかりの手から紙片を受け取る。柔らかな力は拒めないほど優しかった。


 ――ドクン。


 心電アラームが再び鳴った。患者ではなく、あかり自身の鼓動が耳の奥で跳ねた気がした。


 


◆ ◆ ◆


 夕方。仮眠を終えた霧島医師が、カフェテリアであかりの向かいの席に腰を下ろす。


「夜勤、ハードだったね。……ところで白石さん、この前の話、覚えてる?」


 あかりは紙コップを両手で包んだまま目を泳がせた。霧島のネームプレートの下、胸ポケットには茎の折れた白い造花が差し込まれている。誰が、いつ。


 背後の自動ドアが開き、足音が止まった。振り向かずとも、紫の瞳がこちらを見ているのがわかる。


 ――花は、いつ誰の手に渡った?


 薄暗い病院の午後、揺れるLED灯の下で、花と血の気配が絡み始めていた。

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