#02 孫と結婚して
外来フロアが昼休みに入り、ざわめきが少し遠のいた。受付横のベンチで、白石あかりはカルテの山を小脇に抱え、深く息をつく。
「白石さん、いたいた!」
甲高い声に振り向くと、先週退院したばかりの元気印の患者、森本トシエ(七十八)が車椅子を自走して突進してくる。付き添いの孫娘が慌ててブレーキをかけた。
「森本さん!? 今日は定期検査まだ先のはずじゃ…」
「孫の付き添いで来たんだけどね、どうしてもアンタにこれ渡したくて」
トシエは花柄のポーチから色とりどりの折り紙を取り出し、パッと開く。中央に“孫の携帯番号”と太いサインペンで書かれている。
「ね、ウチの悠真。東大医学部卒で今は医局の秘蔵っ子! アンタみたいに優しい子と結婚したら幸せ間違いなし!」
あかりは顔を真っ赤にし、カルテを取り落とした。
「け、結婚て…わ、わたし仕事が…! それに森本さんのお孫さんとは面識も…」
「ほら、写真!」
スマホ画面に映った青年医師は爽やかな笑顔。だが画面の端に一瞬、紫の瞳が映りこんだ。
黒瀬玲奈。夜勤明けの白衣姿で、遠巻きにこちらを見ている。
「あ…」
あかりが声を漏らす間もなく、玲奈は歩み寄り、森本の車椅子ハンドルをそっと押さえた。
「森本さん、検査結果を確認なさるためにこちらへどうぞ」
氷砂糖のように透明な声。トシエは頬を緩めた。
「まあ、綺麗なお嬢さん! あなたも孫と結婚――」
「生憎、私は仕事一筋です」
玲奈は微笑の形を保ったまま、視線だけであかりに“行きましょう”と合図した。あかりは慌ててカルテを掴み直し、深く頭を下げる。
「森本さん、また検査でお会いしましょう!」
ベンチを離れた瞬間、ポーチから落ちた折り紙が足元で弾んだ。玲奈が拾い上げ、何気なく開く。
そこには先ほどの携帯番号はなく、代わりに白い花のマークが一輪、黒インクで描かれていた。
玲奈のまつげがかすかに震える。
「あかりさん、ポケットのペン…また落ちそうです」
「あ、ありがとう…」
照れ笑いするあかりの背後で、玲奈は折り紙を静かに二つ折りにした。
その指先は、ほんの一瞬だけ強く紙を押ししごいていた――紙の繊維が、細い悲鳴をあげるのをかき消すかのように。
夕方。トシエが帰宅した後、院内カフェであかりは同僚たちに冷やかされまくる。
「お嫁さん候補だって? やるじゃん!」
「いやいや! ただのおばあちゃんの世間話だってば!」
笑い合う背中。だがテーブルの上に置かれた紙コップのスリーブに、いつの間にか白い花のシールが貼られていることに、あかりはまだ気づいていなかった。
その夜。帰宅支度をする更衣室で、あかりは白衣のポケットから折り紙を発見する。
「え…持ってきちゃってた?」
広げると花マークの下に走り書き。「白い花は、あなたに似合う」――署名はない。だが筆跡は玲奈のカルテ記入とよく似ていた。
胸がちくりと疼く。尊敬する先輩が自分に花を? それとも、これは森本家のジョーク…?
考え込むあかりの背後でロッカー扉がきぃ、と開く。
「白石さん、残業ですか?」
玲奈だった。いつもの無表情。しかし非常灯だけの薄暗い更衣室で見るその顔は、人形のように整っていて、どこか現実離れしている。
「折り紙、綺麗ですね」
「あっ…これ、その…森本さんが…」
「大切にするといいですよ。その花は――守り札ですから」
玲奈はそう告げると、代わりにロッカーの鍵を回し閉めてくれた。カチリ。音が体の奥に響き、あかりは訳もなく心拍が上がる。
守り札? なぜそんな言い方を――。
問い返そうとしたとき、玲奈は既に更衣室の扉を出ていた。白衣の背中が非常灯の薄緑に溶ける直前、彼女は振り向き、唇だけで何かを結ぶ。
お や す み な さ い
声なき挨拶。途端に背筋がぞわりと粟立った。
――白い花は、あなたに似合う。
あかりの手の中で折り紙がさらりと音を立てた。その花はどこか、救急外来でしばしば見る“死亡確認”の用紙に押された刻印にも似ている気がしたのだ。
翌朝。院内メールに一斉送信で届いた休憩室掃除当番表――
“白石あかり/黒瀬玲奈” の二人ペアに赤文字で上書きされた訂正版が添付されていた。
「私、外来なのに救命の休憩室!?」
「シフトミスだよ、きっと」と同僚は笑うが、あかりの胸はざわつく。
そのメールのCC欄には、整形外科の霧島悠真のアドレスが並んでいた。彼がこの訂正をしたのか? それとも…。
モニターの奥で、赤い“変更者ID:K_REINA”が瞬くのを、あかりはまだ知らない。
白い花と薄氷の視線は、じわじわと彼女の日常を締めつけ始めていた――。




