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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第9話 私宛ての手紙を、父は隠していました

 便箋の上に、亡き王妃エレオノーラの文字が残っていた。


 線は細く、ところどころ筆圧が弱い。病の床で書かれたものだと、見ただけで分かる。それでも一字一字は乱れていなかった。あの方らしい、最後まで背筋を伸ばしたような文字だった。


 セレスティアは、最初の一文を何度も読み返した。


『セレスティア。あなたを王太子妃候補の座から解き、王宮監査官として独立させる準備を始めました』


 部屋の中は静まり返っていた。


 宰相府の小会議室。

 窓の外は夕暮れで、王宮の白い壁が赤く染まっている。机の上には、彼女の部屋から保全された三通の封書が並んでいた。


 そのうち一通だけが、開封されていた。


 誰かが読んだ。

 そして、セレスティアに渡さなかった。


 それは、まだ疑いではある。

 しかし、彼女の胸の中では、すでに答えが出ていた。


 父だ。


 少なくとも、父は知っていた。

 王妃がセレスティアを王太子妃候補から解き、独立した立場へ移そうとしていたことを。


 だから隠した。


 セレスティアが公爵家の道具ではなくなるから。

 王太子の婚約者という立場から外れれば、公爵家が使っていた信用も、署名も、王宮との繋がりも弱くなるから。


 彼女の未来は、一通の手紙ごと閉じ込められた。


「読めるか」


 カインの声が、静かに落ちてきた。


 セレスティアは便箋を持つ指に力が入りそうになるのを抑えた。


「読みます」


 声は震えていなかった。


 震えなかったことが、自分でも少し怖かった。


 彼女は続きを読んだ。


『あなたは王太子妃になるために、多くを学び、多くを耐えてきました。けれど、私はあなたを見るたびに思うのです。あなたの力は、誰かの隣で黙って微笑むためだけに使われるべきではありません』


 胸の奥に、古い痛みが広がった。


 王妃は知っていた。


 セレスティアが何を耐えていたのか。

 どこで笑えずにいたのか。

 なぜ王太子の隣で、少しずつ言葉を飲み込むようになっていったのか。


『ジュリアスは、民の前に立つ華を持っています。けれど、華だけでは国は支えられません。あの子には、支えられているものの重さを知る時間が必要です』


 セレスティアは息を呑んだ。


 ジュリアスの名があった。


 王妃は、自分の息子である王太子の欠点を見抜いていた。


『あなたが隣にいれば、ジュリアスは自分の不足に気づかないでしょう。あなたが整え、あなたが補い、あなたが先回りするほど、あの子はそれを自分の力だと錯覚してしまう』


 あまりにも正確だった。


 まるで、今の王太子府の混乱を見ているかのようだった。


 セレスティアは、一度だけ目を閉じた。


 そうだ。


 自分は支えていた。

 けれど、それは同時に、ジュリアスから学ぶ機会を奪っていたのかもしれない。


 いや。


 違う。


 そう考えてしまうところが、自分の悪い癖なのだとセレスティアは気づいた。


 ジュリアスが学ばなかった責任まで、自分が背負う必要はない。


 彼には学ぶ機会があった。

 尋ねる機会も、知ろうとする機会も、感謝する機会もあった。


 それを選ばなかったのは、彼自身だ。


 セレスティアは、もう一度便箋へ視線を落とす。


『私は、あなたを王宮監査官として独立させるつもりです。王妃基金、地方救済費、慈善事業、王宮会計の一部を監査する権限を、あなた個人に与えます。これは王太子妃になるための準備ではありません。あなたが、あなたの名で立つための準備です』


 あなたの名で立つ。


 その言葉を読んだ瞬間、セレスティアの胸の奥に、何かが音を立てて崩れた。


 それは悲しみではなかった。


 もっと苦いものだった。


 悔しさ。


 もしこの手紙を、その時に読んでいたら。


 自分は、どんな顔をしただろう。


 王太子妃候補の座から解かれることに戸惑ったかもしれない。

 父に怒られることを恐れたかもしれない。

 ジュリアスに申し訳ないと思ったかもしれない。


 それでも、知っていれば選べた。


 考えることができた。


 王妃が用意してくれた道を、自分の目で見ることができた。


 その機会すら、奪われていた。


 セレスティアは、便箋の端を見た。


 そこには、薄い指の跡のようなものがあった。古いものだ。誰かが一度強く紙を握ったのかもしれない。


 父が読んだのだろうか。

 この文章を。


 読んだ上で、隠したのだろうか。


『この手紙を、あなたの父上にも送ります。公爵家としての立場もあるでしょう。けれど、私は王妃として、あなたをこれ以上、無償の奉仕と沈黙の中に置くべきではないと判断しました』


 セレスティアの指が止まった。


 父にも送る。


 それなら、父は知らなかったでは済まない。


 この手紙がセレスティアの部屋で開封された状態で見つかった以上、少なくとも公爵家の誰かは読んでいる。


 そして、セレスティアには渡さなかった。


 法務官オルドが、低い声で確認する。


「その部分、記録してもよろしいですか」


「はい」


 セレスティアは便箋を机に置いた。


 法務官が一文ずつ記録していく。


 紙に文字が写される音を聞きながら、セレスティアは自分の呼吸を整えた。


 これは悲劇ではない。


 記録だ。


 記録にすれば、失われた時間は戻らなくても、奪われた事実を消させずに済む。


 彼女は続きへ目を向けた。


『もし、あなたがこの道を望まないなら、それでも構いません。あなたの人生です。けれど、どうか一度だけ、自分が本当は何を望むのかを考えてください。誰に褒められるためでも、誰に捨てられないためでもなく』


 そこで、文字が少しだけ乱れていた。


 王妃はきっと、苦しい中で書いていた。


『セレスティア。あなたは、誰かに選ばれなければ価値がない子ではありません』


 セレスティアは、声を出せなかった。


 その一文だけで、十年分の息苦しさが胸に戻ってくる。


 王太子に選ばれたから、価値がある。

 公爵家の長女だから、価値がある。

 王妃に認められたから、価値がある。

 仕事ができるから、価値がある。


 そう思ってきた。


 そう思わなければ、自分を支えられなかった。


 けれど、王妃はそうではないと言っていた。


 誰かに選ばれなくても。


 誰かの役に立たなくても。


 セレスティアは、セレスティアであっていいのだと。


 涙は、一粒だけ落ちた。


 今度は拭かなかった。


 カインも、法務官も、記録官も、誰もそれを指摘しなかった。


 セレスティアは最後の部分を読む。


『この件について、カイン殿下にも一部を託しています。あの方は冷たく見えるでしょうが、少なくとも書類を読まずに人を裁く方ではありません。もしあなたが孤立したときは、宰相府を頼りなさい』


 思わず、セレスティアはカインを見た。


 カインは少しだけ眉をひそめていた。


「私は、この手紙の全文は知らない」


「一部を託されていたのですか」


「王妃陛下から、君の独立権限について相談を受けていた。だが、病状が急に悪化し、正式な任命手続きは途中で止まった」


「では、父が手紙を隠したことは」


「今知った」


 カインの声は低かった。


 普段と同じ無表情に近い。

 けれど、怒っているのだとセレスティアには分かった。


 静かな怒り。


 紙を焼く炎ではなく、金属を冷たく固めるような怒り。


「王妃陛下は、あなたを信頼していらしたのですね」


「過大評価だ」


「そうでしょうか」


「少なくとも、私は当時、君を王太子妃候補のままにしておくことへ強く反対しきれなかった」


 カインの声が少しだけ硬くなった。


「結果として、君は十年近く利用され続けた」


 セレスティアは首を横に振った。


「宰相閣下の責任ではありません」


「君はすぐに他人の責任を軽くする」


「……癖です」


「直せ」


 その言葉があまりにもいつも通りで、セレスティアはほんの少しだけ息をついた。


 カインは続ける。


「ただし、君の父がこの手紙を隠したことは別だ。これは家族間の行き違いではない」


 法務官が頷く。


「王妃陛下からセレスティア様個人へ宛てられた私信を無断で開封し、本人へ渡さなかった可能性があります。さらに内容が公的権限移行に関わるものであれば、遺志の妨害と見なされる余地もあります」


 セレスティアは便箋を見つめた。


「父に、確認が必要ですね」


「必要だ」


「母にも」


「そうだな」


「屋敷の使用人にも」


「順に聞き取る」


 カインは法務官へ目を向ける。


「エルフォード公爵家への照会文を準備しろ。この手紙の受領経緯、開封者、保管場所、セレスティア嬢へ渡さなかった理由を問う」


「承知いたしました」


 法務官が記録を進める。


 セレスティアは、残る二通の未開封の手紙を見た。


 まだ封蝋は割られていない。


 亡き王妃の私印が、そのまま残っている。


「こちらも、開けます」


 カインが頷く。


「君宛てだ」


 二通目を手に取る。


 封を切ると、中には短い手紙と、小さな任命案の写しが入っていた。


『セレスティア。正式な任命が間に合わない場合に備え、草案の写しを同封します。あなたが自分の立場を説明するとき、これが助けになるでしょう』


 任命案。


 そこには確かに、こう書かれていた。


『王宮特別監査官補佐 セレスティア・エルフォード』


 役職名を見た瞬間、セレスティアは息を止めた。


 補佐とはついている。

 けれど、王太子妃候補ではない。


 婚約者でもない。


 王宮の実務に関わる者としての名だった。


 職務範囲には、王妃基金、地方救済費、慈善事業の監査補助、王宮会計室への照会権限とある。報酬の欄もあった。少なくとも、これまでのような無償奉仕ではない。


 セレスティアは、指でその報酬欄に触れかけて、すぐに止めた。


「報酬まで……」


 声が小さくなる。


 カインが言った。


「当然だ。職務には報酬が伴う」


「私は、ずっと無償でした」


「それが異常だった」


 異常。


 その言葉は、強かった。


 セレスティアは、自分の過去が一言で切り分けられるのを感じた。


 義務。

 我慢。

 家のため。

 王太子のため。

 国のため。


 そう名付けられていたものが、別の名を与えられる。


 異常。


 認めるのは、痛かった。


 でも、少しだけ救われる痛みだった。


 三通目には、王妃の手紙ではなく、いくつかの名前が記された一覧が入っていた。


 セレスティアはそれを開き、目を細める。


「これは……」


 カインも覗き込む。


「推薦予定者か」


 王妃が、セレスティアの独立後に協力者として考えていた人物たちの名だった。


 王宮会計副監ローレン。

 法務官オルド。

 北方三州のアーガイル伯爵夫人。

 聖ミラーナ救護院長。

 いくつかの慈善団体代表。


 そして最後に、カイン・ヴァレンティアの名。


 その横に、王妃の筆跡で短く添えられていた。


『冷たく見えますが、義理では動かず、法で動く人です。あなたには必要でしょう』


 セレスティアは思わずカインを見る。


 カインは、非常に微妙な顔をした。


「王妃陛下は、人を見る目がおありでしたね」


「褒めているのか」


「はい」


「そうは聞こえなかった」


 法務官がまた咳払いをした。


 今度は明らかに笑いを堪えている。


 重かった空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だが、すぐにセレスティアは一覧へ目を戻す。


 王妃は本気だった。


 彼女を独立させるために、役職案を作り、協力者を選び、父へ手紙を送り、カインにも相談していた。


 それなのに、その道は閉ざされた。


 誰かの手で。


 セレスティアは、三通の手紙を丁寧に並べた。


「宰相閣下」


「何だ」


「私は、この件を家族の問題として扱いません」


 自分の声が、思ったよりもはっきり響いた。


「王妃陛下の遺志に関わる文書が、私に届かず、開封され、保管されていました。さらに、その結果として私は王太子妃候補の立場に留まり、無償で王宮業務を続けました」


 言葉を重ねるたび、胸の奥に芯が通っていく。


「これは、家の中で済ませられる話ではありません」


 カインは頷いた。


「その通りだ」


「正式な照会をお願いします」


「照会だけでいいのか」


 セレスティアは、少しだけ黙った。


 父の顔が浮かぶ。


 厳しい声。

 不機嫌そうな目。

 幼い頃、本を与えてくれた手。

 昨夜、彼女を家の恥だと言った声。


 母の顔も浮かぶ。


 困ったような微笑み。

 リリアナを庇う声。

 何も知らないまま、自分の部屋を衣装部屋にしようとした姿。


 胸が痛む。


 痛むが、もう目を逸らせない。


「まずは照会を。回答次第で、正式な監査請求を出します」


「対象は」


 カインが問う。


 セレスティアは、机の上の手紙と帳簿を見た。


 王妃基金。

 署名の改竄疑い。

 公爵家系列商会。

 隠された手紙。


 すべてが一本の線になり始めている。


「王妃基金、およびエルフォード公爵家です」


 部屋の空気が張りつめた。


 法務官のペンが一瞬止まり、すぐに動き出す。


 カインは、セレスティアを見ていた。


「本当にいいのか」


 それは確認だった。


 止める言葉ではない。


 セレスティアは、ゆっくり頷いた。


「はい」


「家を敵に回すことになる」


「すでに、私は家から部屋を失いました」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 声は静かだった。

 けれど、その中にある痛みは隠せなかった。


「婚約者も、王宮での居場所も失いました。父は私の署名を家の信用として使い、王妃陛下からの手紙を隠しました。これ以上、何を守るために黙ればよいのでしょう」


 カインは何も言わなかった。


 セレスティアは続ける。


「私は、復讐したいのではありません」


 それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。


「ただ、私の名前が何に使われたのかを知りたい。王妃陛下が守ろうとしたものが、どこで曲げられたのかを知りたい。そして、もし不正があるなら、止めたいのです」


 王妃の手紙の一文が蘇る。


 帳簿は復讐の道具ではなく、真実を逃がさないための器です。


 セレスティアは、その言葉を胸に置いた。


 カインが静かに言った。


「分かった」


 それだけだった。


 だが、その一言で道が開いた。


「法務官オルド」


「はい」


「エルフォード公爵家への照会文を即日送付。王妃私信の開封、保管、未交付理由について回答期限を明記しろ。回答期限は明日正午」


「明日正午ですか」


「長く与えれば口裏を合わせる」


「承知いたしました」


「王宮会計室へは、エルフォード公爵家系列商会が関わる過去五年の王妃基金支出一覧を求める。会計副監ローレンにも協力要請を」


「はい」


「それから」


 カインはセレスティアを見る。


「君の私室に残る文書は、すべて宰相府へ移送する。私物と公的資料は後で分類すればいい。まずは保全だ」


「お願いします」


 セレスティアは深く頭を下げた。


 顔を上げると、カインが少しだけ不満そうにしていた。


「何でしょうか」


「頭を下げすぎる」


「感謝を示したつもりでした」


「感謝なら言葉でいい。君が不必要に頭を下げると、相手が上に立つ」


 法務官が筆を止めた。


 セレスティアも瞬きをした。


「……そこまで意識したことはありませんでした」


「これから意識しろ」


「はい」


 カインはごく自然に言った。


「君は監査を求める側であり、遺言の受任者だ。哀れな被害者として頭を下げる必要はない」


 哀れな被害者。


 セレスティアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 そう見られるのが怖かった。


 婚約者を妹に奪われた令嬢。

 父に手紙を隠された娘。

 無償で働かされていた可哀想な女。


 それは事実の一部かもしれない。


 けれど、それだけではない。


 彼女は帳簿を読む。

 署名の違和感を見抜く。

 支出を止める。

 照会を出す。

 監査を求める。


 それもまた、事実だ。


「分かりました」


 セレスティアは、今度は頭を下げずに言った。


「ありがとうございます、宰相閣下」


「それでいい」


 カインは短く頷いた。


 照会文がエルフォード公爵家へ届いたのは、その日の夜だった。


 グレアム公爵は自室で封を切り、文面を読んだ。


 読み進めるうちに、顔色が変わっていく。


『亡き王妃陛下よりセレスティア・エルフォード宛てに送られた私信三通について、うち一通が開封済みの状態で同人私室より発見された』


『同私信には、王太子妃候補の立場から独立した王宮監査官補佐への移行準備に関する記述が含まれている』


『当該私信の受領者、開封者、保管者、ならびにセレスティア本人へ未交付となった理由について、明日正午までに文書で回答されたい』


 グレアムは文書を握りしめた。


 紙が皺になる。


「馬鹿な……」


 彼は覚えていた。


 あの手紙を。


 王妃の病状が悪化した頃、公爵家へ届いた封書。王妃の私印を見て開封し、内容を読んだ瞬間、グレアムは怒りに近い焦りを覚えた。


 セレスティアを王太子妃候補から解く。


 王宮監査官として独立させる。


 そんなことを認めれば、エルフォード公爵家は王太子妃の実家という未来を失う。

 セレスティアの王宮内での価値を、公爵家が自由に使えなくなる。

 何より、娘が父の指示ではなく、王妃と宰相府の制度で動くようになる。


 だから、渡さなかった。


 今は時期が悪い。

 王妃は病で判断が弱っている。

 正式な手続きではない。

 公爵家のためだ。

 セレスティア本人も、王太子妃になることを望んでいるはずだ。


 いくらでも理由は作れた。


 そして実際、グレアムはそう自分に言い聞かせた。


 その結果が、今、文書になって戻ってきている。


 扉の外から、エヴァンジェリンの声がした。


「あなた、入っても?」


「入るな」


 反射的に答えた。


 だが扉は開いた。


 エヴァンジェリンは青ざめた顔で立っていた。


「宰相府から、何が」


「何でもない」


「何でもない顔ではありません」


 グレアムは文書を机に伏せた。


「お前には関係ない」


「セレスティアのことなら、関係あります」


 その声は、いつもの弱々しいものではなかった。


 グレアムは妻を睨む。


「今さら母親面か」


「そうね。今さらだわ」


 エヴァンジェリンの声が震えた。


「でも、今さらでも知らなければならないことがあるでしょう。王妃陛下から、あの子への手紙があったのですか」


 グレアムは答えなかった。


 その沈黙で、エヴァンジェリンは理解した。


「あったのですね」


「……家のためだ」


 グレアムは低く言った。


「王妃陛下は、セレスティアを王太子妃候補から外そうとしていた。そんなことを受け入れれば、公爵家の立場はどうなる」


「セレスティアの立場は?」


 エヴァンジェリンが尋ねた。


 グレアムは一瞬、言葉に詰まった。


「何だと」


「あの子の立場は、どうなるはずだったのですか」


「監査官だか何だか知らん。王太子妃に比べれば」


「でも、王妃陛下はそれをあの子に用意してくださったのでしょう」


「王妃陛下は病で弱っておられた」


「あなた」


 エヴァンジェリンは、夫の名を呼ばなかった。


 ただ、深く傷ついた目で見た。


「それを、あなたが決めたのですか」


 グレアムの顔が赤くなる。


「私が父だ」


「父なら、娘に届いた手紙を隠してよかったのですか」


 部屋の空気が凍った。


 グレアムは怒鳴ろうとした。


 だが、声が出る前に扉の外で小さな物音がした。


 二人が振り向く。


 そこには、リリアナが立っていた。


 顔色を失い、手を胸元で握りしめている。


「お父様……」


 その声は細かった。


「お姉様は、王太子妃にならなくてもよかったのですか」


 グレアムは言葉を失った。


 リリアナの目に涙が浮かぶ。


「王妃陛下は、お姉様に別のお仕事を用意してくださっていたのですか」


「リリアナ、これはお前には関係ない」


「関係あります」


 リリアナは初めて、父の言葉を遮った。


 自分でも驚いたように、少し肩を震わせる。


 それでも続けた。


「だって、私は……お姉様から王太子妃の場所を奪ったと思っていました。でも、もしお姉様が本当は別の道へ行けたのなら……私たちは、お姉様をずっと閉じ込めていたの?」


「黙れ」


 グレアムの声が低く響いた。


 リリアナはびくりとしたが、今度は泣き崩れなかった。


 涙は目に溜まっている。

 けれど、逃げなかった。


 エヴァンジェリンは、そんな娘を見て、さらに顔を歪めた。


 この家の誰もが、セレスティアに頼っていた。

 その一方で、誰もセレスティアを見ていなかった。


 その事実が、屋敷の中に少しずつ広がり始めていた。


 宰相府では、夜遅くまで文書の整理が続いた。


 だが、カインは一定の時刻になると、書類を閉じた。


「今日はここまでだ」


 セレスティアは顔を上げた。


「まだ、エルフォード公爵家からの回答が」


「明日正午だ」


「ですが、準備を」


「君が今夜中に準備できることは、ほぼ終わっている」


 カインは机の上の文書を指す。


 王妃の手紙の写し。

 任命案の写し。

 照会文の控え。

 署名改竄疑いの記録。

 王妃基金支出一覧の請求書。

 公爵家系列商会の照会リスト。


 確かに、必要なものは揃えた。


 それでも、セレスティアは落ち着かなかった。


 明日、父が何と答えるのか。


 嘘をつくのか。

 言い逃れをするのか。

 家のためだったと言うのか。


 あるいは、初めて謝るのか。


 そこまで考えて、セレスティアは自分の期待に気づいてしまった。


 まだ、どこかで謝罪を待っている。


 父が、母が、リリアナが、ジュリアスが。


 誰か一人でも、「悪かった」と言ってくれたら、少しは救われるのではないかと。


 カインが言った。


「期待するな、とは言わない」


 セレスティアは驚いて顔を上げた。


「私、何か言いましたか」


「顔に出ている」


「またですか」


「まただ」


 少し呆れたように言われた。


 セレスティアは苦笑しかけたが、すぐに表情を戻した。


 カインは続ける。


「期待するなと言っても、人は期待する。家族ならなおさらだ」


 その言葉は、思いのほか静かだった。


「だが、期待と手続きは分けろ。謝罪があってもなくても、事実確認は必要だ」


 セレスティアは頷いた。


「はい」


「怒りも、悲しみも、期待も、全部あっていい。だが、判断をそれだけに任せるな」


「難しいですね」


「難しい。だから文書にする」


 カインは淡々と言った。


「文書は、感情の代わりにはならない。だが、感情に流されないための支えにはなる」


 セレスティアは、机の上の王妃の手紙を見た。


 王妃も、文書を残した。


 言葉を残した。


 それが今、セレスティアを支えている。


「宰相閣下」


「何だ」


「私は、明日、父の回答を読んでも取り乱さないでしょうか」


「取り乱すかもしれない」


 即答だった。


 セレスティアは瞬きをする。


「そこは、大丈夫だとおっしゃるところでは」


「根拠のない慰めは言わない」


「そうでした」


「取り乱してもいい。ただし、その後で戻ってこい」


 セレスティアは、カインを見る。


 彼はいつもと同じ無表情に近い顔だった。


 けれど、その言葉は不思議と温かかった。


 取り乱すな、ではない。

 戻ってこい。


 それは、崩れることを許す言葉だった。


「分かりました」


 セレスティアは静かに答えた。


「戻ってきます」


「それでいい」


 カインは文書をまとめ、保全箱へ入れた。


 箱の蓋が閉じられる。


 王妃の手紙も、任命案も、署名改竄疑いの記録も、すべて封印される。


 その音は、終わりの音ではなかった。


 始まりの音だった。


 その夜、セレスティアは客間に戻ってから、机に向かった。


 仕事ではない。


 宰相府から用意された便箋に、自分宛ての短い覚書を書いた。


『私は、王妃陛下の手紙を受け取った。遅すぎたけれど、受け取った』


 そこでペンが止まる。


 少し考えて、続きを書く。


『父がなぜ隠したのか、明日知る。どんな理由でも、私がその理由の中に消える必要はない』


 さらに一行。


『私は、私の名前を取り戻す』


 書き終えると、セレスティアは便箋を畳まずに机の上へ置いた。


 誰に見せるものでもない。


 けれど、書いておきたかった。


 言葉にしておかなければ、また自分の心を後回しにしてしまいそうだったから。


 窓の外では、王宮の灯りが夜に浮かんでいた。


 あの美しい場所で、いくつもの嘘と沈黙が積み重なっていた。


 そしてその中心のどこかに、自分の名前が使われている。


 セレスティアは、鍵束を手に取った。


 三本の鍵が、夜の光を受けて鈍く光る。


 まだ開けていない扉がある。


 まだ読んでいない帳簿がある。


 まだ聞いていない答えがある。


 怖くないわけではない。


 けれど、もう戻れない。


 戻る気もなかった。

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