第10話 王太子は謝罪ではなく、取引を持ちかけました
エルフォード公爵家からの回答は、正午より少し前に届いた。
宰相府の小会議室には、朝から硬い空気が流れていた。机の上には、亡き王妃の手紙の写し、開封済み封書の保全記録、王宮監査官補佐の任命案、そしてエルフォード公爵家へ送った照会文の控えが並んでいる。
セレスティアは、それらの文書の前に座っていた。
背筋は伸びている。
両手は膝の上で重ねている。
表情は、たぶん崩れていない。
けれど、指先は少し冷たかった。
父が何と答えるのか。
昨夜から何度も考えた。
知らなかった、と言うだろうか。
家のためだった、と言うだろうか。
王妃の判断は誤りだった、と言うだろうか。
あるいは、短くでも謝罪の言葉があるだろうか。
期待と恐れは、紙一枚の差で行き来する。
カインは向かいの席で沈黙していた。
急かさない。
慰めもしない。
ただ、必要なときにそこにいる。
その距離が、今のセレスティアにはありがたかった。
扉が叩かれ、法務官オルドが入ってきた。
「エルフォード公爵家より回答が届きました」
封書は厚くない。
むしろ、予想より薄かった。
セレスティアはそれを見た瞬間、胸の奥にあった小さな期待が、ゆっくりと沈んでいくのを感じた。
父は長い説明をしなかった。
少なくとも、長く謝るつもりはないらしい。
カインが言った。
「君が読むか」
「はい」
セレスティアは封書を受け取り、開封した。
父の筆跡だった。
力強く、硬い字。
幼い頃、彼女が書き取りを見せると「もっと迷いなく書け」と言った父の字。
そこには、こう書かれていた。
『亡き王妃陛下よりの封書については、公爵家当主として内容確認を行った。王太子妃候補である娘の将来に重大な影響を及ぼす内容であったため、当時の王宮情勢および公爵家の立場を鑑み、一時保管したものである』
一時保管。
セレスティアは、その言葉を見つめた。
十年近く隠しておいて、一時保管。
次の行を読む。
『当該内容は、正式な王命または任命文書ではなく、病床にあった王妃陛下の私的意向にすぎない。よって、セレスティア本人へ伝える緊急性は低いと判断した』
緊急性は低い。
セレスティアの指が、紙の端を押さえる。
その下に、謝罪の言葉はなかった。
『また、セレスティアは当時、王太子妃候補としての教育を継続中であり、不要な混乱を避けるためにも、父として適切に判断した。以上』
以上。
それで終わりだった。
短い文書だった。
弁明はある。
責任転嫁もある。
父として適切に判断したという、自分への正当化もある。
だが、娘への謝罪はなかった。
セレスティアはしばらく紙を見つめていた。
涙は出なかった。
悲しみより先に、奇妙な静けさが降りてきた。
父は、やはり父だった。
幼い頃から見上げていた大きな背中。
逆らえない声。
家のため、国のため、公爵家の娘として、と言い続けた人。
その父は、娘の未来を奪ったことを「適切な判断」と呼んだ。
セレスティアは、ゆっくりと紙を机に置いた。
「取り乱さなかったな」
カインが言った。
セレスティアは、少しだけ苦笑した。
「取り乱すには、あまりに父らしい文面でした」
声は落ち着いていた。
自分でも驚くほどに。
法務官オルドは、慎重に尋ねる。
「この回答への対応は、いかがいたしますか」
セレスティアは、机の上の王妃の手紙を見た。
私的意向にすぎない。
父は、そう書いた。
だが、王妃は正式な任命案まで用意していた。協力者の一覧も、権限移行の草案も残していた。それを私的意向という言葉で軽くすることはできない。
「記録してください」
セレスティアは言った。
「エルフォード公爵は、王妃陛下からの私信を開封し、私本人へ渡さず保管したことを認めた。理由は、公爵家当主としての判断、王宮情勢、公爵家の立場、不要な混乱の回避」
法務官が羽根ペンを走らせる。
「はい」
「謝罪の記述なし」
言った瞬間、胸が少し痛んだ。
けれど、それも記録する。
事実だから。
「はい」
「また、王妃陛下の権限移行準備を『私的意向』と表現している点について、任命案写しおよび協力者一覧との整合性を確認する必要があります」
オルドが頷いた。
「監査請求に入れますか」
セレスティアは一度、目を伏せた。
父の顔が浮かぶ。
怒鳴る顔。
失望した顔。
自分を家の道具として扱う顔。
それでも、父だ。
その事実は消えない。
けれど、父だからこそ黙るという選択は、もうしない。
「はい。入れてください」
セレスティアは顔を上げた。
「王妃陛下の私信未交付、署名利用疑惑、公爵家系列商会の王妃基金関連支出。この三点を、同一監査対象として扱う準備をお願いします」
オルドの筆が止まった。
「正式監査請求の前段階、ということでよろしいですか」
「はい」
カインが口を開く。
「よく判断した」
セレスティアは彼を見る。
「私は、父を裁きたいわけではありません」
「分かっている」
「でも、父がしたことを、なかったことにはできません」
「ああ」
「それだけです」
カインは短く頷いた。
「それで十分だ」
セレスティアは、そこでようやく息を吐いた。
父からの回答は、彼女の胸を抉った。
だが、同時に迷いをひとつ減らした。
謝罪を待つ時間は、終わったのかもしれない。
完全には終わらない。
きっと心のどこかでは、まだ待ってしまう。
それでも、手続きは進められる。
事実は、待ってくれない。
そこへ、別の書記官が慌ただしく入ってきた。
「宰相閣下。王太子府より、面会要請です」
カインの眉がわずかに動いた。
「正式な業務依頼か」
「いいえ。セレスティア様との直接面会を求めています。王太子殿下ご本人からです」
部屋の空気が変わった。
セレスティアは、静かに書記官を見る。
「要件は」
「王太子府の業務停滞と、今後のセレスティア様の処遇について話し合いたい、と」
「処遇」
セレスティアは、その言葉を繰り返した。
自分の処遇を、まだ王太子が話し合うつもりでいる。
面白いほど、何も分かっていない。
カインはセレスティアに視線を向けた。
「断ることもできる」
セレスティアは少し考えた。
会いたくはない。
本音を言えば、顔を見るのもつらい。
けれど、避け続ければ、王太子はまた「セレスティアが意地を張っている」と言うだろう。
リリアナも、父も、周囲の貴族も、同じように解釈するかもしれない。
そして何より、彼が何を言うつもりなのか知っておく必要がある。
「会います」
セレスティアは答えた。
「ただし、宰相府内で。宰相閣下、法務官立ち会いのもと。記録も残してください」
書記官が少し驚いた顔をした。
カインは、当然のように頷く。
「そう返せ」
「承知いたしました」
書記官が下がる。
カインはセレスティアを見た。
「平気か」
「平気ではないと思います」
正直に答えた。
「ですが、逃げるほどではありません」
「取り乱したら」
「戻ってきます」
昨日と同じ言葉。
カインは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「ならいい」
王太子ジュリアスが宰相府に現れたのは、その日の午後だった。
彼は護衛と侍従を伴っていたが、小会議室へ入ることを許されたのは本人と侍従長だけだった。
リリアナはいなかった。
セレスティアは、そのことに少しだけ安堵した。
そして、安堵した自分に気づいて胸の奥が痛んだ。
ジュリアスは、以前と変わらず美しかった。
金の髪。整った顔立ち。王太子としての華。
身にまとった礼装も、姿勢も、歩き方も、どれも王族として完璧に近い。
ただ、目の奥には苛立ちと疲れがあった。
この数日で、彼もまた追い詰められているのだろう。
救済費。
演説原稿。
慈善茶会。
外交返書。
王妃基金。
そして、王宮中に広がる噂。
彼の周囲から、セレスティアが整えていたものが次々と消えている。
ジュリアスは部屋に入ると、まずカインを見た。
「叔父上。今日は、セレスティアと話がしたい」
カインは冷静に答える。
「ここで話せ」
「二人で」
「不可だ」
即答だった。
ジュリアスの眉が動く。
「私は王太子です」
「だから記録を残す」
「まるで私が、彼女に不当なことを言うと決めつけているようですね」
カインは少しも表情を変えなかった。
「これまでの文書を見る限り、警戒する理由は十分にある」
侍従長が気まずそうに視線を伏せた。
ジュリアスは口を引き結ぶ。
セレスティアは席に座ったまま、静かに礼をした。
「王太子殿下。本日はどのようなご用件でしょうか」
その言い方に、ジュリアスは一瞬だけ傷ついたような顔をした。
「ずいぶん他人行儀だな」
「先日、婚約を破棄されましたので」
「それは……」
ジュリアスは言葉を切った。
すぐに苛立ちを隠すように咳払いをする。
「その件も含めて話に来た」
セレスティアは黙って続きを待った。
ジュリアスは椅子に座るよう勧められたが、あえて立ったままだった。上に立つ者の姿勢を保ちたいのだろう。
「ここ数日、王太子府の業務に混乱が出ている」
「承知しております」
「原因は、君が急に業務から手を引いたことだ」
法務官オルドのペンが止まりかけ、すぐに動き出した。
セレスティアは静かに答える。
「婚約破棄により、王太子妃候補としての義務が消滅したためです」
「分かっている。何度も文書で読まされた」
ジュリアスの声には皮肉があった。
「だが、国のためを思うなら、もう少し柔軟に対応できたはずだ」
国のため。
その言葉は、セレスティアを縛るために何度も使われてきた。
昔なら、その言葉だけで背筋を伸ばし、自分の感情を脇に置いていたかもしれない。
今は違う。
「国のためであるなら、なおさら正式な手続きが必要です」
「手続きばかりだな、君は」
「手続きを無視した結果、王妃基金から過大な茶会費が出されかけました」
ジュリアスの顔色が変わる。
「あれはリリアナの善意だ」
「善意でも、規程外の支出は認められません」
「君はリリアナに厳しすぎる」
「リリアナは、王太子妃候補として茶会を引き継ぐとおっしゃいました。ならば、王妃基金の規程を学ぶ必要があります」
「だから、君が教えればいい」
ジュリアスは、そこでようやく本題へ入ったようだった。
「セレスティア。君の能力は認めている」
能力は。
その言葉が、セレスティアの胸をかすかに刺した。
ジュリアスは続ける。
「君は実務に長けている。リリアナには華がある。二人がそれぞれの得意を活かせば、王太子府はより良くなる」
カインの目がわずかに細くなる。
セレスティアは、表情を変えなかった。
「つまり、私はリリアナの補佐に入れということでしょうか」
「言い方の問題だ。補佐というより、助言役だ」
「王太子妃候補の助言役」
「ああ」
ジュリアスは少し表情を和らげた。
彼にとっては、十分に譲歩しているつもりなのだろう。
「君の居場所を完全に奪うつもりはない。王宮には、まだ君の力が必要だ」
セレスティアは、言葉を待った。
謝罪が来るかもしれない。
ほんの一瞬、そう思ってしまった。
婚約破棄について。
妹を選んだことについて。
命令書を送りつけたことについて。
彼女を無償の影として扱ってきたことについて。
だが、ジュリアスの次の言葉は、謝罪ではなかった。
「君が望むなら、王宮に残す」
セレスティアは、ゆっくり瞬きをした。
「残す、とは」
「正式な妃にはできない。リリアナを選んだ以上、それは変えられない」
当然のように言う。
「だが、君を完全に遠ざけるのも惜しい。君には実務能力がある。だから、側近として残ればいい。将来的には、側妃に近い待遇を用意してもいい」
法務官のペンが、今度こそ止まった。
侍従長の顔から血の気が引く。
カインの周囲の空気が、明らかに冷えた。
セレスティアは、言葉を失った。
側妃に近い待遇。
王太子の正妃候補はリリアナ。
セレスティアは、その陰で実務を行う。
必要なら華やかな称号を与える。
けれど、正面に立つのは妹。
それを、彼は取引だと思っている。
「殿下」
セレスティアは、静かに口を開いた。
「今のお言葉は、正式なご提案として記録してよろしいのでしょうか」
ジュリアスは少し顔をしかめた。
「なぜ、そういう言い方をする」
「記録官が同席しておりますので」
「私は、君のためを思って言っている」
その言葉に、セレスティアは胸の奥が冷えていくのを感じた。
私のため。
どこまでも、彼はそう言う。
彼女を捨てた後で。
妹を正妃に据えると言った後で。
なお裏方として戻れと言った後で。
それを、君のためだと言う。
「殿下は、私が何を望んでいるか、お尋ねになりませんね」
セレスティアは言った。
ジュリアスは目を見開いた。
「何?」
「私の処遇についてお話しになる前に、私が王宮に戻りたいのか、王太子府で働きたいのか、側妃に近い待遇を望むのか、一度もお尋ねになっていません」
「君は王宮で働いてきた。向いている」
「向いていることと、望むことは同じではありません」
「君は……」
ジュリアスは言葉に詰まった。
彼は本当に考えたことがなかったのだろう。
セレスティアが何を望むのか。
王太子妃になること。
王宮に残ること。
彼を支えること。
それを望んでいると、最初から決めつけていた。
セレスティア自身も、長い間そう思い込んでいた。
だからこそ、今ははっきり言わなければならない。
「私は、王太子府の助言役にはなりません」
室内が静まった。
「リリアナの補佐にも入りません。王太子殿下の側妃に近い待遇も望みません」
ジュリアスの顔が強張る。
「意地を張るな」
「意地ではありません」
「では何だ。君は今、自分がどんな立場にいるか分かっているのか。婚約破棄された令嬢が、王宮に居場所を得られるだけでも破格だ」
セレスティアは、わずかに目を伏せた。
以前の自分なら、その言葉に傷ついていた。
今も傷つかないわけではない。
だが、それだけでは終わらない。
「私は、亡き王妃陛下の遺言に基づく王妃基金特別監査権限の受任者です」
セレスティアは顔を上げた。
「婚約破棄された令嬢としてではなく、その立場でここにおります」
ジュリアスは苛立ったように言う。
「また王妃の遺言か」
「はい」
「母上は、君を過大評価していた」
その瞬間、カインが口を開いた。
「殿下」
低い声だった。
ジュリアスははっとしたようにカインを見る。
カインの表情は変わらない。だが、部屋の空気は明らかに重くなった。
「亡き王妃陛下の判断を軽んじる発言として記録されます」
「私はそういう意味で言ったのではない」
「では、どういう意味か明確に」
ジュリアスは唇を噛んだ。
セレスティアは、静かにその様子を見ていた。
以前なら、間に入っていただろう。
王太子殿下はそのようなおつもりでは、と。
表現を整え、場を和らげ、彼の失言を消していた。
今は、しない。
彼の言葉は、彼の責任だ。
ジュリアスはしばらく黙ったあと、セレスティアへ向き直った。
「君は変わった」
その声には、怒りよりも戸惑いがあった。
「以前の君なら、こんなふうに私を追い詰めることはなかった」
「以前の私は、殿下を追い詰めないように、殿下の言葉を先回りして整えておりました」
「それを責めるのか」
「いいえ。私がそうしていた事実を、申し上げているだけです」
「なら、またそうすればいい」
セレスティアは、一瞬だけ目を閉じた。
やはり、そこへ戻る。
ジュリアスにとって、セレスティアの価値はそこなのだ。
自分の不足を埋めること。
失言を消すこと。
書類を整えること。
王太子としての華やかな姿を、裏から支えること。
それが、彼女の役割だと信じている。
「殿下」
セレスティアは言った。
「私は、あなた方の便利な影には戻りません」
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
大声ではない。
激しい言葉でもない。
けれど、はっきりとした拒絶だった。
ジュリアスの目が揺れる。
「便利な影……?」
「はい」
「私は、君をそんなふうに扱ったつもりはない」
「そうでしょうね」
セレスティアは静かに答えた。
「扱っている自覚がなかったのだと思います」
その方が、ある意味で残酷だった。
ジュリアスは傷ついたような顔をした。
「君は、私を愛していたのではなかったのか」
その問いは、不意打ちのように胸へ刺さった。
愛していた。
そうだ。
最初から政略だったとしても、十年の間に情は生まれた。
彼が笑えば嬉しかった。
演説が成功すれば誇らしかった。
いつか彼が自分の努力に気づいてくれるのではないかと、どこかで期待していた。
それを愛と呼ぶなら、確かに愛していた。
けれど。
「愛していたことと、これからも利用されることは別です」
セレスティアは言った。
ジュリアスは言葉を失った。
「私は、殿下をお支えしてきました。十年、できる限りのことをしてきたつもりです。けれど殿下は、私との婚約を破棄されました」
「それは、君が王妃に向いていないと」
「はい。そう判断されたのでしょう。ならば、王太子妃候補としての私の役目は終わりました」
「だからといって、急に切り捨てる必要はないだろう」
「切り捨てたのは、殿下です」
ジュリアスの顔がこわばった。
セレスティアは続けた。
「私は、婚約破棄を受け入れました。そのうえで、王太子妃候補としての業務から離れただけです」
「君は言葉で逃げている」
「いいえ。言葉で境界を示しています」
カインが、ほんのわずかに頷いた。
ジュリアスはそれを見て、目を鋭くした。
「叔父上がそう言わせているのか」
セレスティアは一瞬、言葉を失った。
カインの表情は変わらない。
だが、ジュリアスは続けた。
「そうだろう。君は以前、こんな言い方をしなかった。叔父上が君に吹き込んでいるのだ。王太子府に戻らせないように、君を囲い込んでいる」
「殿下」
セレスティアの声が、少しだけ低くなった。
「私の言葉を、私のものとして扱ってください」
ジュリアスは黙った。
「私は誰かに操られているのではありません。自分で考え、自分で判断し、自分で申し上げています」
「君にそんな」
言いかけて、ジュリアスは止まった。
その先を言えば、決定的になると分かったのかもしれない。
君にそんなことができるはずがない。
もしそう言えば、彼の本心が記録に残る。
セレスティアは、その沈黙を見た。
そして、もう十分だと思った。
「王太子殿下。業務上の協力が必要な場合は、正式な依頼書を宰相府へお送りください。王妃基金や地方救済費に関わるものについては、規程に従い確認いたします」
「それしか言わないのか」
「はい」
「私個人への情は、もうないのか」
セレスティアは、少しだけ胸が痛んだ。
情がないわけではない。
十年は、消しゴムで消えるものではない。
けれど、その情を理由に戻れば、また同じ場所へ落ちる。
「情で、帳簿は動かせません」
彼女はそう答えた。
ジュリアスの顔に、屈辱の色が浮かんだ。
カインが静かに言う。
「面会はここまでだ」
「叔父上、まだ話は」
「これ以上は、同じ内容の繰り返しになる」
ジュリアスは唇を噛む。
「セレスティア」
彼は最後に、彼女の名を呼んだ。
以前なら、その声だけで胸が揺れた。
今も、全く揺れないわけではない。
でも、立てる。
セレスティアは顔を上げた。
「はい」
「君は後悔する」
ジュリアスは言った。
「私の隣に戻れる機会を捨てたことを」
セレスティアは、静かに首を横に振った。
「殿下」
「何だ」
「私が後悔するとすれば、もっと早く自分の席を立たなかったことです」
ジュリアスの目が見開かれる。
それ以上、彼は何も言わなかった。
侍従長が深く礼をし、王太子を促す。
ジュリアスは一度カインを睨むように見てから、小会議室を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
室内には、紙とインクの匂いだけが残った。
セレスティアは、膝の上で重ねていた手を見た。
少し震えていた。
それを見た瞬間、体から力が抜けそうになる。
カインが言った。
「戻ってきたか」
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
「はい」
声は小さかった。
でも、確かに答えた。
「戻ってきました」
法務官オルドが、そっと記録用紙を整える。
カインはセレスティアの前に、水の入った杯を置いた。
「飲め」
「ありがとうございます」
セレスティアは杯を手に取り、少しずつ飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
ようやく、息ができた。
「私、きちんと言えていましたか」
思わず尋ねた。
カインは即答した。
「言えていた」
「感情的ではありませんでしたか」
「感情はあった。だが、流されてはいなかった」
その答えに、セレスティアは目を伏せた。
「よかった」
小さく呟く。
本当は、怖かった。
ジュリアスを前にしたら、また揺らぐのではないか。
彼が少しでも優しい言葉を言えば、過去の自分が顔を出すのではないか。
自分が酷い女になったような気がして、謝ってしまうのではないか。
だが、彼は優しい言葉を持ってこなかった。
持ってきたのは、取引だった。
正妃にはできないが、側妃に近い待遇なら用意してもいい。
その言葉は、最後の未練を断つには十分だった。
「宰相閣下」
「何だ」
「私は、まだ少し痛いです」
正直に言った。
「そうだろうな」
「でも、戻りたいとは思いませんでした」
「なら、それでいい」
カインは、いつものように短く言った。
その言葉に、セレスティアは少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだった。
でも、笑えた。
王太子府へ戻る馬車の中で、ジュリアスは一言も発しなかった。
侍従長は向かいに座り、視線を伏せている。
外では、王宮の石畳が車輪の下で規則的な音を立てていた。
セレスティアの言葉が、頭から離れない。
便利な影には戻りません。
彼女はそう言った。
ジュリアスは、その言葉に腹が立った。
自分が彼女をそんなふうに扱ったつもりはない。
彼女には役割があった。
実務に向いていた。
王太子府に必要だった。
それの何が悪い。
そう思う一方で、別の声が頭の奥に残っていた。
殿下は、私が何を望んでいるか、お尋ねになりませんね。
確かに、尋ねなかった。
なぜなら、答えは決まっていると思っていたからだ。
セレスティアは王太子妃になりたかった。
自分の隣にいたかった。
だから十年も支えた。
そうではなかったのか。
いや、そうだったはずだ。
でなければ、ジュリアスの中の何かが崩れてしまう。
馬車が王太子府に着くと、リリアナが玄関広間で待っていた。
「殿下」
彼女は不安そうに駆け寄る。
「お姉様は……」
ジュリアスは外套を侍従に渡し、低く言った。
「宰相に操られている」
リリアナの顔が揺れた。
「やはり……」
「そうとしか思えない。以前のセレスティアなら、あんなことは言わなかった」
「何とおっしゃったのですか」
ジュリアスは答える前に、一瞬だけ唇を噛んだ。
便利な影。
その言葉を、そのままリリアナに言いたくなかった。
なぜなら、リリアナが傷つくかもしれないからではない。
自分がそれを口にすることで、言葉の重みを認めてしまう気がしたからだ。
「王太子府には戻らないと」
短く答える。
リリアナの目に涙が浮かぶ。
「そんな……」
「リリアナ。君は心配しなくていい」
ジュリアスは彼女の肩に手を置いた。
「セレスティアは今、冷静ではない。宰相府に囲われ、父親とも揉め、感情的になっているだけだ」
リリアナは頷きかけた。
けれど、すぐには頷けなかった。
姉の添え書きが、まだ机の上にある。
華やかさではなく、誰の声を聞く場なのかを先に決めてください。
あの文は、感情的だっただろうか。
厳しかった。
でも、意地悪だけではなかった。
リリアナには、少しずつ分かり始めていた。
姉は怒っている。
傷ついている。
けれど、それだけで動いているわけではない。
「殿下」
リリアナは小さく言った。
「もし、お姉様が本当にご自分で考えているのだとしたら……」
ジュリアスの手が止まった。
「何が言いたい」
「いえ……」
リリアナはすぐに首を振る。
「何でもありません」
ジュリアスは彼女を見つめた。
「君まで、セレスティアの言葉に惑わされるのか」
「違います。私は殿下を信じています」
リリアナは慌てて答えた。
その言葉に、ジュリアスは少しだけ表情を緩める。
「ならいい」
彼はリリアナの手を取った。
「君は私の隣にいればいい。セレスティアのように、紙と数字で人を追い詰める必要はない」
リリアナは微笑もうとした。
だが、うまく笑えなかった。
紙と数字。
昨日まで、それは冷たいものだと思っていた。
けれど、茶会の支出を止めた紙がなければ、王妃基金から不適切な費用が出ていた。
救済費の数字がなければ、北方の人々に必要な支援は届かない。
孤児院名を間違えれば、院長は不安になる。
紙と数字は、人を追い詰めるだけのものではないのかもしれない。
そう思った自分を、リリアナはまた胸の奥へ押し込めた。
その夜、宰相府では王太子との面会記録が正式にまとめられた。
法務官オルドが記録を読み上げる。
「王太子殿下より、セレスティア様に対し、王太子府助言役およびリリアナ様補佐としての復帰提案あり。将来的に側妃に近い待遇を用意する旨の発言あり」
セレスティアは、そこを聞いても表情を崩さなかった。
さすがに、もう少し胸が痛むかと思っていた。
痛みはある。
だが、それ以上に、距離ができていた。
文書になると、よく分かる。
あれは愛の言葉ではなかった。
復縁でもなかった。
セレスティアを一人の人間として取り戻したいという願いでもなかった。
業務を戻すための提案。
それだけだった。
「続けてください」
セレスティアは言った。
オルドが頷く。
「セレスティア様は、王太子府助言役、リリアナ様補佐、側妃待遇のいずれも拒否。今後の業務協力は、宰相府を通じた正式依頼書に限ると回答」
「はい」
「また、王太子殿下より、宰相閣下がセレスティア様を操っている趣旨の発言あり。セレスティア様は、自身の言葉を自身のものとして扱うよう求めた」
カインが少しだけ目を細めた。
「その部分は重要だ。正確に残せ」
「承知しております」
セレスティアは、カインを見た。
「宰相閣下は、あの発言にお怒りですか」
「君への侮辱だからな」
「私への?」
「そうだ。君が自分で考えられないと言っているのと同じだ」
セレスティアは黙った。
ジュリアスの言葉に、自分よりカインの方が怒っているように見える。
それが少し不思議で、少しだけ心強かった。
「私は、慣れてしまっていたのかもしれません」
セレスティアは呟いた。
「誰かの考えだろう、と言われることに」
「今後は慣れるな」
「はい」
「君の判断は君のものだ。間違えたとしても、君のものだ」
カインは当然のように言った。
「だからこそ、記録にも君の名が残る」
セレスティアは、机の上の自分の署名を見た。
今日、何度も書いた名。
差し止め通知。
監査申し立て。
面会記録確認。
王太子への返答。
そのどれもが、彼女自身の判断だった。
「宰相閣下」
「何だ」
「私は、少しずつ自分の名前に慣れてきた気がします」
カインは一瞬、静かに彼女を見た。
「いい傾向だ」
「それだけですか」
「他に何を言えばいい」
「いえ、それで十分です」
セレスティアは、ほんの少し笑った。
小さな笑みだった。
しかし、数日前の彼女なら、そんなふうに笑えなかっただろう。
窓の外では、夜の王宮に灯りがともっている。
王太子府の方角にも、明かりが見えた。
あの場所に、十年分の自分がまだ残っている気がした。
けれど、もう戻らない。
明日からは、さらに深く帳簿を読む。
父の回答。
署名の改竄疑い。
公爵家系列商会。
王妃が残した本当の帳簿。
そして、まだ開けていない奥書庫の箱。
セレスティアは、鍵束に触れた。
金属の冷たさは、もう怖くなかった。
扉は、まだ残っている。
ならば開く。
ひとつずつ。
自分の手で。




