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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第11話 冷徹宰相閣下は、私の机をそのまま残していました

 宰相府の廊下は、王太子府より少し暗い。


 壁に飾られている絵も少なく、花も控えめで、香の匂いもしない。磨かれた石床に足音が静かに返るだけで、華やかな王宮の一角というより、巨大な書庫の中を歩いているようだった。


 セレスティアは、その静けさが嫌いではなかった。


 王太子府にいた頃は、いつもどこかで誰かの声がしていた。


 侍従の確認。

 リリアナの笑い声。

 ジュリアスの呼び出し。

 父から届く短い命令文。

 母の「リリアナを手伝ってあげて」という柔らかな圧。


 どれも大きな音ではなかった。


 けれど、積み重なると逃げ場がなかった。


 宰相府には、それがない。


 あるのは書類と、記録と、手順。


 今のセレスティアには、それがかえって優しかった。


「こちらだ」


 前を歩いていたカインが、廊下の突き当たりで足を止めた。


 そこは、宰相府の奥まった区画だった。窓は南に向いているらしく、廊下よりも少し明るい光が扉の隙間から漏れている。


 セレスティアは首を傾げた。


「ここは?」


「君に使ってもらう部屋だ」


 セレスティアの胸が、かすかに固くなった。


 使ってもらう。


 その言葉に、反射的に身構えてしまう。


 王太子府で何度も聞いた言葉と似ていたからだ。


 この机を使って。

 この書類を見て。

 この原稿を整えて。

 この茶会をお願い。

 あなたならできるでしょう。


 頼まれているようで、実際には断れない。


 そういう言葉を、彼女はずっと受け取ってきた。


 カインは、彼女の沈黙に気づいたらしい。


 扉の取っ手に手をかけたまま、振り向いた。


「誤解するな。君に仕事を押しつける部屋ではない」


 セレスティアは目を瞬かせる。


「顔に出ていましたか」


「出ていた」


「……最近、かなり出るようになってしまった気がします」


「以前から出ていた」


「そうなのですか」


「ああ。誰も見ていなかっただけだ」


 何でもないことのように言われた。


 けれど、その一言は静かに胸へ残った。


 誰も見ていなかっただけ。


 それは残酷な事実でもあり、どこか救いでもあった。


 自分は感情のない人間だったわけではない。

 ただ、見られていなかった。


 カインは扉を開けた。


 中へ入った瞬間、セレスティアは足を止めた。


 部屋は広すぎず、狭すぎなかった。


 南向きの窓から午後の光が入り、白い壁を柔らかく照らしている。壁際には書棚があり、まだ空いている棚板も多い。中央には来客用の小さな円卓、奥には執務机。


 その机を見た瞬間、セレスティアは息を呑んだ。


 見覚えがあった。


 王太子妃候補執務室で、十年近く使っていた机だった。


 濃い色の木目。右端に小さな傷。引き出しの取っ手は、少しだけ緩い。窓辺で使っていたせいで、天板の一部だけ色が薄くなっている。


 間違いない。


 あの机だ。


「どうして……」


 声が小さくなった。


 カインは部屋の中へ入り、机の横に立った。


「王太子妃候補執務室の資料保全を行った際、机ごと移した」


「机ごと?」


「あの部屋は、近くリリアナ嬢の使用希望が出ている。机を残せば、君の私物や記録が混入する恐れがある」


 理由は実務的だった。


 いかにもカインらしい。


 けれど、セレスティアはすぐには頷けなかった。


 机の上には、彼女の青い栞が置かれていた。古い羽根ペンもある。小さな花瓶は空だったが、王太子府で使っていたものと同じだった。


 机の左側には、分類済みの資料箱が三つ。


『公開資料』

『保全資料』

『セレスティア本人確認』


 手書きの札がついている。


 その字は、カインのものではない。宰相府の記録官の字だろう。


 けれど、並べ方には見覚えがあった。


 セレスティアがいつもしていた分類と似ている。


「私の机を、ここへ……」


「不要だったか」


「いいえ」


 即座に答えてから、セレスティアは自分の声に驚いた。


 不要ではない。


 あの机は、苦しい記憶の方が多い。

 夜更けまで原稿を書いた。

 父からの命令書を読んだ。

 ジュリアスの失言を整えた。

 リリアナの茶会準備を手伝った。

 王妃が亡くなった後、泣く間もなく帳簿を開いた。


 けれど、あの机は同時に、彼女が彼女であった場所でもある。


 王太子妃候補としてではなく、書類を読み、矛盾を見つけ、人の声を紙の上に残す人間として。


 そこに座っていた時間まで、全部捨てたいわけではなかった。


「ありがとうございます」


 セレスティアは、机に近づいた。


 指先で天板に触れる。


 傷の位置まで同じだった。


 以前、慌ててインク瓶を倒しそうになり、金具でつけてしまった傷だ。あの時は、翌日の演説原稿が間に合わず、ひどく焦っていた。ジュリアスはその原稿を読み上げて褒められたが、机の傷に気づくことはなかった。


 そんな小さな記憶まで戻ってくる。


「この部屋は、君が選んで使うためのものだ」


 カインが言った。


 セレスティアは机から顔を上げる。


「選んで、ですか」


「ああ。使わないなら閉じておけばいい。資料だけ保全して、君は別室で作業してもいい」


「私は、ここで働けばよいのだと思いました」


「働かされる部屋ではない」


 カインの声は、いつも通り淡々としている。


 だが、その言葉は強かった。


「ここは、君が必要なときに使う部屋だ。誰かが書類を積み上げるための机ではない。誰かが夜中に君を呼び出すための場所でもない」


 セレスティアは、何も言えなかった。


 王太子府の机には、いつも書類が積まれていた。


 彼女が置いたものではない。

 誰かが持ってきたもの。

 誰かが「セレスティア様なら」と言って置いていったもの。

 誰かが「急ぎです」とだけ告げて去っていったもの。


 机は、いつも他人の都合で埋まっていた。


 今、この机の上はほとんど空いている。


 青い栞と羽根ペン。

 それだけが置かれている。


 空白があった。


 その空白を、怖いと思った。


 同時に、少しだけ嬉しいとも思った。


「この机に、私が置くものを選んでいいのですね」


「当然だ」


 また、当然。


 セレスティアは小さく笑った。


「宰相府へ来てから、その言葉をよく聞きます」


「当然のことを言っているからな」


「私には、当然ではなかったことばかりです」


 言ってから、少しだけ空気が沈んだ。


 カインは否定しなかった。


 ただ、机の上に一枚の文書を置いた。


「それで、本題だ」


 文書の表題を見て、セレスティアは姿勢を正した。


『王妃基金特別監査官代理任用通知』


 彼女は目を見開いた。


「特別監査官……代理?」


「正式な王宮監査官任命には国王裁可が必要だ。王妃陛下の任命案は補佐職までだった。だが、遺言執行に基づく王妃基金の特別監査権限はすでに君にある」


 カインは説明する。


「その権限を宰相府内で運用するため、暫定的な職名を定めた。王妃基金特別監査官代理。対象は王妃基金、地方救済費、関連慈善事業、ならびに君の署名が使われた過去文書の確認」


 セレスティアは文書を手に取った。


 役職。

 職務範囲。

 報酬。

 勤務時間。

 資料閲覧権限。

 休憩規定。

 病欠時の代理手続き。


 細かく書かれている。


 あまりにも細かく。


 勤務時間の欄で、セレスティアは思わず手を止めた。


「勤務時間が……決められているのですね」


「当然だ」


「夜間業務は原則禁止」


「必要があれば、私の許可を取れ」


「食事休憩を必ず取ること」


「これは女官長からの強い要望だ」


「過労による倒れ込みが見られた場合、即時業務停止」


「私が入れた」


 セレスティアは顔を上げた。


「そこまで必要でしょうか」


「必要だ」


 即答だった。


「君は放っておくと、救済費の説明文を書きながら食事を忘れ、署名照合をしながら日付をまたぎ、倒れるまで自分を止めない」


「そこまででは」


 言いかけて、カインの目を見て黙った。


 否定できなかった。


 過去に何度もあった。


 式典前夜、朝まで演説原稿を書いた。

 地方救済費の照合で昼食を忘れた。

 王妃の病状が悪化した頃は、二日続けて椅子で眠った。


 誰も止めなかった。


 いや、止めるどころか、それが当然だと思われていた。


 セレスティア自身も、そう思っていた。


「これは、君を縛るための規程ではない」


 カインが言った。


「君を勝手に使わせないための規程だ」


 セレスティアは、文書へ目を落とした。


 職務範囲。

 報酬。

 勤務時間。

 休憩。

 責任所在。


 これまで彼女になかったものばかりだ。


 自分を縛るものではなく、守るための枠。


 仕事に枠がある。

 終わりがある。

 報酬がある。

 断る根拠がある。


 それだけのことに、なぜこんなに胸が熱くなるのだろう。


「この職を受けるかどうかは、君が決めろ」


 カインはそう言った。


 セレスティアは驚いて彼を見る。


「決まっているものだと」


「決まっていない。任用通知は提案だ。君が署名しなければ発効しない」


 署名。


 セレスティアは、その言葉に指先を止めた。


 自分の署名は、使われていた。


 知らない推薦状に。

 差し替えられた資料に。

 父の系列商会に関わる書類に。


 だから、今度は慎重に見なければならない。


 彼女は文書の最初から最後まで、ゆっくり読み直した。


 役職名。

 任期。

 権限。

 責任。

 報酬。

 勤務制限。

 辞任手続き。

 異議申し立て。

 監督者は宰相府。

 ただし職務上の判断は本人記録を尊重。


 最後に、署名欄。


 セレスティア・エルフォード。


 まだ空白だ。


 カインは急かさなかった。


 そのことが、いちばん大きかった。


 父なら言っただろう。家のために署名しろ、と。

 ジュリアスなら言っただろう。国のために当然だ、と。

 母なら言ったかもしれない。みんな困っているのだから、と。

 リリアナなら、涙目でお願いしたかもしれない。


 カインは、何も言わない。


 選ばせている。


 セレスティアは羽根ペンを取った。


 インクを含ませる。


 少しだけ手が止まる。


 自分の名前を書くことが、こんなにも重い。


 けれど、怖いだけではなかった。


 これは、自分の意思で書く署名だ。


 誰かの婚約者としてではない。

 父の娘としてでもない。

 王太子府の影としてでもない。


 セレスティア・エルフォードとして。


 彼女は署名した。


 文字は、いつもよりほんの少しだけゆっくりだった。


 だが、乱れなかった。


 カインは文書を受け取り、確認印を押した。


「これで発効だ」


 短い言葉。


 それだけで、世界の一部が変わった気がした。


 セレスティアは、自分の署名が入った文書を見つめた。


「私は、監査官代理になったのですね」


「ああ」


「王太子府の助言役でも、リリアナの補佐でもなく」


「ああ」


「父の指示で動く娘でもなく」


「そうだ」


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


「少し、怖いです」


「当然だ」


「また当然ですか」


「自分の足で立つのは怖い」


 カインは言った。


「だが、怖いことと、間違っていることは違う」


 セレスティアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 怖いことと、間違っていることは違う。


 それは、今の彼女に必要な言葉だった。


 その日の午後、新しい部屋には少しずつ資料が運び込まれた。


 王妃基金の公開用収支。

 極秘監査記録の写し。

 セレスティアの私的覚書。

 王妃からの手紙三通の写し。

 署名改竄疑いのある推薦状。

 公爵家系列商会の一覧。

 王太子府推薦商会の取引記録。


 ただし、机の上には一度に置かれなかった。


 カインが決めた規程通り、今日扱う分だけが置かれる。残りは棚に分類し、封印箱へ収める。


 最初、セレスティアは落ち着かなかった。


 資料が見える場所にないと不安になる。

 全部を把握していないと、何かを見落としている気がする。

 次の書類、次の記録、次の照合へ手が伸びそうになる。


 そのたびに、カインが言った。


「今日の範囲ではない」


 最初は戸惑った。


 だが、数度繰り返すうちに、セレスティアは少しずつ理解した。


 仕事を終わらせるには、範囲を決める必要がある。


 範囲を決めることは、怠けではない。


 無責任でもない。


 むしろ、責任を曖昧にしないために必要なことなのだ。


「不思議ですね」


 夕方近く、セレスティアは書類の束を揃えながら呟いた。


「何が」


 隣の机で別件の文書を読んでいたカインが問う。


「机の上に、書類が少ないことです」


「多い方がいいのか」


「いいえ。ただ、慣れません」


「慣れろ」


「本日二度目です」


「必要なら何度でも言う」


 セレスティアは小さく笑った。


 笑ってから、ふと気づく。


 この部屋では、笑っても誰も驚かない。


 王太子府で笑うと、珍しいものを見るような顔をされた。

 あるいは、「セレスティアも笑えば可愛いのに」と、まるで普段の自分が欠けているように言われた。


 ここでは違う。


 笑っても、泣きそうになっても、少し怒っても、それはただ彼女の反応として扱われる。


 それが、こんなに楽だとは知らなかった。


 記録官ミリアが、新しい資料箱を運んできた。


「セレスティア様、こちらは王宮会計室から届いた過去五年分の一覧です。ローレン副監より、急ぎ確認が必要な箇所に印が入っています」


「ありがとうございます」


 セレスティアは受け取り、表紙を確認する。


 王妃基金支出一覧。

 エルフォード公爵家系列商会関連。

 王太子府推薦商会関連。

 過去五年。


 厚い。


 だが、今日すべてを見る必要はない。


 セレスティアは一番上の概要表だけを開いた。


 カインが視線を向ける。


「今日の範囲か」


「概要だけです」


「ならいい」


 セレスティアは、内心で少しだけ笑った。


 監視されているというより、見守られているに近い。

 その違いが分かるようになった自分が、不思議だった。


 概要表には、年度ごとの支出総額と、関連商会の名が並んでいた。


 最初の数行は、すでに見た名前だった。


 エルフォード公爵家系列の輸送商会。

 修繕業者。

 装飾品納入業者。

 慈善団体への物資仲介業者。


 セレスティアは、羽根ペンで印をつける。


 そして、ある行で手を止めた。


「……この商会」


 カインが顔を上げる。


「何かあったか」


「王太子府推薦商会として見た名前です。でも、こちらではエルフォード公爵家系列として分類されています」


「名は」


「ラドクリフ商会」


 カインの目が細くなった。


 ミリアが別資料を探し始める。


 セレスティアは概要表の該当行を追う。


 支出名目は、孤児院燃料費。

 別年度では、地方救済物資輸送費。

 さらに別年度では、慈善茶会の物品調達費。


 王妃基金から何度も支出されている。


 そして、承認経路の欄には、複数回セレスティアの名があった。


 ただし、備考欄に小さな印がついている。


『添付資料差替疑い』


 セレスティアの背筋が冷えた。


 この商会名は、亡き王妃の極秘監査記録にも出ていたはずだ。


 ミリアが資料を差し出す。


「ありました。王妃陛下の監査記録写しです。ラドクリフ商会、赤印がついています」


 セレスティアは受け取り、該当箇所を確認する。


『ラドクリフ商会。表向きは王太子府推薦。実質的にはエルフォード公爵家を経由。支出後、一部資金が王太子派貴族の社交費に流れた疑い』


 室内の空気が変わった。


 カインが低く言う。


「繋がったな」


 セレスティアは、紙から目を離せなかった。


 王太子府推薦。

 エルフォード公爵家系列。

 王妃基金。

 自分の署名。

 王太子派貴族の社交費。


 点が、線になり始めている。


「私の署名は、どの段階で」


「それを調べる」


 カインは立ち上がり、概要表を確認した。


「この件は明日の最優先にする。今日はここまでだ」


 セレスティアは反射的に言いかけた。


「ですが」


「言うと思った」


 遮られた。


 セレスティアは口を閉じる。


 カインは、彼女の前にある資料を指で押さえた。


「今見つかったのは入口だ。焦って追えば、見落とす。明日、会計室から原本を取り寄せ、法務官と監査官立ち会いで確認する」


「……はい」


「君一人で今夜読むな」


「はい」


「本当に読むな」


「信用がありませんね」


「実績がある」


 セレスティアは返す言葉がなかった。


 それでも、胸の奥はざわついていた。


 見つけた。

 とうとう、見つけてしまった。


 自分の署名が利用されたかもしれない具体的な流れ。


 父の家。

 王太子府。

 基金。

 貴族の社交費。


 もし本当にそうなら、婚約破棄の話では済まない。


 王宮の金の流れそのものに関わる。


 セレスティアは、震えそうになる指を握った。


 怖い。


 けれど、目を逸らしたくない。


「宰相閣下」


「何だ」


「明日、原本を見ます」


「ああ」


「私の署名があれば、筆跡と紙質を確認します」


「ああ」


「添付資料の差し替えがあれば、日付印と綴じ穴を見ます」


「分かっている」


「それから、ラドクリフ商会の支出後の流れも」


「明日だ」


 また止められた。


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


「明日ですね」


「そうだ」


「帳簿は逃げない」


 カインが以前言った言葉を、今度はセレスティアが口にした。


 カインは満足そうに頷いた。


「その通りだ」


 セレスティアは、資料を閉じた。


 自分の意思で。


 それだけのことが、少し誇らしかった。


 その夜、セレスティアは新しい部屋に一人で戻った。


 仕事をするためではない。


 ただ、もう一度机を見たかった。


 宰相府の女官が、花瓶に白い小花を挿してくれていた。王太子府で飾られていた豪華な薔薇ではない。野に咲くような小さな花だった。


 セレスティアは椅子に座る。


 かつての机。

 新しい部屋。

 空いた天板。

 青い栞。

 署名済みの任用通知の控え。


 彼女は、そっと机の引き出しを開けた。


 中には、何も入っていない。


 空だった。


 以前なら、その空白に不安を覚えた。

 今も、少し覚える。


 だが、空であることは悪いことではないのかもしれない。


 これから、自分で入れるものを選べるのだから。


 セレスティアは、青い栞を引き出しの中へ入れた。


 それから、今日自分宛てに書いた短い覚書を一枚。


『私は、私の名前を取り戻す』


 その紙も入れた。


 引き出しを閉じる。


 小さな音がした。


 それは、終わりではなく、始まりをしまう音だった。


 窓の外には、夜の王宮が広がっている。


 あの白い塔のどこかに、ジュリアスがいる。

 別の場所にはリリアナがいて、父と母は公爵邸で何を話しているのか分からない。


 彼らとの関係は、まだ何も終わっていない。


 むしろ、これから崩れていくのかもしれない。


 それでも。


 セレスティアは、机に手を置いた。


 ここは、誰かに与えられた檻ではない。


 自分で座ると決めた場所だ。


 明日、帳簿を開く。


 ラドクリフ商会の名を追う。


 自分の署名が、どこで、誰に、何のために使われたのかを確かめる。


 怖い。


 けれど、もう逃げない。


 そのとき、扉が軽く叩かれた。


「まだ起きているのか」


 カインの声だった。


 セレスティアは少しだけ笑ってしまった。


「書類は読んでおりません」


「質問に答えていない」


「起きております」


「寝ろ」


「机を見ていただけです」


 扉の向こうで、短い沈黙があった。


「……それならいい」


「よろしいのですか」


「書類ではないからな」


 その言い方がおかしくて、セレスティアはまた少し笑った。


「宰相閣下」


「何だ」


「この机を、ありがとうございます」


 扉の向こうで、カインの気配が少しだけ止まった。


「君のものだ」


「はい」


 セレスティアは、机に触れたまま答えた。


「今度は、そう思えます」


 カインはそれ以上、何も言わなかった。


 足音が遠ざかる。


 セレスティアは窓の外を見た。


 王宮の灯りは、今夜も美しい。


 けれど、もうあの光の中に自分を閉じ込める必要はない。


 彼女には机がある。


 鍵がある。


 名前がある。


 そして、明日開くべき帳簿がある。

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