第12話 では監査を始めましょう。まずは公爵家から
朝の宰相府には、いつもより人の気配が多かった。
廊下を行き交う書記官たちの足音は速く、法務官は封筒を抱えて小会議室と記録室を往復し、王宮会計室から派遣された監査官たちは、重そうな資料箱を二人がかりで運んでいる。
その箱の側面には、赤い封印紙が貼られていた。
王宮会計室保管原本。
王妃基金支出記録。
過去五年分。
それを見た瞬間、セレスティアは背筋を正した。
逃げ出したいとは思わなかった。
けれど、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
ここから先は、婚約破棄された令嬢の傷心ではない。
妹に立場を奪われた姉の悲しみでもない。
父に手紙を隠された娘の怒りだけでもない。
帳簿の問題になる。
数字の問題になる。
誰が、いつ、何に署名し、どの紙を差し替え、どこへ金を流したのか。
感情ではなく、記録が相手になる。
そして記録は、ときに人より残酷だった。
「セレスティア様」
記録官ミリアが控えめに声をかけた。
「準備が整いました」
「ありがとう」
セレスティアは頷き、小会議室へ入った。
室内にはすでにカイン、法務官オルド、王宮会計副監ローレン、監査官二名、記録官が揃っていた。
机の中央には、昨日見つかった概要表が置かれている。
問題の名は、ラドクリフ商会。
王太子府推薦商会として記録されていた一方で、エルフォード公爵家系列商会としても分類されている。王妃基金から複数回支出を受け、そのいくつかにセレスティアの署名が使われていた。
さらに亡き王妃エレオノーラの極秘監査記録には、こうあった。
『ラドクリフ商会。表向きは王太子府推薦。実質的にはエルフォード公爵家を経由。支出後、一部資金が王太子派貴族の社交費に流れた疑い』
セレスティアは席についた。
以前の彼女なら、真っ先に資料へ手を伸ばしていただろう。誰かに言われる前に、読み、分類し、必要なところへ付箋を入れたはずだ。
だが今は、最初に周囲を見た。
立ち会い人。
記録係。
原本保管者。
確認手順。
すべてが揃っている。
自分一人で背負う場ではない。
その確認をしてから、セレスティアは口を開いた。
「始めてください」
法務官オルドが記録用紙に日付を記す。
「これより、王妃基金過去支出記録の確認を開始します。対象はラドクリフ商会関連支出、ならびにセレスティア・エルフォード様の署名が記された承認書類。立ち会いは、王弟宰相カイン・ヴァレンティア閣下、王宮会計副監ローレン殿、王妃基金特別監査官代理セレスティア・エルフォード様、法務官オルド、監査官二名、記録官ミリア」
ペンが紙を走る音がする。
カインが言った。
「原本を」
ローレン副監が封印箱の状態を確認し、記録官に見せた。
「封印、破損なし」
監査官が封を切る。
箱の中から、厚い書類束が出された。
革紐で綴じられた支出申請書。
添付資料。
見積書。
承認票。
送金控え。
そのひとつひとつが、誰かの手を通ってここまで来たものだ。
セレスティアは、最初の束を受け取った。
支出名目は、聖ミラーナ救護院の冬季修繕費。
ラドクリフ商会が資材調達を担当。
推薦経路は、エルフォード公爵家紹介。
王太子府確認印あり。
王妃基金からの支出あり。
そして、承認確認欄にセレスティアの署名があった。
見慣れた字。
自分の名前。
それを見た瞬間、胸がわずかに詰まった。
何度見ても慣れない。
自分の署名が、知らない文脈に置かれていることに。
「署名は」
カインが問う。
セレスティアは息を整え、答えた。
「筆跡は私のものです」
記録官が書き留める。
「ただし、この支出内容をこの形で承認した記憶はありません」
ローレン副監が紙を一枚めくる。
「当時の会計室控えでは、修繕費の見積額はこの原本より低かった可能性があります。控えを照合します」
別の監査官が写しを差し出す。
セレスティアは二つの文書を並べた。
原本。
会計室控え。
似ている。
だが、違う。
「見積明細の二頁目が差し替えられています」
セレスティアはすぐに言った。
オルドが顔を上げる。
「どの点で?」
「紙質が違います。原本の一頁目と三頁目は同じ工房の紙ですが、二頁目だけ繊維が粗い。それから、綴じ穴の位置が少しずれています」
監査官が拡大鏡を取る。
セレスティアは続けた。
「私が確認したときは、屋根の補修材と暖炉煙突の修繕が中心でした。ですが、この二頁目には礼拝堂装飾の修繕費が入っています。救護院の冬季修繕としては優先順位が不自然です」
ローレン副監が控えを確認する。
「会計室控えには礼拝堂装飾費はありません」
「差し替え確定と見てよいでしょう」
カインの声が低い。
「記録」
オルドがすぐに書く。
「聖ミラーナ救護院冬季修繕費。承認後に見積明細二頁目差し替え疑い。紙質、綴じ穴、会計室控えとの差異あり」
セレスティアは、署名欄に視線を戻した。
自分は確かに、冬季修繕を承認した。
子どもたちが寒い思いをしないように。
煙突の修理が遅れないように。
雪が来る前に屋根を直せるように。
その署名の後に、誰かが別の費用を入れた。
善意の名を借りて、数字を膨らませた。
指先が冷たくなる。
だが、震えはしなかった。
「次をお願いします」
二件目は、北方三州への救済物資輸送費だった。
ラドクリフ商会が輸送を請け負ったことになっている。
添付された輸送経路図を見て、セレスティアは眉を寄せた。
「この経路は遠回りです」
監査官が地図を広げる。
「通常路ではありませんか」
「通常路に見えますが、冬季閉鎖される峠を通っています。この時期なら東側の低地路を使うはずです。過去の救済輸送記録では、東側経路を使っています」
ローレン副監が別帳簿を開く。
「確かに、前年と前々年は東側低地路です」
「こちらの経路で請求すると、距離が伸びるため輸送費が増えます。ただし実際にこの峠を通ったとは考えにくいです。冬季ですから」
カインが静かに言った。
「つまり、実際とは異なる経路で高額請求した可能性」
「はい」
「署名は」
セレスティアは承認欄を見る。
そこにも自分の名があった。
「これも筆跡は私のものです。ただ、私が見た経路図は東側低地路でした」
「差し替えの痕跡は」
「地図の折り目が他の添付資料と合いません。後から挟み込まれた可能性があります」
オルドのペンが忙しく動く。
三件目。
慈善茶会の物品調達費。
過去の茶会で使用した北方産品の購入記録に、ラドクリフ商会が仲介として入っている。
これは一見、問題がなさそうだった。
だが、セレスティアは納品一覧を見て手を止めた。
「この蜂蜜の量が多すぎます」
ミリアが瞬きする。
「多すぎる、ですか」
「はい。茶会で使用する量の三倍以上あります。残りはどこへ行ったのでしょう」
ローレン副監が納品後の在庫記録を確認する。
「王宮倉庫への入庫記録は、茶会使用分のみです」
「では、残りの納品先を確認する必要があります」
監査官が商会請求書を見た。
「請求書上は全量王宮納品となっています」
「不一致です」
セレスティアは言った。
その声は静かだった。
「茶会を名目に、実際には別の場所へ物品が流れた可能性があります」
カインは低く問う。
「その別の場所が、王太子派貴族の社交費か」
「現段階では断定できません」
「では、断定せず記録しろ」
セレスティアは頷いた。
「はい。納品記録と倉庫入庫記録に差異あり。差分の行方について追加照会が必要です」
そう言いながら、彼女はふと思った。
以前なら、こうした違和感に気づいても、自分だけの覚書に書いていた。
誰に伝えるべきか迷い、父の顔色をうかがい、王太子府の機嫌を考え、王妃亡き後の混乱を理由に後回しにしていたかもしれない。
けれど今は、違和感をその場で記録できる。
それだけで、事実の重さが変わる。
声に出された疑問は、もう一人で抱えるものではなくなる。
午前中だけで、五件の支出に不自然な点が見つかった。
すべてにラドクリフ商会が関わっている。
そのうち三件にセレスティアの署名がある。
二件はエルフォード公爵家の紹介。
一件は王太子府推薦。
そして、すべて王妃基金から支出されていた。
ローレン副監は、眼鏡を外して眉間を押さえた。
「これは、偶然とは言いにくいですね」
法務官オルドも頷く。
「少なくとも、過去支出の本格監査に入る理由としては十分です」
カインはセレスティアを見た。
「君の見解は」
セレスティアは、机の上の書類を見渡した。
紙。
署名。
見積。
地図。
請求書。
差し替えられた添付資料。
どれも小さな違和感だった。
だが、並べると形になる。
自分の名前の上に、誰かが別の書類を積んだ。
王妃基金の善意の上に、誰かが別の目的を載せた。
公爵家と王太子府の名を使い、誰かが得をした。
それはもう、家族の揉め事ではない。
「正式監査の必要があります」
セレスティアは答えた。
「対象は」
カインの問いに、彼女は即答しなかった。
分かっている。
分かっているのに、口にするには覚悟がいる。
エルフォード公爵家。
自分が生まれ育った家。
父が当主で、母がいて、妹がいる家。
自分の部屋があり、そこから手紙が見つかった家。
自分の署名を家の信用として使っていた家。
そこを、監査対象にする。
セレスティアは、胸の痛みを一度だけ受け止めた。
そして言った。
「王妃基金関連支出におけるラドクリフ商会、および同商会とエルフォード公爵家との関係。加えて、私の署名が使われた支出書類の差し替え疑いです」
オルドが記録する。
カインはさらに問う。
「王太子府は」
「関連は確認します。ただ、最初の監査対象を広げすぎると、焦点がぼやけます」
セレスティアは、自分でも驚くほど冷静に言えた。
「まずは、書類上で最も近い場所から確認すべきです。エルフォード公爵家系列商会、父の紹介状、私の署名が同じ支出に重なっています」
ローレン副監が、静かに頷いた。
「妥当です。会計室としても、まず公爵家系列の経路を洗うのが早い」
カインは、しばらくセレスティアを見ていた。
「分かった」
彼は短く言った。
「正式監査請求書を作成する」
室内の空気が、また一段重くなった。
監査請求。
準備ではない。
確認でもない。
正式な手続きとして、公爵家に踏み込む。
セレスティアは、自分の掌が少し汗ばんでいるのに気づいた。
それでも、視線は逸らさなかった。
同じ頃、王太子府ではリリアナが再申請書式と向き合っていた。
机の上には、セレスティアから届いた書式が広げられている。
一、茶会の目的。
二、招待者と公益上の理由。
三、各支出の必要性。
四、支援対象者から聞き取る事項。
五、王妃基金から支出する範囲。
六、王太子府または私費で負担する範囲。
リリアナは、その一項目目で止まっていた。
茶会の目的。
殿下に褒められるため。
貴婦人たちに認められるため。
姉よりも明るく優しい王太子妃候補だと示すため。
思いつくものは、どれも書けなかった。
慈善茶会の目的として、あまりにも恥ずかしい。
侍女が遠慮がちに尋ねる。
「リリアナ様、お茶をお淹れしましょうか」
「いらないわ」
リリアナは小さく首を振った。
そして、紙の余白に小さく書いた。
『北方三州と孤児院の現状を聞くため』
その一文を書くだけで、妙に疲れた。
今までなら、美しい言葉をいくらでも書けた。
愛。
希望。
慈愛。
民に寄り添う心。
けれど、セレスティアの書式はそれでは通らない。
誰の声を聞くのか。
何を確認するのか。
なぜその費用が必要なのか。
逃げ場がない。
リリアナは、姉の仕事の入口に初めて立っていた。
「お姉様は……こんなことを、ずっと」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
そのとき、王太子ジュリアスが入ってきた。
「リリアナ。まだその書類を見ているのか」
リリアナは顔を上げる。
「はい。再申請をしなければ、茶会が開けませんので」
「茶会など、今は後でいい」
ジュリアスの声は荒れていた。
昨日の宰相府での面会以来、機嫌が悪い。セレスティアに拒絶されたことが、彼の中でまだ消化できていないのだろう。
「殿下?」
「宰相府が、公爵家関連の監査に入るらしい」
リリアナの顔色が変わる。
「公爵家……うちの?」
「まだ正式発表ではない。だが、王宮会計室が過去の支出記録を洗っている。父上――いや、グレアム公爵にも照会が増えている」
リリアナの手元から羽根ペンが転がった。
「どうして……」
「セレスティアだ」
ジュリアスは苦々しく言った。
「あの女が、父親まで追い詰めるつもりなのだ」
リリアナはすぐには頷けなかった。
姉が父を追い詰める。
そう言えば、確かにそう見える。
でも、王妃の手紙を隠していたのは父だ。
姉の署名が使われていたのも事実らしい。
茶会費を止められたときも、最初は意地悪だと思ったが、書式を読めば自分の甘さが分かってしまった。
では、今回も。
リリアナの胸に、嫌な予感が生まれた。
「殿下」
「何だ」
「お父様は、本当に何も悪いことをしていないのでしょうか」
ジュリアスの顔が強張った。
「君は、父親を疑うのか」
「疑いたいわけではありません」
「なら疑うな」
強い声だった。
リリアナは肩を震わせる。
だが、完全に黙ることはできなかった。
「でも、お姉様の手紙を隠していたのは、本当なのでしょう?」
ジュリアスの目が険しくなる。
「それは公爵家の判断だ。王妃陛下の私的な意向に、家が振り回されるわけにはいかない」
「でも、お姉様宛てだったのに」
「リリアナ」
ジュリアスは低く言った。
「君は優しい。だからセレスティアに同情してしまうのだろう。だが、今はそれが危険だ」
「危険……」
「セレスティアは、宰相に利用されている。公爵家と王太子府を弱らせるために」
リリアナは目を伏せた。
そうなのだろうか。
そう思えたら楽だった。
姉は操られている。
だから厳しい。
だから家を監査しようとしている。
だから自分を叱るような書式を送ってきた。
そう考えれば、自分は悪くない。
けれど、セレスティアの文字を思い出す。
『華やかさではなく、誰の声を聞く場なのかを先に決めてください』
あの一文は、操られて書いたものだろうか。
リリアナには、そうは思えなかった。
エルフォード公爵邸には、さらに重い空気が流れていた。
グレアム公爵の机の上には、王宮会計室からの照会文が積まれている。
ラドクリフ商会。
聖ミラーナ救護院修繕費。
北方三州輸送費。
慈善茶会物品調達費。
どれも、公爵家が過去に関わった案件だった。
執事が青ざめた顔で報告する。
「旦那様、ラドクリフ商会の代表より至急お目通りを願いたいと」
「断れ」
「ですが、王宮会計室から商会にも照会が入ったようで、かなり動揺しております」
「今会えば、余計な記録が残る」
グレアムは低く言った。
その声には、昨日までの怒気だけではなく、計算が混じっていた。
まずい。
そう思っていた。
セレスティアが、ここまで早く辿り着くとは思わなかった。
いや、セレスティアだけではない。宰相府、王宮会計室、法務官が動いている。
娘の覚書をただの雑記として処分できなかった時点で、流れは変わっていた。
エヴァンジェリンが、部屋の隅に立っている。
「あなた」
「今度は何だ」
「ラドクリフ商会とは、何なのですか」
「お前が知る必要はない」
「セレスティアの署名が使われているのでしょう?」
グレアムは妻を睨んだ。
「誰から聞いた」
「使用人たちが噂しています。王宮会計室からの照会が届けば、隠しきれるものではありません」
「下らん噂だ」
「本当に?」
エヴァンジェリンの声は震えていた。
だが、今度は引かなかった。
「本当に下らない噂なら、なぜあなたはそんな顔をしているのですか」
グレアムは机を叩いた。
「黙れと言っている!」
その怒声に、部屋の外に控えていた使用人が身をすくませる気配がした。
エヴァンジェリンも肩を震わせた。
だが、泣かなかった。
「私は、ずっと黙っていました」
彼女は言った。
「セレスティアが傷ついても、あの子が我慢しているから大丈夫だと思って黙っていました。リリアナが泣くと、セレスティアに譲らせました。あなたが家のためだと言えば、それ以上聞きませんでした」
グレアムは眉をひそめる。
「今さら何が言いたい」
「今さらだから、聞きたいのです」
エヴァンジェリンは、夫を見た。
「あの子の署名を、何に使ったのですか」
沈黙が落ちた。
それは、答えよりも重かった。
グレアムは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「家を守るためだ」
それは、否定ではなかった。
エヴァンジェリンの顔が青ざめる。
「あなた……」
「どの家もやっている。王宮の基金に関わる以上、商会との調整は必要だ。セレスティアの署名があれば話が早かった。それだけのことだ」
「それだけのことで、あの子の署名を?」
「娘の価値を家のために使って何が悪い」
エヴァンジェリンは、言葉を失った。
夫は、本気でそう思っている。
娘の価値。
家のために使うもの。
その考え自体を、疑っていない。
エヴァンジェリンは、その場で初めて理解した。
セレスティアは、家の中でずっと人ではなく資産として扱われていたのだ。
そして自分も、それに加担していた。
宰相府では、午後から緊急会議が開かれた。
小会議室より広い、正式な会議室だった。
長い机の上には、今日確認した原本、写し、記録、王妃の極秘監査記録、公爵家からの回答文、署名改竄疑いの文書が整然と並んでいる。
出席者はカイン、セレスティア、法務官オルド、会計副監ローレン、監査官二名、記録官ミリア。
会議室の空気は、午前中よりさらに重かった。
カインが口を開く。
「状況を整理する」
オルドが立ち上がり、記録を読み上げた。
「第一に、亡き王妃陛下よりセレスティア様宛ての私信が、開封済みの状態でエルフォード公爵家内より発見されました。同私信には、王太子妃候補から王宮監査官補佐への移行準備が記されていました。公爵家は、当主判断により本人へ渡さず保管したことを認めています」
セレスティアは、膝の上で手を重ねる。
もう、その一文を聞いても息が止まることはなかった。
痛みはある。
けれど、記録の中では、それは事実として置かれている。
「第二に、セレスティア様の署名が記された複数の王妃基金関連支出書類に、添付資料差し替え、紙質の不一致、綴じ穴の不自然なずれ、会計室控えとの差異が確認されました」
ローレンが頷く。
「会計室としても、原本監査の必要を認めます」
「第三に、ラドクリフ商会が複数の支出に関与。同商会は王太子府推薦商会として扱われる一方、エルフォード公爵家系列または同家経由の商会としての記録も存在します」
カインの視線がセレスティアへ向いた。
促されたのだと分かった。
セレスティアは立ち上がった。
目の前には、父の家を示す文書がある。
怖さはある。
だが、もう逃げない。
「以上の点から、王妃基金特別監査官代理として、正式監査の開始を求めます」
自分の声が会議室に響く。
「監査対象は、王妃基金におけるラドクリフ商会関連支出、同商会とエルフォード公爵家の関係、ならびに私、セレスティア・エルフォードの署名が用いられた承認書類の改竄疑いです」
言葉を切る。
誰も遮らない。
セレスティアは続けた。
「なお、王太子府推薦経路についても関連確認を行う必要があります。ただし、初動監査は書類上の関与が最も濃いエルフォード公爵家および同系列商会から始めるべきと判断します」
父の家の名を、自分の口で監査対象として告げた。
その瞬間、胸が軋んだ。
けれど、声は崩れなかった。
カインが問う。
「理由は」
「一、王妃陛下の私信未交付が公爵家内で発生していること。二、私の署名を利用した可能性がある支出に、公爵家紹介または系列商会が複数関わっていること。三、証拠保全の観点から、最も早く動く必要があること」
セレスティアは、机の上の原本に視線を落とした。
「父が関わっていると断定するものではありません。ですが、父が関わっていないと決めつける根拠もありません」
言ってから、少しだけ息を吸う。
「だから調べます」
会議室に、静かな重みが落ちた。
ローレン副監が、ゆっくり頷いた。
「王宮会計室は協力します。過去五年分と言わず、必要なら十年分まで遡れます」
オルドも言う。
「法務官として、証拠保全命令と照会文の発行を準備します」
記録官ミリアが筆を走らせる。
カインは、最後にセレスティアを見た。
「監査開始文書に署名できるか」
「はい」
カインが一枚の正式文書を差し出した。
『王妃基金関連支出に関する特別監査開始請求書』
そこには、監査対象、目的、根拠、初動調査範囲、証拠保全対象が記されている。
セレスティアは、最初から最後まで読んだ。
急がない。
読み飛ばさない。
自分の署名が、二度と勝手に使われないように。
読み終えたあと、彼女は羽根ペンを取った。
署名欄の前で、ほんの一瞬だけ父の顔が浮かんだ。
次に、母の顔。
リリアナの顔。
ジュリアスの顔。
そして最後に、亡き王妃の手紙の一文。
あなたの名を取り戻しなさい。
セレスティアは署名した。
セレスティア・エルフォード。
迷いのない字だった。
カインが確認印を押す。
重い音が、会議室に響いた。
「承認する」
その一言で、正式監査は始まった。
監査開始の第一報は、すぐに関係各所へ送られた。
王宮会計室。
法務局。
エルフォード公爵家。
ラドクリフ商会。
王太子府。
宰相府の印を押された封書が、夕暮れの王宮を走る使者たちの手で運ばれていく。
その中でも、エルフォード公爵家へ向かった封書は、ひときわ重かった。
グレアム公爵がそれを開いたとき、彼の顔から血の気が引いた。
『王妃基金関連支出に関する特別監査開始通知』
監査対象には、はっきりと記されていた。
ラドクリフ商会。
エルフォード公爵家系列商会。
セレスティア・エルフォード署名使用書類。
亡き王妃私信未交付に関する経緯。
グレアムは、文書を握り潰しそうになった。
だが、潰せなかった。
それもまた、記録になると分かっていたからだ。
部屋の入口で、リリアナが立っていた。
王太子府から戻ったばかりなのだろう。顔色は悪く、手には書きかけの再申請書式を持っている。
「お父様……」
グレアムは答えなかった。
リリアナは震える声で尋ねる。
「お姉様が、監査を始めたのですか」
グレアムは、低く言った。
「そうだ」
「うちを?」
「そうだ」
リリアナは、手元の紙を握りしめた。
姉の字で書かれた書式。
自分がまだ埋めきれない茶会の目的。
そして、父の手の中にある監査通知。
すべてが繋がっている気がした。
姉はもう、ただ怒っているだけではない。
本当に、進んでいる。
自分たちが知らなかった場所へ。
王太子府にも、同じ通知が届いた。
ジュリアスは文書を読み、顔を険しくした。
「叔父上は、本気で公爵家を潰すつもりか」
侍従長は慎重に答える。
「監査対象は、王妃基金関連支出に限るようです」
「建前だ」
ジュリアスは文書を机に置いた。
「セレスティアは、自分を捨てた私とリリアナへの報復として、公爵家を狙っている」
そう言い切ったものの、声にはかすかな焦りがあった。
監査通知の中には、王太子府推薦商会という文字もあった。
まだ初動対象ではない。
しかし、いずれ王太子府にも線が伸びてくる。
それを、ジュリアスも感じ取っていた。
「リリアナを呼べ」
侍従長は頭を下げる。
「リリアナ様は公爵邸へ戻っておられます」
「なら、使者を出せ」
「何と」
ジュリアスは少し考え、低く言った。
「セレスティアを止めるには、リリアナから話させるしかない」
侍従長は何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
宰相府では、監査開始文書の発送を終えたあと、会議室に静かな疲労が残っていた。
法務官も監査官も席を立ち、資料は封印箱に戻されていく。
最後に残ったのは、セレスティアとカインだった。
夕陽が窓から差し込み、机の上の封印紙を赤く染めている。
「終わりましたね」
セレスティアは小さく言った。
「始まっただけだ」
「そうでした」
彼女は苦笑した。
そう、終わりではない。
始まりだ。
公爵家の監査。
ラドクリフ商会の調査。
署名改竄疑いの追及。
王太子府への波及。
リリアナとの対峙。
父と母への聞き取り。
これから、もっと痛いものを見ることになる。
カインが問う。
「後悔しているか」
セレスティアは窓の外を見た。
王宮の塔が夕暮れに染まっている。
あの場所で、彼女は十年を過ごした。
捨てられ、奪われ、利用され、それでも仕事を嫌いになりきれなかった。
今、彼女はその王宮の中で、父の家を監査しようとしている。
後悔。
その言葉を胸の中で転がす。
「痛いです」
彼女は正直に答えた。
「父の名を監査対象として見るのは、痛いです。母やリリアナがどう思うかも、怖いです」
「ああ」
「でも、後悔はしていません」
セレスティアは、カインを見る。
「これをしなければ、私はまた自分の名前を誰かに預けたままになります」
カインは頷いた。
「なら進め」
「はい」
セレスティアは机の上に残っていた監査開始文書の控えを手に取った。
そこには、自分の署名と、カインの確認印が並んでいる。
自分の意思と、手続き。
感情と、記録。
その二つが、同じ紙の上にあった。
「宰相閣下」
「何だ」
「最初の監査対象は、王宮か、王太子府かと問われたら、以前の私は迷ったと思います」
「今は」
セレスティアは、静かに答えた。
「今は、近いところから始めます」
カインの目が、わずかに細められる。
セレスティアは、控えを机に置いた。
「では、監査を始めましょう」
声は大きくなかった。
けれど、会議室の静けさの中で、はっきり響いた。
「まずは、私を捨てたエルフォード公爵家から」
カインは一拍置き、静かに頷いた。
「承認する」
夕陽が沈みかけ、会議室の中に長い影が伸びる。
その影の中で、セレスティアはもう一度、自分の署名を見た。
今度の署名は、誰かに使われたものではない。
自分で選び、自分で書いたものだ。
婚約者も、屋敷も、家族の居場所も奪われた。
けれど、亡き王妃の帳簿には、彼女の名前が残されていた。
そして今、その名前で監査が始まる。
王宮の奥で、封じられていた紙の束が動き出した。
もう誰も、セレスティア・エルフォードをただの影とは呼べない。




