第82話 救われる側にも、隠したい顔がある
王都南部救護院は、王宮から馬車で半刻ほど南へ下った場所にあった。
王都と呼ばれる範囲の内側ではある。けれど、貴族たちが暮らす北区や、商会の看板が並ぶ中央通りとは空気がまるで違う。
石畳はところどころ欠け、雨上がりの水が細い溝に残っていた。洗濯物を抱えた女たちが足早に通り、荷車を引く男が肩を丸めて坂を上る。小さなパン屋の煙突からは、焦げた小麦の匂いが漂っていた。
セレスティアは馬車の窓から外を見ていた。
華やかではない。
けれど、人が暮らしている。
王妃基金の報告書に出てくる「王都南部救護院」という名前は、紙の上では一行だ。
だが、その一行の先には、こういう通りがあり、濡れた石畳があり、誰かの息づかいがある。
向かいに座るマリアナ修道女が、静かに言った。
「この辺りは、冬になると特に冷えます」
「王都の中でも、ですか」
「はい。南側は風が抜けますし、古い建物が多いのです。救護院も、壁の隙間を何度も直しているのですが……」
マリアナ修道女は、そこで少し言葉を切った。
「燃料が足りないと、夜が長くなります」
夜が長くなる。
その言葉に、セレスティアは胸の奥が重くなった。
燃料不足。
報告書では、そう書く。
だが現場では、それは「夜が長くなる」ということなのだ。
馬車が緩やかに止まる。
救護院は、古い修道院を改修した建物だった。白壁はところどころ灰色に汚れ、窓枠の木は古くなっている。それでも、入口の周りは丁寧に掃き清められていた。
扉の前に、一人の女性が立っている。
年は五十前後だろうか。質素な濃灰色の服を着て、髪をきっちりまとめている。疲れは見えるが、背筋はまっすぐだった。
「セレスティア様。マリアナ修道女様」
女性は深く礼をした。
「王都南部救護院の院長、テレーズ・バルナでございます」
「急な訪問を受け入れてくださり、ありがとうございます」
セレスティアも礼を返す。
「燃料支援の手配は進めています。まずは現状を確認させてください」
「はい。こちらへ」
院長の案内で中へ入ると、すぐに空気の冷たさが分かった。
外よりはましだ。
だが、暖かいとは言えない。
廊下の壁には薄い布が掛けられ、隙間風を防ぐ工夫がされていた。床は磨かれているが、古い木板がところどころ沈む。
奥の部屋から、咳の音が聞こえた。
それから、子どもの小さな泣き声。
セレスティアは足を止めなかった。
止めてしまえば、感情が先に出そうだった。
院長は廊下を歩きながら説明する。
「現在、救護院には長期滞在者が二十三名、一時保護が十一名おります。冬前はいつも燃料と寝具洗浄費が不足しますが、今年は寄付が遅れておりまして」
「匿名支援者からの申し出は、いつ届きましたか」
「三日前です」
「三日前」
セレスティアは眉を寄せた。
王妃基金へ急報が届くより前だ。
「最初は、代理人を名乗る方が来ました。名は伏せたいが、救護院を支援したいと」
「支援内容は?」
「燃料費と寝具洗浄費、さらに冬季の粥用穀物を一部。金額としては、かなり大きいものでした」
院長の声には、迷いがにじんでいた。
断るには大きすぎる支援。
けれど、受け入れるには危うい条件。
セレスティアは静かに尋ねた。
「その時点で、社交紙への掲載条件は出ていましたか」
「はい。ただ、最初は『救護院の現状を広く知ってもらうため』という説明でした」
「救護院名だけですか」
院長は首を横に振った。
「いいえ。救護院で保護されている方の事情を、いくつか紹介したいと」
セレスティアは、足元の床板を見た。
やはり。
「名前は仮名でよい。顔は出さない。けれど、読者が心を動かされる程度には事情を書きたい、と」
院長は、苦しそうに続けた。
「私は、その場で即答できませんでした。燃料が足りないのは事実です。寝具も、洗って乾かす費用が足りません。けれど……ここにいる方々は、事情を抱えて来ています。知られたくないことを、たくさん抱えています」
その言葉の途中で、廊下の向こうから若い女性が現れた。
腕に小さな子どもを抱いている。
痩せた女性だった。
髪は簡単に結ばれ、頬には疲れが滲んでいる。だが、子どもを抱く腕だけは、驚くほど強く見えた。
院長が少し慌てたように声をかける。
「リーネ。部屋に戻っていなさい。お客様がおられます」
リーネと呼ばれた女性は、セレスティアを見ると、すぐに礼をしようとした。
しかし、子どもを抱いているためうまくできず、かえって身を縮めてしまう。
セレスティアは、先に軽く頭を下げた。
「そのままで大丈夫です」
女性は戸惑った顔をした。
「……王妃基金の方ですか」
「はい。セレスティア・エルフォードです」
「では、燃料の……」
「短期支援の手配を進めています。今日、状況を確認しに参りました」
リーネは、小さく息を吐いた。
安堵のような、緊張のような息だった。
「ありがとうございます」
声が細い。
けれど、すぐに彼女は顔を上げた。
「あの、院長先生から聞きました。私たちのことを、紙に載せる話があるって」
院長が止めようとする。
「リーネ、今は」
「いえ」
セレスティアは静かに言った。
「聞かせてください」
リーネは、抱いていた子どもを少し抱き直した。
子どもは眠っている。小さな頬が、母親の肩に押しつけられていた。
「助けてくださるなら、ありがたいです」
リーネは、ゆっくり言った。
「燃料がないと、この子が夜に咳をします。寝具も、洗っても乾ききらなくて……だから、お金を出してくださる方がいるなら、本当にありがたいです」
そこで、彼女の声が少し震えた。
「でも」
セレスティアは、何も言わずに待った。
「私の不幸を、知らない誰かに読まれるのは怖いです」
廊下が静かになった。
外から、車輪の音が遠く聞こえる。
リーネは続けた。
「名前を変えるから大丈夫だと言われました。でも、年齢や、この子のことや、私がどうしてここへ来たのかを書かれたら……分かる人には分かります」
抱かれた子どもが、小さく身じろぎした。
リーネは反射的にその背を撫でる。
「逃げてきた場所に、知られたくないんです。私がここにいることも、この子がいることも」
院長が、つらそうに目を伏せた。
マリアナ修道女も、胸の前で手を組んでいる。
セレスティアは、胸の奥が冷えるのを感じた。
燃料不足。
寝具洗浄費。
支援対象者情報の公表。
紙の上では別々の項目だった。
だが、目の前では一つにつながっている。
この女性と子どもが、夜に寒い思いをしないためには燃料が必要だ。
だが燃料のために、この女性の過去が読者の涙の材料にされるなら。
それは救いなのか。
セレスティアは、はっきり言った。
「リーネさん。あなたの事情を、あなたの同意なしに外へ出すことはありません」
リーネは、目を見開いた。
「でも……支援が」
「短期燃料支援は王妃基金から出します。今、手配しています」
「でも、その方のお金を断ったら」
「断るのではありません。条件を確認します。支援は受けられる形に整えます。ただし、あなたの不幸を差し出すことは条件にしません」
リーネは、すぐには理解できないようだった。
無理もない。
今まできっと、助けてもらうためには何かを差し出す必要があると思わされてきたのだろう。
金がないなら頭を下げる。
居場所がほしいなら事情を話す。
助けてほしいなら、弱さを見せる。
そういう世界で生きてきた人に、「差し出さなくていい」と言うのは、思ったより難しい。
セレスティアは、声を少し柔らかくした。
「寒い夜を越すために、あなたの過去を売る必要はありません」
リーネの目が、じわりと潤んだ。
彼女は泣かなかった。
ただ、子どもを抱く腕に力を込めた。
「……そんなこと、言っていただけると思いませんでした」
「言うだけで終わらせません」
セレスティアは院長を見る。
「院長。短期燃料支援は予定通り動いています。寝具洗浄費についても、衛生支援分野として急ぎ確認します」
「ありがとうございます」
「それから、救護院内で社交紙の取材希望や支援者代理人から接触があった場合、直接応じないでください。王妃基金窓口へ回してください」
「はい」
「職員の方々にも徹底をお願いします。善意の申し出であっても、支援対象者の情報を求められたら保留です」
「承知しました」
リーネが、小さく呟いた。
「保留……」
セレスティアは頷いた。
「すぐ答えなくてよい、ということです」
「すぐ答えなくてよい」
「はい」
リーネは、その言葉を確かめるように繰り返した。
それは、彼女にとって新しい言葉なのかもしれない。
救護院の中を回ると、支援が必要な場所はすぐ分かった。
燃料庫は、ほとんど空に近い。
洗濯場には、乾ききらない寝具が何枚も吊られていた。湿った布の匂いが空気に残っている。
厨房では、薄い粥が大きな鍋で煮られていた。
具は少ない。
だが、厨房の女性は「今日は少し温かいものを出せます」と言って笑った。
その笑顔が、かえって胸に刺さった。
院長は、資料を見せながら説明した。
「匿名支援者側が特に希望したのは、リーネのような若い母子、病で職を失った職人、そして身寄りのない老婦人の話です」
「読者が心を動かされやすいから、でしょうね」
セレスティアが言うと、院長は苦い顔をした。
「はい。代理人も、そう言いました。『多くの方が涙を流し、支援の輪が広がるでしょう』と」
マリアナ修道女が静かに言う。
「涙を流すのは読者です。しかし、その涙の材料になるのは、ここにいる方々です」
セレスティアは、はっとしてマリアナを見た。
その言葉は、深い。
「その通りです」
院長は、手元の資料を握りしめた。
「私どもも、支援を広げたい気持ちはあります。ここだけでは足りません。知っていただかなければ、支援が集まらないことも分かっています」
「はい」
「けれど、誰かの事情を、読み物にしてよいのか……」
院長は苦しそうに言った。
「私には、判断できませんでした」
「判断できなかったから、王妃基金へ回してくださったのですね」
「はい」
「それで正しいです」
院長は、少しだけ顔を上げた。
「正しい、のでしょうか」
「はい。迷った時に保留して確認する。それが、今の王妃基金の手続きです」
セレスティアは、院長の目を見た。
「困っている時ほど、すぐ答えないための手続きが必要です」
院長は、ゆっくり頷いた。
「救護院にも、その言葉が必要でした」
帰り際、リーネが入口まで見送りに来た。
子どもは今度は起きていて、母の胸元でぼんやりこちらを見ている。
セレスティアは、あまり近づきすぎない距離で立ち止まった。
リーネが言った。
「セレスティア様」
「はい」
「もし、私たちのことを載せないなら……支援は減ってしまいますか」
それは、切実な問いだった。
載せれば支援が増えるかもしれない。
載せなければ、助けは減るかもしれない。
そんな不安。
セレスティアは、簡単に「大丈夫」とは言えなかった。
それは無責任だ。
「増える機会を失う可能性はあります」
正直に言った。
リーネの顔が少し曇る。
「ですが、王妃基金は別の形で必要性を伝えます。個人の事情ではなく、燃料不足、寝具洗浄費、冬季の救護院支援という形で」
「それで、伝わるのでしょうか」
「伝わるようにします」
リーネは、じっとセレスティアを見た。
その目には、不安と、少しだけの希望があった。
「私は、知らない誰かに可哀想と思われるより、この子が暖かく眠れる方がいいです」
セレスティアは、静かに頷いた。
「その言葉を、制度の方針にします」
「制度……?」
「あなたの名前や事情は出しません。でも、あなたが怖いと思ったことは、王妃基金が次に同じことを防ぐための方針にします」
リーネは、少し戸惑った後、小さく頷いた。
「私の名前が出ないなら……それでお願いします」
「必ず守ります」
その約束は重かった。
けれど、言わなければならない約束だった。
王宮へ戻る馬車の中で、セレスティアはずっと黙っていた。
マリアナ修道女も、しばらく何も言わなかった。
車輪が石畳を打つ音だけが続く。
やがて、マリアナが静かに言った。
「リーネの言葉は、重かったですね」
「はい」
「私ども支援先も、時々迷います。支援を集めるためには、困っていることを伝えなければならない。でも、伝え方を誤れば、そこにいる人の痛みが外へ出てしまう」
「支援の必要性は伝える。個人の痛みは守る」
セレスティアは、ゆっくり言った。
言いながら、その言葉が自分の中で形になるのを感じた。
「それを、王妃基金の方針にします」
マリアナ修道女は、深く頷いた。
「よいと思います」
「ただ、簡単ではありません」
「はい」
「支援を広げるためには、物語が必要だと言う人もいるでしょう。感動が寄付を集めるのだと」
「それも、完全には間違いではありません」
マリアナの声は静かだった。
「けれど、涙は差し出すものではありません。こぼれてしまうものです」
セレスティアは、その言葉を胸に刻んだ。
涙は差し出すものではない。
こぼれてしまうもの。
これも、どこかに残すべき言葉だ。
だが、今はまず、リーネの言葉を守らなければならない。
王宮へ戻ると、ミリアがすぐに出迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
「救護院は?」
「燃料支援は予定通り必要です。寝具洗浄費も急ぎます。それから……」
セレスティアは、机に向かい、すぐに記録用紙を出した。
「新しい方針案を書きます」
ミリアが筆を構える。
セレスティアは口にした。
「支援の必要性は伝える。個人の痛みは守る」
ミリアの筆が止まった。
それから、ゆっくり書き始める。
「……とても大切な言葉です」
「はい」
「救護院で?」
「リーネさんの言葉からです」
セレスティアは、リーネの名前を書こうとして、止めた。
そして、別の表記にした。
『救護院保護対象者の声』
名前は残さない。
でも、声は残す。
『助けてくださるなら、ありがたいです。でも、私の不幸を、知らない誰かに読まれるのは怖いです』
ミリアは、その文を見て、しばらく黙った。
「このまま報告書に載せますか」
「いいえ。内部記録に留めます。外部向けには、個人の痛みを物語化しない方針として要約します」
「分かりました」
「この言葉自体も、扱いに注意してください。彼女の痛みを守るための言葉が、また誰かに読まれる材料になってはいけません」
「はい」
ミリアの表情は真剣だった。
「記録にも、守り方が必要ですね」
「ええ」
そこへ、カインが入ってきた。
「戻ったか」
「はい」
「どうだった」
セレスティアは、短く答えた。
「支援の必要性は伝える。個人の痛みは守る。これを方針にします」
カインは、少しだけ目を細めた。
「決まったな」
「はい」
「では、それで書け」
「はい」
セレスティアは、机に向かった。
疲れていた。
救護院の冷えた廊下、リーネの声、子どもの小さな頬。
それらが胸に残っている。
だが、今は書かなければならない。
痛みを消費しないために、制度の言葉へ変える。
それが、今の自分の仕事だった。
夜、覚書にはこう書いた。
『王都南部救護院訪問』
次に。
『燃料不足、寝具洗浄費不足、乾ききらない寝具、長い夜』
さらに。
『匿名支援者側の条件。救護院名だけでなく、保護対象者の事情を感動的な紹介文にしたい』
少し手を止める。
『救護院保護対象者の声。助けてくださるなら、ありがたい。でも、私の不幸を知らない誰かに読まれるのは怖い』
その言葉を書くだけで、胸が痛んだ。
セレスティアは、次の行に書いた。
『名前は残さない。声は残す』
さらに。
『支援の必要性は伝える。個人の痛みは守る』
最後に。
『涙は差し出すものではない。こぼれてしまうもの』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は重かったな」
「はい」
「書きすぎたか」
「一枚です」
「よし」
少し沈黙。
カインが低く言う。
「リーネという女性の名は、外へ出すな」
「出しません」
「だが、声は方針にしろ」
「はい」
「それでいい」
セレスティアは、静かに頷いた。
「カイン様」
「何だ」
「救われる側にも、隠したい顔があるのですね」
「ああ」
「当たり前のことなのに、紙にすると見落としそうになります」
「だから現場へ行った」
「はい」
「忘れるな」
「忘れません」
「なら寝ろ」
セレスティアは、小さく笑った。
「はい」
灯りを落とす。
救われる側にも、隠したい顔がある。
助けてほしい。
でも、知られたくない。
その二つは矛盾しない。
王妃基金は、その両方を受け止めなければならない。
支援の必要性は伝える。
個人の痛みは守る。
その言葉を胸に、セレスティアは静かに目を閉じた。




