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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第81話 匿名の善意は、名を隠して条件をつける

 王都南部救護院への短期燃料支援は、朝のうちに正式手配へ移された。


 王宮会計室から燃料商へ発注書が出され、輸送手配の控えが回り、王妃基金の記録簿には新しい項目が加えられた。


『王都南部救護院 緊急燃料支援』


『財源:返還金再配分残額および冬季輸送支援共同寄付予備分』


『目的:匿名支援者による公表条件付き直接支援の受諾判断を保留するため、救護院に短期的猶予を確保する』


 セレスティアは、その最後の一文を見て、しばらく黙った。


 猶予を確保する。


 ただ燃料を届けるだけではない。


 救護院が、不利な条件を急いで飲まなくて済む時間を作る。


 それが、今回の支援の本質だった。


 ミリアが隣で記録を整えている。


「輸送予定は明朝です。天候に問題がなければ、昼前には救護院へ届くとのことです」


「ありがとうございます」


「エミリア様への確認文も発送済みです」


「返答は?」


「まだですが、昨夜の時点で代表者として賛成の意向を示されています」


「では、正式記録には『代表者確認中、目的範囲内支出』としておきましょう」


「はい」


 ミリアは迷いなく書き込んだ。


 その筆の動きを見て、セレスティアは少しだけ胸をなで下ろした。


 動いている。


 王妃基金が、きちんと動いている。


 以前なら、燃料不足と聞けば、どこから金を出すのか、誰に許可を取るのか、何を優先するのかで混乱したかもしれない。


 今は、分類がある。


 記録がある。


 会計室が動き、法務局が確認し、共同寄付代表者へ説明が行く。


 完璧ではない。


 それでも、支援先が情報を差し出す前に、王妃基金が一歩先に動けた。


 その事実は大きかった。


 だが、安心するには早すぎた。


 扉が叩かれ、若い侍従が入ってきた。


「セレスティア様。王宮南門付近で、妙な噂が流れているとの報告です」


 ミリアの筆が止まる。


 セレスティアは顔を上げた。


「噂?」


「はい。王妃基金が、救護院への匿名支援を止めた、と」


 部屋の空気が、一瞬で冷えた。


「……まだ、王妃基金の外へ出していない話ですね」


「はい。少なくとも、正式発表はありません」


 侍従は緊張した顔で続けた。


「南門付近に出入りする御用商人の間で、『匿名の篤志家が救護院を助けようとしたのに、宰相府が規程を盾に止めたらしい』という話が出ています」


 ミリアが小さく息を呑んだ。


「早すぎます」


「ええ」


 セレスティアは、机の上の記録を見た。


 救護院から急報が届いたのは昨日。

 王妃基金が短期支援を決めたのも昨日。

 匿名支援者への正式照会文は、まだ法務局確認中。


 それなのに、すでに外で噂が流れている。


 内容も歪んでいる。


 王妃基金は、支援を止めたのではない。


 支援先の情報を社交紙へ載せる条件について、確認を求めているだけだ。


 その間、燃料支援も動かしている。


 しかし、噂の形では、そこが抜けている。


 匿名の篤志家。

 救護院を助けようとした。

 宰相府が止めた。

 冷たい規程。


 実に分かりやすい。


 分かりやすすぎる。


「ミリア」


「はい」


「噂の分類を」


 ミリアはすぐに新しい紙を出した。


『未確認噂』

『王妃基金による善意妨害との印象形成』

『匿名支援者側または社交紙側からの情報流出可能性』

『救護院側情報流出の有無確認必要』

『公式発表前の歪曲』


 筆が止まり、ミリアは顔を上げた。


「相手は、支援より先に噂を運んでいます」


 セレスティアは、その言葉に静かに頷いた。


「その通りです」


 胸の奥が、重くなる。


 だが、怯むほどではない。


 第二章の間に、こういう時の呼吸を覚えた。


 まず分類。

 次に確認。

 その後、対応。


 感情で動かない。


 ただし、心を消さない。


「侍従殿。南門付近で噂を聞いた者の名と、最初に聞いた時刻を確認してください。可能なら、誰から聞いたかも」


「承知しました」


「それから、救護院へは再度確認を。王妃基金からの返書以外に、外部へ情報を話したかどうか。ただし、問い詰める口調にしないでください。救護院は被害者側です」


「はい」


「匿名支援者への照会文は、法務局確認を急ぎます」


 侍従が下がると、ミリアが低く言った。


「社交紙でしょうか」


「まだ断定できません」


「ですが、噂の形が記事向きです」


「ええ」


 セレスティアは、机の端に置かれた資料を見た。


 王都には、慈善活動や貴族の善行を扱う社交紙がいくつかある。


 そのうち、とくに読まれているのが《王都慈善通信》。


 美しい見出し。

 涙を誘う小話。

 善良な貴族と、救われる民。


 寄付を広げる力もある。


 だが、王妃基金内部では以前から少し警戒されていた。


 支援先の困りごとを、読者受けする物語へ整えすぎる傾向があるからだ。


「《王都慈善通信》の最近の記事を取り寄せてください」


「はい」


「それと、匿名支援者が社交紙への掲載を条件にしている以上、どの社交紙を想定しているのかも確認が必要です」


「照会文に追記しますか」


「法務局へ追加確認を出しましょう」


 ミリアは頷き、すぐに記録を始めた。


 その横顔は、もうただの補佐ではない。


 王妃基金の危険を、一緒に見ている記録官の顔だった。


 昼前、カインの執務室で緊急報告が行われた。


 セレスティアが状況を説明すると、カインは表情をほとんど変えずに聞いていた。


 ただ、最後に短く言った。


「早いな」


「はい。早すぎます」


「情報源は三つ考えられる。救護院、匿名支援者、社交紙」


「救護院から漏れた可能性も、完全には否定できません」


「だが、噂の形は救護院に利がない」


「はい」


 セレスティアは頷いた。


「救護院が噂を流すなら、『王妃基金が燃料支援をしてくれる』という方向になるはずです。今回の噂は、王妃基金が善意を止めたという形です」


「つまり、匿名支援者側か、社交紙側」


「可能性が高いです」


 ローレン副監が、会計側の報告を加える。


「匿名支援者の資金出所確認はまだ完了していません。名を伏せたいという割に、社交紙掲載を条件にしている点は不自然です」


 オルドも言う。


「社交紙掲載を先に走らせ、王妃基金が断りにくい空気を作る意図が考えられます」


 カインは、机を指で一度だけ叩いた。


「善意を盾にする圧力だな」


「はい」


 セレスティアは静かに答えた。


 善意。


 その言葉は、強い。


 善意を止めるのか。

 救護院を助けたくないのか。

 規程が人を救うのか。

 冷たい帳簿で、温かい心を邪魔するのか。


 そう問われると、多くの人は言葉に詰まる。


 まして、救護院には燃料が足りない。


 その事実がある以上、王妃基金は慎重に言葉を選ばなければならない。


「こちらから先に発表しますか」


 ローレン副監が尋ねた。


 セレスティアは、少し考えた。


「今すぐ大きく発表すると、かえって噂を広げます。まずは救護院への短期支援が動いていることを、関係者間で記録します」


「公表は?」


「燃料が届いてから、必要に応じて短い事実確認を出します。『王妃基金は救護院への短期燃料支援を実施している。匿名支援申し出については、公表条件を含むため確認中』という程度で」


 オルドが頷く。


「よいと思います。支援を止めたという噂への反証になります」


 カインが、セレスティアを見る。


「噂に怒るな」


「怒ってはいません」


「顔に出ている」


「……少し怒っています」


 正直に言うと、カインの目元がわずかに動いた。


「その怒りは正しい。だが、文章へそのまま載せるな」


「分かっています」


「王妃基金は善意を拒まない。だが、支援先の尊厳を差し出す条件は受けない」


「はい」


 カインは、短く言った。


「相手は、支援より先に噂を運んだ」


 ミリアが今朝言った言葉と同じだった。


 セレスティアは胸の奥で頷く。


「では、こちらは噂より先に事実を整えます」


「それでいい」


 午後、王都の社交紙が数部届けられた。


 《王都慈善通信》。

 《貴族福音録》。

 《王都婦人週報》。

 《慈善と礼装》。


 題だけで疲れる。


 ミリアは、束を見て少し遠い目をした。


「これを全部確認するのですね」


「はい」


「目が疲れそうです」


「分担しましょう」


「はい。成長されています」


「かなり?」


「かなり」


 二人で分担し、まず《王都慈善通信》から確認した。


 紙面は美しい。


 見出しも柔らかく、挿絵も上品だ。


 だが、読み進めるほど、セレスティアの眉はわずかに寄った。


『涙の施療院――名もなき貴婦人の香油が救った夜』


『寒さに震える老女へ、伯爵夫人の手袋』


『孤児の笑顔、若き令嬢の初めての慈善』


 どれも、一見美談だ。


 しかし、支援された側の境遇がかなり具体的に書かれている。


 名前は仮名。


 顔は出ていない。


 だが、場所、年齢、事情、家族構成、過去の職業が組み合わされている。


 関係者が読めば、誰か分かるかもしれない。


 ミリアが、ある記事を指した。


「これ、支援先名は伏せていますが、地区と施設の特徴が書かれています。分かる人には分かりますね」


「はい」


「仮名でも、隠したことにならない場合があります」


 リリアナが以前言った言葉が、頭に浮かぶ。


 仮名ならよいのではないのか。


 その問いは、この紙面にそのまま向けられる。


 セレスティアは、記事の余白に赤い印をつけた。


『仮名・匿名でも特定可能性あり』


 さらに読み進めると、小さな予告欄があった。


『次号予告――名を伏せた篤志家、冬の救護院へ温もりを届けるか』


 セレスティアの手が止まった。


 ミリアも同時に顔を上げる。


「これ……」


「王都南部救護院の件でしょうね」


「まだ照会文も正式に返していないのに」


「ええ」


 予告欄は小さい。


 だが、意図は明らかだった。


 すでに記事にする準備がある。


 匿名支援者の支援が通るかどうかなど関係なく。


 むしろ、王妃基金が止めれば、それも記事になる。


 通れば美談。

 止めれば対立。


 どちらに転んでも紙面になる。


 セレスティアは、静かに紙面を閉じた。


「ミリア。この記事の写しを法務局へ」


「はい」


「それから、王妃基金として《王都慈善通信》へ事実確認照会を出します。救護院に関する記事予定があるか、情報提供元はどこか、支援先の同意確認は済んでいるか」


「答えるでしょうか」


「答えないかもしれません。でも、照会記録を残します」


「記録ですね」


「はい」


 記録は、次の支援を間違えないためだけではない。


 相手が何をしたか、何をしなかったかを残すためでもある。


 夕方近く、リリアナが王妃基金の部屋を訪れた。


 手には、社交紙の切り抜きがある。


「お姉様、これを見ました」


 《王都慈善通信》の次号予告だった。


 どうやら王太子府にも回っていたらしい。


「もうご存じですね」


「はい」


 リリアナは、少し怒っているようだった。


 珍しく、頬が赤い。


「これ、救護院の方々のことですよね」


「可能性が高いです」


「まだ、支援を受ける方々が載せていいと言ったわけではないのですよね」


「はい」


「なのに、もう予告しているのですか」


「そのようです」


 リリアナは、ぎゅっと切り抜きを握った。


「嫌です」


 短い言葉だった。


 だが、とても強かった。


「助ける話なのに、どうして先に紙面の話になるのですか」


 セレスティアは、すぐには答えなかった。


 リリアナの問いは、いつも真っ直ぐに核心を突く。


 助ける話なのに、なぜ先に紙面の話になるのか。


 本当に、その通りだった。


「人は、善意を誰かに見てほしくなることがあります」


 セレスティアは、慎重に答えた。


「支援を広げるために、知らせることが必要な場合もあります」


「でも」


「はい。でも、それが支援を受ける方の不安や危険につながるなら、止めなければなりません」


 リリアナは、小さく頷いた。


「講習で言っていました。助けることと、語ることは分けて考える必要がある、と」


「はい」


「私は、まだ少し分からないです。支援が広がるなら、知らせた方がいい気もします。でも、知られたくないことまで知られるのは嫌です」


「その迷いは、大切です」


「大切?」


「はい。簡単に答えを出せない問題だからです」


 リリアナは、少し不安そうに目を伏せた。


「では、私たちは何を基準にすればよいのですか」


 セレスティアは、机の上の王妃の言葉を書いた紙を見た。


『普段届かぬ声へ耳を向ける場』


 声。


 届かぬ声。


「まず、支援を受ける方がどう望んでいるかです」


 セレスティアは言った。


「知らせることで支援が増えるとしても、当事者が怖いと言っているなら、その怖さを軽く扱ってはいけません」


「はい」


「次に、安全です。名前を伏せても、事情から特定される危険があるなら、載せてはいけません」


「仮名でも、隠したことにならない場合がある」


「その通りです」


 リリアナは、切り抜きを見つめた。


「この問いも、講習に入りますか」


「入ります」


「やはり」


「リリアナの問いは、いつも講習を育てますので」


 リリアナは、少しだけ困ったように笑った。


「私の分からなさが、また役に立ちました」


「はい」


 その夜、王妃基金の部屋には遅くまで灯りが残っていた。


 ただし、セレスティア一人ではない。


 ミリアが記録を整理し、ローレン副監が燃料支援の会計処理を確認し、オルドが照会文を法務文書へ整えている。


 誰もが、自分の役割を持って動いていた。


 セレスティアは、その光景を見て、不思議な安心を覚えた。


 火種はある。


 かなり厄介な火種だ。


 けれど、燃え広がる前に囲む人がいる。


 水を用意する人がいる。


 風向きを見る人がいる。


 カインが部屋に入ってきたのは、ちょうど《王都慈善通信》への照会文が整った時だった。


「進んだか」


「はい。救護院への燃料支援は予定通り。匿名支援者への照会文は法務確認済み。《王都慈善通信》へも事実確認照会を出します」


「よし」


 カインは社交紙の次号予告を見た。


 目が少し冷える。


「仕掛けてきたな」


「はい」


「まだ小さい。だが、放置すれば大きくなる」


「分かっています」


「次の段階の初仕事としては、十分すぎる」


「もう少し穏やかな初仕事がよかったです」


「ないな」


「やはり」


 セレスティアは少し笑った。


 カインは、彼女の机の上を見て言った。


「一人で抱えていないな」


「はい」


「よし」


 その一言が、今日は何よりの評価に聞こえた。


 セレスティアは、静かに頷いた。


「相手は、支援より先に噂を運びました」


「ああ」


「こちらは、噂より先に事実を整えます」


「それでいい」


 カインは、少しだけ声を低くした。


「だが、明日以降は紙面が動く。王妃基金が善意を止めたという話になる」


「想定しています」


「傷つくなとは言わない。だが、飲まれるな」


 セレスティアは、目を上げた。


「はい」


「君が守るのは、自分の評判ではない」


「支援先の尊厳です」


「そうだ」


 その言葉で、胸の中の軸がはっきりした。


 自分がどう書かれるか。


 冷たいと言われるか。


 善意を止めたと言われるか。


 それは痛い。


 きっと痛い。


 でも、中心ではない。


 中心は、救護院の人々の情報が、誰かの感動のために差し出されないこと。


 そこを間違えてはいけない。


 覚書には、こう書いた。


『第三段階、本格始動』


 次に。


『救護院への短期燃料支援、手配継続』


『南門付近で噂。王妃基金が善意を止めた、という形』


『《王都慈善通信》次号予告。名を伏せた篤志家、冬の救護院へ温もりを届けるか』


 少し手を止める。


『相手は、支援より先に噂を運んだ』


 さらに。


『仮名でも、事情から特定される危険がある』


『助けることと、語ることは分けて考える』


 最後に。


『守るのは、自分の評判ではない。支援先の尊厳』


 ペンを置く。


 扉の外から、いつもの声がした。


「寝ろ」


「はい」


「今日は何枚だ」


「一枚です」


「よし」


「明日は、もっと動きそうですね」


「動くだろうな」


「社交紙は、こちらの照会に素直に答えるでしょうか」


「答えないだろう」


「ですよね」


「だが、照会した記録は残る」


「はい」


 少し沈黙。


 カインが低く言う。


「第三段階は、噂との戦いになる」


「はい」


「噂に勝とうとするな。事実を積め」


「分かりました」


「そして寝ろ」


「それも分かりました」


「本当に?」


「かなり」


「便利に使うな」


 セレスティアは小さく笑った。


「おやすみなさい、カイン様」


 扉の向こうが、一瞬だけ静かになった。


 それから、低い声が返る。


「おやすみ、セレスティア」


 灯りを落とす。


 匿名の善意は、名を隠して条件をつけた。


 そして、支援より先に噂を運んだ。


 王妃基金は、その噂に飲まれてはいけない。


 支援先の尊厳を守るために、事実を積み、声を聞き、必要な線を引く。


 第三段階は、もう始まっている。

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