第80話 王妃基金改革は終わらない
王都南部救護院への緊急燃料支援は、翌朝には動き出した。
冬季輸送支援共同寄付の予備分から輸送費の一部を充て、返還金再配分残額から数日分の燃料購入費を出す。
完全な解決ではない。
だが、数日分でも燃料が届けば、救護院は目の前の不利な条件に飛びつかずに済む。
それが大事だった。
困っている時ほど、人は選べなくなる。
だから、選ぶための時間を作る。
セレスティアは、救護院へ送る返書の文面を確認した。
『王妃基金は、貴院の燃料不足について緊急性を認め、短期燃料支援および輸送費補助を行う』
『匿名支援者からの直接支援申し出については、支援対象者情報の公表条件が含まれるため、貴院から直接受諾せず、王妃基金窓口へ回付すること』
『支援先および支援対象者の尊厳と安全を守るため、王妃基金・法務局・会計室の確認が終わるまで、社交紙への情報提供は行わないこと』
強い文面だった。
けれど、強すぎないように整えた。
救護院を責めるためではない。
守るための文だ。
ミリアが隣で頷いた。
「よいと思います。救護院側も、これなら断る理由を持てます」
「断る理由、ですか」
「はい。支援がほしいから断れない、ではなく、王妃基金の確認が必要だから今は受けられない、と言えます」
セレスティアは、その言葉に静かに頷いた。
「理由を渡すことも、支援ですね」
「そう思います」
理由を渡す。
断るための言葉を渡す。
確認するための時間を渡す。
それは、物資ではない。
しかし、確かに人を守る。
少し前の自分にも、必要だったものだ。
セレスティアは、封蝋を押した。
「急ぎでお願いします」
侍従が深く礼をして、返書を持って出ていく。
扉が閉まると、部屋に少しだけ静けさが戻った。
ミリアは息を吐いた。
「統括補佐としての初案件、まずは一手ですね」
「はい。まだ一手です」
「でも、大事な一手です」
「ええ」
セレスティアは机の上の別の封筒を見た。
匿名支援者へ送る正式照会文。
こちらは、まだ完成していない。
資金出所の確認。
匿名範囲の確認。
社交紙掲載条件の撤回要請。
支援先名と支援対象者情報の公表不可。
王妃基金を通した寄付記録の必要性。
どれも書かなければならない。
ただし、書き方を間違えれば、相手は「王妃基金は善意を拒んだ」と社交界に流すかもしれない。
まったく、善意という言葉は時々とても厄介だ。
「バルツァー夫人から返答は?」
セレスティアが尋ねると、ミリアは別の紙を差し出した。
「先ほど届きました」
そこには、バルツァー夫人らしい鋭い赤字が入っていた。
『支援の申し出に謝意は示す。ただし、支援対象者情報を社交紙へ掲載する条件は、善意ではなく宣伝条件である』
『この言葉は直接使わないこと。相手が反発します』
セレスティアは思わず小さく笑った。
「書いておいて、使うなと」
「バルツァー夫人らしいです」
赤字は続いていた。
『表向きの文面では、「支援先および支援対象者の安全と尊厳に関わるため、公表範囲は王妃基金の規程に基づき確認します」とすること』
『匿名希望については、「社交紙で支援を公表する一方で基金内部記録にも名を残さない」という矛盾を確認すること』
セレスティアは、その一文で手を止めた。
確かに。
匿名支援者。
しかし、社交紙には支援を載せたい。
名は伏せるが、善行は広めたい。
それは匿名なのか。
それとも、匿名という名の演出なのか。
「ここが火種ですね」
「はい」
ミリアの声も硬かった。
「匿名を装いながら、支援先情報を使って社交界で話題にしたい可能性があります」
「救護院が困っている時に」
「はい」
その事実が、胸に重く沈む。
セレスティアは、照会文の冒頭を書き直した。
『このたびの支援申し出につき、王妃基金は貴意を確認いたしました。支援先の状況を案じるお心には感謝申し上げます』
ここまでは柔らかく。
次で線を引く。
『一方で、救護院名および支援対象者情報の社交紙掲載は、支援先および支援対象者の安全・尊厳に関わるため、王妃基金規程に基づく確認なく行うことはできません』
さらに。
『匿名での寄付は可能ですが、王妃基金内部では寄付者確認および資金出所の記録が必要です。外部公表における匿名と、基金内部記録における出所不明は区別されます』
ミリアが読み、静かに頷いた。
「分かりやすいです」
「少し硬くありませんか」
「照会文なので、これくらいは」
「便利な返答ですね」
「はい」
セレスティアは、最後に一文を足した。
『支援の意思が、支援先の負担や不安につながらぬ形となるよう、王妃基金窓口にて詳細を確認いたします』
これでよい。
たぶん。
いや、まずはこれで進める。
完璧な文などない。
だから確認する。
「法務局へ回してください」
「はい」
昼頃、エミリア・クラウゼンが急ぎで訪ねてきた。
冬季輸送支援共同寄付の代表者として、救護院への緊急燃料輸送費の一部を使う可能性を確認するためだ。
彼女は、以前よりずっと落ち着いていた。
だが、目の奥には緊張がある。
「セレスティア様。救護院の件、拝見しました」
「急に確認をお願いして申し訳ありません」
「いいえ。これが、共同寄付の意味なのだと思いました」
エミリアは、手元の資料を開いた。
「私たちは、薬草や灯油を必要な時期に届けるために寄付しました。王都南部救護院の燃料不足が切迫しているなら、予備分を使うことに賛成します」
「参加者の皆様への確認は?」
「代表者として、概要を送ります。個別の全員同意までは時間がかかりますが、今回の使途は共同寄付の目的範囲内です」
言葉がしっかりしている。
セレスティアは、少し感心した。
「ただし」
エミリアは続けた。
「報告書では、救護院の方々が特定されない形にしてください。私たちの寄付が役立つことは知りたいです。でも、それで誰かが社交紙に追われるのは嫌です」
セレスティアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「その方針で進めます」
エミリアは、少しだけ息を吐いた。
「よかったです」
「不安でしたか」
「はい。自分たちの寄付が、誰かの名前を表に出す理由にされたらどうしようと」
それは、まさに今の問題だった。
寄付は、届くためにある。
誰かを飾るためでも、誰かを晒すためでもない。
「エミリア様」
「はい」
「今のご意見も記録します。若い寄付者代表の重要な視点です」
エミリアは一瞬驚き、それから真剣に頷いた。
「はい。お願いします」
以前なら、自分の発言が記録されると聞いて怯えただろう。
今は違う。
必要なら残す。
彼女も、その意味を知り始めている。
午後には、グランヴィル侯爵夫人からの返書が届いた。
短い文だった。
『救護院の件、支援対象者情報の社交紙掲載は認めるべきではありません』
『王妃陛下は、見舞った者の涙を人前で語ることを好まれませんでした』
『慈善は、相手の弱った姿を飾りにしてはなりません』
セレスティアは、その一文を静かに読んだ。
相手の弱った姿を飾りにしてはならない。
これも、理念継承記録に残すべき言葉だ。
だが今は、目の前の案件に使う。
ミリアも同じことを思ったのか、控えめに言った。
「この言葉、照会文には入れられませんが、方針には必要ですね」
「はい。助言会記録に入れてください」
「承知しました」
グランヴィル侯爵夫人は、完全な味方ではない。
けれど、こういう時、非常に頼もしい。
支援先の尊厳を守る言葉に、亡き王妃の記憶という重みを与えてくれる。
それは、法務や会計だけでは持てない力だった。
夕方近く、王都南部救護院から返答が届いた。
燃料支援受け入れへの感謝。
匿名支援者への直接返答を保留すること。
社交紙への情報提供を行わないこと。
そして、最後に一文。
『王妃基金より短期支援をいただけることで、私どもは支援対象者の情報を差し出さずに済みます』
セレスティアは、その一文を読んで、しばらく動けなかった。
差し出さずに済む。
重い言葉だった。
支援対象者の情報は、本来差し出すものではない。
けれど、燃料が足りない時、寝具洗浄費がない時、救護院はそれを差し出す寸前まで追い込まれていた。
王妃基金の短期支援が、そこに踏みとどまる時間を作った。
ミリアが、静かに言った。
「間に合いましたね」
「まだ、全部ではありません」
「はい。でも、最初の一歩は」
「間に合いました」
セレスティアは、目を閉じて小さく息を吐いた。
これが、制度の意味だ。
帳簿。
報告書。
確認保留。
共同寄付。
助言会。
実務講習。
それらが、今この一文につながった。
情報を差し出さずに済む。
このために、紙を書いてきたのかもしれない。
その日の終わり、カインの執務室で報告を行った。
短期支援は手配済み。
匿名支援者への照会文は法務局確認中。
バルツァー夫人、グランヴィル夫人、エミリア、マリアナ修道女から意見を受領。
救護院は社交紙掲載を保留。
カインは報告を聞き終えると、短く言った。
「初動はよい」
「ありがとうございます」
「だが、相手は引かないかもしれない」
「はい」
「社交紙を使う者は、話題になることを好む。拒まれれば、王妃基金が善意を潰したと書かせる可能性もある」
「想定しています」
「ならいい」
セレスティアは、少しだけ苦笑した。
「よくはありませんが」
「そうだな」
珍しく、カインが同意した。
「次は、匿名支援者の正体確認だ」
「はい」
「場合によっては、寄付者ではなく、社交紙側が仕掛けている可能性もある」
セレスティアは、顔を上げた。
「社交紙側が?」
「支援者を立て、救護院の話を作る。慈善美談は売れる」
胸が冷える。
あり得る。
とてもあり得る。
善意の皮を被った宣伝。
支援先の困窮を材料にした記事。
読者の涙を誘うために、誰かの弱さを晒す。
王妃基金の次の敵は、不正商会ではないのかもしれない。
もっと柔らかい顔をしている。
善意。
美談。
感動。
それらが、人を傷つける形で使われる時。
どう防ぐのか。
「第三段階の中心になりそうですね」
セレスティアが言うと、カインは頷いた。
「そうだ」
「支援先の尊厳を、感動消費から守る」
口にしてから、その言葉が重く響いた。
感動消費。
まだ正式な言葉ではない。
でも、近い。
誰かの痛みを、他人の感動のために消費する。
王妃基金が、それを許してはいけない。
カインは、静かに言った。
「次の章だな」
「また物語のような言い方を」
「現実は面倒な物語だ」
セレスティアは少し笑った。
その笑いは、疲れていたが、弱くはなかった。
夜、王妃基金の部屋へ戻ると、リリアナから手紙が届いていた。
『お姉様へ』
『救護院の件を少し聞きました』
『社交紙に支援先のことを載せる条件があったと聞いて、嫌な気持ちになりました』
『助けるなら、助けるだけでは駄目なのですか』
その問いは、真っ直ぐすぎて胸に刺さった。
助けるなら、助けるだけでは駄目なのですか。
本当に。
そうであればいい。
だが、現実はそうではないことがある。
セレスティアは返事を書いた。
『リリアナへ』
『助けるなら、助けるだけでよいはずです』
『けれど、時々、人は助けたことを見せたくなります。見せること自体がすべて悪いわけではありません。支援が広がるきっかけになることもあります』
『ですが、支援を受ける方の弱さや困りごとを、誰かの評判や感動のために使ってはいけません』
『王妃基金は、そこを守る必要があります』
少し考え、最後に加える。
『あなたの問いも、次の講習に使わせてください』
リリアナには、また「またですか」と言われるだろう。
でも、使う。
分からない人の問いは、いつも一番大切な場所へ届く。
覚書には、短く書いた。
『救護院への短期燃料支援、手配』
『匿名支援者への照会文、法務確認中』
『救護院より返答。支援対象者の情報を差し出さずに済む』
その一文の下に、少し間を空けて書いた。
『第二段階で作った仕組みが、初めて次の火種を受け止めた』
さらに。
『次の課題。支援先の尊厳を、善意の名を借りた宣伝と感動消費から守ること』
最後に。
『王妃基金改革は終わらない』
ペンを置く。
扉の外から、いつもの声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は何枚だ」
「一枚です」
「よし」
「救護院は、ひとまず守れました」
「ひとまず、だ」
「はい」
「次は相手を見る」
「はい」
「社交紙、匿名支援者、背後にいる者。どれも甘くない」
「分かっています」
「なら、今夜は寝ろ」
セレスティアは、少し笑った。
「最近、どんな話でもそこへ戻りますね」
「倒れたら守れない」
「はい」
少し沈黙があった。
カインが、低く言う。
「第二段階は、終わったな」
セレスティアは、扉の方を見た。
「そうですね」
「中間報告書を出し、次段階の任命を受け、最初の火種を受け止めた」
「はい」
「一区切りだ」
一区切り。
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
終わったのではない。
でも、一区切り。
「少しだけ、寂しいです」
「だろうな」
「でも、続くのですね」
「ああ」
セレスティアは、覚書の最後の一文を思い出した。
王妃基金改革は終わらない。
「続けます」
「一人ではなく」
「はい。一人ではなく」
「ならいい」
扉の向こうで、ほんの少しだけ気配が柔らかくなった。
「おやすみ、セレスティア」
名前で呼ばれた。
それは、とても静かな声だった。
セレスティアは少しだけ目を伏せ、微笑んだ。
「おやすみなさい、カイン様」
返してから、自分でも少し驚いた。
扉の向こうも、わずかに静まった気がした。
けれど、何も言われなかった。
それでよかった。
灯りを落とす。
第二段階は終わる。
返還金を戻し、報告書を作り、寄付者と支援先の声を制度に入れ、人を育てる講習を始めた。
そして今、新しい火種が灯っている。
善意の顔をした宣伝。
感動のために差し出されそうになる誰かの弱さ。
支援先の尊厳。
次に守るべきものが、見え始めている。
王妃基金改革は終わらない。
けれど、もう一人ではない。
そのことを胸に、セレスティアは静かに目を閉じた。




