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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第79話 静かな部屋に、新しい火種が届く

 統括補佐としての最初の朝、セレスティアはいつもより早く王妃基金の部屋へ入った。


 まだ誰もいない。


 窓の外には朝の光が薄く差し、机の上の書類の端を白く照らしていた。昨日までの雨の匂いはすっかり消え、代わりに乾いた紙と、磨かれた木の匂いがする。


 ここから始まったのだと、ふと思った。


 いや、正確には、ここへ来る前から始まっていた。


 王太子府で黙って働いていた日々。

 家の都合に押され、自分の疲れを後回しにしていた日々。

 亡き王妃の帳簿に、自分の名前を見つけた日。

 ラドクリフ商会から返還金を引き出した日。

 茶会の札一枚に、何のための支援かを書いた日。

 寄付者たちと向き合い、保守派と語り、若い令嬢たちが輸送費を支えると言った日。

 そして、中間報告書を提出した日。


 そのどれもが、今この机へつながっている。


 セレスティアは、自分の席に座らず、部屋の中央に立った。


 机。

 棚。

 帳簿。

 報告書。

 分類箱。

 ミリアの記録机。

 来客用の椅子。

 壁際の黒板。


 少し前まで、ここは戦場のようだった。


 不正を追い、責任を分け、返還金を数え、誰かの反発に備える場所。


 今は違う。


 まだ忙しい。


 けれど、声が集まる場所になり始めている。


 分からないという声。

 困っているという声。

 不安だという声。

 見届けたいという声。

 支援したいという声。


 王妃基金は、冷たい帳簿だけではない。


 だが、温かい言葉だけでもない。


 その間にある紙を、今日からまた整えていく。


「……統括補佐」


 自分で呟いてみる。


 まだ少し馴染まない。


 監査補佐官になった時もそうだった。


 役職名は、いつも少し遅れて体に入ってくる。


 ただ、今回は最初から違う。


 職務範囲がある。

 付属文書がある。

 過重負担時の見直し手順がある。

 私的依頼との分離も、縁談や家門交渉との混同禁止も、文書に明記されている。


 条件を出して、受けた。


 それだけで、同じ任命でも意味が違う。


 扉が叩かれた。


「おはようございます、セレスティア様」


 ミリアだった。


 両手に書類の束を抱えている。


「おはようございます」


「……早いですね」


「少し、部屋を見たかったのです」


「部屋を?」


「はい。ここまで来た場所を」


 ミリアは、その言葉だけで察したように、静かに頷いた。


「では、私は少し遅く来るべきでしたね」


「いいえ。ミリアも、この部屋の一部です」


 そう言うと、ミリアは驚いたように目を丸くした。


「私が、ですか」


「はい。あなたの記録机がなければ、この部屋はかなり危ういです」


「かなり、ですか」


「かなり」


 ミリアは、少し照れたように笑った。


「それなら、今日も記録します」


「お願いします」


 彼女は書類を置き、手際よく分類を始めた。


 以前より、動きに迷いが少ない。


 セレスティアは、その様子を見て思う。


 人は変わる。


 自分だけではなく、周りも。


 そして、変わった人たちがまた制度を変えていく。


 しばらくして、リリアナからの手紙が届いた。


 朝一番で王太子府から送られてきたらしい。


『お姉様へ』


『統括補佐としての初日、おめでとうございます』


『昨日、条件を出して受けた話を王太子府でしました。若手書記官の一人が、「上に条件を出してよいのですか」と驚いていました』


『私は、「必要な条件なら言うべきです」と答えました』


『少しだけ、お姉様の真似をしました』


 セレスティアは、思わず微笑んだ。


 リリアナが、人にそう言った。


 必要な条件なら言うべきだと。


 以前なら、きっと言えなかった。


 手紙は続く。


『ただ、その後で少し不安になりました。私が偉そうに言ってよかったのかと』


『でも、確認保留と同じで、相手を困らせるためではなく、正しく進めるために必要なことなら、言ってよいのですよね?』


 セレスティアは、便箋に指を置いた。


 この問いは、きっと多くの人が抱くものだ。


 条件を出す。

 保留する。

 分からないと言う。


 それらは、反抗ではない。


 正しく進めるための手続きだ。


「ミリア」


「はい」


「リリアナから、また講習に使えそうな問いが来ました」


「どのような?」


「必要な条件を出すことは、相手を困らせることなのか」


 ミリアは、手を止めて考えた。


「大事ですね」


「はい」


「内部向け講習の確認保留の章に入れますか」


「入れましょう」


 セレスティアは、返事を書いた。


『リリアナへ』


『統括補佐初日の手紙、受け取りました』


『必要な条件を示すことは、相手を困らせるためではありません。正しく続けるために、最初に線を引くことです』


『ただし、条件は感情だけでなく、目的と理由を添えて伝える必要があります』


『あなたが王太子府でその話をしたことは、とても大切です。偉そうなのではなく、学んだことを自分の言葉で返したのだと思います』


 少し迷い、最後に書いた。


『その問いを、講習に使わせてください』


 署名して封をする。


 ミリアが、少し楽しそうに言った。


「リリアナ様の問いが、どんどん講習を育てていますね」


「はい」


「分からない人代表、かなり重要です」


「本当に」


 午前中は、統括補佐としての初仕事に取りかかった。


 まずは、次段階運用の三本柱を、それぞれ担当へ渡す準備である。


 王妃基金実務講習の正式運用。

 支援先報告書の簡素化と繁忙期対応。

 亡き王妃の理念継承記録の整備。


 セレスティアは、それぞれの紙に担当者名を書き込んだ。


 実務講習は、セレスティア、ミリア、ローレン副監、オルド、エミリア、リリアナ。

 支援先報告書は、マリアナ修道女、王宮会計室、記録室、セレスティア。

 理念継承記録は、グランヴィル侯爵夫人、ローゼン侯爵夫人、ミリア、助言会記録班。


 こうして見ると、本当に一人ではない。


 セレスティアの名前はある。


 だが、どの項目にも複数の名前が並んでいる。


 以前なら不安になっただろう。


 今も少し不安だ。


 でも、それ以上に安心があった。


「セレスティア様」


 ミリアが、理念継承記録の欄を見て言った。


「記録班、ですか」


「はい。ミリア一人に集中させないためです」


「……私が言う前に」


「統括補佐ですから」


「成長されています」


「かなり?」


「かなり」


 二人は笑った。


 そこへ、扉が叩かれた。


 侍従が入ってきて、封筒を差し出す。


「王都南部救護院より、王妃基金宛ての急報です」


 急報。


 その言葉で、空気が変わった。


 セレスティアは、すぐに封筒を受け取る。


 支援先からの急報は、軽く扱えない。


 ミリアも記録用紙を用意した。


 封を切る。


 中には、救護院長からの手紙と、簡易報告書が入っていた。


『王都南部救護院にて、冬季前の燃料確保および寝具洗浄費に不足が発生』


 それだけなら、通常の不足報告だった。


 だが、次の行でセレスティアは手を止めた。


『なお、匿名の支援者を名乗る者より、救護院へ直接多額の支援申し出あり。ただし、支援者側は王妃基金を通さず、救護院名および支援対象者の一部情報を社交紙へ掲載することを条件としている』


 ミリアが、息を呑んだ。


「直接支援……」


「しかも、情報掲載が条件です」


 セレスティアは、手紙の続きを読む。


『救護院としては燃料不足が切迫しており、支援はありがたい。しかし、支援対象者の事情が外部へ出ることに強い懸念あり。王妃基金の判断を仰ぎたい』


 新しい火種だった。


 静かな部屋に、はっきりと火の匂いが届いた。


 匿名の支援者。

 王妃基金を通さない直接支援。

 社交紙への掲載。

 支援対象者の情報。

 燃料不足の切迫。


 善意と宣伝。

 緊急支援と尊厳。

 支援先の弱みにつけ込むような条件。


 セレスティアは、手紙を机に置いた。


 胸が重くなる。


 だが、以前のような焦りはなかった。


 これは、扱える。


 扱える場所がある。


「ミリア。分類を」


「はい」


 ミリアは即座に書いた。


『緊急支援相談』

『直接支援申し出』

『支援先情報公表条件付き』

『匿名支援者確認必要』

『支援先尊厳・安全に関わる』


 セレスティアは頷く。


「会計室、法務局、助言会緊急確認へ回します。救護院には、即答せず、王妃基金として一時支援可能性を確認すると返答してください」


「匿名支援者へは?」


「救護院から直接返答させないでください。王妃基金窓口へ誘導します。支援者の身元確認、公表条件、資金出所、社交紙掲載内容を確認するまで保留です」


 ミリアが筆を走らせる。


「確認保留ですね」


「はい」


 セレスティアは、静かに言った。


「支援先が困っている時ほど、条件を急いで受けてはいけません」


 まさに、講習で扱うべき問題だった。


 余った菓子より、ずっと重い。


 だが、根は同じだ。


 善意の名で、相手の尊厳を損なわないこと。


 支援を受ける側が、困っているからといって不利な条件を飲まされないこと。


 ミリアが、顔を引き締めて言った。


「統括補佐としての初案件ですね」


「そうなりました」


「一人で抱えませんよね」


 セレスティアは、一瞬だけ苦笑した。


「抱えません。すぐに関係者へ回します」


「よかったです」


 ミリアの安堵が本物だったので、セレスティアは少し胸が温かくなった。


 見張られている。


 けれど、それは信頼の形でもある。


 昼前、カインの執務室で緊急確認が行われた。


 出席したのは、カイン、セレスティア、ローレン副監、オルド、ミリア。


 救護院からの手紙が机の中央に置かれる。


 カインは一読し、眉をわずかに動かした。


「早速来たな」


「はい。次段階初日に」


「火種は待たない」


「本当に」


 ローレン副監が会計面を確認する。


「匿名支援者の資金出所が不明です。直接支援を受けるにしても、王妃基金経由の記録が必要です」


 オルドは法務面から言う。


「支援対象者の一部情報を社交紙に載せる条件は危険です。個人特定につながる可能性があります。救護院名の公表も、状況によっては訪問者や取材が押し寄せる恐れがあります」


 セレスティアは頷いた。


「ただ、燃料不足は切迫しています。支援を断るだけでは救護院が困ります」


 カインが言う。


「王妃基金の緊急燃料予備枠は」


 ローレン副監が資料をめくる。


「冬季輸送支援共同寄付の一部と、返還金再配分残額の予備があります。ただし、全額は無理です。数日分の燃料確保なら可能です」


「まずそれを出せ」


 カインは即決した。


「救護院が条件付き支援に追い込まれないよう、短期分を王妃基金で支える」


 セレスティアは、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 それができる。


 制度があるから。


 共同寄付があるから。


 返還金再配分の予備があるから。


「匿名支援者には、王妃基金窓口から正式照会を出します」


「文面は」


 オルドが言う。


「支援の申し出には謝意を示しつつ、支援対象者情報の掲載は認められないこと、支援先名の公表は王妃基金と救護院の確認を要すること、資金出所と寄付者記録が必要であることを明記します」


 カインが頷く。


「強すぎると逃げる。弱すぎるとつけ込まれる」


「表現を整えます」


 セレスティアは言った。


「バルツァー夫人にも確認していただけないでしょうか。寄付者側が受け取りやすい文言が必要です」


「回せ」


「グランヴィル侯爵夫人にも、支援先尊厳の観点で」


「回せ」


「マリアナ修道女にも、救護院側の負担について」


「回せ」


 カインが少しだけ口元を緩めた。


「一人で抱えないな」


 セレスティアは、少しだけ背筋を伸ばした。


「統括補佐ですので」


「いい」


 その短い言葉が、少し嬉しかった。


 午後、救護院への一時支援手続きが動き始めた。


 冬季輸送支援共同寄付の予備分から、燃料輸送費の一部を充てる。

 返還金再配分残額から、緊急燃料購入分を出す。

 寝具洗浄費については、衛生支援分野として次回不足状況表へ追加する。


 ミリアは、手早く記録を整えていた。


「冬季輸送支援共同寄付が、ここで役に立ちますね」


「はい」


 セレスティアは、エミリアへ報告するための文面も用意する。


『共同寄付の予備分を、王都南部救護院への緊急燃料輸送費の一部として使用する可能性があります。正式配分前に代表者へ確認します』


 勝手に使わない。


 報告する。


 必要なら確認する。


 それが、共同寄付を信頼ある仕組みにする。


 ミリアが言った。


「エミリア様、きっと驚かれますね」


「はい。でも、自分たちの寄付が何を運ぶのかを知る機会になります」


「講習そのものですね」


「本当に」


 その時、セレスティアはふと気づいた。


 次の火種は、同時に次の教材でもある。


 支援先が困っている。

 寄付者が条件をつける。

 基金が短期支援で時間を作る。

 身元確認と公表範囲を確認する。

 支援先の尊厳を守る。


 王妃基金が、これから何をしなければならないかを、まるで試すような案件だった。


「ミリア」


「はい」


「この件、記録は詳細に残してください」


「もちろんです」


「ただし、救護院と支援対象者の情報は慎重に」


「匿名化します」


「はい」


 ミリアは頷いた。


 もう、言わなくても分かっていることが増えている。


 それも、制度が育っている証だった。


 夕方、セレスティアは王妃基金の部屋に一人残った。


 今日一日で、統括補佐としての仕事が一気に動いた。


 初仕事は、静かな整理では終わらなかった。


 新しい火種が届いた。


 だが、不思議と心は折れていない。


 むしろ、静かに引き締まっている。


 中間報告書を出したばかりの日に、この案件が来たことには意味があるのかもしれない。


 報告書は終わりではない。


 次の責務の始まり。


 昨日、そう書いた。


 その通りになった。


 扉が叩かれた。


 今度は、カインだった。


「まだいたか」


「はい。少し整理を」


「一人で抱えないと言ったな」


「抱えていません。整理だけです」


 カインは疑わしそうに机を見る。


 紙は多いが、分類済みだ。


「まあいい」


「まあ、ですか」


「今日は初日としては悪くない」


「ありがとうございます」


 カインは、救護院の手紙を見た。


「次章の火種だな」


「次章?」


「いや、次段階だ」


 珍しい言い間違いだった。


 セレスティアは少し笑った。


「物語のようですね」


「現実の方が面倒だ」


「それは確かに」


 カインは、窓の外へ視線を向けた。


「条件付きの直接支援は増える」


「やはり」


「ああ。王妃基金が透明化すれば、逆に基金を通さず目立とうとする者も出る。支援先が困っている時を狙えば、条件を飲ませやすい」


 セレスティアは、静かに頷いた。


「そこを守るのが、次の仕事ですね」


「そうだ」


「支援先が困っているからこそ、断れない。だから基金が時間を作る」


 カインがこちらを見る。


「分かっているならいい」


「はい」


 少し沈黙。


 セレスティアは、机の上の統括補佐任命文に目を落とした。


「次の段階へ進むとは、こういうことなのですね」


「どういうことだ」


「仕組みができた途端に、それを試すような問題が来る」


「制度とはそういうものだ」


「厳しいですね」


「だが、以前なら君一人が受けていた」


 その言葉で、セレスティアは少し息を止めた。


 そうだ。


 以前なら、燃料不足の支援先、条件付きの寄付者、社交紙への掲載、匿名支援者。


 全部、自分が抱えていたかもしれない。


 今は違う。


 会計室、法務局、助言会、共同寄付代表、支援先連絡役。


 それぞれに回せる。


「変わりましたね」


「ああ」


「私も、王妃基金も」


「変わった。だが、まだ足りない」


「はい」


 それでも、今日は少しだけ前向きに受け止められた。


 足りないから、進む。


 それだけだ。


 夜、覚書にはこう書いた。


『統括補佐、初日』


 次に。


『次段階三本柱。実務講習、支援先報告書簡素化、王妃理念継承記録』


 さらに。


『王都南部救護院より急報。匿名支援者による直接支援申し出。社交紙掲載条件あり』


 少し手を止める。


『支援先が困っている時ほど、不利な条件を飲まされやすい。基金が短期支援で時間を作る』


 さらに。


『一人で抱えず、会計室、法務局、助言会へ回した』


 最後に。


『新しい火種。次の段階は、支援先の尊厳を条件付き善意から守ること』


 ペンを置く。


 扉の外から声がした。


「寝ろ」


「はい」


「今日は何枚だ」


「一枚です」


「よし」


「新しい火種が届きました」


「知っている」


「次の段階は、穏やかには始まりませんね」


「穏やかな改革などない」


「少しはあってもよいと思います」


「ないな」


 セレスティアは笑った。


 疲れている。


 けれど、以前の疲れとは違う。


「でも、今日は一人で抱えませんでした」


「ああ。見ていた」


「少しは統括補佐らしかったでしょうか」


「少しな」


「かなり、ではないのですね」


「調子に乗るな」


 扉の向こうの声に、わずかに笑いが混じっている。


 セレスティアも笑った。


「はい」


「次は厄介だ」


「分かっています」


「だが、今の王妃基金なら扱える」


 その言葉は、静かに胸へ落ちた。


「はい」


「だから寝ろ。扱う者が倒れるな」


「はい」


 灯りを落とす。


 統括補佐としての初日は、静かには終わらなかった。


 新しい火種が届いた。


 善意の顔をした条件。

 困っている支援先。

 社交紙に載せられそうな名前。

 守らなければならない尊厳。


 けれど、もう一人ではない。


 声を集める仕組みがある。


 保留する言葉がある。


 短期支援で時間を作る制度がある。


 次の段階へ進む。


 その言葉の重みを抱えながら、セレスティアは目を閉じた。

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