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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第83話 美談は、時に刃物になる

 王都南部救護院から戻った翌朝、セレスティアは王妃基金の部屋に小さな黒板を用意させた。


 大きな会議用ではない。


 講習で使うような、机の横に置ける程度の黒板だ。


 そこに、ミリアが白いチョークで短く書く。


『仮名なら、本当に安全か』


 書かれた言葉を見た瞬間、部屋にいたリリアナが首を傾げた。


「お姉様。仮名なら安全ではないのですか?」


 セレスティアは、予想していた問いが来たと思った。


 いや、むしろこの問いを待っていた。


 王妃基金実務講習の次回項目に入れるには、まず分からない人がどこで引っかかるのかを知る必要がある。


 その点で、リリアナは本当に優秀だった。


 本人に言うと「また分からない人代表ですか」と少し複雑そうな顔をするので、今は言わない。


「安全な場合もあります」


 セレスティアは答えた。


「でも、仮名だけでは守れない場合もあります」


「名前を変えても?」


「はい」


 リリアナは、納得できない顔をした。


 隣でミリアが記録用紙を広げている。


 今日の参加者は少ない。


 セレスティア、ミリア、リリアナ、そして法務官オルド。


 カインは後ほど来る予定だった。


 これは正式会議ではなく、講習資料作成のための小さな検討会である。


 セレスティアは黒板の横に立ち、まず一つ目の項目を書いた。


『王都南部の救護院』


 次に。


『若い母親』


 さらに。


『幼い子ども』


 それから。


『逃れてきた事情がある』


 リリアナの表情が変わった。


「……あ」


「これだけでも、近い事情を知る人なら心当たりが出るかもしれません」


 セレスティアは、続けて書く。


『年齢』

『以前の働き先』

『子どもの年頃』

『救護院へ来た時期』

『病状や怪我』

『出身地区』


「名前を仮名にしても、こうした情報が組み合わされると、本人が特定される危険があります」


 リリアナは、黒板をじっと見つめた。


「名前を隠しても、周りの情報で見つかってしまうのですね」


「はい」


「でも、記事を書く方は、名前も顔も出さないから大丈夫だと思っているのでは?」


「思っている場合もあります。あるいは、分かっていても『物語として伝わる程度には必要だ』と言う場合もあります」


「物語……」


 リリアナは、その言葉を嫌そうに繰り返した。


 セレスティアは、昨日のリーネの言葉を思い出した。


 私の不幸を、知らない誰かに読まれるのは怖いです。


 あの声を、そのまま外へ出すことはできない。


 だが、制度の方針にはしなければならない。


 個人を守りながら、仕組みに変える。


 それが今日の課題だった。


 オルドが静かに口を開く。


「法務上は、名前を伏せたから問題なし、とは言えません。個人を識別可能な情報の組み合わせがあれば、保護対象になります」


 リリアナは慌てて手元の紙へ書き込んだ。


「個人を識別可能な情報の組み合わせ……」


 そしてすぐ顔を上げる。


「難しいです」


 ミリアが即座に黒板の端へ書く。


『いくつかの情報を合わせると、その人だと分かってしまうこと』


 リリアナは大きく頷いた。


「分かります」


 オルドが少し感心したようにミリアを見る。


「その言い換えはよいですね」


 ミリアは少し頬を赤くした。


「講習で鍛えられました」


「かなり」


 リリアナが真面目な顔で付け足した。


 部屋に小さな笑いが起きる。


 しかし、その笑いはすぐに消えた。


 黒板に並んだ情報は、笑い事ではなかった。


 セレスティアは、チョークを置いた。


「支援の必要性は伝えなければなりません。けれど、個人の事情を細かく語らなくても、伝えられる方法があります」


「たとえば?」


 リリアナが尋ねる。


「『王都南部の救護院では、冬季燃料と寝具洗浄費が不足している』と伝えることはできます。『夜間の暖房時間が短くなる』『寝具を清潔に保つ費用が足りない』とも言えます」


「はい」


「でも、『若い母親がどこから逃れてきた』『子どもがどういう事情で咳をしている』『以前どこの家に仕えていた』などは必要ありません」


 リリアナは、しばらく考えた。


「読者が泣きやすいのは、後の方ですね」


「そうです」


「でも、守らなければいけないのも、後の方」


「はい」


 リリアナは、胸元の資料をぎゅっと握った。


「難しいです」


「ええ。難しいです」


 セレスティアは、あえてすぐ答えを与えなかった。


 この難しさを、簡単な規程で包んでしまってはいけない。


 支援を広げるためには、人の心を動かす言葉が必要な時もある。


 けれど、人の痛みを剥き出しにして心を動かすのは違う。


 境界線は細い。


 だからこそ、制度がいる。


 検討会の途中で、王宮南門から戻った侍従が報告を持ってきた。


「《王都慈善通信》の本日号が出ました」


 セレスティアは、差し出された紙面を受け取った。


 薄い紙に整った活字。


 紙面の中央ではなく、二面の下部に小さな記事が載っていた。


 大きすぎない。


 だが、読む者が読めばすぐに分かる書き方だった。


『匿名の善意、王宮の規程に阻まれる?』


 リリアナが息を呑む。


 ミリアの筆が止まる。


 セレスティアは記事を読み進めた。


『王都南部の一救護施設に、名を伏せた篤志家より冬季支援の申し出があったという。燃料、寝具洗浄、温粥用穀物まで含む手厚い支援であり、施設関係者の間にも安堵が広がっていた』


 施設名は出していない。


 だが、「王都南部」「救護施設」「冬季支援」「燃料」「寝具洗浄」。


 十分に分かる。


『しかし、王妃基金関係者が規程確認を理由に支援受諾を保留。善意の手が、冷たい手続きの前で止められているとの声もある』


 冷たい手続き。


 セレスティアは、その言葉に視線を留めた。


 怒りはある。


 だが、今は怒る場面ではない。


 さらに読む。


『支援の透明性は大切である。だが、困窮する人々のもとへ届こうとする善意を、あまりに細かな規程で縛ることが、果たして亡き王妃陛下の慈善の心に適うのか。今後の動向が注目される』


 亡き王妃の名まで使っている。


 リリアナが、震える声で言った。


「ひどいです」


 セレスティアは記事を畳まなかった。


 逃げずに、もう一度読む。


 書いてあることは、完全な嘘ではない。


 匿名支援者はいた。

 支援内容も大きかった。

 王妃基金は受諾を保留した。


 しかし、肝心な部分が抜けている。


 支援対象者情報の社交紙掲載条件。

 救護院への短期燃料支援。

 支援先の安全と尊厳。

 資金出所と寄付者記録の確認。


 都合よく抜けている。


 嘘より厄介な半分の事実だ。


 ミリアが、静かに言った。


「支援先の公表条件について、触れていません」


「ええ」


「燃料支援がすでに手配されていることも」


「はい」


「王妃基金が善意を止めた、という印象だけが残ります」


 リリアナは、怒りを抑えきれない様子だった。


「でも、救護院の方々は、情報を載せられたくないと言っているのですよね?」


「はい」


「どうして、その声は書かれないのですか」


 セレスティアは、紙面から目を離した。


「それを書くと、記事の形が変わるからです」


「形?」


「匿名の善意と冷たい規程、という物語にならなくなります」


 リリアナは、眉を寄せた。


「物語のために、必要なことを抜いたのですか」


「その可能性があります」


 オルドが記事を受け取り、目を通す。


「法的には、まだ名誉毀損とまでは言いにくい。施設名も個人名も出していません。しかし、王妃基金への印象操作としては明らかです」


「こちらから抗議しますか」


 ミリアが尋ねる。


 セレスティアは少し考えた。


「感情的な抗議はしません。まず、事実確認照会を出します。この記事にある『施設関係者の間にも安堵が広がっていた』という記述の根拠、支援条件を把握しているか、救護院への取材の有無」


「それと、短期支援実施の事実確認ですね」


「はい」


 リリアナは、まだ納得できない顔をしている。


「でも、この記事を読んだ人は、王妃基金が悪いと思うかもしれません」


「思うでしょうね」


「それでも、すぐ反論しないのですか」


「反論はします。ただし、相手の記事に乗せられて、同じ土俵で感情を争う形にはしません」


「同じ土俵?」


「相手は、美談の形で人を動かそうとしています。こちらが怒りで返せば、今度は『冷たい基金が批判に感情的に反発した』という別の記事になります」


 リリアナは、悔しそうに唇を噛んだ。


「では、どうすれば」


「事実を積みます」


 セレスティアは、カインに言われた言葉をそのまま口にした。


「救護院へ燃料が届くこと。公表条件付き支援を確認中であること。支援先の情報を守る必要があること。匿名でも内部記録は必要であること。それを一つずつ」


「地味です」


「はい」


「でも、必要なのですね」


「はい」


 リリアナは、紙面を見つめながら小さく言った。


「美談は、時に刃物になるのですね」


 セレスティアは、その言葉に静かに息を止めた。


 自分が昨日感じたこと。


 それを、リリアナが口にした。


「……はい」


 セレスティアは頷いた。


「人を助ける話の形をしていても、誰かを傷つけることがあります」


 ミリアが、すぐにその言葉を記録した。


『美談は、時に刃物になる』


 その文字が、白い紙の上に残った。


 午後、カインの執務室で記事への対応が協議された。


 《王都慈善通信》の記事は、すでに何部か王宮内にも回っていた。


 宰相府の一部職員は冷静だったが、王宮外の反応は読みにくい。


 貴族たちは噂を好む。


 そして「冷たい制度」と「温かい善意」という構図は、分かりやすい。


 分かりやすいものほど広がりやすい。


 カインは記事を読み終えると、短く言った。


「予想より早い」


「はい」


「だが、まだ小さい」


「二面下部です」


「次で大きくするつもりだろう」


 セレスティアは頷いた。


「こちらの反応を見ているのだと思います」


 ローレン副監が言った。


「燃料支援の実施事実を、関係者向け確認文として出せます。公表というほど大きくせず、救護院支援の記録として」


 オルドが続ける。


「社交紙には事実確認照会を出します。回答がなければ、回答なしとして記録できます」


 カインがセレスティアを見る。


「王妃基金としての短文を作れ」


「声明ではなく、事実確認ですね」


「ああ。まだ声明には早い」


「内容は、三点に絞ります」


 セレスティアは、その場で紙を取った。


 一、王妃基金は王都南部救護院への短期燃料支援を手配済みである。

 二、匿名支援申し出は、公表条件と資金出所確認を含むため確認中である。

 三、支援先および支援対象者の安全と尊厳を守るため、公表範囲は規程に基づき審査する。


 カインが頷く。


「いい」


「ただし、救護院名を出しますか?」


 ローレン副監が問う。


 そこが難しい。


 記事では「王都南部の一救護施設」としか出ていない。


 こちらが救護院名を出せば、かえって特定を進めることになる。


 セレスティアは首を横に振った。


「出しません。『当該救護施設』とします。救護院側の同意なく名称を出さない方針を示す意味でも」


 オルドが頷く。


「妥当です」


 カインも短く言う。


「それでいけ」


 セレスティアは、文面を書き進めた。


『一部社交紙において、王妃基金が冬季支援を阻んでいるとの趣旨の記事が掲載された件について、王妃基金は以下の通り事実を確認する』


 言葉は硬い。


 だが、感情は抑える。


『当該救護施設に対する短期燃料支援は、すでに王妃基金より手配済みである』


『別途寄せられた匿名支援申し出については、支援先および支援対象者に関する公表条件が含まれていたため、王妃基金規程に基づき確認中である』


『王妃基金は善意を拒むものではない。ただし、支援が支援対象者の安全と尊厳を損なう形となることは認めない』


 書いた後、少し沈黙が落ちた。


 カインが言った。


「最後の一文は残せ」


「はい」


「ただし、『認めない』は少し強い」


 バルツァー夫人がいれば同じことを言っただろう。


 セレスティアは書き換えた。


『認めることはできない』


 少しだけ柔らかい。


 でも、線は残る。


 カインは頷いた。


「それでいい」


 夕方、事実確認文が関係各所へ回された。


 広く貼り出すのではなく、王宮内、助言会、王太子府、会計室、法務局、救護院関係者へ。


 同時に、《王都慈善通信》へ正式照会文が送られた。


 回答期限も明記した。


 ミリアは、一つひとつ発送記録を残していた。


「記録が多いですね」


「多いですが、必要です」


「はい」


 ミリアは、少しだけ疲れた顔で笑った。


「美談より地味です」


「ええ」


「でも、地味な記録がないと、刃物を止められません」


 セレスティアは、その言葉に頷いた。


 美談は、時に刃物になる。


 なら、記録は鞘になるのかもしれない。


 刃物を完全に消すことはできない。


 人は、物語を求める。


 涙に動かされる。


 善意を見たいと思う。


 それ自体を否定することはできない。


 だが、刃が誰かの肌に触れる前に、収める鞘が必要だ。


 制度とは、その鞘なのかもしれない。


 そのことを考えていると、扉が叩かれた。


 リリアナだった。


「お姉様」


「はい」


「事実確認文を読みました」


「どうでしたか」


「少し硬いです」


「やはり」


「でも、必要なことは分かりました」


「それならよかったです」


 リリアナは、手元の紙を見ながら言う。


「『王妃基金は善意を拒むものではない。ただし、支援が支援対象者の安全と尊厳を損なう形となることは認めることはできない』」


 読み上げてから、顔を上げた。


「ここ、好きです」


「硬いのに?」


「硬いですが、線が見えます」


 線。


 セレスティアは、その言葉に微笑んだ。


「線は必要です」


「はい。条件を出す時と同じですね」


「そうです」


 リリアナは、少し誇らしそうに頷いた。


 それから、ふと真面目な顔になった。


「お姉様」


「はい」


「美談は全部、危ないのですか」


 セレスティアは、すぐには答えなかった。


 それも、大切な問いだった。


「全部ではありません」


 ゆっくり言う。


「誰かが助かったことを伝える話が、別の支援につながることもあります。人の心が動くこと自体は悪いことではありません」


「はい」


「でも、その話の中で、本人が隠したいことを出したり、相手の弱さを飾りにしたりするなら危険です」


「美談と刃物の違いは、どこにあるのですか」


「本人の同意、安全、必要性。そして、その話が誰のために語られるのか」


 リリアナは、真剣に書き込む。


「本人の同意、安全、必要性。誰のために語られるのか」


「はい」


「講習に入りますね」


「入ります」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「私、今日も役に立ちましたか」


「とても」


「では、よかったです」


 夜、王妃基金の部屋でセレスティアは《王都慈善通信》の記事をもう一度読んだ。


 何度読んでも、胸がざらつく。


 しかし、最初に読んだ時より冷静だった。


 記事は刃物だ。


 だが、こちらには鞘を作る時間がある。


 救護院には燃料が届く。


 支援対象者の情報は、まだ守られている。


 事実確認文も出した。


 照会記録も残した。


 次は、社交紙がどう返すかだ。


 カインが部屋に入ってきた。


「まだ読んでいるのか」


「はい。相手の文章の癖を見ていました」


「癖?」


「事実を少し残しながら、必要な部分を抜いています。感情が動きやすい言葉を選んでいる」


「読者を誘導する文章だ」


「はい」


 カインは、机の上の記事を見下ろした。


「うまい文章だな」


「認めるのですか」


「認める。下手な文章なら広がらない」


 セレスティアは少し黙った。


 その通りだった。


 相手を軽く見てはいけない。


 《王都慈善通信》は、人の心を動かす書き方を知っている。


 だから厄介だ。


「こちらは、心を動かす文章を書かないのでしょうか」


 セレスティアが尋ねると、カインは少し考えた。


「書いてもいい」


「よいのですか」


「ただし、誰かの痛みを燃料にするな」


 セレスティアは頷いた。


「支援の必要性は伝える。個人の痛みは守る」


「ああ」


「難しいですね」


「だから君がいる」


 その言葉に、不意に胸が熱くなった。


「……ありがとうございます」


「事実だ」


 いつもの言葉。


 けれど、今日は少しだけ違って聞こえた。


 セレスティアは、記事を畳んだ。


「美談は、時に刃物になります」


「なら、鞘を作れ」


「はい」


 カインは短く頷いた。


「そして寝ろ」


「鞘を作る前に?」


「明日作れ」


 セレスティアは、少し笑った。


「はい」


 覚書には、こう書いた。


『《王都慈善通信》記事掲載』


 次に。


『匿名の善意、王宮の規程に阻まれる?』


『支援先の公表条件、短期燃料支援、資金出所確認には触れず』


 さらに。


『仮名でも、情報の組み合わせで特定される危険がある』


『本人の同意、安全、必要性。誰のために語られるのか』


 少し手を止める。


『美談は、時に刃物になる』


 その下に、カインの言葉を書く。


『なら、鞘を作れ』


 最後に。


『支援の必要性は伝える。個人の痛みは守る。そのための言葉を探す』


 ペンを置く。


 扉の外から、いつもの声がした。


「寝ろ」


「はい」


「今日は一枚か」


「一枚です」


「よし」


「明日は、鞘を作ります」


「そうしろ」


「刃物を折るのではなく?」


「折れば、相手は別の刃を持つ。鞘を作れば、他の刃にも使える」


 セレスティアは、その言葉を心に留めた。


「制度ですね」


「ああ」


「分かりました」


「なら寝ろ」


「はい」


 灯りを落とす。


 美談は、時に刃物になる。


 だが、物語そのものが悪なのではない。


 刃が誰へ向いているのか。

 誰の痛みで磨かれているのか。

 誰のために語られるのか。


 そこを見極める鞘を作る。


 それが、王妃基金の次の仕事だった。

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