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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第72話 分からない人のための講習

王妃基金実務講習。


 そう題した紙を机の中央に置いた瞬間、セレスティアは思わず黙り込んだ。


 重い。


 たった八文字ほどの言葉なのに、妙に重い。


 王妃基金改革は、ようやく安定運用へ向かい始めた。

 返還金を戻し、報告書を作り、茶会を変え、寄付者と向き合い、助言会も動き始めた。


 なら次は、人を育てること。


 昨日、自分でそう言った。


 だが、いざ紙にしてみると、途端に現実味が増す。


 人を育てる。


 制度を作るより、もしかすると難しい。


 制度は、書ける。

 人は、書いた通りには動かない。


「セレスティア様」


 向かいの席で、ミリアが控えめに声をかけた。


「固まっていらっしゃいます」


「はい。固まっています」


「珍しく認めるのが早いですね」


「最近、正直であることを推奨され続けていますので」


 ミリアは少し笑った。


 机の上には、すでに講習案のための資料が並んでいる。


 王宮内部向け。

 寄付者・若い令嬢向け。

 支援先向けの簡易説明。

 王太子府向け補助教材。


 分ける。


 また分ける。


 けれど、分けなければ届かない。


 会計官に必要な説明と、若い令嬢に必要な説明は違う。

 王太子府の職員に必要な手順と、寄付者が知りたい使途報告の読み方も違う。


 同じ王妃基金でも、見る角度が違うのだ。


「まず、講習の目的を書きましょう」


 ミリアが言った。


「目的」


「はい。セレスティア様がいつも最初に書くものです」


「私の癖ですね」


「よい癖です」


 セレスティアはペンを取った。


『王妃基金実務講習の目的』


 続けて書く。


『王妃基金に関わる者が、支援目的、会計区分、報告書、確認保留、支援先の尊厳を理解し、特定の一人に負担が偏らない運用を行うため』


 書いた後、少し眉を寄せた。


「硬いですね」


「かなり硬いです」


 ミリアが即答した。


「ですが、内部向けならよいと思います」


「寄付者向けでは閉じられますね」


「閉じられます」


 セレスティアは、別紙に書き直した。


『王妃基金が、何のためにあり、寄付や支援がどのように必要な場所へ届くのかを知るための講習』


 ミリアが頷いた。


「こちらは分かりやすいです」


「では、内部向けと外部向けで分けます」


「また分けましたね」


「混ぜると危険です」


「最近の合言葉ですね」


 二人は、少しだけ笑った。


 そこへ扉が叩かれた。


「お姉様。入ってもよろしいですか」


 リリアナだった。


 彼女は今日も規程の束を持っている。


 ただし、以前より量が少し減っていた。


「どうぞ」


 リリアナは部屋に入るなり、机の上の題を見た。


「王妃基金実務講習……」


 そして、すぐに眉を寄せる。


「難しそうです」


「題名から、もうですか」


「はい」


 率直だ。


 ミリアがすぐにメモを取る。


「題名が難しい、と」


「そこから記録するのですか?」


 リリアナが驚くと、ミリアは真面目に頷いた。


「はい。とても大切です」


「で、では……『王妃基金実務講習』は、王宮の方にはよいと思います。でも、若い令嬢向けなら、少し近寄りにくいです」


「では、どうすればよいでしょう」


 セレスティアが尋ねると、リリアナは少し考えた。


「『寄付と支援の届き方を学ぶ会』では駄目ですか」


 セレスティアは、思わず顔を上げた。


 悪くない。


 むしろ、かなりよい。


「分かりやすいです」


「本当ですか」


「はい。外部向けの副題にしましょう」


 ミリアが書き込む。


『寄付と支援の届き方を学ぶ会』


 リリアナは、少し嬉しそうに胸を張った。


「役に立てました」


「とても」


「では、もう一つ言ってもよろしいですか」


「もちろん」


「講習、と言われると、試験がありそうで怖いです」


 セレスティアは一瞬、言葉に詰まった。


 試験。


 考えていなかった。


 いや、確認問題くらいは必要かと思っていた。


 しかし、若い令嬢や寄付者向けに試験の気配を出したら、確かに一気に離れる可能性がある。


「試験はありません」


 セレスティアが言うと、リリアナはあからさまに安堵した。


「よかったです」


「ただし、確認用の簡単な問いは入れたいです」


「問い?」


「はい。たとえば、『この寄付は、どの支援分野に当たるでしょう』とか」


 リリアナは少し考えた。


「それなら、答え合わせ会のようにした方がいいです。間違えても恥ずかしくないように」


 ミリアが深く頷いた。


「それは大事です」


「分からない人が学べる制度、でしたよね?」


 リリアナが言った。


 セレスティアは、その言葉に胸を突かれた。


 分からない人が学べる制度。


 まさにそれだ。


 分かる人だけが分かる講習なら、意味がない。


 分からない人を置き去りにしない。


 そのための講習だ。


「リリアナ、その言葉をそのまま使います」


「えっ」


「王妃基金実務講習の基本方針です」


 セレスティアは新しい紙に書いた。


『基本方針:分からない人が学べる制度にする』


 書いた瞬間、講習の軸が定まった気がした。


 昼前には、エミリア・クラウゼンも宰相府を訪れた。


 若い寄付者代表として、講習案への意見を聞くためだった。


 彼女は部屋に入ると、リリアナの姿を見て少し緊張した。


「リリアナ様もいらっしゃるのですね」


「はい。私は分からない人代表です」


 リリアナが真顔で言った。


 エミリアは一瞬戸惑い、それから小さく笑った。


「では、私は若い寄付者代表として、分からないことを言います」


「一緒ですね」


「はい」


 二人がそう言って笑い合ったのを見て、セレスティアは少し胸が温かくなった。


 かつてのリリアナなら、ここで自分を上に見せようとしたかもしれない。


 今は違う。


 分からないことを、恥ではなく役割として受け取っている。


 エミリアは机の上の講習案を読み、すぐに言った。


「セレスティア様、この『寄付者の善意を必要な場所へ届けるための配分判断』という項目ですが」


「はい」


「たぶん、若い令嬢には少し硬いです」


「やはり」


「『寄付したお金は、どうやって行き先が決まるの?』では駄目ですか」


 セレスティアは、すぐに書き留めた。


「とてもよいです」


 リリアナも頷く。


「それなら分かります」


 ミリアが次の項目を読む。


「『支援先の尊厳と公表範囲』」


 リリアナとエミリアが同時に首を傾げた。


 セレスティアは、少し苦笑した。


「これは、かなり難しいですね」


「尊厳という言葉は大事ですが、最初に見ると少し身構えます」


 エミリアが言う。


 リリアナも続けた。


「『支援先を傷つけないために、どこまで名前を出すか考える』では?」


 ミリアが顔を上げる。


「分かりやすいです」


 セレスティアは書き換えた。


『支援先を傷つけないために、どこまで名前を出すか考える』


 エミリアは、ほっとしたように言った。


「これなら、友人たちにも説明できそうです」


「友人たちに説明するつもりですか」


「はい。共同寄付に興味を持っている方が増えていますので。ただ、流行だけで参加してほしくないので、講習があるなら勧めたいです」


 セレスティアは頷いた。


「そのための講習です」


 エミリアは少し身を乗り出した。


「では、講習の最初に『流行で選ぶのではなく、必要だから選ぶ』という話を入れていただけますか」


「入れます」


 リリアナが小さく手を上げた。


「でも、最初から厳しく言いすぎると怖いです」


「では、どうしましょう」


「『人気の支援と、必要な支援はいつも同じとは限りません』とか」


 セレスティアは、思わず微笑んだ。


「それもよいですね」


 エミリアも頷いた。


「柔らかいです。でも、刺さります」


「刺さりますか」


「はい。私も最初、華やかな支援の方がよいと思っていましたから」


 セレスティアは紙に書いた。


『人気の支援と、必要な支援はいつも同じとは限りません』


 講習の言葉が、少しずつ人に届く形へ変わっていく。


 硬い制度文が、リリアナやエミリアの言葉を通して、柔らかく、しかし芯を残した表現になっていく。


 これが、人を育てることの始まりなのかもしれない。


 同時に、自分も育てられている。


 セレスティアは、ふとそう思った。


 午後には、カインも講習案を確認に来た。


 机の上に並んだ二種類の資料を見て、彼は少しだけ眉を上げた。


「随分変わったな」


「はい。内部向けと外部向けで分けました」


 セレスティアは、まず内部向けを示した。


『王妃基金実務講習・王宮内部向け』


 一、王妃基金の目的と王妃の理念。

 二、支援目的の明記。

 三、王妃基金費と社交費の区分。

 四、返還金・寄付金・通常予算の違い。

 五、確認保留権の使い方。

 六、支援先報告書の読み方と負担軽減。

 七、寄付者向け概要報告書の作成手順。


 次に、外部向け。


『寄付と支援の届き方を学ぶ会』


 一、王妃基金は何のためにあるの?

 二、寄付したお金は、どうやって行き先が決まるの?

 三、人気の支援と、必要な支援はいつも同じとは限りません。

 四、支援先を傷つけないために、どこまで名前を出すか考える。

 五、報告書を読んでみましょう。

 六、共同寄付をする時の約束。

 七、分からない時は、どこに聞けばいい?


 カインは黙って読み、外部向けの五番で少し止まった。


「報告書を読んでみましょう、か」


「はい。実際の概要報告書の簡略版を使います」


「いい」


 カインは次に七番を指した。


「分からない時は、どこに聞けばいい。これもいい」


「リリアナとエミリアの意見です」


「だろうな」


「分かりますか」


「君一人なら『問い合わせ窓口と確認手順』と書く」


 否定できない。


 リリアナが横で小さく笑った。


「お姉様らしいです」


「笑うところですか」


「少し」


 カインは内部向けの資料へ戻る。


「確認保留権は、必ず演習を入れろ」


「演習ですか」


「ああ。『この場合、保留すべきか』という事例を出す」


「なるほど」


「ただし、外部向けには入れすぎるな。混乱する」


「はい」


 カインは続ける。


「内部向け講習の初回は、王太子府も対象に入れる」


 リリアナの顔が引き締まった。


「王太子府も、ですか」


「ああ。むしろ必要だ」


 セレスティアも頷く。


「私もそう思います」


 リリアナは少し緊張したが、すぐに言った。


「では、私も受けます」


「受ける側ですか、試読側ですか」


 セレスティアが尋ねると、リリアナは真剣に考え込んだ。


「両方です」


「両方」


「はい。受けながら、分かりにくいところを印します」


 カインが短く言った。


「採用」


 早い。


 リリアナは驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに頷いた。


「はい。頑張ります」


 カインは、少しだけ表情を和らげた。


「頑張りすぎずに、分からないところを見つけろ」


「はい」


 そのやり取りを見て、セレスティアは少し不思議な気持ちになった。


 リリアナが、宰相府の制度作りに自然に関わっている。


 かつてなら考えられなかった。


 でも今は、それが必要な役割になっている。


 講習案の後半では、講師役の割り振りが問題になった。


 セレスティアは最初、自分が大部分を担当するつもりでいた。


 だが、カインがすぐに言った。


「分けろ」


 予想通りだった。


「はい」


 セレスティアは、素直に別紙を出した。


「内部向けは、王妃基金の理念と全体説明を私が。会計区分をローレン副監。確認保留権と公表範囲をオルド。支援先報告書の読み方をミリアと私。寄付者向け概要報告書をミリア中心で」


 ミリアが一瞬固まった。


「私中心ですか」


「はい。昨日の助言会での説明が分かりやすかったので」


「セレスティア様、最近とても自然に役割を渡されますね」


「練習しています」


「受ける側も練習が必要です」


「一緒に練習しましょう」


 ミリアは少し困った顔をした後、諦めたように笑った。


「はい」


 外部向けは、さらに分けた。


 王妃基金の目的――セレスティア。

 寄付の行き先――ローレン副監。

 共同寄付の約束――エミリア。

 報告書を読む練習――ミリア。

 分からない言葉チェック――リリアナ。

 社交界で気をつけること――ローゼン侯爵夫人に相談。

 寄付者の名誉と支援先の尊厳――バルツァー夫人、必要に応じて。


 書き終えた時、セレスティアは少しだけ息を吐いた。


「かなり多くの方に関わっていただくことになりますね」


 カインが答える。


「だから育つ」


「はい」


「君一人で教えるなら、君しか育たない」


 その言葉に、セレスティアははっとした。


 教える側も育つ。


 確かにそうだ。


 ミリアが講師役になれば、記録の意味をさらに深く理解する。

 エミリアが共同寄付を説明すれば、若い寄付者代表としての自覚が育つ。

 リリアナが分からない言葉を確認すれば、学ぶ人の視点が制度に残る。


 人を育てるとは、教えられる人だけではなく、教える人も育てることなのだ。


「……分かりました」


 セレスティアは静かに言った。


「講師も分けます」


「よし」


 夕方、講習案の第一稿がまとまった。


 表紙には、二つの題が並ぶ。


『王妃基金実務講習・王宮内部向け』


『寄付と支援の届き方を学ぶ会・寄付者および若い令嬢向け』


 そして、基本方針。


『分からない人が学べる制度にする』


 セレスティアは、その一文を見て、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


 自分一人では、出てこなかった言葉だ。


 リリアナ、ミリア、エミリア。


 それぞれの「分からない」が、講習の形を作っている。


 分からないことは、弱さではない。


 制度を届かせる入口だ。


 そう思えるようになっただけでも、王妃基金改革は少し前に進んだのだろう。


 リリアナが、完成した第一稿を見て言った。


「お姉様」


「はい」


「この講習なら、私も受けたいです」


「あなたには、必ず受けていただきます」


「やはり」


「試読者兼受講者です」


「大役ですね」


「はい。かなり」


 リリアナは少し笑った。


 エミリアも言う。


「私も、共同寄付の説明をするのは怖いですが……同じ若い令嬢の方々に話せるなら、頑張ります」


 ミリアも、小さく頷いた。


「私も、報告書を読む練習のところを担当します」


 セレスティアは、三人を見た。


 それぞれ違う立場の三人。


 かつての自分なら、三人の不安を全部引き取って、自分が前に出ただろう。


 でも今は違う。


 不安ごと、役割を渡す。


 それが育てるということなのだ。


 夜、覚書にはこう書いた。


『王妃基金実務講習案、第一稿』


 次に。


『外部向け名称。寄付と支援の届き方を学ぶ会』


 さらに。


『基本方針。分からない人が学べる制度にする』


 少し手を止める。


『人気の支援と、必要な支援はいつも同じとは限りません』


『支援先を傷つけないために、どこまで名前を出すか考える』


 最後に。


『君一人で教えるなら、君しか育たない、と宰相閣下に言われた』


 その一文を書いた後、しばらく見つめた。


 人を育てる。


 それは、役割を分けること。


 不安ごと渡すこと。


 そして、教える人も育つ場を作ること。


 扉の外から声がした。


「寝ろ」


「はい」


「講習案は形になったか」


「はい。第一稿ができました」


「見た」


「いつの間に」


「夕方」


「そうでしたか」


 少し沈黙があって、カインが言った。


「よく分けた」


「ありがとうございます」


「以前なら全部自分でやったな」


「はい」


「成長した」


 胸が、少し熱くなる。


「……素直に褒められると、困ります」


「困るな」


「はい」


「次は試行だ」


「はい。王太子府と若い令嬢向けですね」


「荒れるぞ」


「講習でも荒れますか」


「分からない人が集まる。必ず荒れる」


「もう少し柔らかく」


「かなり荒れる」


「柔らかくなっていません」


 扉の向こうで、微かに笑う気配がした。


「だが、必要だ」


「はい」


「分からない人が学べるなら、基金は強くなる」


 セレスティアは、静かに頷いた。


「はい」


「だから寝ろ。教える人間が倒れるな」


「はい」


 灯りを落とす。


 分からない人が学べる制度。


 それは、かつて分からないまま頷いてしまった人たちを、少しずつ救うものかもしれない。


 リリアナも。

 若い令嬢たちも。

 王太子府の職員も。

 そして、昔の自分自身も。


 分からないと言える場を作る。


 そこから、人は育つ。


 セレスティアは、その小さな確信を抱えて目を閉じた。

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