第71話 次に成すべきこと
助言会初回の翌朝、王妃基金の部屋には、不思議な静けさがあった。
問題がなくなったわけではない。
机の上には、いつも通り書類が積まれている。
支援先報告書簡素化案。
共同寄付窓口設置案。
若い寄付者向け説明会の参加希望者一覧。
寄付者向け概要報告書の改訂予定。
四半期不足状況表の次回更新準備。
やることは山ほどある。
だが、以前のような火事場の匂いは薄れていた。
誰かが不正を隠している。
誰かが責任を押しつけようとしている。
誰かがセレスティアの名前だけを利用しようとしている。
そういう切迫した空気ではない。
今あるのは、動き始めた仕組みを整えるための忙しさだった。
セレスティアは、支援先報告書簡素化案の表紙を指でなぞった。
昨日、マリアナ修道女が言った言葉がまだ耳に残っている。
感謝文を書く欄が広く、困りごとを書く欄が小さい。
それは、王妃基金の問題を象徴するような言葉だった。
支援先は感謝を求められ、寄付者は名誉を求め、王宮は体面を守ろうとする。
その中で、本当に必要な「困りごと」が小さな欄に押し込まれていた。
それを広げる。
ただ書式を変えるだけではない。
王妃基金が何を見るのかを変えることだった。
ミリアが、薄い紙束を持って入ってくる。
「セレスティア様。昨日の助言会議事録、清書が終わりました」
「ありがとうございます」
「それと、採用・保留・次回検討の分類表も」
ミリアが机に置いた表には、助言会で出た意見が整然と並んでいた。
採用方向。
保留。
次回検討。
担当者。
期限。
セレスティアは、思わず微笑んだ。
「とても分かりやすいです」
「ありがとうございます」
ミリアは少し照れた。
「昨日、グランヴィル侯爵夫人に『記録官殿の言葉として記録しておいてください』と言われたのが、まだ緊張しています」
「よい緊張ですね」
「はい。……たぶん」
「たぶん?」
「まだ少し怖いです。でも、怖いから丁寧に書けました」
セレスティアは静かに頷いた。
「それでよいと思います」
以前なら、ミリアはただ記録する人だった。
今は違う。
記録の意味を、自分の言葉で説明できる人になっている。
その変化が、セレスティアには嬉しかった。
同時に、少し胸がきゅっとした。
自分が何もかも説明しなくても、ミリアが説明できる。
エミリアも、マリアナ修道女も、自分の言葉で話せる。
それは望んでいたことだ。
なのに、やはり少し寂しい。
ミリアが、その表情を見て小さく言った。
「また、寂しいお顔です」
「……最近、表情に出すぎていますね」
「以前より、分かりやすくなりました」
「それは、よいことなのでしょうか」
「たぶん、よいことです」
ミリアは少し笑った。
「少なくとも、周りは止めやすくなりました」
「止められる前提なのですね」
「はい」
そこへ、扉が叩かれた。
入ってきたのはローレン副監だった。
「お二人とも、少しよろしいですか」
「はい」
「会計室側で、支援先報告書簡素化案の実務負担を試算しました」
彼は紙を広げた。
「様式統一と繁忙期簡易報告を導入すれば、支援先側の報告負担は下がります。ただし、王宮側で読み取りと分類を補う必要があるため、こちらの作業量は少し増えます」
「どの程度でしょう」
「初期はかなり。その後は、様式が安定すれば減ります」
セレスティアは頷いた。
「必要な負担です」
ローレン副監は苦笑した。
「そうおっしゃると思いました。ただ、セレスティア様ご自身が全部見ようとすると倒れます」
「またそこへ戻るのですね」
「重要ですから」
ミリアも横で頷く。
「分類の一次確認は、会計室と記録室で分担できます。セレスティア様は、例外対応と方針確認に絞ってください」
セレスティアは、少しだけ黙った。
また任せる話だ。
しかし、今度は以前ほど抵抗がなかった。
「分かりました。一次確認は、会計室と記録室で。私は例外対応と方針確認を担当します」
ローレン副監が目を瞬かせた。
「ずいぶん素直ですね」
「成長していますので」
ミリアが小さく笑う。
「かなり」
ローレン副監も笑った。
穏やかな空気だった。
忙しいが、穏やか。
この空気を作るために、どれだけ遠回りしたのだろうと、セレスティアはふと思った。
午後、カインの執務室で第二章……ではなく、王妃基金改革第二段階の進捗確認が行われた。
出席者は少ない。
カイン、セレスティア、ローレン副監、オルド、ミリア。
机の上には、これまでの成果をまとめた一覧が置かれている。
一、返還金再配分報告書第一号の発行。
二、支援先への返還金再配分開始。
三、慈善茶会運営改革の試行成功。
四、王妃基金監査補佐官の任命。
五、寄付者向け概要報告書制度の承認。
六、第一回四半期不足状況表の作成。
七、冬季輸送支援共同寄付の受付。
八、公開意見交換会の開催。
九、王妃基金改革助言会の設置と初回開催。
十、支援先報告書簡素化案の作成開始。
並べてみると、多かった。
セレスティアは、その一覧を見て少し息を呑んだ。
自分たちは、ここまで来たのか。
あの、王妃の帳簿に自分の名前が残っていたところから。
王太子府に旧候補者として利用されかけたところから。
ラドクリフ商会の返還金を追い、支援先へ戻し、報告書を出し、茶会を変え、寄付者とぶつかり、若い令嬢たちを巻き込み、保守派と向き合った。
遠かった。
まだ終わってはいない。
けれど、確かに一区切りには近づいている。
カインが言った。
「安定運用へ入る」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「これまでのような緊急対応中心ではなく、定期報告、助言会、共同寄付、支援先聞き取りを回す段階だ」
ローレン副監が頷く。
「会計室としても、ようやく年次計画に組み込めます」
オルドも言う。
「法務局は、暫定規程を正式規程へ移す準備に入れます」
ミリアは、少し緊張しながらも言った。
「記録室は、助言会記録と支援先報告書様式の管理を担当します」
カインが短く頷いた。
「よし」
そして、セレスティアを見る。
「監査補佐官」
「はい」
「君は、次に何をする」
次に何をする。
その問いは、思っていたより重かった。
これまでは、目の前に火があった。
火を消す。
穴を塞ぐ。
不正を戻す。
報告書を出す。
反発に答える。
次々に問題が来た。
だが今、改革は安定運用へ入ろうとしている。
では、自分は次に何を成すべきなのか。
セレスティアは、すぐに答えなかった。
答えを急がないことも覚えた。
机の上の成果一覧を見つめる。
王妃基金は仕組みになり始めた。
助言会もできた。
支援先の声も入り始めた。
若い寄付者の入口もできた。
では、次は。
「……人を育てること、でしょうか」
言ってから、自分でも少し驚いた。
カインは黙って聞いている。
セレスティアは続けた。
「制度を作っても、それを理解して動かせる人がいなければ、また誰か一人に負担が偏ります」
ミリアが顔を上げる。
「王妃基金には、概要報告書を読める人、支援先報告を整理できる人、寄付者と支援先の間を取り持てる人、若い寄付者に説明できる人が必要です」
言いながら、少しずつ確信が生まれていく。
「私が次にすべきことは、すべてを自分で見ることではなく、王妃基金の仕事を理解して担える人を増やすことだと思います」
部屋が静まった。
ミリアは少し驚いた顔をしている。
ローレン副監は満足そうだった。
オルドは、すでに何か法務上の講習案を考えていそうな顔をしていた。
カインが、静かに言った。
「続けろ」
「はい」
セレスティアは、言葉を整理する。
「王妃基金実務講習のようなものを作れないでしょうか。王宮内部向けと、寄付者・若い令嬢向けに分けます」
ミリアがすぐに筆を取った。
「王宮内部向けは、支援目的の読み方、会計区分、確認保留、支援先報告書の扱い。寄付者向けは、寄付分野の選び方、概要報告書の読み方、支援先の尊厳、公表範囲」
ローレン副監が頷く。
「会計室から講師を出せます」
オルドも続ける。
「法務局からは、個人情報……いえ、支援先保護と公表範囲の扱いを担当できます」
ミリアが、少し遠慮がちに言った。
「記録室からは、報告書の読み方と分類の説明を」
セレスティアは、ミリアを見る。
「ぜひお願いします」
「私が、講習を?」
「はい」
ミリアは、不安そうにしながらも、小さく頷いた。
「怖いですが、やります」
カインが言った。
「採用する」
早い。
セレスティアは顔を上げた。
「まだ案です」
「方向として採用する。詳細を詰めろ」
「はい」
「これが次の仕事だ」
次の仕事。
人を育てること。
王妃基金を、一人の奮闘ではなく、複数の人が担える仕組みにすること。
セレスティアは、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
役割が見えた。
自分が次に立つ場所が。
会議後、ミリアが廊下でセレスティアに追いついてきた。
「セレスティア様」
「はい」
「人を育てること、とおっしゃった時、少し驚きました」
「私も、自分で少し驚きました」
「でも、とても自然でした」
「そうでしょうか」
「はい。だって、もう育っています」
ミリアは、少し恥ずかしそうに笑った。
「私も、エミリア様も、リリアナ様も。マリアナ修道女も、言いづらいことを言えるようになりました。セレスティア様が、代わりに全部言うのを少しずつやめたからです」
セレスティアは、胸が温かくなるのを感じた。
「ミリア」
「はい」
「私、まだすぐ口を出したくなります」
「知っています」
「かなり?」
「かなり」
二人は笑った。
ミリアは、笑った後で少し真面目な顔になった。
「でも、口を出さずに待とうとしてくださいます。それだけでも、私たちは話せます」
セレスティアは、しばらく言葉を返せなかった。
待つこと。
それが誰かを育てるのかもしれない。
自分が完璧な答えをすぐ出すより、誰かが少し拙くても自分の言葉で話せるように待つ。
それは、とても難しい。
でも、次の仕事には必要だ。
「王妃基金実務講習、ミリアにも一緒に作っていただきます」
「はい」
「怖いですか」
「かなり」
「では、怖いまま作りましょう」
「はい」
夕方、リリアナから手紙が届いた。
『お姉様へ』
『助言会初回の話を聞きました。ミリア様が発言されたと聞いて、私まで嬉しくなりました』
『エミリア様も、マリアナ修道女様も、自分の言葉で話されたのですね』
『お姉様が全部答えなかったと聞きました。すごいです』
セレスティアは、その一文で笑ってしまった。
妹から「全部答えなかったこと」を褒められる日が来るとは。
手紙は続く。
『王太子府でも、王妃基金の実務を学ぶ講習が必要だと思います。私もまだ分からないことが多いです。分からない人向けの講習があると、たぶん助かる人が多いです』
『難しい言葉を使う時は、横にやさしい言い換えを書いてください』
『これは強い希望です』
強い希望。
リリアナらしい。
セレスティアは、すぐに返事を書いた。
『リリアナへ』
『強い希望、受け取りました』
『王妃基金実務講習を作る案が出ています。王宮内部向けと、寄付者・若い令嬢向けを分ける予定です』
『難しい言葉には、やさしい言い換えをつけます。あなたにも試読をお願いします』
少し考え、最後に書く。
『私の次の仕事は、人を育てることになりそうです。私自身も、まだ学んでいる途中です』
署名して、封をした。
次の仕事。
その言葉が、少しずつ自分の中で重みを持ち始めていた。
夜、セレスティアは覚書を書いた。
『王妃基金改革、安定運用へ』
次に。
『これまでの成果一覧。返還金再配分報告書、慈善茶会改革、監査補佐官任命、寄付者向け概要報告、四半期不足状況表、共同寄付、公開意見交換会、助言会』
少し手を止める。
並べると、やはり多い。
彼女は続けた。
『次に成すべきこと。人を育てること』
その一文を書いた瞬間、胸が少し震えた。
『王妃基金実務講習案。王宮内部向け、寄付者・若い令嬢向け。難しい言葉には、やさしい言い換えをつける』
さらに。
『待つことも、人を育てること』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は一枚か」
「はい」
「次が見えたな」
「はい。人を育てることです」
「いい」
「少し意外でした」
「君らしい」
「そうでしょうか」
「ああ。君は制度を作るが、本当は人が迷わないように道を作っている」
胸の奥が、静かに熱くなった。
「……ありがとうございます」
「事実だ」
いつもの言葉。
けれど、今日はいつも以上に心に残った。
「宰相閣下」
「何だ」
「王妃基金は、少し安定してきたのでしょうか」
「少しな」
「少し、ですか」
「かなり、と言うにはまだ早い」
セレスティアは小さく笑った。
「厳しいですね」
「だが、進んだ」
「はい」
「次は育てろ。ただし、自分を削って育てるな」
「難しいですね」
「だから仕組みにする」
「はい」
「そして寝ろ」
「はい」
灯りを落とす。
王妃基金は、安定運用へ入り始めた。
火を消す日々から、灯りを絶やさない仕組みを作る日々へ。
セレスティアの次の仕事は、人を育てること。
自分の手を離れても、王妃基金が必要な場所へ届き続けるように。
その道を作ること。
目を閉じる前に、セレスティアは小さく息を吐いた。
次に成すべきことが見えた夜だった。




