第68話 役割が変わる日
王妃基金改革助言会の設置は、正式発表された瞬間から、王宮内外に波紋を広げた。
発表文は簡潔だった。
『王妃基金改革の継続的改善を目的として、王妃基金改革助言会を設置する』
『助言会は、古参支援者代表、寄付者代表、若い寄付者代表、支援先連絡役、王宮会計室、法務局、宰相府、王妃基金監査補佐官により構成される』
『四半期不足状況表、寄付者向け概要報告書、共同寄付制度、支援先聞き取り手順等について、定期的に助言を行う』
たったそれだけの文書。
けれど、その意味は小さくなかった。
王妃基金改革は、もうセレスティア一人の奮闘ではない。
宰相府の命令だけでもない。
会計室の帳簿だけでも、法務局の規程だけでも、社交界の善意だけでもない。
古い記憶、新しい関心、寄付者の事情、支援先の声。
それらを制度の中で聞く場所ができたのだ。
セレスティアは、正式発表文の控えを机の上に置き、しばらく見つめていた。
嬉しい。
確かに嬉しい。
それなのに、胸の奥には昨日と同じ寂しさが残っている。
王妃基金が、自分の手から離れていく。
いや、違う。
正しい形へ戻っていく。
そう考え直す。
それでも、少し寂しい。
ミリアが書類を抱えて入ってきた。
「セレスティア様。発表後の反応が届き始めています」
「早いですね」
「社交界は、こういう時だけ異様に足が速いです」
「いつも速い気もします」
「そうですね。訂正します。いつも速いです」
ミリアは真面目な顔で言った。
セレスティアは思わず笑ってしまった。
「まず、ローゼン侯爵夫人からです」
封筒を開けると、いつもの端正な文字が並んでいた。
『助言会設置、よい形です。グランヴィル夫人を外から批判させず、中で見届けさせる判断は正しい』
『ただし、助言会は便利な箱ではありません。人が増えれば意見も増えます。あなたが全部まとめようとすれば、また倒れます』
セレスティアは、そこで少しだけ目を逸らした。
ミリアが横から静かに言う。
「読まれていますね」
「はい」
『今後のあなたの役割は、すべてを自分で書くことではなく、誰の声をどこで聞き、誰に任せ、どの線を守るかを決めることです』
その一文で、セレスティアは手を止めた。
自分で書くことではなく。
誰に任せるか。
どの線を守るか。
役割が、変わっている。
頭では分かっていた。
けれど、文字で突きつけられると、また胸が少し揺れる。
ミリアが、そっと尋ねた。
「寂しいですか」
「……少し」
「昨日もそうおっしゃっていました」
「変ですね。楽になるはずなのに」
「楽になることと、寂しくないことは別なのかもしれません」
ミリアの言葉に、セレスティアは少し驚いた。
「ミリア、本当に最近鋭いですね」
「記録官ですので」
「記録官は、そこまで人の感情を読む職でしたか」
「セレスティア様のそばにいると、必要になります」
その言い方が自然すぎて、セレスティアは返す言葉を失った。
でも、少し嬉しかった。
支援先からの反応も届いた。
マリアナ修道女からは、丁寧な書簡が来た。
『助言会に支援先連絡役を加えていただいたことに感謝いたします』
『支援先は、支援を受ける立場であるがゆえに、意見を申し上げることを遠慮しがちです。ですが、報告書や聞き取りが現場の負担になることもあります』
『今後は、感謝だけでなく、難しいこともお伝えできるよう努めます』
セレスティアは、その一文を何度も読んだ。
感謝だけでなく、難しいことも。
それは、支援先が制度の中に入るということだ。
支援を受ける側だから、黙って感謝するだけではない。
困ることは困ると言う。
負担になることは負担だと伝える。
その場ができる。
これは、王妃基金にとって大きい。
「マリアナ修道女には、次回助言会の前に支援先報告書の簡素化案を送ります」
セレスティアが言うと、ミリアがすぐに記録した。
「はい」
「ただし、私が一から全部書くのではなく……」
そこまで言って、自分で少し詰まった。
言い慣れていない。
「会計室と支援先連絡役で草案を作っていただき、私は確認します」
ミリアが微笑んだ。
「はい。今の、とてもよかったです」
「褒められるほどですか」
「任せる練習です」
「……練習」
セレスティアは少し苦笑した。
仕事をする練習ではなく、任せる練習。
自分に一番足りていないものかもしれない。
王太子府からも反応が来た。
正式な書簡とは別に、リリアナから手紙が届いていた。
『お姉様へ』
『王妃基金改革助言会の設置を知りました。エミリア様が若い寄付者代表として参加されると聞き、少し嬉しくなりました』
『グランヴィル侯爵夫人も入られるのですね。少し怖いですが、花の美しさを忘れないためには必要なのだと思います』
『私は助言会の正式な構成員ではありませんが、もし概要版の試読が必要なら、また読みます』
『ただ、お姉様が全部自分でやらなくてもよくなるなら、それもよいことだと思います』
『でも、少し寂しい気持ちも分かる気がします。私も、お姉様に質問することが少し減ったら寂しいかもしれません』
セレスティアは、そこを読んで小さく笑った。
リリアナらしい。
制度の話から、姉に質問する回数の話へ飛ぶ。
けれど、不思議と核心を突いている。
頼ることが減るのは成長だ。
でも、頼られなくなる側は少し寂しい。
きっと、そういうことなのだろう。
最後に、こう書かれていた。
『でも、質問はまだたくさんあります。安心してください』
安心するところなのか分からない。
だが、セレスティアは笑ってしまった。
ミリアが尋ねる。
「リリアナ様ですか」
「はい。質問はまだたくさんあるので安心してください、と」
「それは安心ですね」
「本当に?」
「かなり」
まただ。
もう、この言葉は完全に宰相府と王妃基金周辺で流行している。
午後には、エルフォード公爵家からも書簡が届いた。
差出人はエヴァンジェリンだった。
『セレスティアへ』
『王妃基金改革助言会の設置を知りました。あなたが一人で背負わなくてよい仕組みができたことに、安堵しています』
『あなたの父も、発表文を読みました。少し長く黙った後、「あの子が一人で背負わない形になったのなら、よい」と申しました』
セレスティアは、その一文で目を止めた。
父が。
あの父が、そう言った。
信じられないような気持ちと、少しだけ胸が痛む気持ちが同時に来る。
かつて、一人で背負わせた側の人が。
今、一人で背負わない形をよいと言う。
遅い。
どうしても、そう思う。
けれど、遅くても、変化ではある。
手紙は続く。
『屋敷でも、今後は王妃基金に関わる話を家の都合で動かさないよう、対応基準を整えています』
『あなたの境界線を、こちらも学んでいます』
境界線を、こちらも学んでいる。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
家族に線を引くことは、冷たいことだと思っていた。
いや、今でも少しそう感じてしまう。
でも、その線があるから、相手も学べるのかもしれない。
勝手に踏み込まないこと。
勝手に決めないこと。
本人の職務と家の都合を混ぜないこと。
それを家も学び始めている。
セレスティアは返事を書いた。
『お母様へ』
『書簡を受け取りました』
『助言会の設置により、王妃基金改革は複数の視点で支えられる形へ移ります。私自身も、一人で背負わないことを学んでいる最中です』
『屋敷で対応基準を整えてくださっていること、確認しました』
『境界線は、拒絶のためだけではなく、正しい距離で話すためにも必要なのだと思います』
そこまで書いて、少し手が止まった。
自分で書いた言葉に、自分が教えられる。
境界線は、拒絶のためだけではない。
正しい距離で話すため。
父とも、母とも、リリアナとも、王太子府とも、社交界とも。
きっと、そうなのだ。
助言会設置の反応で最も意外だったのは、若い令嬢たちの間から届いたものだった。
エミリア・クラウゼンからではなく、別の令嬢たちから、いくつかの短い手紙が来た。
『若い寄付者代表が設けられたことを知り、王妃基金が私たちの声も聞いてくださるのだと感じました』
『まだ寄付できる額は小さいですが、不足状況表を読み、友人たちと話し合いたいと思います』
『共同寄付が流行のように扱われることには不安もありますが、正式な仕組みがあるなら参加しやすいです』
セレスティアは、それらを一枚ずつ読んだ。
若い世代が、制度に入口を見つけている。
ただ「可愛い令嬢」として茶会に並ぶだけではない。
少額でも、共同でも、地味な支援でも、関われる。
その道が見え始めている。
もちろん、危うさはある。
流行化も、競争化も、家の名誉争いも。
でも、だからこそ制度が必要なのだ。
ミリアが、手紙を分類しながら言った。
「若い寄付者向け説明会、かなり参加希望が増えそうですね」
「はい。助言会の初回議題に入れましょう」
「セレスティア様が説明されますか」
以前なら、即答で「はい」と言っていた。
だが、セレスティアは少し考えた。
「初回の基本説明は私がします。ただ、その後の小グループでの質問対応は、エミリア様とミリア、会計室補佐官にも分担していただきます」
ミリアは目を丸くした。
「私もですか」
「はい。記録整備や四半期不足状況表については、ミリアがよく理解しています」
「で、でも、私は記録官で」
「だからです」
セレスティアは、柔らかく言った。
「記録がどう支援につながるかを、あなたの言葉で話せると思います」
ミリアは、少し困ったように視線を落とした。
それから、小さく笑った。
「怖いです」
「私もいつも怖いです」
「では、怖いまま準備します」
「はい」
ミリアは、胸元に資料を抱えた。
「分かりました。やってみます」
その返事を聞いて、セレスティアは少しだけ寂しくなり、同時に嬉しくなった。
また一つ、自分だけが話す必要がなくなった。
夕方、カインの執務室で助言会設置後の初回運用について確認した。
カインは、反応一覧を見ながら言った。
「概ね成功だな」
「概ね、ですか」
「完全成功などない」
「それはそうですが」
「グランヴィル夫人は見届け役に入った。保守派の一部は軟化する。だが、別の一部は『制度に取り込まれた』と反発するだろう」
「でしょうね」
「若い令嬢たちは動く。だが、流行化もする」
「はい」
「寄付者代表は協力する。だが、譲らない部分ではまた揉める」
「はい」
セレスティアは、少しだけため息をついた。
「問題が減るというより、見える場所が増えるのですね」
「そうだ」
カインは短く頷いた。
「それが制度だ。問題を消す魔法ではない。隠れていた問題を、扱える場所に出す」
セレスティアは、その言葉を胸にしまった。
問題を消す魔法ではない。
扱える場所に出す。
王妃基金改革は、まさにそれだった。
不正。
寄付者の名誉。
支援先の負担。
若い令嬢たちの関心。
保守派の不安。
家族との境界線。
すべて、消えたわけではない。
ただ、扱える場所へ出てきた。
「私の役割も、扱える場所を作ることへ変わっていくのでしょうか」
セレスティアが尋ねると、カインは少し考えてから頷いた。
「そうだな。君はもう、穴を一つずつ塞ぐだけではない。穴が開く前に見つける仕組みを作る側だ」
「難しいですね」
「難しい」
「最近、本当に否定してくださいませんね」
「嘘は言わない」
いつもの答えだった。
でも、それが少し心地よかった。
「ただ」
カインは続けた。
「君の役割が変わっても、君が不要になるわけではない」
セレスティアは、思わず顔を上げた。
「私は、そんなことを顔に出していましたか」
「かなり」
まさか、ここで使われるとは。
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「……少しだけ、不安でした」
「だろうな」
「助言会ができて、皆がそれぞれ担えるようになれば、私は何をするのだろうと」
言ってしまうと、胸の奥にあった小さな不安が形になった。
カインは、淡々と答えた。
「仕組みが動くほど、それを見る者が必要になる」
「見る者」
「ああ。誰の声が大きくなりすぎているか。誰の声が消えかけているか。制度が目的からずれていないか。支援先が負担を抱えていないか。若い寄付者が流行に流されていないか」
カインは、セレスティアを見る。
「それを見るのが、監査補佐官だ」
胸が静かに落ち着いていく。
役割は消えない。
形が変わる。
自分で全部書くのではなく、仕組みを見る。
線を引く。
必要な時に止める。
必要な時に任せる。
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「正直でよろしい」
セレスティアは小さく笑った。
その夜、覚書にはこう書いた。
『王妃基金改革助言会、正式発表』
次に。
『支援先、若い令嬢たち、王太子府、エルフォード家から反応』
さらに。
『境界線は、拒絶のためだけではなく、正しい距離で話すためにも必要』
少し手を止める。
『助言会ができても、私が不要になるわけではない。仕組みが動くほど、それを見る者が必要』
最後に。
『役割は消えない。形が変わる』
ペンを置く。
扉の外から、いつもの声。
「寝ろ」
「はい」
「今日は一枚か」
「はい」
「成長したな」
「素直に喜んでよいのでしょうか」
「喜べ」
「では、喜びます」
少し間があった。
カインが言う。
「役割が変わる日は、不安になる」
セレスティアは、扉の方を見た。
「宰相閣下にも、そういう日がありましたか」
「ある」
「意外です」
「私を何だと思っている」
「最初から完成された冷徹宰相閣下かと」
「ひどいな」
声は少しだけ笑っていた。
セレスティアも笑った。
「では、今の私の不安も、普通でしょうか」
「普通だ」
「そうですか」
「ああ。だが、不安だからといって戻るな」
「戻る?」
「一人で全部抱える役割に」
胸に、その言葉が刺さる。
「はい」
「君は、仕組みを見る側へ進め」
「はい」
「そのために寝ろ」
「結局そこですね」
「当然だ」
セレスティアは、灯りを落とした。
王妃基金改革助言会が正式に発表された。
多くの声が制度の中に入ってくる。
それは、セレスティアの役割が終わるということではない。
役割が、変わるということ。
一人で抱える人から、仕組みを見る人へ。
その変化は少し寂しく、少し怖い。
でも、たぶん正しい。
セレスティアは、その不安を抱えたまま、静かに目を閉じた。




