第67話 王妃基金は、ひとりの手から離れていく
翌朝、セレスティアは机の上に置かれた一枚の紙を見て、しばらく動けなかった。
『王妃基金改革助言会 設置案』
昨日、カインが言っていたものだ。
グランヴィル侯爵夫人を「見届け役」として制度の中に入れる。
若い令嬢代表、古参支援者代表、寄付者代表、支援先連絡役を加える。
王妃基金改革を、宰相府と会計室だけのものにしない。
字面だけ見れば、正しい。
とても正しい。
けれど、セレスティアはその紙を見て、不思議な寂しさも覚えていた。
自分が必死で守ってきたものが、自分の手から少しずつ離れていく。
それは良いことのはずだった。
王妃基金は、セレスティア一人のものではない。
王妃の遺志も、支援先の声も、寄付者の善意も、若い令嬢たちの一歩も、一人で背負うものではない。
分かっている。
分かっているのに、紙の上で役割が分かれていくのを見ると、胸の奥が少しだけ空いた。
ミリアが横から声をかける。
「セレスティア様?」
「はい」
「寂しそうなお顔をされています」
見抜かれた。
最近、周囲が強くなるだけでなく、鋭くもなっている気がする。
「少し、そうかもしれません」
「助言会ができるのは、よいことですよね」
「はい。とても」
「でも、寂しい?」
「はい」
認めてしまうと、少し楽になった。
セレスティアは設置案を指でなぞる。
「これまで、問題が起きるたびに、私が考えなければと思っていました。もちろん、皆様に助けていただいていましたが……どこかで、私が線を引かなければ、と思っていたのだと思います」
ミリアは静かに聞いていた。
「でも、この助言会ができれば、最初からそれぞれの立場の人が線を引いてくださる。若い令嬢の視点、古参支援者の記憶、寄付者の事情、支援先の声。それが制度の中に入る」
「はい」
「とても必要なことです。でも……私が一人で抱えなくてよくなることに、まだ慣れていません」
言ってから、セレスティアは少し恥ずかしくなった。
なんとも情けない話だ。
一人で抱えるなと言われ続けているのに、いざ抱えなくてよくなると寂しい。
ミリアは笑わなかった。
ただ、柔らかく言った。
「それだけ大切にしてきたからではありませんか」
セレスティアは、顔を上げる。
「大切にしてきたものを人に預けるのは、きっと少し怖いです」
「……そうですね」
「でも、預けられる形になったのは、セレスティア様がここまで整えたからです」
胸の奥が、少し温かくなる。
「ありがとうございます、ミリア」
「はい。では、寂しさも記録しますか?」
「覚書に?」
「はい」
「昨日、書くなと言われたばかりです」
「今日は勤務日です」
ミリアは真面目な顔で言った。
セレスティアは、思わず笑ってしまった。
「では、勤務時間内に一行だけ」
そう言って、紙の端に小さく書いた。
『王妃基金が、私一人の手から離れていく。寂しい。でも、必要』
その一文で、少し呼吸が楽になった。
助言会の設置準備会は、午後に開かれた。
出席者は多かった。
カイン。
セレスティア。
ローレン副監。
オルド。
記録官ミリア。
ローゼン侯爵夫人。
グランヴィル侯爵夫人。
バルツァー夫人。
エミリア・クラウゼン子爵令嬢。
そして、支援先連絡役として修道会代表のマリアナ修道女。
小会議室では手狭になり、中会議室が使われた。
セレスティアは席次を見て、少し胸が詰まった。
以前なら、自分と宰相府と会計室だけで詰めていた話に、これだけの人が座っている。
王妃基金が、広がっている。
カインが冒頭で短く説明した。
「王妃基金改革助言会は、決定機関ではない。最終決定は王妃基金運営規程に従い、王宮会計室、法務局、宰相府の確認を経る」
まず権限を明確にする。
カインらしい始まりだった。
「だが、改革が一方的な制度改定にならないよう、関係者の意見を定期的に聞く場とする。四半期不足状況表、寄付者向け概要報告書、共同寄付制度、支援先聞き取りの改善について助言を求める」
ローゼン侯爵夫人が頷く。
「つまり、言いっぱなしの茶会ではなく、記録される意見交換の場ですわね」
「そうだ」
グランヴィル侯爵夫人が静かに言った。
「記録されるということは、発言にも責任が伴いますね」
「その通りです」
セレスティアが答える。
「助言会のご意見は、採用、不採用、保留のいずれかに分類し、理由も記録します」
グランヴィル夫人は、少しだけ目を細めた。
「不採用の理由も、ですか」
「はい。意見を伺うだけで終わらせないためです」
「よろしい」
短い言葉だったが、そこには納得があった。
バルツァー夫人が扇を閉じる。
「寄付者代表としては、寄付者側の意見が単なる資金提供者のわがままと見なされないことを望みます」
「そこも記録します」
セレスティアは頷いた。
「ただし、支援先の尊厳と基金全体の公平性を損なう提案は採用できません」
「相変わらず、先に釘を刺しますわね」
「必要な部分だけです」
バルツァー夫人が小さく笑った。
「便利な言葉ですこと」
隣でローゼン侯爵夫人が涼しい顔をしている。
「流行らせたのは、たぶんあなたですわよ」
「まあ、そうでしたかしら」
年長の夫人二人が軽く火花を散らしながらも楽しそうにしているのを見て、エミリアが少し緊張を解いた。
セレスティアは、エミリアへ視線を向ける。
「エミリア様には、若い寄付者代表として参加していただきます」
「はい」
エミリアは背筋を伸ばした。
だが、声には緊張がある。
「私で務まるでしょうか」
その問いに、グランヴィル侯爵夫人が先に答えた。
「務まるかどうかは、これからです」
厳しい。
エミリアの肩が少し跳ねた。
だが、グランヴィル夫人は続けた。
「ただし、若い方が分からないことを分からないと言う席は必要です。分かったふりをする代表より、よほどよろしい」
エミリアは、目を丸くした。
「ありがとうございます」
「褒めたのではありません。期待したのです」
「……はい」
エミリアは、少し頬を赤くしながら頷いた。
リリアナがここにいたら、きっと深く頷いただろう。
分からないことを、分からないと言う。
それは、いま王妃基金改革の中で何度も繰り返されてきた言葉だった。
支援先連絡役のマリアナ修道女は、静かに手を上げた。
「発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
セレスティアが促すと、修道女は控えめに言った。
「支援先の立場から申し上げます。報告書や聞き取りが増えること自体は、ありがたい面もあります。私どもの状況を知っていただけますので」
ローレン副監が頷く。
「はい」
「ですが、現場の人手が足りない時期に、細かな報告を求められると負担になる場合もあります」
会議室が静かになる。
これは大切な指摘だった。
セレスティアは、すぐにメモを取る。
「具体的には、どのような時期でしょう」
「冬前、流行病の時期、収穫後の搬入時期などです。特に施療院は、患者が増える季節に報告書を書く余裕がありません」
ローレン副監が資料に印をつける。
「報告時期の調整が必要ですね」
マリアナ修道女は頷く。
「はい。それと、報告書の形式が毎回変わると、現場が混乱します」
ミリアが、少し申し訳なさそうな顔をした。
「こちらで形式を整えます」
セレスティアは言った。
「助言会の検討項目に、支援先報告書の簡素化と時期調整を入れます」
グランヴィル夫人が、静かにこちらを見た。
「それです」
セレスティアは顔を上げる。
「それ、とは?」
「手続きが支援先を苦しめないようにすること。それを忘れなければ、私は見届け役として協力できます」
その言葉は重かった。
昨日の公開意見交換会で夫人が心配していたことが、具体的な形でここに出ている。
手続きは必要だ。
だが、手続きのために現場を疲れさせては意味がない。
「忘れません」
セレスティアは答えた。
グランヴィル夫人は頷く。
「忘れそうになったら、私が言います」
「お願いします」
「本当にお願いしますと言うのですね」
「必要なご指摘ですから」
「頑固ですこと」
また言われた。
だが、今日は少し嬉しかった。
助言会の構成案は、会議の中で形を変えながらまとまっていった。
名称は『王妃基金改革助言会』。
構成は以下の通り。
古参支援者代表。
寄付者代表。
若い寄付者代表。
支援先連絡役。
王宮会計室担当。
法務局担当。
宰相府担当。
王妃基金監査補佐官。
ローゼン侯爵夫人は、常任進行役ではなく「調整役」として必要時に入ることになった。
「毎回進行役をさせられるのは困ります」
夫人ははっきり言った。
「私にも茶会があります」
カインが短く返す。
「承知した」
「ただし、揉めそうな時は呼びなさい」
「毎回呼ぶことになりそうです」
セレスティアが言うと、ローゼン侯爵夫人は扇を向けた。
「揉めないように育てるのも、あなたの仕事です」
「努力します」
「そこは、はい」
「……はい」
なぜか、会議室のあちこちで小さな笑いが起きた。
カインまで、わずかに口元を緩めていた。
セレスティアは少しだけ恥ずかしくなる。
だが、嫌な空気ではなかった。
助言会は厳しい場になるだろう。
でも、誰もが少しずつ自分の役割を持ち始めている。
それが、会議室の空気を変えていた。
会議の終盤、カインがセレスティアに問うた。
「監査補佐官として、この助言会の位置づけをどう見る」
全員の視線が集まる。
これは、ただの確認ではない。
セレスティア自身が、この新しい仕組みをどう受け止めているかを問われている。
彼女は少し考え、ゆっくり答えた。
「これまで、王妃基金改革は問題対応が中心でした」
返還金。
不正処理。
処分。
報告書。
寄付者の反発。
保守派との意見交換。
「ですが、助言会ができれば、問題が起きてから対処するだけでなく、問題になりそうなものを早い段階で見つけることができます」
グランヴィル夫人が静かに聞いている。
バルツァー夫人も扇を止めている。
「若い寄付者の流行化、寄付者名誉の扱い、支援先の報告負担、古参支援者の不安。そうしたものを、制度の外で噂や批判として膨らませるのではなく、制度の中で聞く」
ミリアの筆が走る。
「王妃基金を、誰か一人の善意や努力ではなく、複数の視点で支える仕組みにするための場だと思います」
言い終えると、少し静かになった。
自分で言いながら、胸が少し痛んだ。
誰か一人の努力ではなく。
それは、自分の役割が少し小さくなることでもある。
でも、違う。
役割が小さくなるのではない。
正しい大きさになるのだ。
カインが短く言った。
「その理解でいい」
その一言で、セレスティアは少しだけ息を吐いた。
会議後、エミリアがセレスティアのもとへ来た。
「セレスティア様」
「はい」
「私、本当に助言会に出てもよいのでしょうか」
まだ不安そうだった。
セレスティアは、彼女を廊下の端へ促した。
「怖いですか」
「はい。かなり」
「私も最初は怖かったです」
「今もですか」
「今もです」
エミリアは、少し驚いた顔をした。
「セレスティア様も?」
「はい。今日も怖かったです」
「そうは見えませんでした」
「見えないようにしているだけです」
そう言うと、エミリアは少し笑った。
「それなら、私も少し見えないようにできるかもしれません」
「ただ、怖くないふりをしすぎないでください」
「はい」
「助言会で大事なのは、若い令嬢らしく完璧に振る舞うことではありません。分からないことを分からないと言うこと。流行になりすぎていると感じたら、そう言うこと。若い方々が何に迷っているかを伝えることです」
エミリアは、真剣に頷いた。
「分からないことを、分からないと言う」
「はい」
「それなら……できるかもしれません」
「十分です」
エミリアは、小さく深呼吸した。
「頑張ります」
「頑張りすぎないように」
「それ、セレスティア様がよく言われている言葉では?」
「最近、周囲から言われるようになりました」
「では、私も気をつけます」
二人は少しだけ笑った。
その日の夕方、助言会設置案は正式承認へ回された。
まだ最終文書ではない。
だが、方向は決まった。
王妃基金改革は、セレスティア一人の奮闘から、組織として支える段階へ移り始めている。
ミリアが、整理済みの議事録を持ってきた。
「セレスティア様。今日の議事録です」
「ありがとうございます」
「最後のところ、少しだけ表現を整えました」
セレスティアは目を通す。
『王妃基金を、誰か一人の善意や努力ではなく、複数の視点で支える仕組みへ移行する』
自分の発言が、綺麗に整えられている。
セレスティアは、胸が少し熱くなった。
「よいと思います」
ミリアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
「ミリアの記録も、助言会には不可欠ですね」
そう言うと、ミリアは目を丸くした。
「私の?」
「はい。記録がなければ、意見は流れてしまいます」
ミリアは、少し頬を赤くした。
「では、私も支えているのでしょうか」
「もちろんです」
ミリアは、そっと議事録を抱きしめるように持った。
「……嬉しいです」
その姿を見て、セレスティアは思った。
王妃基金は、本当に一人ではない。
記録する人。
数字を見る人。
法の穴を塞ぐ人。
寄付者を説得する人。
若い世代の迷いを伝える人。
古い記憶を見届ける人。
支援先の負担を伝える人。
そのすべてが、少しずつ組み合わさっていく。
夜、セレスティアは覚書を書いた。
『王妃基金改革助言会、設置準備会』
次に。
『古参支援者代表、寄付者代表、若い寄付者代表、支援先連絡役を制度内に入れる』
さらに。
『マリアナ修道女。支援先報告書が現場負担になる時期がある。手続きが支援先を苦しめないようにする』
少し手を止めた。
『王妃基金が、私一人の手から離れていく。寂しい。でも、正しい』
その一文は、朝書いたものと同じだった。
けれど、今は少し違って見える。
寂しさはある。
でも、安心もある。
最後に書く。
『一人の奮闘から、複数の視点で支える仕組みへ』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は何枚だ」
「一枚です」
「よし」
「かなり守れています」
「自分で言うな」
セレスティアは笑った。
カインの声は、少しだけ柔らかい。
「助言会は形になったな」
「はい」
「寂しいか」
また見抜かれた。
セレスティアは、少しだけ黙ってから答えた。
「少し」
「だろうな」
「でも、安心もしています」
「ならいい」
「私の役割は、小さくなるのでしょうか」
思わず、そう尋ねてしまった。
扉の向こうで、少し沈黙があった。
やがてカインが言う。
「小さくなるのではない。正しい形になる」
胸の奥が、静かに震えた。
今日、自分も同じように思った。
それをカインの口から聞くと、少しだけ安心した。
「はい」
「一人で背負う役割から、仕組みを動かす役割になる」
「難しそうです」
「難しい」
「そこは否定してください」
「嘘は言わない」
セレスティアは、また笑ってしまった。
「でも、やります」
「ああ」
「続けたいので」
「なら寝ろ。続けるには休む必要がある」
「はい」
灯りを落とす。
王妃基金は、ひとりの手から離れていく。
それは少し寂しい。
でも、花の水を替える人が一人しかいなければ、その人が倒れた時、花は枯れてしまう。
水を替える人を増やす。
花を見る人も、記録する人も、運ぶ人も、守る人も。
そのための助言会なのだ。
セレスティアは、寂しさと安堵を一緒に抱えて目を閉じた。




