表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/79

第66話 見届ける人と、休むことを命じる人

公開意見交換会の翌日、王宮の空気は不思議なほど静かだった。


 嵐の後、というほど荒れてはいない。

 勝利の余韻、というほど明るくもない。


 ただ、昨日まで別々の方向へ流れていたものが、少しだけ同じ川筋に戻ったような感覚があった。


 朝一番に宰相府へ届いたのは、ローゼン侯爵夫人からの短い書簡だった。


『昨日は、勝たずに済ませたことが最大の成果です』


 セレスティアは、その一文を見て、しばらく黙った。


 勝たずに済ませた。


 普通なら、勝ったことを褒める。


 論破した、押し切った、相手を黙らせた。


 けれど、昨日の場では、それをしてはいけなかった。


 グランヴィル侯爵夫人を負かせば、古くから王妃基金を支えてきた夫人たちの誇りを傷つける。

 保守派を黙らせれば、王妃への敬愛ごと遠ざけてしまう。

 若い令嬢たちを守るために年長者を敵にすれば、王妃基金は世代の争いになる。


 だから、勝たずに済ませた。


 その言葉は、昨日の場を一番よく表していた。


 ミリアが横から覗き込み、ほっとしたように言った。


「ローゼン侯爵夫人がそうおっしゃるなら、昨日の進行は成功だったのですね」


「そう思ってよいのでしょうか」


「思ってよいと思います」


「少し頼りない断定ですね」


「セレスティア様がすぐ疑うので、私まで慎重になりました」


 セレスティアは、小さく笑った。


 笑うと、少し頭が重いことに気づいた。


 昨日の疲れが残っている。


 覚書を三枚も書いたせいではない、と思いたい。


 たぶん、公開意見交換会そのものの疲れだ。


 そこへ、二通目の書簡が届いた。


 差出人は、グランヴィル侯爵夫人。


 ミリアが慎重に封を切る。


 セレスティアは、背筋を伸ばした。


 短い手紙だった。


『王妃基金監査補佐官殿』


『昨日の意見交換会において、私の発言を遮らず、王妃陛下の記憶を軽んじなかったことに礼を申し上げます』


『改革案すべてに賛同したわけではありません』


 その一文で、セレスティアは思わず少し笑いそうになった。


 正直だ。


 そして、夫人らしい。


『ですが、心を守るためにも手続きが必要であるという考えについては、今後見届ける価値があると判断いたしました』


『つきましては、王妃基金改革の「見届け役」として、必要に応じて意見を述べる場を設けていただきたく存じます』


 見届け役。


 セレスティアは、その言葉を見つめた。


 味方、ではない。


 協力者、でもまだ少し違う。


 監査役ほど制度的でもない。


 見届け役。


 グランヴィル侯爵夫人にふさわしい言葉だった。


 昨日、彼女は言った。


 花の美しさを忘れないでください、と。


 それは、今後も言い続けるということなのだろう。


「見届け役……」


 ミリアが小さく呟いた。


「よい響きですね」


「はい。ただ、制度上どう位置づけるか考えなければなりません」


「また制度ですね」


「見届けると言ってくださった方を、曖昧なまま置くと、後で困ります」


「たしかに」


 セレスティアは、すぐに白紙を引き寄せようとした。


 その瞬間、扉が開いた。


 カインだった。


「書くな」


 第一声がそれだった。


 セレスティアは、ペンを持ったまま固まった。


「まだ何も書いていません」


「書こうとした」


「見届け役の扱いを整理する必要が」


「それは午後でいい」


「ですが」


「今日は休めと言った」


 カインの声は、いつもより低かった。


 怒っているわけではない。


 だが、逃がす気もない。


 セレスティアは、少しだけ姿勢を正した。


「午前だけでも」


「休め」


「書簡への返事だけでも」


「休め」


「見届け役の制度的位置づけを」


「休め」


 ミリアが横で、ひそかに笑いをこらえている。


 セレスティアは助けを求めるように見たが、ミリアは首を横に振った。


「セレスティア様。今日は、宰相閣下に賛成です」


「ミリアまで」


「昨日、顔色がかなり悪かったです」


「そうでしたか」


「はい。覚書三枚の罰ではなく、休養です」


 カインが言った。


「罰でもいい」


「よくありません」


「では、職務見直し条項の予防適用だ」


 ついに制度で来た。


 セレスティアは、反論しようとして、言葉が詰まった。


 自分で入れた条項だ。


 過重負担時に、職務範囲と休養を見直す。


 それを使われると弱い。


「……分かりました」


 セレスティアは、ゆっくりペンを置いた。


「午前中は休みます」


「一日」


「半日」


「一日」


「午後に返事だけ」


「明日」


「グランヴィル侯爵夫人に失礼では」


 カインは淡々と言った。


「返事が一日遅れるより、監査補佐官が倒れる方が失礼だ」


 正論だった。


 非常に困る正論だった。


 セレスティアは、ミリアを見た。


 ミリアは真剣な顔で頷いている。


「私もそう思います」


「……分かりました。一日休みます」


 カインは、ようやく短く頷いた。


「よし」


「ただし、手紙を読むくらいは」


「読むだけならいい。返事は書くな」


「覚書は」


「書くな」


「一行だけ」


「書くな」


 もはや交渉の余地がない。


 セレスティアは深く息を吐いた。


「分かりました」


 休めと言われても、休み方が分からない。


 それが問題だった。


 王宮の客室に戻されたセレスティアは、机の前に座りかけて、はっとした。


 机には紙がある。


 紙があると書きたくなる。


 危険だ。


 彼女は立ち上がり、窓辺の椅子へ移動した。


 窓の外には庭が見える。


 昨日の意見交換会で使った中広間とは反対側の庭だ。


 人通りは少なく、風に揺れる木々が静かに影を作っている。


 休む。


 休むとは何をすればよいのか。


 目を閉じる。

 深呼吸する。

 茶を飲む。

 何も書かない。


 どれも、妙に難しい。


 セレスティアは、膝の上で手を重ねた。


 すると、扉が控えめに叩かれた。


「お姉様。入ってもよろしいですか」


 リリアナだった。


「どうぞ」


 入ってきたリリアナは、いつもの規程の束を持っていなかった。


 その代わり、小さな籠を抱えている。


「何ですか、それは」


「休養用です」


「休養用?」


 籠の中には、焼き菓子、温かい布に包まれた小さな茶器、そして薄い読み物が入っていた。


 セレスティアは目を瞬かせる。


「誰の指示ですか」


「宰相閣下です」


「やはり」


「でも、お菓子は私が選びました。甘すぎないものです」


 リリアナは少し誇らしげに言った。


 セレスティアは、思わず笑った。


「ありがとう」


「今日は規程の質問はしません」


「本当ですか」


「本当です。聞きたいところはありますが、今日はしません」


「それは、かなり頑張っていますね」


「はい。かなり」


 またその言葉だ。


 リリアナは、椅子を引いて向かい側に座った。


「お姉様、昨日はとてもすごかったです」


「ありがとう」


「でも、すごかった後のお姉様は、すぐ次の書類を書こうとします」


「……そう見えますか」


「見えます」


 即答だった。


 リリアナは、少しだけ真面目な顔になる。


「昔の私は、お姉様が何でもできるのだと思っていました。疲れないのだと、勝手に思っていました」


「私も、疲れないふりをしていました」


「今は、疲れていると分かります」


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


「分かりますか」


「はい。昨日の夜、お姉様の返事がいつもより少し遅かったので」


「手紙で?」


「はい」


 リリアナは、胸を張るでもなく、ごく自然に言った。


「お姉様の文章は、疲れていると少し硬くなります」


 セレスティアは驚いた。


 そんなところまで見られていたのか。


「……そうなのですね」


「はい。だから今日は休んでください」


「あなたにも言われるとは」


「私も言えるようになりました」


 リリアナは少し笑った。


 それから籠から焼き菓子を取り出し、皿に乗せた。


「今日は帳簿も規程もなしです」


「では、何を話しましょう」


「昨日のグランヴィル侯爵夫人の言葉」


「それは休養になるのでしょうか」


「……少しだけ」


 リリアナは、申し訳なさそうに言った。


 セレスティアは笑った。


「少しだけなら」


 リリアナは、膝の上で手を組んだ。


「花瓶の水を替える人、という言葉が忘れられません」


「私もです」


「王妃様は、本当にそういうことを見ていらしたのですね」


「ええ」


「私は、花を見る側でした」


 リリアナは、正直に言った。


「でも、今は水を替える人のことも見たいです」


 セレスティアは、胸が温かくなるのを感じた。


「それで十分だと思います」


「十分ですか」


「はい。全部を一度に見ることはできません。でも、今まで見ていなかったものに気づくことはできます」


 リリアナは、少しだけ安心したように頷いた。


「お姉様」


「はい」


「グランヴィル侯爵夫人は、味方になってくださるのでしょうか」


「完全な味方ではないと思います」


「では、敵ですか」


「それも違います」


「難しいですね」


「見届け役、という言葉が近いかもしれません」


「見届け役……」


 リリアナは、口の中でその言葉を転がすように繰り返した。


「それは、怖い役ですか」


「少し怖いです」


「でも、必要?」


「はい。必要です」


 セレスティアは、窓の外を見た。


「私たちだけで進めると、手続きに寄りすぎるかもしれません。グランヴィル侯爵夫人のような方が、花の美しさを忘れていないか見てくださるのは、大切です」


 リリアナは、焼き菓子を一口かじりながら頷いた。


「では、お姉様が水を替える人で、グランヴィル侯爵夫人が花を見る人ですか」


「私は水だけではなく、帳簿も見ます」


「急に現実的です」


「職務ですので」


 二人は少し笑った。


 笑った後、セレスティアは自分の肩の力が少し抜けていることに気づいた。


 休むというのは、こういうことなのかもしれない。


 書かずに話す。

 結論を急がない。

 言葉を、制度にする前に少し手元で温める。


 午後、セレスティアは本当に仕事をしなかった。


 というより、できなかった。


 カインが文書室に通達していたらしい。


『王妃基金監査補佐官宛ての急ぎでない文書は、明日まで保留』


『本人へ直接渡さないこと』


『私的招待、寄付相談、縁談打診は分類のみ行い、回答は翌日以降』


 徹底している。


 徹底しすぎている。


 ミリアが、休憩中にそっと顔を出して言った。


「文書室の方々が、少し楽しそうに分類しています」


「楽しそうに?」


「はい。『これは混在型ですね』とか、『香りつき封筒ですが縁談要素なしです』とか」


 セレスティアは額に手を当てたくなった。


「分類基準が浸透しすぎています」


「よいことです」


「本当に?」


「かなり」


 もう、誰も遠慮しない。


 セレスティアは諦めて笑った。


 その後、彼女はリリアナが持ってきた薄い読み物を開いた。


 王都の古い庭園を紹介する短い随筆だった。


 王妃基金とは関係ない。


 会計とも関係ない。


 だが、花の描写が多かった。


 グランヴィル侯爵夫人の言葉を思い出す。


 見舞いの花は美しい。

 でも、花瓶の水を替える人がいなければ、すぐに枯れる。


 花の美しさも、水を替える人も忘れない。


 その言葉が、今日の休養の中で少しずつ体に馴染んでいくようだった。


 夕方近く、カインが様子を見に来た。


 ノックの後、返事を待ってから入ってくる。


 セレスティアは窓辺の椅子に座ったままだった。


 机に向かっていない。


 そのことを確認して、カインはわずかに頷いた。


「本当に休んでいるな」


「監視されていますので」


「必要な監視だ」


「職務見直し条項の予防適用でしたね」


「そうだ」


 カインは部屋の中を見回した。


 机の上に新しい書類がないことも確認しているようだった。


「覚書は?」


「書いていません」


「よし」


「そこまで疑われますか」


「昨日三枚書いた者を信用しすぎるのは危険だ」


「反省しています」


「ならいい」


 セレスティアは少し笑った。


 カインは、窓辺の向かいに立ったまま、少しだけ声を落とした。


「グランヴィル夫人から正式に申し出があった」


「見届け役の件ですね」


「ああ。王妃基金改革助言会のような形で整理する。常設ではなく、四半期ごとの不足状況表と概要報告書の確認時に、古参支援者代表として意見を聞く」


 セレスティアは、思わず背筋を伸ばした。


「よいと思います」


「今日は考えるな」


「……はい」


「明日、正式に話す」


「はい」


 それでも、心の中では少し嬉しかった。


 グランヴィル侯爵夫人が、制度の外から批判するだけでなく、見届ける側に入る。


 完全な味方ではない。


 だが、制度の中に席を持つ。


 それは大きい。


 カインは、セレスティアの顔色を見た。


「少し戻ったな」


「顔色ですか」


「ああ」


「休んだからでしょうか」


「だから休めと言った」


「……はい」


 素直に認めるしかなかった。


 カインは、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「君が倒れると、改革が止まる」


「責任重大ですね」


「そういう意味だけではない」


 セレスティアは、顔を上げた。


 カインは少しだけ視線を逸らす。


「……君自身の問題でもある」


 短い言葉だった。


 だが、胸にじんわりと届いた。


 職務上必要だから休ませる。


 それもある。


 でも、それだけではない。


 そう言われた気がした。


「ありがとうございます」


「礼を言うなら、明日から休む前に申告しろ」


「それは難しいです」


「なら、周囲が止める」


「もう止められています」


「足りない」


 カインは即答した。


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「では、努力します」


「そこは、はい」


「……はい」


 その夜、セレスティアは覚書を書こうとして、手を止めた。


 今日は書くなと言われている。


 ただ、何も残さないのも落ち着かない。


 しばらく考えた末、彼女は小さな紙片を一枚だけ取り出した。


 覚書ではない。


 ただのメモ。


 ……と自分に言い訳しながら、一行だけ書いた。


『休むことも、職務を守る手続き』


 それだけ。


 本当にそれだけでペンを置いた。


 扉の外から声がした。


「寝ろ」


 セレスティアは、紙片をそっと裏返した。


「はい」


「書いたな」


 なぜ分かるのか。


 セレスティアは一瞬固まった。


「一行だけです」


「補佐官」


「覚書ではありません。メモです」


「詭弁だ」


「……はい」


 扉の向こうで、わずかにため息が聞こえた。


 だが、怒ってはいないようだった。


「内容は」


「休むことも、職務を守る手続き、と」


 少し沈黙。


 それから、カインが言った。


「なら許す」


「ありがとうございます」


「明日は二行にするな」


「はい」


「寝ろ」


「はい」


 灯りを落とす。


 今日は、仕事をしなかった。


 少なくとも、ほとんど。


 それでも、王妃基金は止まらなかった。


 文書室は分類し、ミリアは整理し、カインは見届け役の制度化を進め、リリアナは菓子を持ってきた。


 自分が休んでも、周りが動く。


 それは少し寂しく、同時に安心できることだった。


 王妃基金は、一人で背負うものではない。


 その当たり前を、ようやく体で覚え始めている。


 セレスティアは、静かに目を閉じた。


 花の美しさを忘れないためにも、水を替える人が倒れてはいけない。


 そのことを、今日だけは素直に認めることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ