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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第65話 慈善は心です。だからこそ、届いたか確かめます

 公開意見交換会の朝、セレスティアは淡い灰白のドレスを選んだ。


 黒でもない。

 濃紺でもない。

 宰相府の監査官らしさを前に出しすぎる色ではなく、かといって茶会の花のように華やかすぎるものでもない。


 胸元には、小さな銀の葉飾り。


 ローゼン侯爵夫人から借りたものだった。


 ミリアが髪を整えながら、鏡越しに言う。


「よくお似合いです」


「冷たく見えませんか」


「見えません」


「弱くも見えませんか」


「見えません」


「では、ちょうどよいでしょうか」


「かなり」


 その言い方に、セレスティアは少しだけ笑った。


「皆さん、本当にその言葉を使うようになりましたね」


「便利ですので」


 ミリアは真面目な顔で答えた。


 便利。


 それは確かにそうかもしれない。


 今日の服装も、まさに「かなり」難しい場所を狙っている。


 冷たすぎず、甘すぎず。

 強すぎず、弱すぎず。

 王妃基金監査補佐官としての立場を示しながら、亡き王妃への敬意を損なわない。


 服も発言です。


 ローゼン侯爵夫人の言葉が耳に残っている。


 セレスティアは鏡の中の自分を見た。


 怖い。


 昨日より、ずっと怖い。


 グランヴィル侯爵夫人は、ただの批判者ではない。


 亡き王妃を知る人だ。


 王妃とともに施療院を訪れ、孤児院を見てきた人だ。


 その人の前で、王妃の理念を制度として語る。


 記録から王妃を知った自分が。


 セレスティアは、胸元の葉飾りにそっと触れた。


「ミリア」


「はい」


「今日、私が硬くなりすぎていたら、合図してください」


「どのように?」


「……咳払いを一度」


「分かりました」


 ミリアは少し考え、付け加えた。


「逆に、飲まれそうになっていたら?」


「その時も、咳払いを」


「同じでは分かりません」


「では、硬い時は一度。飲まれそうな時は二度」


「承知しました」


 そんな打ち合わせをしていると、少し気持ちが落ち着いた。


 怖い時ほど、手順を作る。


 それが、最近のセレスティアのやり方だった。


 会場は王宮東翼の中広間だった。


 大広間ほど威圧的ではないが、小会議室ほど閉じてもいない。


 公開意見交換会と呼ぶには、ちょうどよい広さだった。


 中央には楕円形のテーブルが置かれ、発言者同士が真正面から睨み合う形にならないよう配慮されている。


 進行役はローゼン侯爵夫人。


 保守派からはグランヴィル侯爵夫人を中心に、古くから王妃基金に関わる夫人たち。


 改革側としては、セレスティア、ローレン副監、オルド、ミリア。


 カインは宰相府代表として同席するが、主に最後列に近い席に座ることになっている。


 前に出すぎない。


 今日の主役を「宰相府対保守派」にしないためだ。


 若い令嬢たちも、傍聴席にいた。


 エミリア・クラウゼンをはじめ、冬季輸送支援共同寄付に参加した者たち。


 リリアナも来ている。


 王太子府の一席として、ジュリアスと並んで座っていた。


 リリアナはセレスティアと目が合うと、小さく頷いた。


 口は動かさない。


 だが、伝わる。


 応援しています、と。


 セレスティアも、小さく頷き返した。


 それだけで、少し心が落ち着いた。


 やがて、グランヴィル侯爵夫人が入室した。


 白髪を上品に結い、深い藤色のドレスをまとっている。


 背筋はまっすぐで、老いを感じさせるどころか、場の空気を締める力があった。


 彼女はセレスティアを見ると、静かに礼をした。


「王妃基金監査補佐官殿」


「グランヴィル侯爵夫人。本日はご出席ありがとうございます」


「こちらこそ。若い方の改革の言葉を、きちんと聞きたいと思って参りました」


 若い方。


 その一言には、いくつもの意味が含まれていた。


 未熟。

 新しい。

 過去を知らない。

 けれど、未来を担う。


 セレスティアは、受け流さず、正面から受けた。


「私も、王妃陛下を直接ご存じの方のお話を伺いたいと思っております」


 グランヴィル夫人の目が、わずかに動いた。


 敵意ではない。


 少しだけ、警戒が緩んだように見えた。


 ローゼン侯爵夫人が、会場全体を見渡して言った。


「それでは、王妃基金の今後に関する公開意見交換会を始めます。本日の目的は、勝敗を決めることではありません」


 最初に釘を刺す。


「亡き王妃陛下が残された慈善の理念を、今の王妃基金でどのように守り、届けていくか。それを確認する場です」


 会場が静まった。


「発言は、相手への敬意を前提とします。感情を述べることは構いません。ただし、相手を貶めるための言葉は止めます」


 ローゼン侯爵夫人の視線が、保守派と改革側の両方を順に射抜く。


 誰も反論しない。


 さすがだった。


 最初に発言したのは、グランヴィル侯爵夫人だった。


 彼女は立ち上がらず、座ったまま静かに話し始めた。


「私は、王妃基金の改革そのものに反対しているわけではありません」


 穏やかな声だった。


「不正があったのなら、正さねばならない。支援先へ届くべきものが届かなかったのなら、戻さねばならない。それは当然です」


 セレスティアは、黙って聞く。


 グランヴィル夫人は続けた。


「けれど、最近の王妃基金は、あまりにも帳簿と手続きの言葉が多い。輸送費、保管費、記録整備費、品質検査費。若い令嬢たちまで、それらを口にするようになりました」


 傍聴席の若い令嬢たちが、少し緊張した。


 エミリアも、膝の上で手を握っている。


「もちろん、それらが必要なことは分かります。けれど、慈善は本来、人の痛みに心を寄せるものです。あまりに事務的な言葉ばかりを先に出せば、心が後ろへ下がるのではありませんか」


 会場は静かだった。


「私は、亡き王妃陛下とともに施療院を訪れたことがあります。王妃陛下は、帳簿の前に、まず患者の手を取りました。孤児院では、子どもの名前を聞き、膝を折って話されました」


 その声には、確かな記憶があった。


 誰も軽く扱えない記憶だった。


「その温かさを、私は王妃基金に残してほしいのです。慈善が会計の正しさだけになれば、王妃陛下の心は失われる。私はそれを恐れています」


 グランヴィル夫人は、そこで言葉を切った。


 会場の空気は重かった。


 彼女の言葉は、感情的な批判ではない。


 本物の記憶から出ている。


 だからこそ、届く。


 何人かの夫人たちは、深く頷いていた。


 リリアナも、真剣な顔で聞いている。


 ローゼン侯爵夫人が、セレスティアへ視線を向けた。


「セレスティア様。お願いいたします」


 セレスティアは立ち上がった。


 胸は鳴っている。


 でも、声は出る。


「グランヴィル侯爵夫人のお話を、軽く受け取るつもりはありません」


 最初に、そう言った。


「王妃陛下とともに現場を訪れた方の記憶は、私にはありません。私は、記録と、残された理念と、今の支援先から届く報告を通じてしか、王妃陛下を知りません」


 会場が、少しだけ静まる。


 セレスティアは続けた。


「ですから、夫人が語られた王妃陛下の温かさを否定することはできませんし、否定するつもりもありません」


 グランヴィル夫人の目が、まっすぐこちらを見る。


 セレスティアは、逃げなかった。


「ただ、王妃基金は王妃陛下の記憶の中だけに置くものではありません。今も、支援を必要とする方々がいます。今も、寄付をしてくださる方々がいます。今も、支援が届いたか分からず困っている現場があります」


 カインの言葉を思い出す。


 記憶はその人のもの。

 制度は今を生きる者全員のもの。


「記憶は、それを持つ方にとって尊いものです。ですが、制度は今を生きる者全員のために必要です」


 グランヴィル夫人の表情が少し動いた。


 怒りではない。


 だが、何かが刺さったようだった。


 セレスティアは、静かに続ける。


「王妃陛下が自ら患者の手を取り、子どもの名前を聞かれた。その温かさを、今の規模の王妃基金でどう届けるか。私は、そのために手続きが必要だと考えています」


 ローゼン侯爵夫人の言葉。


 昔の慈善の心を、今の規模でも届かせるために手続きが必要。


「昔の慈善の心を、今の規模でも必要な場所へ届かせるために、手続きが必要なのです」


 会場の何人かが、姿勢を変えた。


 聞く空気になってきたのが分かる。


 グランヴィル夫人は、すぐには引かなかった。


 当然だった。


「しかし、若い令嬢たちに輸送費や保管費を語らせることが、本当に慈善の心を育てるのでしょうか」


 彼女は、傍聴席の若い令嬢たちへ視線を向けた。


「令嬢教育とは、人を思いやる心、礼節、優しさを育てるものです。事務方のような言葉ばかりを覚えれば、心が硬くなるのではありませんか」


 エミリアが、少し顔を伏せた。


 セレスティアは、その様子を見た。


 守らなければならない。


 ただし、夫人を敵にしてではない。


「若い令嬢たちに、事務仕事を押しつけているわけではありません」


 セレスティアは答えた。


「彼女たちは、自分の善意がどこを通って届くのか、その道筋を知ろうとしています」


「道筋」


「はい」


 セレスティアは、傍聴席のエミリアたちへ視線を向けた。


「薬草が必要だと知る。けれど、薬草は王都から歩いて施療院へ向かうわけではありません。誰かが運び、保管し、必要な時期に届けます。灯油も同じです。燃料を買うだけではなく、安全に保管し、冬に間に合うよう届ける必要があります」


 若い令嬢たちが、小さく頷く。


「その道筋を知ることは、心を失うことではありません。むしろ、心だけでは届かない距離を知ることです」


 グランヴィル夫人は、少し眉を寄せた。


「心だけでは届かない、と」


「はい」


 セレスティアは、リリアナの言葉を思い出す。


「助けたいという気持ちがあっても、どこに何が足りないか分からなければ、足りている毛布を送り、足りない灯油を見落とすかもしれません」


 傍聴席で、リリアナがはっとした顔をした。


 自分の言葉が使われたと気づいたのだ。


「心があるからこそ、届き方を知る。手続きは、そのための道具です」


 会場が静かになる。


 グランヴィル夫人は、すぐに言い返さなかった。


 その沈黙の中で、エミリアがおずおずと手を上げた。


 ローゼン侯爵夫人が見る。


「発言を許可します」


 エミリアは立ち上がった。


 緊張で頬が赤い。


 けれど、逃げなかった。


「グランヴィル侯爵夫人。私は、冬季輸送支援共同寄付の代表者です」


「存じています」


 グランヴィル夫人は、静かに答えた。


 エミリアは息を吸う。


「私は、最初、輸送費のことをほとんど知りませんでした。蜂蜜菓子や毛布の方が、慈善らしいと思っていました。でも、不足状況表を読んで、薬草や灯油が必要な時期に届かないことがあると知りました」


 声は震えていた。


 だが、言葉は続く。


「それを知ってから、輸送費を支えたいと思いました。事務仕事がしたいわけではありません。誰かが寒い時期に灯油を待つことになるなら、その途中を支えたいと思っただけです」


 グランヴィル夫人の表情が、ほんの少し変わった。


 エミリアは、最後に小さく言った。


「可愛げはないかもしれません。でも、必要だと思いました」


 会場に沈黙が落ちた。


 それは、悪い沈黙ではなかった。


 セレスティアは、エミリアを見た。


 よく言った、と心の中で思った。


 グランヴィル夫人は、しばらくしてから静かに口を開いた。


「あなたは、誰かに言われてそう思ったのですか」


 エミリアは首を横に振る。


「いいえ。表を読んで、皆で話して、そう思いました」


「そう」


 短い返事だった。


 だが、先ほどより少し柔らかかった。


 次に発言したのは、リリアナだった。


 セレスティアは驚いた。


 予定にはなかった。


 リリアナは、王太子府の席から控えめに手を上げている。


 ローゼン侯爵夫人が目を細めた。


「リリアナ様。発言を許可します」


 リリアナは立ち上がった。


 隣のジュリアスが、少し心配そうに見る。


 リリアナは小さく礼をした。


「私は、まだ王妃基金の規程を勉強中です。分からないことも多いです」


 最初から正直だった。


 セレスティアは、胸が少し熱くなる。


「以前の私は、慈善茶会では菓子や香茶や花ばかり見ていました。支援先の報告書も、ほとんど読んでいませんでした」


 会場が静かに聞いている。


「でも、返還金再配分報告書で、灯油支援が遅れて夜間診療室の暖房時間が短くなったと知りました。その時、帳簿の数字が、寒い部屋につながることを初めて考えました」


 リリアナは、少しだけ手を握った。


「帳簿は冷たいかもしれません。でも、灯油が届けば部屋は温かくなります」


 その言葉が、会場に落ちた。


 以前、手紙に書かれていた言葉。


 今度は、リリアナ自身の声で語られた。


「私は、心だけでは足りないものを見落とすことがあると思います。でも、手続きだけでも冷たくなると思います。だから、どちらも必要なのだと思います」


 言い終えると、リリアナは深く頭を下げた。


 セレスティアは、しばらく言葉を失った。


 妹が、自分の言葉で立っている。


 完璧ではない。


 だが、まっすぐだ。


 グランヴィル夫人は、リリアナをじっと見ていた。


「リリアナ様」


「はい」


「あなたは、以前よりずいぶん変わられましたね」


 リリアナは、少し戸惑った。


「まだ、勉強中です」


「そのようですね」


 グランヴィル夫人の声は、先ほどより明らかに柔らかかった。


「勉強中の方の言葉は、時に胸に刺さります」


 リリアナは、少しだけ目を丸くした。


 褒められたのだと分かっていないようだった。


 セレスティアは、胸の奥で小さく笑った。


 しかし、グランヴィル夫人は簡単には折れなかった。


 彼女は再びセレスティアへ向き直る。


「王妃基金監査補佐官殿。あなたの言葉も、若い方々の言葉も、理解はできます」


「ありがとうございます」


「けれど、私はまだ心配です。制度は、一度作られると人を縛ります。善意が自由に動けなくなることもある」


「その心配は、正しいと思います」


 セレスティアは、すぐに否定しなかった。


 会場の空気が少し動く。


「制度は人を守りますが、使い方を誤れば縛ります。だから、見直しが必要です」


「見直し?」


「はい。王妃基金改革案では、四半期ごとの不足状況更新、三者確認、支援先からの聞き取り、寄付者向け概要報告書の修正手順を設けています。制度を作って終わりではありません」


 グランヴィル夫人が問う。


「では、心が置き去りになっていると分かった時は?」


「直します」


 セレスティアは、はっきり答えた。


「誰が?」


「王妃基金に関わる者全員で。会計室、法務局、支援先、寄付者、社交界の方々、若い令嬢たちも含めて」


「監査補佐官殿だけではなく?」


「私一人では、必ず偏ります」


 セレスティアは正直に言った。


「私は制度に寄りすぎることがあります。だから、今日のような場が必要です」


 ローゼン侯爵夫人が、わずかに頷いた。


 ミリアが一度、小さく咳払いした。


 一回。


 硬くなりすぎている合図ではない。


 たぶん、今の言葉を残すべきだという合図だ。


 セレスティアは続けた。


「ただし、心を理由に記録をなくすことはできません。支援が届かなかった時、困るのは支援先だからです」


 グランヴィル夫人は黙っている。


「心だけでは届かないことがあります。手続きだけでは温かさを失います。だから、王妃基金にはどちらも必要です」


 最後の軸。


 リリアナの言葉と、自分の言葉を合わせたもの。


 それを言い切ると、会場は長く静まった。


 沈黙を破ったのは、グランヴィル夫人だった。


「王妃陛下は、よくおっしゃっていました」


 彼女の声は、少し遠くを見ているようだった。


「『見舞いの花は美しい。でも、花瓶の水を替える人がいなければ、すぐに枯れる』と」


 セレスティアは息を止めた。


 初めて聞く王妃の言葉だった。


 グランヴィル夫人は続ける。


「私は、その言葉を思い出していました。あなた方の輸送費や保管費の話を聞きながら」


 会場の空気が変わる。


「花ばかり見ていてはならない。水を替える人も、花瓶を運ぶ人も必要だ。王妃陛下は、きっとそうおっしゃるのでしょう」


 グランヴィル夫人は、ゆっくりセレスティアを見た。


「ですが、花の美しさを忘れないでください」


 それは、降伏ではなかった。


 勝敗でもない。


 条件だった。


 王妃基金が手続きを進めることを、完全には否定しない。


 ただし、心を忘れるな。


 その言葉だった。


 セレスティアは、深く頭を下げた。


「忘れません」


 グランヴィル夫人は、静かに頷いた。


「ならば、私は公開の場で反対はいたしません」


 会場が少しざわめいた。


 ローゼン侯爵夫人が、すぐに扇を上げて場を鎮める。


 グランヴィル夫人は続けた。


「ただし、見届けます」


「はい」


「若い令嬢たちが、数字だけで人を見るようにならないか。寄付者が手続きに疲れて離れないか。支援先が報告書のために苦しんでいないか」


「見届けてください」


 セレスティアは答えた。


「そして、問題があれば指摘してください」


 グランヴィル夫人は、少しだけ目を細めた。


「ずいぶん強いことをおっしゃる」


「必要な部分だけです」


 なぜか、その言葉にローゼン侯爵夫人が小さく笑った。


 バルツァー夫人から言われた言葉が、ここでも出てしまった。


 グランヴィル夫人も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「では、遠慮なく」


「はい」


 その瞬間、会場の緊張が少しだけほどけた。


 意見交換会は、その後も続いた。


 保守派の夫人たちからは、いくつもの質問が出た。


「支援先が報告書作成で疲弊しないよう、どのように配慮するのか」


「若い令嬢たちの共同寄付が流行になった時、遊びにしない仕組みはあるのか」


「亡き王妃の言葉を、概要報告書にどう残すのか」


 セレスティアは、一つずつ答えた。


 ローレン副監が実務を補足し、オルドが法務を補い、ミリアが記録した。


 リリアナも、途中で一度だけ補足した。


「分からない人が読んでも分かる概要版にすることが大事だと思います」と。


 その言葉に、何人かの夫人が頷いた。


 ジュリアスは、終始静かに聞いていた。


 だが、最後に王太子として一言だけ述べた。


「王太子府も、これまで見ていなかったものが多かったと認めます。今後は、王妃基金の手続きと理念の両方を学び直します」


 短いが、必要な言葉だった。


 セレスティアは、それを聞いて静かに頷いた。


 以前なら、もっと飾った言葉を言ったかもしれない。


 今は、これでいい。


 会が終わった後、グランヴィル侯爵夫人がセレスティアのもとへ来た。


 二人は少し離れた窓辺に立つ。


 夫人は、しばらく庭を見ていた。


「王妃基金監査補佐官殿」


「はい」


「あなたは、王妃陛下を直接ご存じない」


「はい」


「それを弱みとして隠さなかったのは、よろしかった」


 セレスティアは、少し驚いた。


「ありがとうございます」


「記録から王妃陛下を知る者がいてもよいのでしょう。私たちの記憶だけでは、いずれ失われます」


 その声には、少しだけ寂しさがあった。


「ただし、記録は時に綺麗に整いすぎます。人の声の震えや、手の温度までは残せません」


「はい」


「だから、私たちも時々呼びなさい」


 セレスティアは顔を上げた。


「よろしいのですか」


「見届けると言いました」


 グランヴィル夫人は、少しだけ厳しい顔に戻る。


「甘いことばかりは申しません。あなた方が冷たくなれば、私は叱ります」


「お願いします」


「……変わった方ね。叱ると言われてお願いしますとは」


「必要なご指摘なら、受けます」


「頑固ですわね」


 また言われた。


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「必要な部分だけです」


 グランヴィル夫人は、今度こそ小さく笑った。


「その言葉、便利なのですね」


「最近、よく言われます」


「では、覚えておきます」


 それは、和解ではない。


 完全な賛同でもない。


 だが、対立の向こうに細い橋がかかったような感覚があった。


 会場の片づけが始まる頃、カインが近づいてきた。


 人目が少しあるので、セレスティアは礼をする。


「宰相閣下」


「飲まれなかったな」


「はい」


「追い詰めもしなかった」


「はい」


「よくやった」


 短い言葉。


 だが、今日の疲れた胸にはとても深く届いた。


「ありがとうございます」


 カインは、会場の向こうを見る。


 グランヴィル夫人とローゼン夫人が何か話している。


 若い令嬢たちは、エミリアを中心に静かに集まっていた。


 リリアナはジュリアスと何かを確認している。


「勝ち負けではなかった」


 セレスティアが言うと、カインは頷いた。


「ああ」


「でも、負けなかったと思います」


「そうだな」


 その言葉で、ようやく少し息ができた。


 カインは低く言った。


「次が大事だ」


「見届ける、と言われました」


「なら、見せろ」


「はい」


「心と手続きの両方を」


 セレスティアは、静かに頷いた。


 その夜、覚書には長く書いた。


『公開意見交換会、終了』


 次に。


『グランヴィル侯爵夫人。慈善は心。王妃陛下は患者の手を取り、子どもの名前を聞いた』


 さらに。


『私は、王妃陛下を直接知らない。記録と理念と支援先の報告で知っている』


 少し手を止め、今日の中心を書いた。


『昔の慈善の心を、今の規模でも必要な場所へ届かせるために、手続きが必要』


 次に。


『エミリア。事務仕事がしたいのではなく、誰かが寒い時期に灯油を待つなら、その途中を支えたい』


 さらに。


『リリアナ。帳簿は冷たいかもしれない。でも、灯油が届けば部屋は温かくなる。心だけでは足りている毛布を送り、足りない灯油を見落とすかもしれない』


 そして。


『グランヴィル夫人の王妃陛下の言葉。見舞いの花は美しい。でも、花瓶の水を替える人がいなければ、すぐに枯れる』


 セレスティアは、その一文を何度も見た。


 今日、一番胸に残った言葉だった。


 最後に書く。


『花の美しさを忘れない。水を替える人も忘れない』


 ペンを置く。


 今日は一枚では収まらなかった。


 扉の外から、声がした。


「寝ろ」


「今日は……三枚です」


「補佐官」


「はい」


「見直し条項を使うぞ」


 セレスティアは、少し笑った。


「今日は特別です」


「明日は休め」


「仕事が」


「明日は休め」


「……半日だけ」


「一日」


「半日」


「一日」


「交渉の余地がありません」


「ない」


 少し前にも似た会話をした気がする。


 セレスティアは、疲れているのに笑ってしまった。


「分かりました。できるだけ休みます」


「できるだけ、ではない」


「休みます」


「よし」


 少し間があった。


 カインが、静かに言う。


「今日は、よく守った」


「何をでしょう」


「王妃の記憶も、制度も、若い令嬢たちも」


 胸が、じんわり熱くなった。


「……ありがとうございます」


「事実だ」


 セレスティアは、覚書を閉じた。


 灯りを落とす。


 今日は勝ったわけではない。


 でも、負けなかった。


 心と手続きは、まだ隣り合える。


 花の美しさと、花瓶の水。


 どちらも忘れない王妃基金にしていく。


 それが、これからの仕事だ。


 セレスティアは、深い疲れと小さな安堵を抱えて、静かに目を閉じた。

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