第6話 亡き王妃の帳簿には、私の名前しかありませんでした
翌朝、セレスティアはいつもより早く目を覚ました。
眠りは浅かったはずなのに、頭は不思議と冴えていた。窓の外にはまだ薄い朝霧が残っていて、宰相府の庭に植えられた銀葉樹の枝先が白く濡れている。
寝台の横の小机には、三本の鍵が置かれていた。
帳簿保管庫。
王妃基金金庫。
会計監査室の奥書庫。
そして、その横には昨夜保全された革表紙の覚書と、亡き王妃エレオノーラの手紙の写しがある。
本当の帳簿は、まだ表にはありません。
昨夜から、その一文が頭を離れなかった。
正式帳簿ではない。
公開用収支でもない。
王宮会計室に提出されている写しでもない。
亡き王妃は、いったい何を残したのか。
セレスティアは鍵束を手に取った。
金属の冷たさが、指に馴染む。
昨日まで、この鍵は責任の重さでしかなかった。持っているだけで肩が沈むような気がしていた。
けれど今朝は違う。
これは、扉を閉じるためのものではない。
開くためのものだ。
身支度を終えると、ちょうど控えめなノックがあった。
「お目覚めか」
扉の向こうから、カインの声がする。
「はい」
セレスティアが返事をすると、カインは法務官と女性書記官を伴って入ってきた。
昨夜と同じ黒い執務服。だが、胸元には宰相府の正式徽章が留められている。今日はただの確認ではない。公的な手続きなのだと、その装いだけで分かった。
「朝食は」
「いただきました」
「全部か」
セレスティアは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……半分ほど」
「今後は七割を最低ラインにする」
「最低ラインが設定されるのですか」
「必要なら文書化する」
法務官が小さく咳払いをした。笑いを堪えたようだった。
セレスティアも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「努力いたします」
「努力ではなく実行だ」
「では、実行いたします」
そんなやり取りをしてから、カインは机の上に視線を落とした。
鍵束。
覚書。
手紙の写し。
彼の表情から柔らかさが消える。
「これより、亡き王妃陛下の遺言に基づき、帳簿保管庫を開く」
法務官が記録を始めた。
「立ち会いは、王弟宰相カイン・ヴァレンティア閣下、法務官オルド、記録官ミリア、受任者セレスティア・エルフォード様。開庫目的は、亡き王妃陛下の私的監査記録確認および王妃基金運用に関する補助資料保全」
紙にペンが走る音がする。
セレスティアは、自分の名前が記録されていくのを聞いた。
誰かの付属物としてではなく。
誰かの婚約者としてでもなく。
手続きの中心にいる者として。
それだけのことに、まだ少し息が詰まる。
「行くぞ」
カインが短く告げた。
帳簿保管庫は、宰相府のさらに奥、王宮本棟との境にある古い石造りの区画にあった。
セレスティアは何度か近くを通ったことがある。だが、中へ入ったことはない。亡き王妃から帳簿の読み方を学んでいた頃でさえ、この扉の先だけは「いずれ」と言われていた。
いずれ。
その日は来なかった。
王妃は病で亡くなり、セレスティアは王太子妃候補としての仕事に追われるようになった。
そして今、その「いずれ」が、婚約破棄の後に来ている。
保管庫の前には、古い鉄扉があった。
装飾はない。王妃の私印が刻まれた小さな金属板だけが、扉の中央に埋め込まれている。
セレスティアは鍵束から一本を選んだ。
帳簿保管庫の鍵。
鍵穴へ差し込むと、重い手応えがあった。
力を入れて回す。
ごくり、と古い機構が動く音がした。
法務官が封印紙の状態を確認する。
「封印、破損なし」
カインが頷く。
「開けろ」
セレスティアは、両手で扉を押した。
冷たい空気が流れ出した。
紙と革と、古い木箱の匂いがする。長く閉ざされていた場所の匂いだった。
中は思ったより狭かった。
壁一面に棚があり、箱や帳簿が整然と並んでいる。ほこりは少ない。亡き王妃が几帳面に管理していたのだろう。
正面奥の机の上に、一冊だけ帳簿が置かれていた。
他の帳簿と違い、表紙は深い藍色の革で装丁されている。角には銀の金具。留め具には王妃の私印。
セレスティアは、ゆっくり近づいた。
表紙には金文字で、こう刻まれていた。
『王妃基金・極秘監査記録』
心臓が強く鳴った。
これだ。
そう思った瞬間、指先が冷たくなる。
カインが隣に立つ。
「触れるのは君だ」
「私が、ですか」
「君に託されたものだ」
セレスティアは頷いた。
帳簿の留め具に手をかける。
王妃の私印に触れる。
その瞬間、昔の記憶がよみがえった。
病の進んだ王妃の部屋。
薬草茶の匂い。
窓辺の白い花。
そして、細くなった指で帳簿を示す王妃の姿。
――数字は嘘をつきません。けれど、嘘つきは数字を使います。
あの声は、今もはっきり覚えている。
セレスティアは留め具を外した。
帳簿を開く。
最初の頁には、亡き王妃の筆跡で短い文章が書かれていた。
『この帳簿を読む頃、あなたはきっと孤独でしょう』
セレスティアの呼吸が止まった。
法務官のペンも、一瞬止まる。
カインは何も言わなかった。
セレスティアは、震えそうになる指を押さえながら続きを読んだ。
『誰かに尽くした年月を、誰にも見られなかったと感じているかもしれません。あなたの手が整えたものを、他人の功績として奪われたと感じているかもしれません。けれど、セレスティア。少なくとも私は、見ていました』
文字が滲みかけた。
セレスティアは瞬きをする。
泣くわけにはいかない。
ここは記録の場だ。
けれど、胸の奥がひどく痛かった。
見ていました。
その言葉を、十年前の自分に聞かせてやりたかった。
夜更けに一人で原稿を書いていた自分に。
父から「リリアナの支度を優先しろ」と言われ、机の上の仕事を後回しにした自分に。
ジュリアスから「君の話は細かすぎる」と笑われた自分に。
母から「あなたは強いから大丈夫」と言われた自分に。
誰かが見ていた。
亡き王妃だけは。
「続けられるか」
カインが低く尋ねた。
セレスティアは小さく頷いた。
「はい」
頁をめくる。
そこから先は、整然とした監査記録だった。
年月日。
支出名目。
申請者。
承認経路。
疑義の内容。
要確認事項。
関連する貴族家または商会。
王妃の字は細く美しいが、内容は容赦がない。
『孤児院修繕費。申請額、実勢価格より二割高。見積作成商会はエルフォード公爵家系列』
セレスティアの指が止まった。
エルフォード公爵家。
法務官が静かに読み上げ、記録官が写す。
カインは頁を覗き込む。
「時期は」
「三年前の秋です」
「君が承認に関わっているか」
セレスティアは該当欄を追った。
承認経路の途中に、自分の名があった。
ただし、横に小さな注記がある。
『セレスティア確認時の添付資料と、最終保管資料に差異あり』
喉が乾いた。
「差し替え……」
「可能性があるな」
カインの声は冷静だった。
その冷静さが、セレスティアをかろうじて支えた。
頁をめくる。
『地方救済費輸送経費。王太子府推薦商会を経由。輸送実績と請求額に齟齬』
さらにめくる。
『慈善茶会費。社交費として処理されているが、一部宝飾費と推定される支出あり。エルフォード公爵夫人経由』
母の名は書かれていない。
けれど、誰のことか分かった。
セレスティアは目を閉じたくなった。
だが、閉じなかった。
見なければならない。
自分の名前が使われているなら、なおさら。
次の頁には、赤い印がついていた。
王妃の記録には、ところどころ赤い小さな印がある。おそらく、特に重要な疑義を示すものだ。
そこには、こう書かれていた。
『セレスティア・エルフォードの署名後、添付資料の差し替えが複数回確認される。本人関与の可能性は低い。むしろ署名権限を利用されている疑い』
部屋の空気が重くなる。
セレスティアは、その一文から目が離せなかった。
本人関与の可能性は低い。
王妃は、そう書いてくれていた。
疑っていなかった。
最初から、セレスティアが不正をしたとは見ていなかった。
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
「王妃陛下は……私が知らないところで、調べてくださっていたのですね」
「そのようだ」
カインの声は低かった。
「なぜ、私に直接おっしゃらなかったのでしょう」
「君を守るためだろう」
「守る?」
「当時の君は王太子妃候補で、公爵家の管理下にいた。疑惑を伝えれば、君は自分で調べようとしたはずだ」
その通りだった。
セレスティアは否定できない。
もし王妃から「あなたの署名が使われているかもしれない」と言われたら、きっと一人で確認しようとした。父に尋ね、王太子府へ確認し、母の社交費を調べ、結果として相手に警戒されただろう。
「そして、君は孤立した」
カインは静かに続ける。
「王妃陛下は、おそらく君が自分で動ける立場になるまで待つつもりだった」
「その前に、亡くなられた」
「ああ」
短い沈黙が落ちた。
王妃は、どれほどのことを知っていたのだろう。
病床で、どこまで記録を残したのだろう。
そして、どれほどセレスティアの未来を案じていたのだろう。
頁をめくる手が、少し震えた。
次の頁には、複数の名前が並んでいた。
エルフォード公爵家系列商会。
王太子府推薦商会。
財務局補助官。
王妃基金外郭団体。
王太子派貴族の家名。
すべてが一本の線で繋がっているわけではない。
だが、点は確かに置かれていた。
セレスティアがこれまで「少し妙だ」と思っていたこと。
忙しさに追われ、後で確認しようとしていたこと。
父から「余計なことに首を突っ込むな」と言われたこと。
それらが、ここに残っている。
王妃の手で。
「これが、本当の帳簿……」
セレスティアは呟いた。
正式帳簿には、承認された数字が並ぶ。
けれどこの帳簿には、数字の裏にいる人間が記されている。
誰が申請し、誰が得をし、誰が隠し、誰の名前を利用したのか。
怖い帳簿だった。
そして、救いの帳簿でもあった。
セレスティアはさらに頁を進めた。
中ほどに、封筒が挟まれている。
表には、王妃の筆跡でこう書かれていた。
『セレスティア本人へ』
法務官が記録する。
「封筒一通。宛名、セレスティア本人へ。封印あり」
セレスティアはカインを見る。
「開けても?」
「君宛てだ」
封蝋を割る。
中には、一枚の手紙と、小さな紙片が入っていた。
まず、手紙を開く。
『セレスティア。あなたがこの記録を読んでいるなら、私はもう傍にいないのでしょう』
喉の奥が詰まった。
『本当なら、あなたを王太子妃という籠に入れたくはありませんでした。あなたには、誰かの隣で微笑むだけではなく、国の目となり、手となり、時には刃となる力があります』
セレスティアは文字を追う。
『けれど、私は王妃として、あなたを守るための道を十分に整えきれませんでした。そのことを、まず詫びます』
「王妃陛下が、謝る必要など……」
思わず声が漏れた。
カインは何も言わない。
セレスティアは続きを読んだ。
『あなたが王宮を去る日、この帳簿を開きなさい。あなたを縛る者たちの名は、すべて紙の上に残っています。ただし、憎しみだけで動いてはいけません。帳簿は復讐の道具ではなく、真実を逃がさないための器です』
真実を逃がさないための器。
王妃らしい言葉だった。
『あなたの名を利用した者がいるなら、あなたはその名を取り戻しなさい。あなたの署名を罪に変えようとする者がいるなら、紙の上で正しなさい。怒ってよいのです。けれど、怒りを記録に変えなさい』
セレスティアの目から、一筋だけ涙が落ちた。
慌てて拭おうとしたが、カインが先にハンカチを差し出した。
「記録官は見ていない」
記録官ミリアは、実際には明らかに気づいていたが、真剣な顔で帳簿の棚を見つめていた。法務官も同じだった。
セレスティアは、小さく礼をしてハンカチを受け取る。
「ありがとうございます」
「続けるか」
「はい」
最後の行に目を落とす。
『最後に一つだけ。あなたは、冷たい子ではありません。冷静であろうと努めてきただけです。それを間違えてはいけません』
そこで、セレスティアは完全に言葉を失った。
冷たい。
ジュリアスが言った言葉。
父が、母が、貴族たちが、何度も違う形で彼女に貼りつけてきた言葉。
王妃は、それを否定していた。
まるで、今この瞬間のために。
セレスティアは手紙を胸元に寄せかけ、すぐに思い直して机の上に置いた。証拠物だ。感情で扱ってはいけない。
でも、心の中では抱きしめていた。
「宰相閣下」
「何だ」
「私は、冷たいのでしょうか」
以前も尋ねた問いだった。
カインは少しも迷わず答えた。
「違う」
短い。
ただ、それだけ。
けれど、王妃の手紙を読んだ直後のその一言は、ひどく深く届いた。
「では、私は何だったのでしょう」
「我慢しすぎた人間だ」
セレスティアは、目を伏せた。
我慢しすぎた。
それは、褒め言葉ではない。
だが、責める言葉でもなかった。
事実だった。
彼女は、息を整える。
手紙に添えられていた小さな紙片を開いた。
そこには、鍵の番号と場所が記されていた。
『奥書庫、第三棚、灰色の箱。セレスティアの名で封印』
セレスティアは顔を上げる。
「奥書庫に、私の名で封印された箱があるようです」
カインの目が鋭くなった。
「会計監査室の奥書庫か」
「はい」
「次の鍵だな」
セレスティアは鍵束の二本目を見た。
会計監査室の奥書庫。
王妃は、ひとつの帳簿だけでは終わらせなかった。
道を用意している。
セレスティア自身が、自分の手で一つずつ開けていくように。
「すぐに向かいますか」
法務官が尋ねる。
カインは少し考え、首を横に振った。
「先にこの帳簿の目録化と写しの作成だ。急ぎすぎると保全が甘くなる」
「承知しました」
セレスティアも頷いた。
早く見たい。
けれど、急いではいけない。
帳簿は逃げない。
昨夜、カインが言った通りだ。
ただし、人は逃げる。
ならば、こちらは記録を固めてから進む。
彼女は改めて帳簿の頁へ目を落とした。
赤い印のついた支出。
父の系列商会。
王太子府推薦商会。
差し替えられた添付資料。
利用された可能性のある署名。
ひとつずつ、法務官が読み上げ、記録官が写していく。
その作業は地味だった。
だが、セレスティアには分かった。
これこそが反撃なのだ。
叫ぶことではない。
泣きつくことでもない。
相手を罵ることでもない。
消されそうになった事実を、消せない形にすること。
それが、彼女の戦い方だった。
同じ頃、王太子府では別の種類の混乱が起きていた。
リリアナは、朝から大きな机の前に座っていた。
目の前には茶会の準備書類が広がっている。
春の慈善茶会。
亡き王妃の時代から続く、王妃基金関連の重要行事である。表向きは貴婦人たちの交流の場だが、実際には地方領主夫人、慈善団体、商会、孤児院関係者から直接話を聞き、次の支援先を見極めるための場でもあった。
セレスティアは毎年、この茶会のために招待客の一覧を作り、席順を調整し、会話の導線まで細かく決めていた。
リリアナは、その事実を知らなかった。
彼女にとって茶会とは、美しい花を飾り、菓子を用意し、優雅に微笑む場だった。
「ねえ、こちらの花はもっと明るいものにした方がよいわ」
リリアナは侍女に言った。
「亡き王妃陛下のご遺志を継ぐのですもの。悲しげではなく、希望に満ちた雰囲気にしたいの」
「かしこまりました」
「菓子も、北方のものは素朴すぎるから、王都で評判の菓子職人に頼みましょう。見た目が華やかな方が、皆様のお心も明るくなりますわ」
侍女は少し戸惑った。
「ですが、例年は北方三州の食材を一部使っていたと聞いております」
「それはお姉様の趣味でしょう? 今回は私らしくしたいの」
リリアナはそう言って、見積書に印をつける。
花。
菓子。
楽団。
装飾布。
新しい茶器。
自分用の衣装。
どれも美しい。
どれも華やか。
けれど、費用は見る間に膨らんでいく。
侍女がおずおずと言った。
「リリアナ様、このご予算はどちらから」
「王妃基金でしょう?」
リリアナは当然のように答えた。
「お姉様も、いつも王妃基金で茶会をしていたのでしょう?」
「おそらく、そうだと思いますが……」
「なら、大丈夫ですわ」
リリアナは笑った。
少しだけ自信を取り戻していた。
演説原稿や救済費の書類は難しかった。
だが、茶会なら自分の得意分野だ。
華やかな場を整えること。
人に好かれること。
笑顔で空気を明るくすること。
それなら姉より自分の方がうまい。
「殿下にも、私が役に立てるところをお見せしたいの」
リリアナは頬を染めた。
その手元で、見積額がまた一つ増えた。
昼前、宰相府の小会議室に一通の請求予定書が届いた。
王太子府からではない。
王宮内の装飾業者から、確認照会として回ってきたものだった。
法務官がそれを見た瞬間、眉を寄せた。
「宰相閣下」
カインが受け取る。
数行読んだだけで、目が冷えた。
「セレスティア嬢」
「はい」
「春の慈善茶会について、今年の予算計画を知っているか」
「昨年までの基準なら。花と菓子は控えめにし、北方三州の産品を一部使用。楽団は入れず、代わりに現地報告の時間を長めに取ります。装飾費は王妃基金ではなく王太子府社交費から一部負担のはずです」
カインは紙を差し出した。
「今年は違うらしい」
セレスティアはそれを受け取る。
目を通す。
そして、思わず沈黙した。
花の費用、昨年の四倍。
菓子、王都最高級店へ発注。
楽団、二組。
装飾布、全面新調。
来賓用記念品。
リリアナ用式典衣装費。
支出元予定欄には、こう書かれている。
『王妃基金・慈善茶会費』
セレスティアは、静かに紙を机へ置いた。
「これは、通りません」
「理由は」
「慈善茶会費として認められるのは、支援対象者との面会、報告、必要最低限の場の維持に関わる費用です。装飾や衣装費、過度な楽団費は王妃基金から出せません」
「だろうな」
「それに、この金額は……」
セレスティアはもう一度見積額を確認した。
「昨年の半年分の社交予算に近いです」
法務官が絶句した。
カインは静かに紙を見下ろす。
「一日で、か」
「正式承認前の照会段階で止まったのは幸いです」
「止めるか」
「止めます」
セレスティアは即答した。
その声に、迷いはなかった。
人々が困る支援費とは違う。
これは浪費だ。
しかも王妃基金の名を使っている。
亡き王妃が残した基金を、妹の華やかな茶会のために使わせるわけにはいかない。
セレスティアは羽根ペンを取った。
「照会元へ回答します。王妃基金からの支出不可。王太子府社交費またはエルフォード公爵家私費での再申請を求める、と」
カインが頷く。
「書け」
セレスティアは書き始めた。
今度は手が震えなかった。
亡き王妃の帳簿を読んだ直後だからこそ、はっきり分かる。
王妃基金は、誰かの見栄のためにあるのではない。
困っている人に届くべき金を守るためにある。
自分が冷たいと言われても構わない。
可愛げがないと言われても構わない。
この支出は、通せない。
書き終えた文面をカインが確認する。
「問題ない」
セレスティアは頷いた。
そのとき、彼女の目に、机の上の極秘監査記録が映った。
亡き王妃の手紙の一文が、胸に蘇る。
怒りを記録に変えなさい。
セレスティアは静かに息を吸った。
最初の本格的な差し止めは、妹の茶会費になる。
なんとも皮肉な話だった。
けれど、これもまた入口だ。
リリアナはきっと、泣くだろう。
ジュリアスは怒るだろう。
父は「家の恥だ」と言うだろう。
それでも、通せないものは通せない。
セレスティアは、王妃基金の支出不可通知に自分の名を記した。
今度は、利用された署名ではない。
自分の意思で書く署名だった。




