第5話 「戻ってこい」と命じられました。元婚約者に
宰相府の朝は、王太子府よりも静かだった。
静かだが、眠っているわけではない。
書記官たちは日の出前から机に向かい、法務官は昨夜届いた抗議文を分類し、監査官たちは王妃基金の古い出納記録に付箋を挟んでいた。誰も大声を出さない。廊下を歩く足音さえ控えめだ。
けれど、そこには王宮を動かす硬い音があった。
紙をめくる音。
封蝋を割る音。
羽根ペンが紙の上を走る音。
書類がひとつの事実として積み上がっていく音。
セレスティアは、その音を聞きながら、小会議室の席についていた。
目の前には、王妃基金の公開用収支記録と、亡き王妃エレオノーラの遺言執行に関する確認書が並んでいる。昨夜から何度も読み返しているのに、そこに自分の名前が記されていることが、まだどこか現実味を帯びなかった。
セレスティア・エルフォード。
王妃基金特別監査権限の受任者。
王太子の婚約者ではなく。
エルフォード公爵家の長女としてでもなく。
彼女個人の名で、そこに記されている。
指先で文字をなぞりかけて、セレスティアはすぐに手を止めた。
触れれば消えてしまうような気がした。
「読み飽きないか」
向かいの席から声がした。
カイン・ヴァレンティアは、いつもの黒い執務服で文書を読んでいた。朝の光が窓から差し込み、彼の横顔に淡い輪郭をつくっている。
「飽きるというより、確認してしまいます」
「消えはしない」
「そうですね」
「疑っているのか」
「遺言状を、ですか?」
「自分の名をだ」
セレスティアは答えに詰まった。
カインは顔を上げないまま続ける。
「君は書類の不備にはすぐ気づくのに、自分に与えられた権限には何度も確認を入れる」
「……慣れておりませんので」
「慣れろ」
短い言葉だった。
乱暴に聞こえるのに、不思議と突き放された感じはしなかった。
セレスティアは、少しだけ笑った。
「努力いたします」
「努力ではなく、実務だ。君が自分の権限を疑えば、周囲はそこを突いてくる」
カインは文書から視線を上げた。
「王太子府も、公爵家もな」
その名が出た瞬間、セレスティアの胸にかすかな重みが戻った。
王太子府。
昨日の慈善式典の後、王宮中に噂が広がった。ジュリアスが演説原稿で詰まり、孤児院名を間違えかけ、北方三州への支援額について曖昧な発言をしたという話だ。
セレスティアは式典に出ていない。
けれど、届いた報告を読めば、おおよその状況は分かった。
失敗は大きすぎない。
だが、小さくもない。
王太子の威信がすぐに揺らぐほどではないが、これまで整っていた式典との差は、出席者たちには十分伝わったはずだった。
「王太子府から、正式な業務依頼は来ていますか」
セレスティアが尋ねると、カインは机の端に置かれた文書束へ視線を向けた。
「抗議文が三通。苦情が二通。君に対する非公式の問い合わせが五件。正式な業務依頼は、まだない」
「そうですか」
「残念か」
「いいえ。予想通りです」
言いながら、セレスティアは自分でも驚いた。
昨日までなら、きっと落ち着かなかった。
正式な依頼がなくても、気になって資料を整え、必要になりそうな文面を先回りして書いていたはずだ。
今も気にならないわけではない。
外交返書の期限は近い。春の慈善茶会の準備も止まっているだろう。リリアナが席次表を読めるとは思えないし、ジュリアスは相手国の禁句一覧を覚えていない。
けれど、それはもう、セレスティアが勝手に背負う仕事ではなかった。
「予想通りならいい」
カインはそう言って、文書束の一枚を取った。
「ただ、予想の斜め下は来た」
セレスティアは瞬きをした。
「斜め下、ですか」
「読めば分かる」
差し出された紙を受け取る。
封蝋は王太子府のもの。
宛名は、セレスティア・エルフォード。
文面は短かった。
『セレスティア・エルフォード。王太子府の業務停滞について説明を求める。速やかに王太子府へ戻り、慈善式典原稿、外交返書、地方救済費関連書類の整理を行え。これは王太子命令である』
セレスティアは、数秒その文字を見つめた。
戻り。
行え。
命令。
婚約破棄を告げられた夜から、二日。
彼はまだ、同じ言葉を使っている。
「……本当に、命令なのですね」
口からこぼれた声は、怒りよりも呆れに近かった。
カインが静かに言う。
「そうだ」
「先日、正式な業務依頼書の書式を送ったはずですが」
「送った」
「報酬、責任範囲、期限、資料閲覧権限を明記するように、と」
「送った」
「読まれなかったのでしょうか」
「読んだうえで無視した可能性の方が高い」
セレスティアは、紙を机の上に戻した。
胸の奥で、何かが小さく冷えていく。
つい昨日まで、彼女はジュリアスの婚約者だった。
十年も、隣に立つ未来を想像していた。
彼の演説原稿を書き、彼が恥をかかないように資料を整え、彼の言葉が人々に届くように陰で支えてきた。
その彼が、今、彼女に戻れと命じている。
謝罪ではなく。
相談でもなく。
依頼でもなく。
命令。
カインは何も言わなかった。
返事を急かさない。
セレスティアは深く息を吸った。
「宰相閣下」
「何だ」
「返書を書いてもよろしいでしょうか」
「君宛ての文書だ。君が書け」
「宰相府の確認は」
「私が見る」
セレスティアは羽根ペンを取った。
白い紙を前に置く。
かつてなら、ジュリアスの望む返答を探した。
彼の機嫌を損ねない言い回し。
王太子としての顔を立てながら、実務が動くようにする文面。
自分がどれだけ譲れば波風が立たないか。
今は違う。
波風は、もう立っている。
立てたのは彼らだ。
ならば、自分はその波に飲まれない文章を書けばいい。
セレスティアは、ゆっくりと書き始めた。
『王太子殿下よりのご命令につきまして、以下の通り回答申し上げます』
そこまで書いて、一度ペンを止める。
命令につきまして。
その言葉だけで、胸がわずかに痛む。
だが、手は震えなかった。
『先般の婚約破棄により、私は王太子妃候補としての立場を失っております。従いまして、王太子妃候補として担っておりました諸業務を継続する義務は消滅しております』
文面は硬い。
けれど、それでいい。
柔らかく書けば、また都合よく解釈される。
『また、亡き王妃陛下の遺言に基づく王妃基金監査権限は、王太子府の指揮命令系統に属するものではございません。業務上の協力が必要な場合は、宰相府所定の書式にて、業務内容、期限、責任範囲、資料閲覧権限、ならびに報酬を明記のうえ、正式にご依頼ください』
書きながら、セレスティアは不思議な感覚を覚えていた。
これは拒絶だ。
けれど、感情をぶつける拒絶ではない。
扉を閉めるのではなく、正しい入口を示す文章。
入るなら、礼儀と手続きを持って来なさい。
そう告げる文章だった。
最後の一文で、少し迷った。
きつすぎるかもしれない。
いや、必要だ。
セレスティアは筆先を整え、続きを書いた。
『なお、王太子府の業務停滞につきましては、私の離任後に王太子府がいかなる権限移行手続きを行ったかに関わる問題と存じます。必要であれば、宰相府を通じて確認に応じます』
書き終えると、室内が静かだった。
セレスティアは文面を読み返し、カインへ差し出した。
カインは受け取り、目を通す。
少し長い沈黙があった。
「修正が必要でしょうか」
「いや」
カインは紙を置いた。
「よくできている」
たったそれだけの言葉だった。
それでも、セレスティアの胸の奥に小さな温かさが灯った。
「ありがとうございます」
「礼を言うところではない。君の判断だ」
「それでも、評価していただけるのは、ありがたいです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
だが、カインは笑わなかった。
「ならば、今後も正しい判断をしたときは言う」
「……はい」
セレスティアは目を伏せた。
自分の仕事を認められること。
自分の判断を、その場で誰かが見てくれること。
それは、彼女が思っていた以上に、胸の奥に残るものだった。
法務官が返書を清書し、宰相府の確認印を添えて退出する。
扉が閉まると、カインは別の文書を一枚差し出した。
「それと、もう一件」
「まだあるのですか」
「公爵家からだ」
セレスティアの指が止まった。
父から。
王太子府の命令よりも、そちらの方が胸に重く落ちる。
差し出された文書には、エルフォード公爵家の紋章があった。昨夜から何度見ても、見慣れた紋章のはずなのに、ひどく遠く感じる。
封はすでに法務官立ち会いで開かれている。
セレスティアは文面を読んだ。
『家の問題をこれ以上大きくするな。速やかに屋敷へ戻り、リリアナの補佐に入れ。王太子殿下とリリアナの婚約準備を滞らせることは、公爵家に対する背信である』
さらに下には、父の筆跡で追記があった。
『お前の部屋の整理は進めている。不要な書類は処分する』
その一文を見た瞬間、セレスティアの体から血の気が引いた。
「不要な書類……」
声がかすれた。
カインの目が鋭くなる。
「君の部屋には、王宮関連文書以外に何がある」
「王妃陛下からいただいた私信が数通。それから、古い草案、孤児院から届いた礼状、地方領主夫人との非公式なやり取りの控え……あとは、私個人の日記のようなものも」
「日記?」
「公務日誌ではありません。ですが、王妃基金の運用で気づいた点や、社交で聞いた噂、気になる支出について、私的に書き留めていたものです」
カインの表情が変わった。
ほんのわずかだが、確かに。
「それは処分されると困る」
「はい。けれど、公的な帳簿ではないので、父が見ればただの雑記だと思うかもしれません」
「雑記ではない。証言補助資料になり得る」
カインは即座に立ち上がった。
「法務官を呼ぶ。公爵邸へ追加通達だ。君の部屋の物品には一切触れさせるな」
「間に合うでしょうか」
「間に合わせる」
短い言葉。
だが、そこには迷いがなかった。
セレスティアも立ち上がった。
「私も参ります」
「駄目だ」
「私物の確認なら、私がいた方が早いはずです」
「公爵邸へ今君が行けば、父親と王太子府の双方に囲まれる可能性がある」
「ですが」
「保全には宰相府の職員を向かわせる。君はここにいろ」
セレスティアは唇を引き結んだ。
反論したい。
自分の部屋だ。
自分の物だ。
自分の十年が詰まっている。
だが、カインの言うことも分かる。
父はきっと、セレスティアを屋敷に入れたら出さない。
母は泣くだろう。
リリアナは「お姉様、お願い」とすがるだろう。
ジュリアスが来ていれば、また命令するだろう。
そして自分は、揺らぐかもしれない。
それが一番怖かった。
「分かりました」
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
「ここにいます」
カインは一瞬だけ、彼女の顔を見た。
「よく判断した」
「……今のも評価ですか」
「そうだ」
「そうですか」
セレスティアは少しだけ笑おうとしたが、うまくいかなかった。
カインは何も言わず、法務官を呼びに出た。
部屋に一人残されたセレスティアは、机に手を置いた。
自分の部屋。
そこには、華やかな思い出は少ない。
けれど、確かに自分の時間があった。
眠い目をこすりながら書いた草案。
初めて王妃に褒められた日の記録。
孤児院の子どもが描いてくれた、歪んだ花の絵。
冬の夜に、北方から届いた感謝の手紙。
誰にも見せなかった、王太子との婚約に疲れた日の短い愚痴。
不要な書類。
父は、それをそう呼んだ。
セレスティアは目を閉じた。
もう、怒っていいのだろう。
カインは昨夜そう言った。
怒ることは醜くない、と。
しかし、怒りは炎のようには燃えなかった。
代わりに、静かに固まっていく。
冷たく、硬く。
帳簿の表紙のように。
王太子府に宰相府からの返書が届いたのは、昼前だった。
ジュリアスは自分の執務室で、それを読んだ。
読み終える前に、頬が赤くなる。
「また依頼書だと」
文書は丁寧だった。
丁寧すぎるほど丁寧だった。
だからこそ、そこに書かれた拒絶は明確だった。
出頭命令には応じない。
王太子妃候補としての義務は消滅している。
業務を依頼するなら正式文書を。
責任範囲と報酬を明記せよ。
ジュリアスは机を叩いた。
「セレスティアは、私を侮辱しているのか」
リリアナは長椅子の端に座り、膝の上で手を握っていた。
今日は朝から表情が優れない。昨夜の式典の噂を聞いたのだろう。侍女たちは気を遣って何も言わないが、王宮の中で何が囁かれているかは、彼女にも分かっていた。
「殿下……お姉様は、まだお怒りなのでは」
「怒っているなら、私に会って言えばいい」
「でも、昨夜も今朝も、正式な文書でと」
「君までそれを言うのか」
ジュリアスの声に棘が混じる。
リリアナは慌てて首を振った。
「違います。私はただ、もしかしたらお姉様は、本当に手続きが必要だと思っているのかもしれないと」
「手続き、手続き、手続き」
ジュリアスは吐き捨てるように言った。
「セレスティアは昔からそうだ。何をするにも書類、規程、承認。人の心よりも紙を重んじる」
リリアナは黙った。
以前なら、その言葉に頷いていたかもしれない。
お姉様は冷たい。
お姉様は難しい。
お姉様は人の気持ちが分からない。
そう思っていた。
けれど昨日の式典で、書類や規程がないと、人の心を傷つけることもあるのだと少しだけ知ってしまった。
孤児院名を間違えかけたときの院長の顔。
支援額について問い直した老伯爵の目。
あれは、紙の問題だけではなかった。
「リリアナ?」
ジュリアスに呼ばれ、リリアナははっとする。
「はい」
「君は私を信じていればいい」
「もちろんですわ」
反射的に答えた。
ジュリアスは少し落ち着いたように椅子へ座る。
「そもそも、セレスティアも意地を張っているだけだ。十年も私の隣にいた女だ。私への情がないはずがない」
リリアナの胸が、ちくりとした。
「……お姉様は、まだ殿下をお慕いしていると?」
「そうだろう。だからこそ、こうして私を困らせて気を引こうとしている」
リリアナは何も言えなかった。
そう思いたい気持ちは分かる。
自分もそう思いたかった。
姉は怒っているだけ。
傷ついているだけ。
最後には戻ってくる。
そうでなければ、姉から奪ったものの重さと向き合わなければならない。
ジュリアスは文書を握りしめたまま、侍従へ命じる。
「エルフォード公爵へ連絡しろ。家からセレスティアに言わせればいい」
「畏まりました」
侍従が下がる。
リリアナは小さく息を呑んだ。
「お父様に?」
「公爵家の娘なら、父の言葉には従う」
ジュリアスは当然のように言った。
「家族の説得なら、宰相府も口を出しにくい」
リリアナは不安になった。
昨夜の姉を思い出す。
私が決めました。
あの言葉を口にした姉は、リリアナの知っている姉とは少し違っていた。
いつも譲ってくれる姉。
困ったら助けてくれる姉。
笑わないけれど、最後には自分の味方をしてくれる姉。
その姉が、昨夜だけは遠かった。
正式な手続きを取ってください。
あの言葉が、まだ耳に残っている。
エルフォード公爵邸では、朝から使用人たちが北側の部屋に集められていた。
そこは、セレスティアの部屋だった。
日当たりはよくない。広さも、妹リリアナの部屋の半分ほどしかない。だが、壁一面に書棚があり、机は使い込まれていて、窓辺には小さな花瓶が置かれていた。
派手な調度品はほとんどない。
あるのは、本と紙と記録ばかりだった。
母エヴァンジェリンは、扉の前でため息をつく。
「本当に、こんなに書類ばかり」
侍女長が遠慮がちに言った。
「奥様、こちらはお嬢様が大切にされていたものでは」
「分かっています。でも、リリアナの衣装部屋にするには片付けなければならないでしょう」
机の上には、整えられた書類の束がいくつも残っていた。
引き出しには手紙。
書棚には法典や会計記録の写し。
小箱には、孤児院の子どもたちから贈られた折り紙のような花飾り。
エヴァンジェリンは、その小箱を開けて困ったように眉を下げた。
「こういうものまで取っておくのね、あの子は」
母の声には、愛情よりも戸惑いがあった。
娘が何を大切にしていたのか、今さら知った人の声だった。
そこへ、グレアム公爵が入ってくる。
「まだ終わらんのか」
「あなた、書類が多くて。どれを残せばいいのか」
「王宮に関係しそうなものはまとめろ。他は処分して構わん」
「でも、セレスティアが戻ったときに」
「戻すつもりはない」
グレアムの声は硬かった。
「しばらく別邸で頭を冷やさせる。王太子殿下とリリアナの婚約が整うまで、屋敷に置くのはまずい」
「でも、あの子も傷ついているわ」
「傷ついているからといって、家に逆らう理由にはならん」
エヴァンジェリンは黙った。
机の引き出しから、一冊の小さな革表紙の帳面が出てきた。
「これは?」
侍女長が手に取る。
表紙には何も書かれていない。
グレアムはそれを奪うように受け取った。
「中を見せろ」
「旦那様、私的なものでは」
「この家の娘の持ち物だ」
グレアムは帳面を開いた。
最初の頁には、セレスティアの端正な字が並んでいた。
『王妃基金支出に関する覚書。正式帳簿ではないため、外部提出不可。気になる点のみ記録』
グレアムの目が細くなる。
頁をめくる。
『エルフォード公爵家系列商会、昨年秋より孤児院修繕費関連で名が増える。要確認』
さらにめくる。
『王妃陛下より、基金支出は善意の名を借りた私物化を招きやすいとご教示あり。父の紹介する団体については、今後も照合が必要』
グレアムの顔色が変わった。
「これは……」
エヴァンジェリンが不安そうに覗き込もうとする。
「何が書いてありますの?」
「見るな」
グレアムは帳面を閉じた。
その手には力が入っている。
この帳面は、ただの娘の雑記ではない。
もし宰相府に渡れば、余計な疑いを招く。
まだ決定的な証拠ではない。
だが、疑惑の入口にはなる。
「これは処分する」
侍女長が青ざめた。
「旦那様、それは」
「不要な雑記だ」
その瞬間、廊下から別の使用人が駆け込んできた。
「旦那様! 宰相府の方々がお見えです!」
グレアムの手が止まる。
「もう来たのか」
「法務官様と監査官様です。セレスティアお嬢様の私物保全に参ったと」
グレアムは帳面を背後に隠すように持った。
「通すな」
「ですが、宰相府の正式文書をお持ちです」
「通すなと言っている!」
怒声が部屋に響いた。
エヴァンジェリンは怯えたように夫を見る。
そして、夫の手に握られた小さな帳面を見た。
そこに何が書かれているのか、彼女には分からない。
けれど、夫がそれを恐れていることだけは分かった。
宰相府に、公爵邸での押し問答の第一報が届いたのは、午後のことだった。
セレスティアは王妃基金の資料分類をしていたが、法務官の顔色を見てすぐに手を止めた。
「何かありましたか」
法務官はカインを見た。
カインが頷く。
「報告しろ」
「エルフォード公爵邸にて、セレスティア様の私物保全を求めましたが、公爵閣下が一部資料の引き渡しを拒否されています」
セレスティアの胸が冷える。
「一部資料とは」
「小型の革表紙帳面との報告です。公爵閣下が私的な雑記であり不要と主張し、確認を拒んでいると」
セレスティアは立ち上がった。
革表紙の帳面。
それは、おそらく私的覚書だ。
王妃基金の支出で気になったことを、正式に扱う前段階として記録していたもの。父の紹介した団体や、王太子派貴族との妙な繋がり、孤児院修繕費の流れについても書いた。
まだ、証拠ではない。
しかし、疑問の地図だった。
「あれを処分されたら……」
「処分はさせない」
カインの声が低く響いた。
「追加で強制保全命令を出す」
法務官が息を呑む。
「公爵家相手にですか」
「相手が誰であろうと、遺言執行対象者の関連資料を隠すなら同じだ」
カインはセレスティアを見る。
「その帳面には何がある」
「正式な証拠ではありません。私が気になった支出や、王妃陛下から教わった注意点、父が紹介した団体の違和感などを記録したものです」
「十分だ」
「ですが、私的な覚書です」
「だからこそ、今隠そうとしている」
セレスティアは言葉を失った。
父は、読んだのだろうか。
読んだうえで、隠そうとしているのだろうか。
その事実が、婚約破棄よりも鋭く胸に刺さった。
父が自分を道具として扱っていたことは、もう分かっていた。
けれど、セレスティアが残した疑問まで消そうとするなら。
それは、ただ娘を叱る父ではない。
自分の都合の悪い記録を消す者だ。
「宰相閣下」
セレスティアは静かに言った。
「私も、正式に申し立てます。私物である革表紙帳面の保全を求めます」
「書けるか」
「はい」
「なら、今書け」
セレスティアは席に戻り、紙を取った。
手は少し震えていた。
悔しさなのか、怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
だが、書く。
記録する。
飲み込まない。
『私は、エルフォード公爵邸私室に保管していた革表紙の私的覚書について、所有権および保全の必要性を申し立てます』
文字が紙の上に刻まれていく。
『同覚書には、王妃基金運用上の疑問点、亡き王妃陛下より受けた教示、ならびに今後確認を要する支出に関する個人的記録が含まれます。正式帳簿ではないものの、監査補助資料としての価値を有する可能性があるため、破棄、改竄、持ち出しを禁じる措置を求めます』
書き終えると、セレスティアは息を吐いた。
カインが文書を受け取る。
「これでいい」
「父は、怒るでしょうね」
「もう怒っている」
「そうですね」
「怒らせておけ」
カインは、あまりにも簡単に言った。
「怒りで証拠を隠そうとする者は、手順を間違える」
セレスティアは顔を上げた。
「手順を」
「そうだ。君の父は今、自分が何を守るべきか、何を隠すべきかを考える前に動いている。焦っている証拠だ」
父が焦っている。
その言葉は、セレスティアには奇妙に聞こえた。
父はいつも大きかった。
厳しく、正しく、逆らえない存在だった。
けれど今、カインは父を一人の監査対象のように見ている。
それが少しだけ、怖くもあり、救いでもあった。
「私は、父を裁きたいのでしょうか」
思わず問いがこぼれた。
カインはすぐには答えなかった。
「今は裁くかどうかを決める段階ではない」
「では、何を」
「事実を残す段階だ」
セレスティアは目を伏せた。
事実を残す。
それならできる。
感情は揺れる。
家族への思いは、そう簡単には切れない。
だが、事実ならば書ける。
父が帳面を隠そうとした。
王太子が命令書を送ってきた。
リリアナが引き継ぐと言いながら、資料を読めなかった。
母が自室を衣装部屋にしようとしていた。
すべて、記録すればいい。
カインが法務官に指示を出す。
「強制保全命令を発行。公爵邸の該当室を封鎖。革表紙帳面を含む全物品を目録化しろ。拒否が続く場合、王宮監査妨害として扱う」
「承知いたしました」
法務官が走るように出ていく。
セレスティアは、窓の外を見た。
空は晴れている。
なのに、遠くの雲が少しずつ厚くなっているように見えた。
夕刻近く、エルフォード公爵邸の門前には、宰相府の馬車が二台停まっていた。
法務官、監査官、記録係。
そして公爵家の使用人たち。
玄関広間では、グレアム公爵が怒りを抑えきれない顔で立っていた。
「我が家に対して、監査妨害とはどういう言い草だ」
法務官は礼儀正しく頭を下げる。
「公爵閣下。セレスティア様より、私物および監査補助資料の保全申し立てが正式に提出されました。亡き王妃陛下の遺言執行に関わる可能性がある以上、確認が必要です」
「娘の雑記だと言っている」
「その判断は、内容確認後に行います」
「私を疑うのか」
「手続きです」
その言葉は、セレスティアに似ていた。
グレアムは歯を食いしばる。
彼の背後で、エヴァンジェリンが不安そうに立っていた。リリアナはまだ王宮にいるため、この場にはいない。
法務官は続ける。
「革表紙の帳面をご提出ください」
「……今、探させている」
「先ほど公爵閣下がお持ちだったと報告を受けています」
グレアムの目が険しくなる。
「使用人に聞いたのか」
「現場にいた者からの記録です」
記録。
その言葉に、グレアムはますます苛立った。
セレスティアと同じだ。
どいつもこいつも、紙と記録で人を縛ろうとする。
「分かった」
グレアムは低く言い、懐から革表紙の帳面を取り出した。
法務官が受け取ろうとすると、彼はすぐには離さなかった。
「これは公爵家の恥に関わるものだ。外へ出すなら、相応の責任を取ってもらう」
「内容を確認したうえで、必要な範囲で保全します」
「娘の妄想で家名を傷つけるな」
その声は、怒りというより恐れに近かった。
法務官は黙って帳面を受け取った。
その場で目録に記載される。
『革表紙小型帳面一冊。表紙無記名。セレスティア・エルフォード所有と申し立てあり』
記録係が一字ずつ書きつける音が、玄関広間に響いた。
グレアムはその音を睨みつけていた。
宰相府へ革表紙の帳面が届いたのは、夜に入ってからだった。
セレスティアは小会議室で待っていた。
カインは、待つ必要はないと言った。
だが、彼女は待った。
あの帳面を自分の目で確認するまでは、部屋に戻っても眠れないと分かっていたからだ。
法務官が布に包まれた帳面を机に置く。
「保全完了しました。破損はありません。封印前に、公爵閣下が数頁を閲覧した可能性があります」
セレスティアは帳面を見つめた。
懐かしい革表紙。
端が少し擦り切れている。
夜更けに何度も開いたせいで、角が柔らかくなっている。
戻ってきた。
たった一冊の帳面なのに、胸の奥に詰まっていた息がようやく抜けた。
「ありがとうございます」
法務官は穏やかに頭を下げる。
「所有者の元へ戻すのが当然です」
当然。
またその言葉だった。
セレスティアは少しだけ目を細めた。
「当然のことをしていただけるのは、ありがたいことですね」
法務官は一瞬きょとんとしたあと、何かを察したように静かに礼をして下がった。
部屋には、カインとセレスティアだけが残る。
「開けるか」
カインが問う。
「はい」
セレスティアは帳面を開いた。
最初の頁には、自分の字があった。
『正式帳簿ではない。けれど、忘れてはいけないことを書く』
それを書いた日のことを覚えている。
王妃エレオノーラに、こう言われた日だった。
――セレスティア、帳簿に残る数字だけを信じてはいけません。数字の後ろに、誰が笑い、誰が泣いたかを書き留めなさい。
その言葉を忘れたくなくて、作った帳面だった。
頁をめくる。
孤児院修繕費の疑問。
父が紹介した慈善団体の名。
王太子派貴族の妻が、茶会で口にした不自然な金額。
母が妹の宝石代を「社交上必要」と言った日の記録。
リリアナが無邪気に「お姉様は数字が好きでいいわね」と笑った日の短い一文。
その中に、一枚の紙が挟まっていた。
セレスティアは眉をひそめる。
「これは……」
「君が挟んだものではないのか」
「違います」
紙は古びていた。
折り畳まれ、端が少し黄ばんでいる。
開くと、そこには亡き王妃の筆跡があった。
セレスティアの呼吸が止まる。
『セレスティアへ』
それだけで、胸が強く震えた。
なぜ、王妃の手紙がこの帳面に挟まっているのか。
父が隠したものだろうか。
それとも、王妃がいつか見つけるように仕込んだのか。
カインの表情もわずかに険しくなる。
「読めるか」
セレスティアは頷いた。
手紙を開く。
そこには、短い文章が記されていた。
『この帳面を、あなたが自分の手で取り戻せたなら、次に開くべきものがあります。私が遺した本当の帳簿は、まだ表にはありません』
セレスティアは、文字を追う目を止めた。
本当の帳簿。
王妃基金の正式帳簿ではない。
公開用収支でもない。
では、何か。
手紙の最後には、こう書かれていた。
『王宮の誰かが、あなたの署名を利用しています。けれど、あなたは罪人ではありません。あなたを縛る者の名は、必ず紙の上に残っています』
部屋の中が、静まり返った。
セレスティアは手紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。
「私の署名を……」
カインの声が低くなる。
「やはりか」
「宰相閣下は、予想されていたのですか」
「可能性は見ていた。君の権限と署名がこれほど重いなら、利用しようとする者は必ず出る」
セレスティアは、帳面と手紙を見下ろした。
自分の名前。
自分の署名。
自分の信頼。
それらが、誰かに使われていた。
ただ軽んじられていただけではない。
ただ働かされていただけでもない。
もしかすると、罪を被せられるところだった。
父は、この手紙を知っていたのだろうか。
知らずに帳面を隠そうとしたのか。
それとも、読んでしまったのか。
セレスティアは、ゆっくりと顔を上げた。
「宰相閣下」
「何だ」
「王妃陛下の本当の帳簿を、探します」
声は静かだった。
けれど、そこには昨夜までの迷いはなかった。
「私の署名が使われたのなら、確認しなければなりません。誰が、いつ、何のために使ったのか」
「ああ」
「それが父であっても」
少しだけ、声が揺れた。
「王太子殿下であっても」
カインはセレスティアを見た。
「君一人で背負う必要はない」
「分かっています」
セレスティアは手紙を丁寧に畳み直した。
「ですが、これは私の名前の問題です」
誰かの婚約者としての名ではない。
公爵家の娘としての名でもない。
セレスティア・エルフォード。
その名が、紙の上で利用されている。
ならば、取り戻さなければならない。
カインは静かに頷いた。
「では、明朝から正式に調べる」
「はい」
「ただし、今夜は休め」
セレスティアは思わず苦笑した。
「この流れで、休めとおっしゃいますか」
「この流れだから言っている」
カインは手紙と帳面を封筒に入れ、保全印を押す準備をした。
「焦れば、相手の思う壺だ。王妃陛下は、君に帳簿を残した。ならば、急がず読め。帳簿は逃げない」
セレスティアは、その言葉をゆっくり受け止めた。
帳簿は逃げない。
けれど、人は動く。
隠す。
消す。
言い訳をする。
だからこそ、こちらも手順を踏む必要がある。
「承知いたしました」
セレスティアは席を立つ。
窓の外には、夜の王宮が広がっていた。
灯りのともる白い塔。
美しく整えられた庭園。
遠くに見える王太子府の明かり。
あの場所から、今日も命令が届いた。
戻ってこい、と。
だが、もう戻らない。
戻るのではなく、調べる。
従うのではなく、確認する。
泣き寝入りではなく、記録する。
セレスティアは静かに目を閉じた。
明日から、ただの婚約破棄騒動では済まなくなる。
亡き王妃の帳簿。
利用された署名。
隠された覚書。
そして、それを恐れる父。
王宮の裏側に、何かがある。
その入口に、自分の名前が刻まれている。
セレスティアは鍵束に手を触れた。
金属の冷たさが、指先に伝わる。
もう、奪われるだけの夜は終わった。




