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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第4話 王太子殿下、演説原稿が読めません

 慈善式典は、王宮南庭の回廊広場で行われる予定だった。


 春の光が白い石畳に降り注ぎ、柱廊には王家の紋章を織り込んだ旗が垂れている。花壇には淡い黄色の花が並び、中央には王太子ジュリアスが立つための演壇が設えられていた。


 その周囲には、地方貴族、慈善団体の代表、孤児院の院長、商会関係者、そして王宮新聞の記者たちが集まっている。


 表向きは、北方三州の救済事業と、王妃基金による孤児院支援の継続を宣言する式典だった。


 例年なら、華やかでありながらも穏やかに終わる行事である。


 王太子ジュリアスが民を思う言葉を述べ、関係者に感謝を伝え、地方貴族たちは王家への忠誠を新たにする。新聞には「慈悲深き王太子殿下、亡き王妃の志を継ぐ」といった見出しが躍る。


 それを整えてきたのが誰なのか、ほとんどの者は考えたことがなかった。


 王太子が読んでいた原稿。

 出席者の座る位置。

 誰に最初に声をかけるべきか。

 どの孤児院の名を出し、どの領主の努力を称えるべきか。

 避けるべき言葉。

 言い換えるべき数字。

 触れてはいけない派閥間の争い。


 そうした細かなものは、式典の表には出ない。


 だからこそ、軽んじられる。


 その日の朝、ジュリアスは控室で鏡の前に立っていた。


 濃紺の礼装に、王太子の徽章。金髪はきちんと整えられ、襟元の飾り紐にも乱れはない。


 見た目だけなら、完璧だった。


「殿下、とてもご立派ですわ」


 リリアナが両手を胸の前で合わせ、うっとりと微笑んだ。


 今日の彼女は淡い若草色のドレスを着ている。慈善式典にふさわしく、過度な装飾は避けているが、それでも袖口には繊細な刺繍が施され、髪には小さな真珠が光っていた。


 ジュリアスは鏡越しに彼女を見る。


「君が隣にいてくれるからだ」


「まあ」


 リリアナは頬を染めた。


 控えていた侍女たちが微笑ましそうに視線を下げる。


 その甘やかな空気を裂くように、侍従長が一歩前に出た。


「殿下。式典開始まで、あと四半刻ほどです。演説原稿の最終確認を」


「ああ」


 ジュリアスは椅子に座り、机に置かれていた原稿を手に取った。


 表紙には、リリアナの丸みを帯びた字でこう書かれている。


『北方三州救済および慈善支援式典 王太子殿下御挨拶』


 ジュリアスは一瞬だけ眉を動かした。


 セレスティアの原稿とは、見た目からして違った。


 セレスティアの原稿は、字が整っていた。余白には小さな注釈があり、難しい地名には読み仮名、出席者に応じた声のかけ方、強調すべき箇所には薄い線が引かれていた。


 演説というより、道案内のようだった。


 どこで顔を上げるか。

 どこで間を取るか。

 誰の方を見るか。


 すべて、うるさいほど書かれていた。


 そのときは、細かすぎると思っていた。


 だが、今手にしている原稿には、そうしたものがない。


 美しい字で、優しい言葉が並んでいる。


 それだけだった。


「リリアナ、これは君が?」


「はい。昨夜、お姉様の旧原稿を参考にしながら、私なりに整えましたの」


 リリアナは少し誇らしげに言った。


「難しい数字ばかりでは、民の皆様のお心には届かないと思いました。ですから、殿下の慈愛が伝わるように、柔らかい言葉を増やしてみましたわ」


「そうか」


 ジュリアスは原稿に目を落とした。


 最初の数行は悪くない。


 春の訪れ。

 王家の慈悲。

 亡き王妃の遺志。

 困難にある民へ寄り添う心。


 どれも綺麗な言葉だった。


 けれど、頁を進めるほど、妙な違和感が出てくる。


「北方三領……?」


 ジュリアスは小さく呟いた。


 侍従長がわずかに眉をひそめる。


「殿下、北方三州でございます」


「ああ、そうか。ここは直しておけ」


 リリアナが慌てて原稿を覗き込む。


「ごめんなさい。三州と三領、似ていたので」


「大きな問題ではない」


 ジュリアスはそう言ったが、次の段落でまた手が止まった。


「孤児院名が……『聖ミリアナ救育院』?」


 侍従長の顔がわずかに強張る。


「殿下。おそらく『聖ミラーナ救護院』かと」


「そうなのか」


「はい。北方支援の対象になっている施設です」


 リリアナの頬が赤くなる。


「響きが似ていたので、間違えてしまったのかもしれません。申し訳ありません」


「いや、今気づけてよかった」


 ジュリアスは軽く言った。


 しかし、その声には余裕が減っていた。


 さらに読み進める。


『王妃基金より、昨年を上回る十分な支援を皆様へお届けします』


 ジュリアスの指が止まった。


「昨年を上回る、で合っているのか?」


 侍従長は困ったように視線を落とす。


「今年は凍霜被害の影響で、第一次支援は昨年と同額、第二次支援で追加調整と聞いております」


「誰から」


「例年ですと、セレスティア様より」


 その名が出た瞬間、控室の空気が少し重くなった。


 リリアナの表情が曇る。


 ジュリアスは原稿を置いた。


「何かにつけて、セレスティアの名が出るな」


 侍従長は頭を下げる。


「申し訳ございません」


「謝れと言っているのではない。だが、彼女がいなければ何もできないような言い方はやめろ」


「そのようなつもりでは」


「今日の式典は、私が行う。セレスティアではない」


 声が強くなる。


 リリアナは慌ててジュリアスの手に自分の手を重ねた。


「殿下なら大丈夫ですわ。皆様、殿下のお言葉を待っていらっしゃいますもの」


 その言葉に、ジュリアスは少し表情を和らげた。


「そうだな」


 彼は原稿を手に取り、深く息を吸った。


「多少の誤りは、私の言葉で補えばいい」


 侍従長は何か言いたげだったが、結局口を閉じた。


 式典開始の鐘が鳴る。


 ジュリアスは立ち上がった。


 リリアナは彼の隣で、祈るように微笑んでいた。


 宰相府にも、式典開始の知らせは届いていた。


 セレスティアは小会議室で、王妃基金の公開用収支記録を確認していた。隣には法務官、向かいには会計監査官が二人。カインは窓際で別の文書を読んでいる。


 部屋の空気は静かだった。


 紙をめくる音。

 羽根ペンが走る音。

 ときおり監査官が短く数字を読み上げる声。


 セレスティアには、こういう静けさが馴染む。


 昨夜の舞踏会や控室で浴びた視線と言葉が、少しずつ遠ざかっていく気がした。


「セレスティア様」


 監査官の一人が、遠慮がちに声をかける。


「この孤児院支援金の欄ですが、昨年の秋から支出名目が変わっております」


 セレスティアは資料を受け取った。


「どちらですか」


「聖ミラーナ救護院です。以前は修繕費と燃料費が別立てでしたが、秋から包括支援費として処理されています」


「それは、院長が高齢で書類を二種に分けるのが難しくなったためです。領主側の確認印を増やすことで、包括処理に変更しました」


「記録は」


「王太子妃候補執務室の赤い紐で綴じた補助簿にあります。ただ、昨夜の封印対象には含めていないはずです。公開資料扱いですから」


 監査官は目を丸くした。


「よく覚えておいでですね」


「忘れると、困る方がいますので」


 そう答えてから、セレスティアは少しだけ手を止めた。


 以前なら、何も考えずに言っていた。


 忘れると困る人がいる。

 だから自分が覚えておく。


 その考え方自体は悪くない。

 けれど、それを当然にされることが問題だったのだと、今は少し分かる。


 カインが顔を上げた。


「疲れたら休め」


「今は大丈夫です」


「今は、か」


「……半刻後に休憩をいただきます」


 そう言うと、カインは納得したように文書へ視線を戻した。


 法務官が小さく咳払いをする。笑いを堪えたようにも見えた。


 セレスティアは少し恥ずかしくなり、資料へ目を戻す。


 そのとき、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 若い宰相府の書記官が入ってくる。


「南庭の慈善式典が始まりました。王宮新聞の記者も入っております」


 カインは短く頷く。


「分かった」


 書記官は迷ったように続けた。


「それと、王太子府から演説原稿の旧版について問い合わせが来ております」


 セレスティアの手が止まった。


 カインが書記官を見る。


「問い合わせの内容は」


「『昨年の慈善式典原稿に記された北方三州の正確な支援額と孤児院名を至急確認したい』とのことです」


 部屋の中に、微妙な沈黙が落ちた。


 監査官たちは目を合わせないように資料へ視線を落とす。


 法務官は、明らかに「始まった」と言いたげな顔をしていた。


 カインはセレスティアに視線を向けた。


「どうする」


 セレスティアは少し考えた。


 式典はすでに始まっている。

 今さら原稿を差し替えるのは難しい。

 だが、誤った数字や施設名を公の場で発言すれば、関係者に失礼になる。


 それに、現地の人々を不安にさせる。


「旧版原稿の保管場所は分かります。ですが、正式な依頼ではないのですよね」


 書記官が答える。


「はい。王太子府侍従からの口頭問い合わせです」


 セレスティアは一度目を伏せた。


 また同じだ。


 困ったときだけ、非公式に聞く。

 答えだけ使い、責任は残さない。


 彼女は顔を上げた。


「宰相府から、公開資料として確認可能な範囲を伝えてください。北方三州。聖ミラーナ救護院。第一次支援額は昨年同額、追加支援は照合後。これだけなら、王妃基金の公開資料と矛盾しません」


 カインが頷く。


「書記官、その内容で返せ。なお、今後の問い合わせは文書で行うよう添えること」


「承知いたしました」


 書記官が下がる。


 セレスティアは再び資料へ目を落とそうとしたが、どうしても集中が途切れた。


 今ごろ、ジュリアスは演壇に立っているはずだ。


 あの人は、間違えずに読めるだろうか。


 そう思った自分に、セレスティアは静かに息を吐いた。


 まだ気にしている。


 捨てられても、命令されても、責任を押しつけられそうになっても、それでも式典の失敗を気にしてしまう。


 未練とは違う。


 おそらく、これは習慣だ。


 十年分の習慣。


 カインが言った。


「君が心配する必要はない」


「顔に出ていましたか」


「少しな」


 セレスティアは苦笑した。


「王太子殿下のためではありません。式典に出席している方々のためです」


「分かっている」


 カインは、あっさりとそう言った。


 分かっている。


 その一言に、胸のどこかが静かになる。


「だからこそ、君はここにいろ。今行けば、また利用される」


「はい」


 セレスティアは、今度はすぐに頷いた。


 南庭の式典は、予定通り始まった。


 ジュリアスが演壇に上がると、参列者たちは礼をした。王太子の姿はやはり華やかで、遠目には自信に満ちて見えた。


 リリアナは来賓席の前列に座り、胸元で手を組んで彼を見つめている。


 王宮新聞の記者たちは、ペンを構えた。


 ジュリアスは原稿を開き、微笑む。


「本日は、北方……」


 そこで一瞬、視線が止まった。


 原稿にはまだ「北方三領」と書かれていた。


 控室で直したつもりだったが、リリアナが慌てて訂正したのは最初の頁だけだったのだ。後ろの頁には、同じ誤りがいくつも残っている。


「北方三州の皆に向けた、王家の変わらぬ慈愛を示すため、この場を設けた」


 言い直せた。


 ジュリアスは内心で安堵する。


 参列者も、この程度なら気にしない。

 そう思った。


 だが、地方貴族の一人がわずかに眉を動かしたことには気づかなかった。


「亡き王妃エレオノーラ陛下は、常に弱き者に心を寄せ、孤児院、施療院、そして各地の困窮する民へ温かな手を差し伸べられた。その志は、今も王家に受け継がれている」


 ここまではよかった。


 美しい言葉。

 堂々とした声。

 聞き手たちは静かに頷いている。


 ジュリアスは少し自信を取り戻した。


 やはり、自分には人前で語る力がある。

 セレスティアの細かな注釈などなくても、問題はない。


 そう思った次の段落で、彼の目が止まった。


『聖ミリアナ救育院をはじめとする、北方の子どもたちへ――』


 ミリアナ。


 違う。

 控室で侍従長が訂正していた。

 ミラーナだ。


 ジュリアスは咄嗟に言い換えようとした。


「聖ミラ……」


 言葉が詰まる。


 ミラーナ救護院。

 そうだったはずだ。


 だが原稿には違う名が書かれている。

 周囲の視線が集まっている。

 少しでも迷えば、それが露見する。


「聖ミラーナ救護院をはじめとする、北方の子どもたちへ、今年も十分な支援を届ける」


 何とか読み切った。


 しかし、前列に座っていた聖ミラーナ救護院の院長は、少しだけ表情を曇らせた。


 ジュリアスは気づかない。


 続ける。


「今年の支援は、昨年を上回る規模で――」


 そこで、地方領主の一人が顔を上げた。


 昨年を上回る。


 今朝の段階で送金が止まっているにもかかわらず、その発言は危うかった。


 ジュリアスは言ってから、まずいと思った。


 控室で侍従長が、第一次支援は昨年同額、追加は照合後だと言っていた。


 だが、口に出してしまった。


 少し間が空く。


 王宮新聞の記者が素早くペンを走らせる音が聞こえた。


 ジュリアスは咳払いをして続ける。


「……必要に応じて、昨年を上回る支援も視野に入れている」


 苦しい言い換えだった。


 式典慣れした者なら、今の一瞬で分かる。


 原稿に不備がある。

 王太子は、内容を完全には把握していない。


 ざわめきはまだ起きない。


 だが、空気が変わった。


 ジュリアスの額に、わずかに汗が浮かぶ。


 原稿の次の頁をめくる。


 そこには、リリアナが追加したらしい文章があった。


『私たちは、愛と希望によって、すべての悲しみを癒やすことができると信じています』


 美しい。

 だが、抽象的だった。


 その後に続くはずの具体的な支援策が、削られている。


 昨年の原稿なら、このあたりで北方三州それぞれの状況に触れていた。

 凍霜被害のあった村名。

 輸送路復旧の見込み。

 燃料費支援の対象施設。


 ジュリアスはそれを自分で覚えていない。


 なぜなら、これまで覚える必要がなかったからだ。


 セレスティアの原稿には、すべて書いてあった。


 視線を落とせば、読めた。

 難しい地名には読みやすい印がついていた。

 言い間違えやすい施設名には、余白に何度も注意書きがあった。


 今はない。


 あるのは、愛と希望という言葉だけ。


 ジュリアスは喉の奥が乾くのを感じた。


「王家は、皆の悲しみに寄り添い……」


 声がほんの少しだけ上擦った。


 前列の老領主が、隣の者に小声で何かを囁く。


 リリアナは心配そうにジュリアスを見ていた。


 彼が苦しんでいるのは分かる。

 しかし、自分が何を間違えたのかは分からない。


 原稿は綺麗に書いた。

 優しい言葉も入れた。

 殿下が温かい方だと伝わるようにした。


 なのに、どうしてこんな空気になっているのだろう。


 ジュリアスはようやく演説を終えた。


「王家は、亡き王妃の志を継ぎ、これからも民と共にある」


 最後の一文だけは、力強く言えた。


 拍手が起こる。


 だが、いつもより少し遅かった。


 いつもより少し薄かった。


 ジュリアスは演壇を降りる。


 リリアナがすぐに駆け寄った。


「殿下、お疲れ様でした」


「ああ」


 ジュリアスは短く答えた。


 顔には笑みを貼りつけている。

 だが、目の奥は笑っていなかった。


 その直後、北方三州の一人、老伯爵アーガイルが近づいてきた。


「王太子殿下。本日はお言葉を賜り、感謝申し上げます」


「アーガイル伯爵。北方のため、王家は尽くすつもりだ」


「ありがたきお言葉です」


 老伯爵は深く礼をした。


 だが、頭を上げたあと、穏やかな声で続けた。


「ところで、第一次支援額が昨年を上回るとのお話でしたが、今朝、会計室では送金が保留になっていると伺いました。追加支援の決定は、既になされたのでしょうか」


 ジュリアスは一瞬、返答に詰まった。


「それは……現在調整中だ」


「では、式典でのご発言は、今後の方針という理解でよろしいでしょうか」


「そうだ」


 老伯爵は静かに頷く。


「承知いたしました。では、現地には『王太子殿下が追加支援を視野に入れている』と伝えておきましょう」


 言葉だけなら礼儀正しい。


 だが、その声音には確認以上のものがあった。


 責任を持てるのですね。


 そう問われている。


 ジュリアスは何も言えなくなった。


 そこへ、聖ミラーナ救護院の院長が近づいてくる。


 年配の女性で、質素な黒い服を着ていた。彼女は王太子に礼をしたあと、少し戸惑ったように言った。


「殿下。私どもの院名をお心に留めていただき、光栄でございます」


「ああ。子どもたちのため、今後も支援しよう」


「ありがとうございます。ただ、先ほど一瞬、別の名でお呼びになりかけたように聞こえましたので……私どもの申請書に不備があったのではと心配になりまして」


 ジュリアスの頬が強張る。


「いや、そなたらの不備ではない」


「それならば、よろしいのですが」


 院長はほっとしたように微笑んだ。


 その笑顔が、ジュリアスにはかえって痛かった。


 セレスティアなら、こういう相手の不安を事前に潰していた。


 演説前に、院長へ声をかけていたかもしれない。

 あるいは原稿に、絶対に読み間違えないよう赤字で印をつけていたかもしれない。


 また、セレスティア。


 ジュリアスは胸の奥で苛立ちを覚えた。


 なぜ、いなくなった女の名が何度も浮かぶのか。


 自分で捨てたはずなのに。


 式典後の控室は、朝よりも重い空気に包まれていた。


 ジュリアスは手袋を外し、机の上に投げる。


「誰がこの原稿を確認した」


 リリアナはびくりと肩を揺らした。


 侍従長が頭を下げる。


「私が確認いたしました。ただ、時間が限られており、全体の精査までは」


「言い訳はいい」


 ジュリアスの声には怒りが滲んでいた。


 リリアナが立ち上がる。


「殿下、申し訳ございません。私がもっときちんと」


「君を責めているのではない」


 即座にジュリアスは言った。


 リリアナの目に涙が浮かびかけると、彼はいつものように庇う。


「悪いのはセレスティアだ」


 控室にいた者たちが、息を潜めた。


「彼女がきちんと引き継がなかったからだ。自分がいなければ困るよう、わざと資料を分かりにくくしていたのだろう」


 侍従長は視線を伏せた。


 内心では、違うと思っていた。


 セレスティアの資料は分かりにくいのではない。

 扱う内容が難しいのだ。


 むしろ彼女は、恐ろしく整理していた。

 ただし、それを読み解くには最低限の知識が要る。


 地図を渡されても、地名が読めなければ目的地には行けない。

 それだけの話だった。


 だが、侍従長は口にしなかった。


 王太子の怒りの矛先を浴びるほど、彼は若くなかった。


 リリアナは涙を堪えながら言う。


「お姉様、昨夜は資料の場所を教えてくださいました。でも、私が覚えきれなくて……」


「君は悪くない」


「でも」


「悪いのは、君に分かるように準備しなかったセレスティアだ」


 ジュリアスは、そう断じた。


 その瞬間、リリアナの中で何かが少しだけ楽になった。


 自分が悪いわけではない。

 姉が難しくしていたのだ。

 姉が冷たいのだ。

 姉が助けてくれないから、こうなったのだ。


 そう思えば、胸の痛みから逃げられる。


 だが完全には逃げきれなかった。


 演壇で詰まったジュリアスの姿。

 老伯爵の静かな問い。

 聖ミラーナ救護院の院長の不安そうな顔。


 それらが、リリアナの胸に小さな棘のように残っていた。


「セレスティアを呼べ」


 ジュリアスが侍従に命じた。


「今すぐだ。原稿の旧版と、北方三州の資料を持ってこさせろ」


 侍従はためらう。


「殿下、宰相府からは正式な業務依頼書を通すようにと」


「私は王太子だ」


「ですが、昨夜の通達では」


「くどい!」


 ジュリアスの声が控室に響いた。


「セレスティアは十年、私の婚約者だった。私のために働くことは、彼女の義務だった。その程度のことで報酬だの依頼書だの、馬鹿げている」


 リリアナは何も言えなかった。


 侍従も黙って頭を下げる。


 ジュリアスは机の上の原稿を睨んだ。


「呼び戻せ。原稿だけ書かせればいい」


 宰相府に、その命令書が届いたのは昼前だった。


 セレスティアはちょうど、王妃基金の収支表に赤い印をつけていた。昨年秋から一部支出の流れが不自然に変わっている。まだ断定はできないが、同じ商会名が何度も出てくることが気になっていた。


 法務官が入室し、カインへ文書を手渡す。


「王太子府より、再び書状です」


 カインは封を切り、目を通す。


 数行読んだところで、部屋の温度が下がった気がした。


「宰相閣下?」


 セレスティアが顔を上げる。


 カインは文書を机に置いた。


「読みたいか」


「私宛てですか」


「君宛てだ」


 セレスティアは文書を受け取った。


 そこには、力強い字でこう書かれていた。


『王太子命令として、昨年までの慈善式典演説原稿、北方三州救済費関連資料、および今後の式典原稿作成補助を命ずる。速やかに王太子府へ出頭せよ』


 セレスティアは、しばらくその文面を見つめた。


 命ずる。


 出頭せよ。


 婚約を破棄した翌日に、彼はまだこの言葉を使う。


 昨夜の控室で、正式な依頼をと伝えた。

 今朝、宰相府からも書式を送った。

 それでも、返ってきたのは命令だった。


 セレスティアは紙を机に戻した。


「変わりませんね」


 自分でも意外なほど、穏やかな声だった。


 法務官が少し心配そうに彼女を見る。


 カインは問う。


「どうする」


 セレスティアは、少しだけ考えた。


 怒りはある。

 痛みもある。


 けれど、それらをそのまま紙にぶつけても意味はない。


 この作品の――いや、彼女の戦い方はそうではない。


 帳簿と文書。

 権限と手続き。

 事実と記録。


 それが、今の彼女の武器だ。


「返書を書きます」


「内容は」


「王太子命令による出頭には応じられないこと。婚約破棄により、王太子妃候補としての義務は消滅していること。業務を依頼する場合は、内容、期限、責任範囲、報酬を明記した正式文書を宰相府へ提出すること」


 セレスティアは一度息を吸った。


「それから、慈善式典で発言された支援額について、現地領主への説明責任は王太子府にあることも添えてください」


 法務官が目を見開いた。


「かなり踏み込みますね」


「踏み込まなければ、また私が曖昧に責任を負うことになります」


 口にしてから、セレスティアは自分の言葉に少し驚いた。


 以前なら、そこまで考えなかった。


 自分が引き受ければ済む。

 自分が頭を下げれば収まる。

 自分が書けば式典は整う。


 その先で、誰の責任が消え、誰の名前が残らないのかを、考えないようにしていた。


 今は違う。


 カインが静かに頷く。


「いい判断だ」


 その短い評価に、セレスティアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 褒められたかったわけではない。

 けれど、自分の判断を正面から認められることは、こんなにも呼吸を楽にするのかと思った。


「ただし」


 カインが続ける。


「王太子府は反発する」


「承知しています」


「君個人を責める言葉も増えるだろう」


「それも、承知しています」


「耐えられるか」


 セレスティアはすぐには答えなかった。


 耐えられる、と簡単には言えない。


 昨夜から何度も、胸は痛んでいる。

 家族の言葉も、王太子の視線も、妹の涙も、まだ消えていない。


 それでも。


「耐えるのではなく、記録します」


 セレスティアは言った。


「責められたことも、命じられたことも、すべて記録します。私が黙って飲み込まなければならないものではないと、昨夜知りましたから」


 カインは、ほんのわずかに目を細めた。


「そうだ」


 それだけだった。


 だが、その一言は十分だった。


 セレスティアは羽根ペンを取る。


 白い紙に、最初の一文を書いた。


『王太子殿下のご命令につきまして、以下の通り回答申し上げます』


 手は震えなかった。


 その日の午後、王宮内には静かな噂が広がっていた。


 王太子殿下が慈善式典で孤児院名を間違えかけたらしい。

 北方三州への支援額について、曖昧な発言をしたらしい。

 セレスティア様が原稿を書かなかったからだと言う者もいれば、そもそも殿下は内容をご存じなかったのではと囁く者もいる。


 噂は、廊下を歩く侍女の間で小さくなり、文官室で少し大きくなり、貴族たちの茶会では扇の陰で甘く毒を含んだ。


「やはり、セレスティア様の原稿はよくできていたのですね」


「殿下は華やかでいらっしゃるけれど、細かな政務は……」


「リリアナ様はお可愛らしいわ。でも王太子妃となると、可愛いだけでは」


「しっ。聞こえますわよ」


 その一つ一つは小さな声だった。


 けれど、小さな声ほど王宮では遠くまで届く。


 夕方になる頃には、王太子府の空気は朝よりもさらに悪くなっていた。


 ジュリアスは宰相府から届いた返書を握りしめている。


 文面は丁寧だった。


 丁寧であるがゆえに、拒絶は明確だった。


『出頭命令には応じかねます』


『婚約破棄により、王太子妃候補としての義務は消滅しております』


『業務依頼は正式文書にてお願いいたします』


『式典におけるご発言の説明責任は、王太子府に帰属いたします』


 ジュリアスは文書を机に叩きつけた。


「セレスティアは何様のつもりだ」


 リリアナは隣で俯いている。


 何様。


 その言葉を聞いて、彼女の胸に朝の光景がよみがえった。


 文官たちの困った顔。

 会計副監ローレンの冷静な声。

 重い書類束。

 読めない数字。

 式典で詰まったジュリアス。


 そして、昨夜の姉の声。


 業務依頼書を宰相府へ。

 内容、期限、必要資料、報酬、責任範囲を明記してください。


 他人みたいだと思った。


 でも、他人にしたのは誰だったのか。


 一瞬だけ、そんな考えが浮かんだ。


 リリアナは慌ててそれを胸の奥へ押し込める。


 自分は悪くない。

 殿下が選んでくださった。

 お姉様は強いから大丈夫。

 お姉様なら、きっと最後には助けてくれる。


 そう思わなければ、不安で立っていられなかった。


「殿下」


 リリアナは小さく言った。


「お姉様は、きっとまだ怒っているのですわ。少し時間を置けば」


「時間などない」


 ジュリアスは低く言った。


「明後日には外交返書の期限がある。来週には春の慈善茶会もある。セレスティアが意地を張れば張るほど、王太子府の業務が滞る」


「では、正式な依頼書を……」


 言いかけた瞬間、ジュリアスの目がリリアナを向いた。


 リリアナはびくりと肩を震わせる。


「君まで、私にセレスティアへ頭を下げろと言うのか」


「い、いいえ。そういう意味では」


「私は王太子だ」


「はい」


「彼女は、私の婚約者だった女だ」


「はい……」


「ならば、命じればよい」


 リリアナは頷いた。


 けれど、胸の奥の不安は消えなかった。


 命じればよい。


 本当に、まだそれで動くのだろうか。


 昨夜、姉は言った。


 今夜、そうなったのです。


 その言葉が、リリアナの耳に残って離れなかった。


 宰相府では、日が傾く頃になってようやく一度目の正式な休憩が入った。


 セレスティアは窓辺に立ち、夕暮れに染まる王宮を見ていた。


 南庭の方角からは、もう式典の気配は消えている。片付けのために使用人たちが行き交い、旗が外されているのが小さく見えた。


 失敗したのだろうか。


 おそらく、したのだろう。


 その事実に、爽快感はなかった。


 ただ、静かな疲労があった。


 ざまぁ、というには現実は少し複雑だ。

 王太子が恥をかけば、それで困る人もいる。

 間違った発言が出れば、現地の人々が不安になる。

 だからこそ、セレスティアはこれまで必死に整えてきた。


 けれど、彼女がいなければ崩れるものを、彼らは軽んじた。


 その結果が、今日の式典だった。


「後悔しているか」


 背後からカインの声がした。


 セレスティアは振り向かずに答える。


「いいえ」


「声は、少し違うな」


「……後悔ではありません。ただ、もっと上手な方法があったのではと考えてしまうだけです」


「君が昨夜そのまま残り、今日の原稿を書けば、式典は成功しただろう」


「はい」


「その代わり、彼らは何も学ばなかった」


 セレスティアは黙った。


 その通りだった。


 セレスティアがまた助ければ、王太子は思う。

 やはり命じれば動くのだと。


 リリアナは思う。

 お姉様は最後には助けてくれるのだと。


 父は思う。

 セレスティアは家に逆らえないのだと。


 そして、セレスティア自身も思ってしまう。


 私は結局、逃げられないのだと。


「失敗から学ぶのは、本来彼らの役目です」


 セレスティアは小さく言った。


「私が先回りして、すべての失敗を消してしまっていたのですね」


「そうだな」


「それは、優しさだったのでしょうか」


「場合による」


 カインは窓辺に並び、同じ景色を見た。


「少なくとも、彼らはそれを優しさではなく、当然の奉仕だと思っていた」


 セレスティアは、胸の奥に沈むものを感じた。


 当然の奉仕。


 まさに、それだった。


「宰相閣下」


「何だ」


「私は、これから嫌われるでしょうか」


「もう十分嫌われている相手に、さらに嫌われることを恐れる必要があるか?」


 あまりにも淡々と言われたので、セレスティアは一瞬言葉を失った。


 そして、思わず小さく笑った。


 本当に小さな笑いだった。


 けれど、昨夜から初めて自然にこぼれた笑みだった。


「宰相閣下は、慰めがお上手ではありませんね」


「慰めたつもりはない」


「でしょうね」


 カインは少しだけ眉をひそめた。


「不満か」


「いいえ」


 セレスティアは首を横に振った。


「今は、その方がありがたいです」


 夕陽が窓硝子に反射し、二人の間に淡い光を落とす。


 甘い沈黙ではなかった。


 けれど、重苦しくもなかった。


 そのとき、法務官が控えめに入室した。


「失礼いたします。王宮新聞の記者より、慈善式典での支援額発言について、宰相府に確認依頼が来ています」


 カインは視線を戻す。


「王太子府に回せ」


「よろしいのですか」


「発言したのは王太子殿下だ」


「承知いたしました」


 法務官が下がる。


 セレスティアは、窓の外に視線を戻した。


 王宮の美しい白壁が、夕暮れに赤く染まっている。


 綺麗だと思った。


 でも、もう眩しくはなかった。


 彼女は静かに言った。


「明日は、外交返書の期限ですね」


 カインが横目で見る。


「気にするなと言っても無駄そうだな」


「気にはします」


 セレスティアは、今度ははっきり答えた。


「けれど、勝手には動きません」


「それでいい」


「正式な依頼があれば、条件を定めて受けます」


「ああ」


「なければ、受けません」


 カインは短く頷いた。


「よくできました、というべきか?」


 セレスティアは少し驚いて、それからまた小さく笑った。


「それは少し、子ども扱いではありませんか」


「では、よい判断だ」


「ありがとうございます」


 その言葉を口にしたとき、セレスティアは自分の胸の奥に、ほんの小さな芯のようなものが生まれているのを感じた。


 まだ細い。

 簡単に折れてしまうかもしれない。


 それでも、確かにある。


 誰かの婚約者ではなく。

 公爵家の道具でもなく。

 妹のために譲る姉でもなく。


 セレスティア・エルフォードとして、判断するための芯。


 その夜、王太子府から正式な依頼書は届かなかった。


 代わりに届いたのは、怒りを押し殺したような短い抗議文だった。


 宰相府は、それを受理したうえで記録に残した。


 そして王宮のどこかで、誰かが囁いた。


「セレスティア様がいなくなっただけで、こんなに違うのね」


 その声は小さかった。


 しかし、王宮の壁はよく声を拾う。


 翌日には、その囁きは少し形を変えて広がることになる。


 王太子殿下は、原稿を読めなかったらしい。


 これまで読めていたのは、セレスティア様が書いていたかららしい。


 春の夜風が、王宮の回廊を静かに抜けていく。


 セレスティアのいない王太子府で、書類の山だけが一枚も減らずに残っていた。

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