第3話 王宮会計は、最初の朝から止まりました
夜が明けても、王宮は美しかった。
東の塔の向こうから朝日が差し込み、白い石壁を淡い金色に染めていく。庭園では庭師たちが露に濡れた花を整え、厨房からは焼きたてのパンと香草の匂いが漂い始めていた。
王宮とは、そういう場所だ。
誰かが泣いた翌朝でも、誰かが捨てられた翌朝でも、変わらず美しい顔をして目覚める。
けれど、その美しさの裏側では、いつもより少し早い時間から小さな混乱が起きていた。
王太子妃候補執務室の前に、文官たちが集まっていたのである。
「封印紙が貼られているぞ」
「昨夜のうちに宰相府が?」
「だが、本日の承認はどうする。北方三州の件は午前中が期限だ」
「王太子殿下のご命令で、リリアナ様が引き継がれると聞いたが」
「では、リリアナ様はどちらに?」
扉の前で文官たちは顔を見合わせた。
彼らは皆、普段ならこの時間にセレスティアへ書類を差し出していた者たちだった。
セレスティアは朝が早い。
誰よりも先に執務室へ入り、前夜に届いた文書に目を通し、午前中に処理すべき案件を三つに分けていた。
すぐ承認するもの。
確認が必要なもの。
誰かが都合よく紛れ込ませたもの。
文官たちは、それを当然のように受け取っていた。
セレスティア様なら分かる。
セレスティア様なら気づく。
セレスティア様なら間に合わせる。
その名が、王宮の中でどれほど便利に使われていたか、彼ら自身もよく分かっていなかった。
だが、その扉には封印紙が貼られている。
宰相府の印。
法務官の署名。
そして、特別監査権限に基づく資料保全の文言。
勝手に開ければ、責任問題になる。
会計副監ローレンは、手にした書類束を抱え直し、低く呟いた。
「まずいな」
隣の若い文官が青ざめる。
「ローレン様、北方三州への送金処理は」
「止まる」
「止まる、とは」
「そのままの意味だ。承認照合が済まなければ、王宮会計室は金を動かせない」
「王太子殿下の承認では?」
「王太子府予算なら可能だ。だが今回は王妃基金からの臨時救済費だ。亡き王妃陛下の規程で、二重確認が必要になる」
「では、リリアナ様の承認は」
「できるわけがない」
ローレンは言い切った。
その声に、周囲の文官たちが気まずそうに沈黙する。
彼はセレスティアに好意的な男というわけではなかった。むしろ、王宮会計室の人間らしく、誰に対しても数字でしか話さない堅物である。
その彼が、はっきりと「できない」と言った。
つまり、それは感情ではなく事実だった。
廊下の向こうから、軽い足音が近づいてくる。
現れたのは、淡い空色の朝用ドレスを着たリリアナだった。昨夜の涙の跡などどこにもなく、髪は綺麗に結い直され、胸元には小さな真珠の飾りが揺れている。
彼女の後ろには、侍女が二人。さらに少し遅れて、王太子付きの侍従もついてきた。
「皆様、おはようございます」
リリアナは、花が咲くように微笑んだ。
文官たちは慌てて礼をする。
「リリアナ様」
「本日から、私がこちらのお仕事を学ばせていただきます。至らないところもあるかと思いますけれど、どうぞよろしくお願いいたしますね」
その言い方は柔らかく、愛らしかった。
文官たちの中には、少し表情を和らげた者もいる。
リリアナは人に好かれる振る舞いを知っている。
それは才能だった。
だが、会計副監ローレンだけは表情を変えなかった。
「リリアナ様。まず、こちらの封印紙をご確認ください」
「封印紙?」
リリアナは扉を見る。
宰相府の印が押された封印紙に、困ったように首を傾げた。
「これは、どういうことですの?」
「昨夜、宰相府が資料保全のため執務室を一時封鎖しました。法務官立ち会いなしに入室はできません」
「でも、ここは今日から私が使うと殿下が」
「王太子殿下の口頭命令より、宰相府の正式封印が優先されます」
リリアナは瞬きをした。
その意味がすぐには飲み込めないようだった。
「では、書類はどこで見ればよろしいの?」
「現時点では、閲覧可能な資料と封印対象の資料を分類する必要があります。昨夜、セレスティア様が一部分類をなさいましたが、未完了です」
「お姉様が……」
リリアナの顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。
「では、お姉様に聞けば早いのではありませんか?」
ローレンは何とも言えない顔をした。
「セレスティア様は、昨夜正式に王太子妃候補としての業務から離れられました」
「でも、お姉様は私に資料の場所を教えてくださると」
「資料の所在を伝えることと、承認業務を代行することは別です」
リリアナは困惑したように眉を下げる。
その顔だけ見れば、意地悪をされている令嬢のようだった。
だが、文官たちは笑えなかった。
彼らの手元には、今日処理しなければならない書類がある。
同情では金は動かない。
涙では承認印は押せない。
「とにかく、今朝一番に処理すべきものは何ですか?」
リリアナが気を取り直したように言った。
「私、できるところから頑張ります」
その言葉に、若い文官が一歩前へ出た。
「では、こちらを」
彼が差し出したのは、厚い革表紙の書類束だった。
リリアナは両手で受け取り、思ったより重かったのか、少し腕を下げた。
「これは?」
「北方三州への臨時救済費の最終承認書類です。昨月の凍霜被害により、麦の収穫見込みが大幅に下方修正されました。第一次支援として穀物購入補助、孤児院および施療院への燃料費、領内輸送路の補修費が含まれています」
「ええと……」
リリアナは表紙を開いた。
最初の頁には、数字が並んでいた。
州名。
人口。
被害農村数。
備蓄量。
必要支援額。
支給予定日。
前年度比較。
領主側負担割合。
王妃基金からの臨時補填額。
リリアナの笑顔が、少しずつ薄くなる。
「これは、どこに署名すればよろしいの?」
文官たちは一斉に黙った。
ローレンが眼鏡を押し上げる。
「署名の前に、照合が必要です」
「照合?」
「添付資料六点の確認です。領主側申請書、現地被害報告、会計室試算表、王妃基金残高証明、過去支援履歴、輸送費見積書。それに加え、今年は凍霜被害が広範囲に及んでいるため、支援優先順位の妥当性も確認しなければなりません」
リリアナは頁をめくる。
紙の擦れる音だけが廊下に響いた。
「……この数字は、何を見れば正しいと分かるのですか?」
ローレンは淡々と答える。
「そこを確認するのが承認者の役目です」
リリアナの頬が赤くなった。
「私、まだ引き継いだばかりですわ」
「承知しております。ですから、現時点でリリアナ様が承認するのは危険です」
言葉は丁寧だった。
だが内容は容赦がなかった。
「では、殿下に確認していただきます」
「王太子殿下は、王妃基金の監査権限をお持ちではありません」
「でも、殿下は王太子です」
「王太子であっても、基金規程は越えられません」
リリアナは何度か口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
そこへ、王太子付きの侍従が助け舟を出すように言う。
「セレスティア様の旧印があれば、処理できるのではありませんか」
ローレンの目が鋭くなった。
「誰がそのようなことを?」
「いえ、以前はセレスティア様の承認印で処理されていたと聞きましたので」
「本人不在で旧印を使うつもりなら、公文書偽造です」
侍従は顔を青くした。
「そ、そのつもりでは」
「今の発言は聞かなかったことにしておきます。ただし、二度目はありません」
リリアナは不安そうに侍従とローレンを見比べた。
昨日までなら、この場にはセレスティアがいた。
誰かが不用意なことを言う前に、言葉を選び直してくれた。
手続きが違えば、静かに正しい道筋を示してくれた。
文官同士が衝突しそうになれば、先に理由を整理してくれた。
今、その人はいない。
リリアナは初めて、姉の不在が空白ではなく、穴なのだと感じた。
「では……どうすれば」
声が小さくなる。
ローレンは書類を持ち直した。
「現実的な方法は二つです」
「二つ?」
「ひとつは、宰相府を通じてセレスティア様へ正式に照合業務を依頼すること。もうひとつは、送金を延期することです」
「延期したら、どうなりますの?」
「北方三州の一部地域では、今週中に燃料と穀物購入補助が届く前提で動いています。延期すれば現地領主から抗議が来ますし、施療院の燃料確保にも影響が出るでしょう」
リリアナは唇を噛んだ。
「そんな大事なことを、どうしてお姉様は私にきちんと説明してくださらなかったの……」
文官の一人が、思わず顔を上げた。
ローレンが視線で制したため、彼は何も言わなかった。
だが、誰もが同じことを思っていた。
昨夜、説明しようとしたのではないか。
それを聞かなかったのは、誰だったのか。
その頃、セレスティアは宰相府の客間で目を覚ましていた。
眠れたのか、眠れなかったのか、自分でもよく分からない。
窓の外は明るかった。薄い朝霧が庭に残り、遠くの塔の鐘が六つ鳴る。
寝台の横の小机には、昨夜置いた鍵束と青い栞がそのままあった。
セレスティアは起き上がり、まず鍵束を確認した。
三本。
すべてある。
そのことに、胸の奥で小さく安堵する。
身支度を整えていると、控えめなノックがあった。
「どうぞ」
入ってきたのは、宰相府付きの年配の女官だった。
「おはようございます、セレスティア様。お茶と軽い朝食をお持ちいたしました」
「ありがとうございます」
盆の上には、温かい茶、柔らかな白パン、卵、果物が並んでいた。豪華ではないが、胃に負担の少なそうなものばかりだった。
女官は手際よく支度を整えたあと、ふとセレスティアの顔を見た。
「昨夜は、あまりお休みになれませんでしたか」
「顔に出ていますか」
「少しだけ」
女官は困ったように微笑んだ。
「宰相閣下より、朝食を抜かせないようにと申しつかっております」
「……宰相閣下が?」
「はい。温かいものを必ず、と」
セレスティアは返答に迷った。
そういう気遣いに慣れていない。
王宮にいた頃は、食事を忘れても誰も止めなかった。むしろ「セレスティア様は集中なさる方だから」と笑われるだけだった。
倒れない程度に自分で調整する。
それが当然だった。
彼女は茶器を手に取る。
温かさが指先に広がった。
「いただきます」
女官は満足そうに礼をして下がった。
セレスティアはひと口、茶を飲む。
香りは強すぎず、喉に優しい。
その瞬間、昨夜から張りつめていた体が、ほんのわずかに緩んだ。
だが、すぐに机の上の封書が目に入った。
昨夜、王太子妃候補執務室の引き出しから見つかった、エルフォード公爵家の封蝋が押された宛名のない封書。
あれは、まだ開封していない。
開けるべきだ。
けれど、カインには明日だと言われた。
もう朝である。
ならば開けてもよいのではないか。
セレスティアが封書へ手を伸ばしかけたとき、再びノックが響いた。
「入る」
短い声の後、カインが姿を見せた。
黒い執務服に身を包み、昨夜と同じように無駄のない立ち姿だった。眠った形跡があるのかどうか、まるで分からない。
「おはようございます、宰相閣下」
「ああ」
カインは机の上を見た。
茶。
パン。
封書に伸びかけたセレスティアの手。
「食事が先だ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
セレスティアは思わず封書から手を離した。
「そんなに分かりやすいでしょうか」
「書類を見つけた時の君は分かりやすい」
「……そうですか」
自分では、表情に出していないつもりだった。
カインは椅子に座らず、窓際に立ったまま言う。
「封書は法務官立ち会いで開ける。公爵家の封蝋がある以上、証拠物として扱うべきだ」
「承知いたしました」
「それから、君の私物保全については今朝、エルフォード公爵邸へ通達を出した」
「ありがとうございます」
「反発はあるだろうが、宰相府の立ち会いなしに部屋を動かせば問題になる。少なくとも時間は稼げる」
時間。
セレスティアはその言葉を胸の内で繰り返した。
たった一晩で、家に残した自分の物が心配になる。
これまで自分の居場所だと思っていた場所なのに。
「私の部屋に、王宮関連文書は多くありません。ただ、古い草案や控えが少し残っています」
「それだけではないだろう」
カインの言葉に、セレスティアは視線を上げる。
「王妃陛下から受け取った私信や、君個人の記録もあるはずだ。公文書でなくとも、今の公爵家に触らせるべきではない」
「私個人の記録まで、気にしてくださるのですか」
「当然だ」
また当然と言われた。
セレスティアは、なぜか胸が詰まりそうになった。
当然。
その言葉は、彼にとって本当に当然なのだろう。
だが、彼女にとってはそうではない。
セレスティア個人のものは、いつも後回しだった。
彼女は茶を飲み直し、気持ちを整える。
「宰相閣下。本日の予定は」
「午前七時に法務官と監査官を交えて、亡き王妃の遺言執行内容の確認。八時に王妃基金の現状確認。九時に君の権限範囲を文書化する」
「北方三州の救済費は」
カインの眉がわずかに動いた。
「やはり気にしていたか」
「期限は本日午前中です。現地では支援が届く前提で動いているはずです」
「君が責任を負う案件ではない」
「それでも、困るのは王太子殿下でもリリアナでもなく、現地の民です」
言ってから、セレスティアは口を閉ざした。
これでは、また同じだ。
誰かが困るから、私がやる。
誰かに迷惑がかかるから、私が我慢する。
そうして十年、ずるずると働き続けてきた。
カインは彼女を責めなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「君のそういうところを、王宮は利用してきた」
セレスティアは否定できなかった。
「分かっております」
「ならば、自分を犠牲にする形ではなく、権限を使え」
「権限を」
「そうだ。正式に依頼が来たなら、条件を定めて受ければいい。責任範囲、報酬、記録、決裁権限。すべて文書に残す」
セレスティアは、手元の茶器を見下ろした。
仕事をすること自体が悪いのではない。
無償で、曖昧に、誰かの都合で使われることが問題だった。
その線引きが、彼女にはまだうまくできない。
「私に、できるでしょうか」
「できる。君は今まで、それを他人のためにしてきた」
カインは淡々と言った。
「今度は自分のためにすればいい」
その言葉が、朝の光のように静かに胸へ入ってきた。
甘い言葉ではない。
けれど、妙に温かかった。
セレスティアが何か答えようとしたとき、扉の向こうで足音がした。
法務官が慌てた様子で入ってくる。
「宰相閣下。王宮会計室より急報です」
カインは表情を変えない。
「内容は」
「北方三州への臨時救済費、承認照合が完了せず、送金処理が保留となりました。現地領主三名より、既に確認の使者が来ております」
セレスティアは椅子から立ち上がった。
予想していた。
けれど、実際に聞くと胸が重くなる。
「現地領主は何と」
法務官はセレスティアを見て、少し迷ったあと答えた。
「『例年通りセレスティア様の確認で進むものと思っていた。なぜ急に止まったのか』と」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
セレスティアは、指先を握りしめる。
例年通り。
そうだ。
地方領主たちはセレスティアの名で制度を覚えていた。
彼女が必ず確認し、足りない資料があれば前日までに差し戻し、期限までに整えることを知っていた。
それは信頼だった。
だが同時に、負担でもあった。
カインが法務官に言う。
「王宮会計室へ通達。現時点でセレスティア嬢に非公式な確認を求めることを禁じる。業務依頼が必要なら、宰相府宛てに正式文書を出させろ」
「承知いたしました」
「王太子府にも同じ文書を」
「はい」
法務官が下がろうとしたところで、セレスティアが声をかけた。
「お待ちください」
カインが彼女を見る。
セレスティアは一度息を整えた。
「北方三州の救済費について、送金そのものは止めたままで構いません。ただし、現地へ送る説明文の草案を作らせてください」
「セレスティア嬢」
「承認業務ではありません。混乱を抑えるための説明です。正式な依頼ではないのであれば、宰相府名義の通達としてお使いいただける範囲で構いません」
カインは黙って彼女を見た。
「自分を犠牲にしない形で、というお話でしたので」
セレスティアはまっすぐに言った。
「私が今できるのは、勝手に承認することではなく、混乱を最小限にする文面を提案することです」
カインの表情はほとんど変わらなかった。
だが、その目にわずかな満足が浮かんだように見えた。
「十分だ」
セレスティアは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「ただし、朝食を食べてからだ」
「……承知いたしました」
法務官がなぜか少し笑いそうになり、慌てて咳払いをした。
王太子府では、ジュリアスが不機嫌を隠そうともしていなかった。
執務机の上には、昨夜から届いた書類が積まれている。普段なら、彼の机に乗る前にセレスティアが必要なものだけを整理していた。
だが今日は違う。
何が重要で、何が後回しにできるのか、見ただけでは分からない。
「なぜ救済費が止まる」
ジュリアスは苛立った声で言った。
リリアナは隣の椅子に座り、膝の上で指を組んでいる。先ほどまでの明るさは消え、顔色は悪い。
「会計室の方が、私では承認できないと……」
「君を侮っているのだ」
「でも、規程があると」
「規程、規程と。王宮の者は融通が利かない」
ジュリアスは書類を一枚取り上げた。
数字と地名が並ぶ頁を見て、すぐに机へ戻す。
「セレスティアは、こういうものを私に見せる前に整理していたのか」
その言葉に、リリアナが顔を上げた。
「たぶん……そうなのだと思います」
「ならば、同じように整理させればよい」
「お姉様は、正式な手続きを取ってくださいとおっしゃいました」
ジュリアスの表情が歪む。
「あの女は、本気で私に依頼書を書かせるつもりか」
リリアナは黙った。
昨日なら、「お姉様は怒っているだけですわ」と言えた。
だが、今朝の文官たちの様子を見た後では、そう簡単には言えなかった。
姉は怒っているのかもしれない。
けれど、それだけではない。
あの人が手を離した瞬間、本当に物事が止まり始めている。
「リリアナ」
ジュリアスが少し声を和らげた。
「不安になる必要はない。最初だから戸惑っているだけだ。君は人に愛される。王妃に必要なのは、そういう資質だ」
「はい……」
リリアナは頷いた。
しかし、胸の奥には先ほどの数字が残っていた。
人に愛されること。
笑顔でいること。
綺麗なドレスを着ること。
涙を見せれば、誰かが庇ってくれること。
それで、すべて足りると思っていた。
姉の仕事は、そういうものの周りにある細かい雑務なのだと思っていた。
けれど、あの書類の重さは違った。
紙束を持った腕が、まだ少し重い。
そこへ侍従が入室した。
「殿下。宰相府より文書が届きました」
「もうか」
ジュリアスはひったくるように文書を受け取る。
封を切り、読み進めるうちに、顔色が変わった。
「……正式な業務依頼書を提出せよ、だと?」
リリアナが不安そうに見る。
「何と書かれておりますの?」
「セレスティアへ北方三州救済費の照合を依頼する場合、業務内容、期限、責任範囲、報酬を明記した文書を宰相府へ出せと」
「報酬……」
ジュリアスは文書を机に叩きつけた。
「馬鹿馬鹿しい! 婚約者だった女に、なぜ報酬を払わなければならない」
その言葉を聞いた侍従が、わずかに目を伏せた。
リリアナもすぐには言葉を返せなかった。
婚約者だった。
だが、もう違う。
それを決めたのは、ジュリアス自身である。
しかし、その事実を口にできる者はこの部屋にはいなかった。
宰相府の小会議室で、セレスティアは久しぶりに自分のためではなく、しかし自分を削らない形で羽根ペンを持った。
目の前には白い紙。
隣には法務官。
正面にはカイン。
彼女は北方三州の領主宛て説明文の草案を書き始めた。
文章は簡潔に。
不安を煽らず。
責任の所在を曖昧にせず。
支援意思が失われたわけではないことを明記し、承認照合の一時停止であると伝える。
現地に求める追加行動は最小限にする。
施療院と孤児院向け燃料費については、別枠の緊急措置を検討中と添える。
筆は自然に進んだ。
書きながら、セレスティアはようやく理解し始めていた。
自分は、仕事が嫌いだったわけではない。
人の役に立つことも、制度を整えることも、数字のずれを見つけることも、必要な言葉を選ぶことも、本当は嫌いではなかった。
嫌だったのは、それが当然のように奪われることだった。
誰かの成果にされること。
感謝も記録もなく、失敗だけを押しつけられること。
そして、自分には断る権利がないと思わされること。
ペン先が止まる。
カインが気づいた。
「疲れたか」
「いいえ」
「嘘なら休ませる」
「嘘ではありません。ただ……少し、分かった気がしました」
「何が」
セレスティアは紙の上の文字を見つめた。
「私は、仕事を嫌いになりたかったわけではないのだと思います」
声に出してから、少し驚いた。
こんなことを誰かに話す日が来るとは思っていなかった。
「嫌いになれば楽だったのかもしれません。けれど、そうではなかった。だから余計に、苦しかったのだと」
カインは静かに聞いていた。
否定も肯定も急がない。
それがセレスティアにはありがたかった。
「仕事が好きなら、利用されても仕方ない。得意なら、押しつけられても当然。そう思おうとしていました」
「違うな」
「はい。違いました」
セレスティアは、再びペンを動かした。
「好きなことだからこそ、奪われてはいけなかったのです」
書き終えた草案を、彼女はカインへ差し出した。
カインはそれを読み、短く頷く。
「このまま使える」
「修正は」
「必要なら法務官が形式を整える。内容は十分だ」
セレスティアは、ほんの少し肩の力を抜いた。
そのとき、扉の外が慌ただしくなった。
法務官が顔を出す。
「宰相閣下。王太子府より返答がありました」
「早いな。依頼書か」
「いえ」
法務官の顔は困っていた。
「王太子殿下より、セレスティア様に即刻出頭を命じる、とのことです。理由は、王宮業務の妨害および北方三州救済費遅延の責任説明を求めるため、と」
室内の空気が止まった。
セレスティアは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
救済費が遅れた責任。
それを、自分に。
婚約破棄され、業務から離れ、正式な権限を守ろうとしている自分に。
カインが文書を受け取った。
読み終えるまで、彼の表情は変わらなかった。
だが、紙を置いたときの音は、少しだけ硬かった。
「命令形か」
低い声だった。
「昨夜、言ったはずだがな」
セレスティアは小さく息を吸う。
胸が痛む。
けれど、昨夜のように揺らぎきることはなかった。
彼らは、まだ分かっていない。
セレスティアが去ったという意味を。
婚約破棄とは、彼女を自由に使う権利を自分たちで捨てたということを。
カインは法務官に向き直った。
「返書を用意する」
「どのように」
「王太子殿下には、正式な業務依頼書の書式を再送しろ。出頭命令は無効。加えて、責任説明を求めるなら、まず王太子府が昨夜の婚約破棄以降、どの権限に基づいてリリアナ嬢へ業務を引き継がせたのかを明記させる」
法務官が目を見開いた。
「かなり強い返答になりますが」
「当然だ」
カインはセレスティアを見る。
「君はどうする」
セレスティアは、膝の上で手を重ねた。
以前なら、すぐに立ち上がっていただろう。
殿下が呼んでいる。
王宮が困っている。
私が説明しなければ。
けれど、今は違う。
彼女は静かに答えた。
「出頭いたしません」
その声は、思ったよりもはっきりしていた。
「ただし、北方三州への説明文については、宰相府名義で早急に送ってください。現地の混乱は抑えるべきです」
カインの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
そうでないのかもしれない。
「承知した」
その短い言葉だけで、セレスティアは十分だった。
同じ頃、王宮会計室には北方三州の使者が詰めかけていた。
「例年なら、セレスティア様の確認印が朝一番で届くはずです」
「現地では今日の送金を前提に、穀物商と契約を進めております」
「王太子府からは何の説明もありません」
会計副監ローレンは、彼らを前に淡々と説明を繰り返していた。
「現在、承認照合が停止しております。宰相府から正式な説明が届き次第、各位へ写しを配布します」
「セレスティア様はどうされたのですか」
その問いに、会計室の空気がわずかに揺れた。
ローレンは一拍置いて答える。
「昨夜、王太子妃候補の立場を離れられました」
使者たちが顔を見合わせる。
「では、今後は誰が確認を?」
「現時点では未定です」
「未定?」
その言葉が、会計室の中に重く落ちた。
王宮は巨大だ。
王族がいて、大臣がいて、文官がいて、騎士がいて、数え切れないほどの使用人がいる。
その巨大な場所で、たった一人の令嬢がいなくなっただけ。
そのはずだった。
だが、最初の朝に止まったのは、ただの書類一枚ではなかった。
救済費。
返書。
承認。
説明。
責任。
これまで誰かが静かに繋いでいた糸が、次々と見える形で切れ始めていた。
ローレンは机の上に積まれた書類を見下ろした。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「三日どころではないな」
彼は窓の向こう、宰相府の方角を見た。
「一日目の朝で、これか」




