第2話 妹は「お姉様の仕事くらい簡単」と笑いました
宰相府へ向かう途中、セレスティアは一度だけ足を止めた。
大広間から遠ざかっても、舞踏会の音はまだかすかに聞こえていた。弦楽器の音。貴婦人たちの笑い声。靴音。扇を閉じる乾いた音。
あの場所では今ごろ、何事もなかったように舞踏会が再開されているのだろう。
王太子ジュリアスは、妹リリアナの手を取って踊るのかもしれない。
父は周囲の貴族に「多少の行き違いがありまして」とでも説明しているだろう。
母は困ったように微笑み、妹は涙を拭きながら、けれど幸福そうに王太子の隣に立っているに違いない。
そう思ったとき、胸に痛みが走った。
鋭い痛みではなかった。
むしろ、冷たい水がじわじわと染み込んでくるような痛みだった。
「どうした」
隣を歩いていたカインが足を止める。
セレスティアはすぐに顔を上げた。
「申し訳ございません。少し考え事を」
「謝る必要はない」
カインはそう言ったが、余計な慰めは続けなかった。
それがありがたかった。
今、優しくされたら、何かが崩れてしまいそうだった。
王宮の回廊は静かだった。壁に並ぶ燭台の炎が、石造りの床に細長い影を落としている。舞踏会の華やかさとは違い、ここには王宮の裏側にある冷たさがあった。
セレスティアにとっては、むしろこちらのほうが馴染み深い。
華やかな広間よりも、書類の積まれた執務室。
拍手よりも、封蝋を割る音。
賛美よりも、帳簿の数字。
彼女の十年は、そういう場所にあった。
「宰相閣下」
「何だ」
「王妃基金関連の鍵は、まだ私の手元にございます」
「三本か」
「はい。帳簿保管庫、王妃基金金庫、会計監査室の奥書庫です」
カインは短く頷いた。
「それは君が持っていろ」
「ですが、今後は宰相府へ預けるべきでは」
「預ける必要はない。亡き王妃の遺言により、それらは君に託された。宰相府が保護するのは、君の権限であって、君から権限を取り上げることではない」
セレスティアは一瞬、言葉に詰まった。
保護する。
取り上げない。
似ているようで、まるで違う。
彼女はこれまで、守るという名目で多くのものを取り上げられてきた。
王太子妃候補だから、友人は選びなさい。
公爵家の長女だから、感情を表に出してはいけない。
国のためだから、私事は後回しにしなさい。
妹はまだ幼いのだから、あなたが譲りなさい。
そうして気づけば、手元に残っているものは少なかった。
けれどカインは、彼女の手から鍵を奪わなかった。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「いいえ。言わせてください」
カインはわずかに目を伏せた。
その表情に何かを読み取る前に、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
「宰相閣下!」
若い法務官が駆けてくる。額に汗が浮かんでいた。
「エルフォード公爵閣下より、セレスティア様を控室へ戻すよう要請がありました。ご家族で話し合いたいとのことです」
セレスティアの指が、無意識に鍵束を握った。
カインが法務官から書面を受け取る。
「要請か。命令ではないな」
「はい。ですが、公爵閣下はかなり強い調子で……」
「強い調子に法的効力はない」
淡々とした一言に、法務官は一瞬だけ目を丸くした。
カインは書面をセレスティアに差し出す。
「どうする」
「私が決めてよろしいのですか」
「君のことだ」
当然のように言われて、セレスティアはまた返答に困った。
自分のことを自分で決める。
そんな当たり前のことが、ひどく難しく感じる。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
父と母と妹。
そして王太子。
彼らはきっと、今のままでは終わらせない。
このまま宰相府に保護されれば、後から「セレスティアが勝手に逃げた」「家族の話し合いを拒んだ」と言われるだろう。
ならば、聞くべきことは聞いておく。
「参ります」
カインは少しも驚かなかった。
「分かった。私も同席する」
「ご迷惑では」
「迷惑かどうかは私が決める」
短い言葉だったが、不思議と心強かった。
セレスティアは頷き、来た道を戻った。
王宮の控室は、大広間から少し離れた場所にあった。王族や高位貴族が休むための部屋で、壁には淡い金色の織物が張られ、重厚な家具が置かれている。暖炉には火が入り、銀の盆には湯気の立つ茶器が並んでいた。
その暖かさとは裏腹に、室内の空気は冷えていた。
父グレアム公爵は、暖炉の前に立っていた。
母エヴァンジェリンは長椅子に腰掛け、扇を膝の上で握っている。
リリアナは王太子ジュリアスの隣に座り、目元を赤くしていた。
まるで、泣かされた側であるかのように。
セレスティアが入室すると、父が鋭く振り向いた。
「遅い」
最初の言葉が、それだった。
セレスティアは静かに礼をする。
「お待たせいたしました」
「誰に断って宰相府へ向かおうとした」
父の声は低く、怒気を含んでいた。
幼い頃から、セレスティアはこの声が苦手だった。
この声を聞くと、反射的に背筋が伸びる。謝罪の言葉が喉まで上がってくる。
けれど、今夜は違った。
背後にカインがいる。
そして彼女の手には、三本の鍵がある。
「亡き王妃陛下の遺言執行に関わるため、宰相府の保護下に入るよう指示を受けました」
「言い訳をするな。お前はエルフォード公爵家の娘だ」
「はい。ですが、王妃基金監査権限は私個人に託されたものです」
父の眉が跳ねた。
「その口の利き方は何だ」
母が困ったように口を挟む。
「セレスティア、今は落ち着きましょう。お父様も心配しているのよ」
心配。
その言葉を聞いて、セレスティアは母を見た。
母は本当に困っている顔をしていた。けれどそれは、娘を案じる顔ではない。場が荒れること、家名に傷がつくこと、妹の幸せに影が差すことを恐れる顔だった。
「心配、ですか」
「そうよ。あなたは昔から思い詰めるところがあるでしょう。今夜のことは確かに突然だったけれど、何も家族を困らせるような真似をしなくても」
家族を困らせる。
婚約を破棄された直後に言われる言葉がそれなのだと知り、セレスティアは逆に冷静になった。
父が重ねる。
「リリアナと殿下のことは、すでに決まった。お前も公爵家の娘なら、家のために受け入れろ」
「お父様は、ご存じだったのですね」
室内が静かになった。
父は一瞬だけ目を逸らした。
「何の話だ」
「今夜、殿下が私との婚約を破棄し、リリアナをお選びになることです」
「……事前に相談は受けていた」
「いつからですか」
父は答えなかった。
母が小さく息を呑む。
リリアナが王太子の袖を握る。
ジュリアスが不快そうに口を開いた。
「セレスティア。今さら時期を問うても意味はない」
「殿下にはお尋ねしておりません」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
ジュリアスの顔が強張る。
「君は、私にそのような態度を取るのか」
「婚約は破棄されましたので」
控室の空気が、さらに冷えた。
カインが黙っていることが、かえって全員に圧をかけていた。
父は苛立ちを隠さずに言った。
「お前は昔からそうだ。正論ばかり並べる。だから殿下のお心が離れたのだ」
セレスティアはゆっくりと父を見る。
「私の働きは、王太子殿下のお心を繋ぐためのものだったのでしょうか」
「屁理屈を言うな」
「王太子妃教育も、王妃基金の補助も、外交文書の草案も、地方救済費の確認も、すべて殿下のお心を繋ぐためのものだったのでしょうか」
父は答えなかった。
母が眉を寄せる。
「セレスティア。そんな言い方をしなくてもいいでしょう。あなたは強い子なのだから」
まただ。
セレスティアは思った。
あなたは強い。
だから譲りなさい。
だから我慢しなさい。
だから泣くな。
だから傷つくな。
その言葉は褒め言葉ではなかった。
都合のいい檻だった。
「お母様」
セレスティアは静かに言った。
「私は、強いから傷つかないわけではありません」
母の唇が震えた。
それ以上言わせまいとするように、リリアナが立ち上がった。
「お姉様、お願いです。私たち、喧嘩がしたいわけではないの」
その瞳には涙が溜まっている。
「私、お姉様を追い出したいわけではないのです。お姉様には、これからも私を助けてほしいの」
セレスティアは妹を見る。
リリアナは本気でそう言っているようだった。
姉から婚約者を奪った。
王太子妃の座を奪った。
けれど、姉には自分を助けてほしい。
その矛盾に、彼女は気づいていない。
「助ける、とは」
「王太子妃のお仕事を、少し教えてくださればいいの。私、頑張りますわ。お姉様ができたのですもの。私にもできます」
リリアナは、小さく笑った。
その笑顔は、無邪気だった。
だからこそ、残酷だった。
「だって、お姉様は昔からお勉強が得意でしたでしょう? 私は社交が得意ですもの。二人で力を合わせれば、きっと殿下のお役に立てます」
セレスティアは黙った。
力を合わせる。
妹は、本当にそう思っている。
自分が王太子の隣に立ち、姉が後ろで支える。
それが自然だと信じている。
王太子ジュリアスも頷いた。
「私も同じ考えだ。セレスティア、君の実務能力は認めている。リリアナにはまだ経験がない。しばらくは君が補佐すればいい」
「補佐」
「ああ。君は表に立つより、裏方の方が向いている。これは侮辱ではない。適材適所だ」
適材適所。
セレスティアはその言葉を、舌の上で転がすように聞いた。
十年、婚約者として使い続けた相手を捨てたあと、裏方として残れと言う。
それを適材適所と呼ぶ。
怒りは、不思議と湧かなかった。
ただ、目の前にある帳簿の間違いを見つけたときのように、はっきりと分かった。
この人たちは、私を人として見ていない。
「リリアナ」
セレスティアは妹の名を呼んだ。
「はい、お姉様」
「あなたが引き継ぐと言うのなら、まず確認します」
「確認?」
「明日の午前中までに、北方三州へ送る地方救済費の承認手続きがあります。必要な添付書類は六種類。そのうち二種類は現地領主の署名入り、ひとつは王宮会計室の照合印が必要です。あなたは今夜中に、それらの所在を確認できますか」
リリアナの表情が固まった。
「え……」
「明後日には隣国大使への返書期限があります。前回の会談で大使が不快感を示した語句を避ける必要がありますが、その記録は読んでいますか」
「そ、それは、まだ」
「孤児院支援金の監査報告も止められません。春の支給先は十七件。そのうち三件は修繕費の水増し疑惑があります。現地確認を誰に依頼するか、候補者は把握していますか」
「お姉様、急にそんなことを言われても」
「急ではないわ。あなたは、私の仕事を引き継ぐのでしょう」
リリアナは目に涙を浮かべた。
「どうして意地悪を言うの?」
セレスティアは、ほんの少しだけ息を止めた。
意地悪。
仕事の内容を確認しただけで、妹にはそう聞こえるのだ。
ジュリアスがリリアナを庇うように前へ出た。
「セレスティア、やめないか。リリアナを責めるな」
「責めてはおりません。引き継ぎに必要な確認です」
「その言い方が冷たいと言っているのだ」
「では、どのように申し上げればよろしいでしょうか」
ジュリアスは口を閉ざした。
カインがそこで初めて言葉を挟んだ。
「実務を引き継ぐ者に、実務内容を確認するのは当然です。むしろ今の質問は、かなり基礎的な部類でしょう」
リリアナの顔が青ざめる。
父が不快そうにカインを見た。
「宰相閣下。娘はまだ若い。これから学べばよろしい」
「学ぶ意欲があるなら結構です。では、王妃基金規程の初版から現行版までを読ませてください。厚さはこの程度です」
カインは手で幅を示した。
リリアナの視線がその手元で止まる。
明らかに、自分が思っていたより厚い。
「加えて、過去五年分の月次収支。地方救済費の例外処理記録。隣国別禁句一覧。孤児院支援先の監査結果。王宮席次慣例表。王太子殿下の演説草案保管簿。最低限、そのあたりは明朝までに目を通す必要があります」
「明朝まで……?」
リリアナの声がかすれた。
セレスティアは妹に少し同情した。
リリアナは、おそらく本当に知らなかったのだ。
姉が毎晩遅くまで何を読んでいたのか。
茶会の前に、なぜ何十枚もの人物表を確認していたのか。
王太子の演説原稿に、なぜ赤字がいくつも入っていたのか。
知らなかった。
けれど、知らないまま奪った。
「でも……」
リリアナは唇を震わせた。
「お姉様は、いつも平気そうでしたわ」
その言葉は、ひどく小さかった。
「だから、そんなに大変だなんて思わなくて……」
セレスティアは答えなかった。
平気そうに見せていたのは、平気だったからではない。
平気そうにしていなければ、叱られたからだ。
疲れたと言えば、王太子妃候補なのだから当然だと言われた。
眠いと言えば、公爵家の娘が情けないと言われた。
助けてほしいと言えば、妹はもっと大変なのだからと言われた。
だから、平気そうにするしかなかった。
「リリアナ」
セレスティアは静かに言った。
「あなたが本当に引き継ぐというのなら、資料の所在だけは伝えます」
リリアナの顔に希望が戻る。
「本当ですか?」
「ただし、王妃基金関連の鍵三本は渡せません」
希望が、すぐに消えた。
「どうしてですか」
「亡き王妃陛下の遺言により、私個人に託された権限だからです」
ジュリアスが苛立ったように言う。
「またそれか。鍵くらい渡せばいいだろう」
「殿下」
カインの声が低く落ちた。
「遺言執行中の権限物を不当に引き渡すよう求める発言は、記録されます」
ジュリアスは舌打ちしそうな顔で黙った。
父が冷ややかに言う。
「セレスティア。家に戻って鍵を保管すればよい。お前一人で持っているより安全だ」
「いいえ。私は今夜、宰相府に保護を求めます」
「誰が許した」
「私が決めました」
その言葉を口にした瞬間、室内の空気が止まった。
父は、初めて本当に驚いた顔をした。
セレスティアが自分の意思を口にすることなど、想定していなかったのだろう。
「お前は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「はい」
「エルフォード公爵家に逆らうつもりか」
「逆らうのではありません。私個人に託された権限を、公爵家のものにしないだけです」
父の顔が赤くなる。
母が慌てて立ち上がった。
「セレスティア、お願いだから意固地にならないで。リリアナも悪気があったわけではないの。殿下のお心がリリアナに向いたのは、誰にも止められないことでしょう?」
「お母様は、いつからご存じでしたか」
母は口を閉ざした。
答えは、それだけで十分だった。
「そうですか」
セレスティアは小さく頷いた。
母が泣きそうな顔になる。
「そんな目で見ないで。私だって苦しかったのよ。あなたを傷つけたくはなかった。でもリリアナは昔から身体が弱くて、繊細で、誰かが守ってあげなければならない子で」
「私は、守られなくてもよい子だったのですね」
「そういう意味ではないわ」
「では、どういう意味でしょうか」
母は答えられなかった。
リリアナが泣き出した。
「お姉様、私のせいでお母様を責めないでください。私、そんなつもりじゃなかったの。ただ、殿下をお慕いしてしまっただけで……」
ジュリアスが彼女の肩を抱く。
「リリアナ、君が悪いのではない」
その光景を見て、セレスティアはなぜか少しだけ笑いそうになった。
自分は婚約を破棄された。
家族に裏切られた。
仕事だけは続けろと言われた。
鍵を渡せと迫られた。
それでも、この部屋で一番慰められているのは妹だった。
あまりにも見慣れた構図だった。
だから、もう十分だと思った。
「引き継ぎ資料の場所を申し上げます」
セレスティアは淡々と言った。
「王太子妃候補執務室の右側書棚、上から二段目に地方救済費の基礎資料。三段目に王妃基金の公開用収支。机の左側引き出しに明日の式典関係の旧原稿。席次表は赤い革表紙の帳面です」
リリアナが慌てて聞く。
「え、ええと、右側の……」
「書き留めなくてよろしいのですか」
「あ……」
リリアナは周囲を見回した。
誰も筆記具を持っていない。
セレスティアは自分の小さな帳面から一枚紙を破り、持っていた予備の鉛筆と共に差し出した。
リリアナはそれを受け取る。
「ありがとう、お姉様」
「どういたしまして」
その短いやり取りに、奇妙なほどの距離があった。
リリアナは紙を膝の上に置き、懸命に書こうとした。だが、何を書けばいいのか分からないのだろう。鉛筆の先が紙の上をさまようばかりだった。
セレスティアは、もう一度ゆっくり繰り返した。
「王太子妃候補執務室。右側書棚、上から二段目。地方救済費の基礎資料」
「右側……上から二段目……」
「ただし、北方三州の最新記録はそこにはありません。昨日、私が王宮会計室へ照合に出しています」
「それは、どこへ行けば」
「王宮会計室です」
「誰に聞けばいいの?」
「会計副監のローレン殿です。ただし、彼は正式な権限確認なしに資料を出しません」
「権限確認って……」
「リリアナ、君は王太子妃候補だ。私が命じれば出すだろう」
ジュリアスが言った。
セレスティアは首を横に振る。
「王太子殿下の命令では出ません。王妃基金関連の資料ですので」
ジュリアスの顔にまた苛立ちが浮かぶ。
「何もかも面倒な仕組みにしていたのだな」
「横領と私的流用を防ぐための仕組みです。亡き王妃陛下が整えられました」
王妃の名を出されると、ジュリアスは強く言い返せない。
母が疲れたように座り直した。
父は腕を組み、じっとセレスティアを睨んでいる。
「もういい」
グレアム公爵が低く言った。
「資料の場所は分かった。あとは屋敷で話す。今夜は戻れ」
「戻りません」
「セレスティア」
「私の部屋は、まだ私の部屋でしょうか」
父が眉をひそめる。
「何を言っている」
「婚約破棄が決まっていたのなら、私の今後についても何か決められていたのではありませんか」
父は黙った。
母の視線が揺れる。
リリアナが気まずそうに目を伏せた。
セレスティアは理解した。
本当に、決まっていたのだ。
「私の部屋は、どうなりますか」
誰も答えない。
やがて、リリアナが小さな声で言った。
「……お姉様のお部屋、日当たりが控えめでしょう。だから、その……私の衣装部屋にしたらどうかって、お母様が」
「リリアナ」
母が制止する。
だが、もう遅かった。
セレスティアは目を伏せた。
北側の部屋。
華やかではなかったが、あそこには彼女の十年があった。
王妃からもらった羽根ペン。
読み込んだ法典。
何度も書き直した演説草案。
孤児院の子どもたちから届いた拙い礼状。
疲れた夜に、ひとりで飲んだ薄い紅茶の染みが残る机。
その部屋は、妹の衣装部屋になる予定だった。
「そうですか」
思ったよりも、声は穏やかだった。
父が咎めるように言う。
「お前は当面、別邸に移ればよい。婚約破棄直後に屋敷へいるのは外聞が悪い」
「別邸」
「王都郊外の古い屋敷だ。使用人も最低限つける」
外聞が悪い。
やはり父は、そういう話をしている。
「つまり私は、婚約者を失い、王太子妃候補の立場を失い、自室も失い、なお妹の補佐として働くよう求められているのですね」
誰も何も言わなかった。
沈黙が、肯定になった。
セレスティアは小さく息を吐いた。
「分かりました」
リリアナの顔が明るくなる。
「お姉様、分かってくださったの?」
「はい。よく分かりました」
セレスティアは鍵束を握り直した。
「私は今夜、宰相府へ参ります。私物と王宮関連資料については、明日以降、正式な立ち会いのもとで確認させていただきます」
父が怒鳴った。
「勝手は許さん!」
その声に、部屋の空気が震えた。
だがセレスティアは、もう身を竦ませなかった。
カインが一歩前へ出る。
「公爵。先ほど申し上げた通り、セレスティア嬢は亡き王妃陛下の遺言執行対象者です。私物および関連資料の移動には、宰相府の立ち会いを入れます」
「これは家族の問題だ!」
「王妃基金の鍵を要求した時点で、家族の問題ではなくなりました」
父の口が閉じる。
カインの声は、氷のように静かだった。
「また、先ほどセレスティア嬢の部屋をリリアナ嬢の衣装部屋にする予定があると確認されました。そこに王宮関連文書が残っている可能性があります。保全が必要です」
リリアナが慌てる。
「わ、私は書類なんて触りません」
「触るつもりがあるかどうかではなく、保全環境の問題です」
リリアナは泣きそうな顔で俯いた。
ジュリアスが不満げに言う。
「叔父上は、セレスティアの肩を持ちすぎではありませんか」
カインは王太子を見た。
「私は法の肩を持っています」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、その一言でジュリアスは黙るしかなかった。
セレスティアは、深く礼をした。
「皆様、今夜は失礼いたします」
「お姉様」
リリアナが声を上げる。
「本当に、私を助けてくださらないの?」
セレスティアは振り向いた。
妹の瞳は、涙で濡れていた。
昔なら、ここで折れていたかもしれない。
リリアナは泣いている。
私は姉なのだから、助けなければ。
そう思って、自分の痛みを飲み込んでいたかもしれない。
けれど今夜は、違った。
「リリアナ」
「はい……」
「助けが必要なら、正式な手続きを取ってください」
リリアナが呆然とする。
「正式な……?」
「業務依頼書を宰相府へ。内容、期限、必要資料、報酬、責任範囲を明記してください」
「そんな、他人みたいな」
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「今夜、そうなったのです」
リリアナは言葉を失った。
セレスティアはそれ以上何も言わず、控室を出た。
扉が閉まる直前、父の低い怒声と、母のすすり泣くような声と、リリアナの「どうして」という声が混じって聞こえた。
廊下へ出ると、空気が少し冷たく感じた。
セレスティアはようやく、長く息を吐いた。
「よく持ちこたえたな」
隣でカインが言った。
褒め言葉なのか、事実確認なのか分からない声だった。
セレスティアは苦笑しかけて、うまく笑えなかった。
「持ちこたえたように、見えましたか」
「ああ」
「それなら、よかったです」
そこで足元が少し揺れた。
自分が思っていた以上に、体に力が入っていたらしい。
カインが素早く手を伸ばし、彼女の肘を支えた。
「セレスティア嬢」
「申し訳ございません」
「謝るなと言った」
「……はい」
カインの手は、すぐに離れた。
必要以上に触れない。
その距離の取り方が、妙に誠実だった。
「宰相閣下」
「何だ」
「私は、冷たいのでしょうか」
言ってから、後悔した。
こんなことを聞いてどうするのだろう。
王太子に言われた言葉が胸に残っていると、自分で認めるようなものではないか。
カインは少しだけ黙った。
そして答えた。
「冷たい人間は、北方三州の救済費を気にして倒れかけたりしない」
セレスティアは目を瞬かせた。
「……そういうものでしょうか」
「そういうものだ」
あまりにも断定的だったので、少しだけ息が楽になった。
宰相府へ向かう途中、法務官が再び駆け寄ってきた。
「宰相閣下、王太子妃候補執務室の封鎖手続きですが、王太子殿下側の侍従が先に入ろうとしております」
カインの表情が冷えた。
「誰の指示だ」
「おそらく王太子殿下かと。リリアナ様の引き継ぎ準備のため、と」
セレスティアは鍵束を見下ろした。
三本の鍵が、掌の中で冷たく鳴る。
あの部屋には、公開してよい資料もある。
だが、触れられてはいけない資料もある。
特に、未処理の救済費関連書類と外交草案は、順番を誤れば混乱を招く。
「私が行きます」
カインが即座に言う。
「休めと言ったはずだ」
「今だけです。あの部屋のどの棚に何があるか、すぐに判断できるのは私だけです」
「……十分だけだ」
「十五分いただけますか」
「十二分」
思わず、セレスティアは瞬きをした。
交渉になっている。
「承知いたしました」
カインは法務官に指示を飛ばし、セレスティアと共に王太子妃候補執務室へ向かった。
執務室の前では、王太子付きの侍従二人と、リリアナの侍女が困った顔で立っていた。
扉はまだ開いていない。
セレスティアは少しだけ安堵した。
「鍵を」
侍従が当然のように手を出す。
セレスティアはその手を見た。
「どなたのご指示ですか」
「王太子殿下です。リリアナ様が明朝からこちらをお使いになるので、室内を整えるようにと」
「室内を整える、とは」
「不要な書類を片付け、リリアナ様がお使いになりやすいように」
不要な書類。
セレスティアは、静かに侍従を見た。
「この部屋に、不要な書類は一枚もございません」
侍従はたじろいだ。
カインが横から言う。
「この部屋はこれより一時封鎖する。宰相府、法務官、セレスティア嬢立ち会いのもと、資料分類を行うまで誰も入室させるな」
「しかし、王太子殿下のご命令で」
「命令書はあるか」
「いえ、口頭で」
「では無効だ」
侍従は黙るしかなかった。
セレスティアは自分の鍵で扉を開けた。
部屋に入った瞬間、紙とインクの匂いがした。
いつもの匂いだった。
壁際の書棚。
窓辺の机。
読みかけの資料。
昨夜置いたままの青い栞。
小さな花瓶に差した白い花は、少しだけ萎れかけていた。
ここは、華やかな部屋ではない。
けれど、セレスティアが十年で最も長く過ごした場所だった。
彼女は机に近づき、左側の引き出しを開ける。
明日の式典原稿。
地方救済費の照合控え。
孤児院修繕費の一覧。
リリアナに教えると言った資料は、確かにここにある。
だがその奥に、封のされた薄い書類があった。
セレスティアは眉をひそめる。
自分が置いたものではない。
「どうした」
カインが問う。
「覚えのない封書があります」
封蝋は、エルフォード公爵家のものだった。
宛名はない。
セレスティアは封に触れたが、すぐには開けなかった。
カインが視線だけで法務官を呼ぶ。
「記録を」
法務官が頷き、発見場所を書き留める。
セレスティアは、封書を机の上に置いた。
今は開けるべきではない。
何か嫌な予感がした。
彼女は必要な資料を素早く分類していく。
「こちらは公開可能。こちらは宰相府確認後。これは王妃基金関連なので封印。こちらは王太子殿下の演説原稿ですが、過去の参考資料として保管を」
手を動かしていると、心が少し落ち着いた。
自分が何者か、思い出せる。
捨てられた婚約者ではない。
可愛げのない姉でもない。
冷たい女でもない。
書類を読み、矛盾を見つけ、必要な場所へ必要なものを渡す人間だ。
カインが静かに言った。
「十二分だ」
セレスティアは顔を上げた。
「もうですか」
「ああ」
少しだけ残念そうに言った自分に気づき、セレスティアは苦笑した。
カインはその表情を見て、ほんのわずかに眉を動かした。
「続きは明日だ」
「はい」
セレスティアは机の上の青い栞を手に取った。
それだけを、自分の小さな帳面に挟む。
部屋を出る前に、もう一度振り返った。
明日から、この部屋はリリアナのものになるのかもしれない。
けれど、ここにあった仕事は違う。
積み重ねてきたものは、誰かが机に座っただけでは奪えない。
セレスティアは扉を閉めた。
法務官が封印紙を貼る。
その紙に、宰相府の印が押された。
廊下の先で、侍従たちが不満げにしている。
リリアナの侍女は泣きそうな顔で立ち尽くしていた。
セレスティアは彼らに何も言わなかった。
ただ、鍵を自分の手の中に戻した。
小さな金属音がした。
それは、今夜初めて聞いた、自分のものを守る音だった。
宰相府に着いたのは、夜半近くだった。
案内された部屋は客間だったが、過度に豪華ではなかった。清潔な寝台と机、温かい茶、軽い食事が用意されている。
セレスティアは椅子に腰を下ろした途端、体から力が抜けるのを感じた。
カインは扉の前で立ち止まる。
「今夜は書類を読むな」
「封書だけでも確認を」
「明日だ」
「ですが」
「明日だ」
二度目は、少しだけ強かった。
セレスティアは諦めて頷く。
「承知いたしました」
「それから、君の部屋の私物保全については、明朝こちらで手配する。エルフォード公爵家の者が先に触れないよう、通達を出す」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
「それでも、ありがとうございます」
カインは一瞬だけ黙ったあと、視線を逸らした。
「……休め」
それだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が落ちた。
セレスティアは、鍵束を机の上に置いた。
帳簿保管庫。
王妃基金金庫。
会計監査室の奥書庫。
三本の鍵は、燭台の光を受けて鈍く光っている。
彼女はその横に、青い栞を置いた。
王太子から贈られた宝石ではない。
父から与えられた家名でもない。
妹に譲れと言われた部屋でもない。
それでも、それは彼女のものだった。
その夜、セレスティアはなかなか眠れなかった。
目を閉じると、リリアナの声が聞こえる。
お姉様ができたのですもの。
私にもできますわ。
ジュリアスの声も聞こえる。
君は裏方の方が向いている。
適材適所だ。
父の声も。
お前はエルフォード公爵家の娘だ。
セレスティアは寝台の上で、静かに拳を握った。
怒鳴りたいわけではなかった。
泣き叫びたいわけでもない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
もう、誰かの都合のいい影には戻らない。
そして彼らは、まだ知らない。
影だと思っていたものが消えたとき、光の当たる場所がどれほど脆いかを。




