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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第1話 婚約破棄の日、亡き王妃の遺言状が開かれました

王宮の大広間には、春の花が飾られていた。


 白薔薇、薄紅の芍薬、淡い金色の小花。どれも今夜の舞踏会のために、王都中の温室から集められたものだ。磨き上げられた大理石の床には、巨大なシャンデリアの光が落ち、踊る貴族たちの影を淡く揺らしている。


 楽団が奏でる曲は華やかで、給仕たちは銀盆を手に静かに歩き、貴婦人たちは扇の陰で噂話を交わしていた。


 そのすべてが、いつも通りだった。


 少なくとも、セレスティア・エルフォードにはそう見えていた。


 彼女は壁際に立ち、手元の小さな帳面に視線を落としていた。舞踏会の最中に帳面を見る令嬢など、本来なら褒められたものではない。けれどセレスティアにとって、今夜の舞踏会はただの社交の場ではなかった。


 北方三州の救済費について、来賓の領主夫人から最新の状況を聞く。

 隣国大使の従者が持参した非公式書簡の返答期限を確認する。

 王妃基金から支援している孤児院の院長が、どの貴族家に挨拶するべきかを控えておく。

 王太子ジュリアスの明日の慈善式典に使う演説原稿の修正点を、今夜中にまとめる。


 舞踏会とは、ただ踊る場所ではない。


 少なくとも、亡き王妃にそう教えられたセレスティアにとっては。


「セレスティア様、またお仕事ですか?」


 近くを通りかかった子爵夫人が、半ば感心し、半ば呆れたように笑った。


 セレスティアは帳面を閉じ、丁寧に微笑む。


「癖のようなものですわ」


「本当にご立派でいらっしゃる。でも、今夜くらいは楽しんでもよろしいのでは?」


「楽しんでおります。皆様のお話を伺うのは、勉強になりますもの」


 夫人は一瞬きょとんとしたあと、曖昧に笑って去っていった。


 セレスティアは自分の言葉が、相手にどう聞こえたか分かっていた。


 可愛げがない。

 堅苦しい。

 真面目すぎる。

 王太子妃候補として優秀ではあるが、愛される女ではない。


 そう囁かれていることを、彼女は知っている。


 けれど、知らないふりをしていた。


 十年前、ジュリアス王太子の婚約者に選ばれた日から、セレスティアはずっとそうしてきた。言われたことを覚え、求められたことをこなし、期待された以上の結果を返す。それが公爵家長女としての務めであり、未来の王太子妃としての義務だと信じていた。


 その務めの多くは、誰かの目に見えるものではなかった。


 王太子が議会で堂々と語る政策案。

 慈善事業の席で人々を感動させる演説。

 地方領主との円滑な調整。

 王妃基金の正確な支出。

 貴族夫人たちの間に生じる小さな軋轢の処理。

 それらを陰で整える者の名は、表には出ない。


 セレスティアは、それでよかった。


 少なくとも、今日までは。


「お姉様」


 鈴を転がすような声がした。


 振り向くと、妹のリリアナが立っていた。


 薄桃色のドレス。ふわりと波打つ金髪。頬は薔薇色で、瞳は潤んでいる。今夜の彼女は、まるで春そのもののようだった。


 セレスティアの青を基調とした落ち着いたドレスとは、対照的だった。


「リリアナ。今日はずいぶん遅かったのね」


「少し支度に時間がかかってしまって」


 リリアナはそう言って微笑んだ。


 その笑顔は愛らしい。誰が見ても守りたくなるような、柔らかな笑顔だった。


 セレスティアは妹の髪飾りを見る。淡い真珠と薔薇を組み合わせた新作だ。王都でも評判の宝飾職人のものだろう。


「その髪飾り、よく似合っているわ」


「本当ですか? 嬉しい。殿下もそうおっしゃってくださったの」


 セレスティアの指先が、帳面の角に軽く触れた。


 殿下。


 その呼び方に、少しだけ違和感があった。


 リリアナは以前から王太子に憧れていた。婚約者である姉の前でも、無邪気に王太子を褒めることがあった。けれど今夜の声には、いつもの無邪気さとは違う甘さが混じっていた。


「ジュリアス殿下と、お会いしたの?」


「ええ。先ほど」


 リリアナは視線を逸らした。


 その仕草は、恥じらいに見えた。


 セレスティアは、胸の奥に小さな冷えを感じた。


 何かが起きる。


 理由は分からない。けれど、長年王宮で人の顔色と言葉の裏を読んできた感覚が、静かに警鐘を鳴らしていた。


 そのとき、楽団の音が止まった。


 大広間に、ざわめきが広がる。


 正面の大扉が開き、王太子ジュリアス・ヴァレンティアが姿を現した。


 金髪に碧眼。華やかな軍礼服。若き王太子にふさわしい、堂々とした立ち姿だった。人の視線を集めることに慣れている男の歩き方。微笑むだけで周囲を安心させる、美しい王族。


 その隣に、リリアナが進み出た。


 セレスティアの横にいたはずの妹が、いつの間にか王太子の元へ向かっていた。


 ジュリアスは、リリアナの手を取った。


 大広間の空気が変わった。


 扇の陰で囁きが生まれる。貴族たちの視線が、ジュリアスとリリアナから、壁際に立つセレスティアへ移った。


 セレスティアは動かなかった。


 動けなかったのではない。


 この場で乱れれば、エルフォード公爵家の恥になる。王太子の婚約者として、感情を顔に出すことは許されない。


 そう教えられてきたからだ。


 ジュリアスは大広間の中央で立ち止まり、よく通る声で告げた。


「皆に、聞いてほしいことがある」


 ざわめきが薄くなる。


 セレスティアの父、グレアム・エルフォード公爵が人垣の向こうに見えた。母もいる。二人とも、セレスティアを見ていない。


 そのことに、彼女は気づいてしまった。


「セレスティア・エルフォード」


 ジュリアスが、彼女の名を呼んだ。


 セレスティアは静かに一歩進み出る。


「はい、殿下」


 王太子の隣で、リリアナがわずかに身を縮めた。まるでこれから傷つけられるのは自分だと言いたげな仕草だった。


 ジュリアスはリリアナの手を握ったまま、セレスティアを見た。


 その瞳には、迷いがなかった。


「君との婚約を、ここに破棄する」


 誰かが息を呑んだ。


 大広間から音が消えた。


 シャンデリアの硝子飾りが、かすかに揺れる音だけが聞こえた。


 婚約破棄。


 その言葉は、セレスティアの胸にすぐには届かなかった。


 十年。


 彼女は十年、王太子妃になるために生きてきた。


 朝から晩まで礼法を学び、法律を覚え、会計を読み、外交史を学び、王宮の古い慣例と新しい制度の矛盾を埋めてきた。


 ジュリアスのために。


 王家のために。


 国のために。


 そう信じてきた。


「理由を、お聞かせいただけますか」


 声は、思ったよりも落ち着いていた。


 ジュリアスは少しだけ眉を動かす。


 泣き崩れるとでも思っていたのだろうか。


「君は優秀だ。そこは認める。だが、優秀であることと、王妃にふさわしいことは違う」


「……と、申しますと」


「君は冷たい。常に書類と数字ばかりを見ている。民が求めているのは、慈愛に満ちた王妃だ。人々の心を明るく照らす、柔らかな存在だ」


 ジュリアスはそこで、隣のリリアナを見た。


 リリアナは潤んだ目で彼を見上げる。


「リリアナは違う。彼女は人の心に寄り添える。民に愛される王妃になれる」


 セレスティアは、周囲の反応を見た。


 驚いている者。面白がっている者。気まずそうに目を逸らす者。

 そして、納得したように頷く者。


 ああ、そうか。


 皆、どこかでそう思っていたのだ。


 セレスティアは便利だが、愛される女ではない。

 リリアナは未熟だが、愛される女だ。


 その評価は、今夜突然生まれたものではない。


 ずっと、セレスティアの足元に置かれていた。彼女が見ないふりをしていただけだ。


「お姉様」


 リリアナが震える声で言った。


「ごめんなさい。でも、殿下のお心は……私にあるのです」


 頬に一筋の涙が流れる。


 美しい涙だった。


 周囲の何人かが、リリアナに同情するような顔をした。


 まるで彼女も被害者であるかのように。


 セレスティアは、妹を責めなかった。


 責める言葉が浮かばなかったわけではない。ただ、この場でそれを口にすれば、負けると分かっていた。


 泣いても、怒っても、取り乱しても、きっと彼らは言うだろう。


 ほら、やはりセレスティアは王妃にふさわしくなかった、と。


 父グレアムが近づき、セレスティアの背後で低く言った。


「騒ぐな。公爵家の恥になる」


 その声に、セレスティアはわずかに目を伏せた。


 父は、娘の傷よりも家の体面を選んだ。


 母は遠くで扇を握りしめているだけだった。


 誰も、彼女の名を呼ばない。


 誰も、十年を問わない。


 ならば。


 セレスティアは静かに息を吸った。


「承知いたしました」


 大広間が、またざわめいた。


 ジュリアスが目を細める。


「ずいぶんあっさりしているな」


「王太子殿下のご意思とあれば、私がこの場で異を唱えることはございません」


「分かってくれたならいい」


 ジュリアスは安堵したように微笑んだ。


 その顔を見た瞬間、セレスティアの胸の奥で、何かが音もなく沈んだ。


 彼は本当に、これで終わると思っている。


 婚約を破棄すれば、セレスティアはただ退くだけ。

 これまで通り、必要なときだけ仕事をし、家の命令に従い、王宮の裏方として残る。


 そう信じている。


 セレスティアは軽く礼をした。


「では、本日をもちまして、王太子妃候補として私が担っておりました諸業務から手を引かせていただきます」


 ジュリアスの笑みが止まった。


「諸業務?」


「はい。王妃基金の月次確認、地方救済費の承認補助、外交返書草案の作成、慈善事業関連の出納記録、孤児院支援金の監査、王太子殿下の式典演説原稿、貴族派閥別の席次調整、ならびに王宮会計室への補助資料提出です」


 淡々と並べるほど、大広間の空気が重くなっていく。


 ジュリアスは不快そうに言った。


「それは脅しか?」


「事実確認でございます」


「その程度の仕事なら、文官に任せればよい」


 セレスティアは答えなかった。


 その程度。


 十年分の夜更けを、彼はそう呼んだ。


 何度も書き直した演説原稿。

 泣きついてきた地方領主夫人への返事。

 予算不足で削るしかなかった孤児院の修繕費。

 王妃の病床で交わした、山のような引き継ぎ。

 すべてを、彼は知らない。


 知らないまま、笑っている。


「お姉様」


 リリアナが優しく言った。


「安心してくださいませ。王太子妃のお仕事は、私がきちんと引き継ぎますわ」


 セレスティアは妹を見た。


「そう」


「ええ。お姉様ができたのですもの。私にもできますわ」


 その瞬間だった。


「不可能です」


 低い声が、大広間の奥から響いた。


 ざわめきが割れるように静まる。


 人垣の向こうから、一人の男が歩いてきた。


 黒を基調とした礼装。銀糸の刺繍。余計な装飾を避けた服装なのに、誰よりも目を引く。硬質な横顔と、夜色の髪。人を寄せつけない冷たい瞳。


 王弟にして宰相、カイン・ヴァレンティア。


 王宮の者たちは、彼を密かに「氷の宰相」と呼ぶ。


 カインが歩くと、貴族たちは自然と道を開けた。


 ジュリアスは顔をしかめる。


「叔父上。これは私とセレスティアの問題です」


「いいえ、殿下。王妃基金と王宮会計監査権限に関わる以上、宰相府の問題です」


「何を大げさな」


 ジュリアスの声に苛立ちが混じる。


 カインはそれを気に留めず、一通の封書を掲げた。


 深い藍色の封蝋。そこに押されているのは、亡き王妃の私印だった。


 セレスティアの心臓が、一度強く打った。


 懐かしい印だった。


 王妃エレオノーラ。


 病弱でありながら、誰よりも王宮の内情を見ていた人。セレスティアに帳簿の読み方を教え、慈善とは感情ではなく継続可能な仕組みだと説いた人。


 その人の封印が、今ここにある。


「今朝、亡き王妃陛下の遺言状が、法務官立ち会いのもと正式に開封されました」


 大広間が、ざわついた。


 ジュリアスもリリアナも、父グレアムも表情を変える。


 セレスティアだけが、言葉を失っていた。


 王妃の遺言状。


 彼女はそんなものがあるとは聞かされていない。


 カインは続ける。


「遺言状には、王妃基金の管理監査権限、地方救済費の一部承認権、ならびに王宮会計監査室への特別閲覧権を、セレスティア・エルフォード嬢個人に託すと明記されています」


「……個人に?」


 ジュリアスが低く言った。


「王太子妃候補としてではなく、ですか」


 カインは封書を下ろす。


「その通りです」


「馬鹿な。セレスティアは私の婚約者だった。彼女が持っていた権限は、私の婚約者だから与えられたものでしょう」


「いいえ。亡き王妃陛下は、セレスティア嬢個人の実務能力と監査能力を評価し、王命補助権限とは別に委任しておられました。殿下の婚約者でなくなったとしても、その効力は失われません」


 ジュリアスの頬がこわばる。


 リリアナは困惑したように瞬きをした。


「で、でも……お姉様がいなくても、私が……」


 カインの視線がリリアナへ向いた。


 ただそれだけで、リリアナは言葉を失った。


「リリアナ嬢。王妃基金の支出承認に必要な三つの照合記録を、ご存じですか」


「え……」


「地方救済費を臨時支出に切り替える際、どの部署の確認印が必要かは」


「そ、それは……文官の方が……」


「隣国大使への返書草案に、王太子名義で記してはならない禁句は」


 リリアナの唇が震えた。


 カインはそれ以上追及しなかった。


 追及しないことが、かえって残酷だった。


 ジュリアスが声を荒げる。


「リリアナはこれから学べばいい!」


「学ぶことは可能でしょう。しかし、明日の午前に北方三州への送金期限が来ます。明後日には隣国大使への返書期限。その翌日には慈善式典と王太子殿下の演説。学習期間を設ける余裕はありません」


 広間のあちこちで、低い声が漏れた。


 貴族たちはようやく理解し始めていた。


 これはただの痴情沙汰ではない。


 王太子が婚約者を妹に乗り換えた、甘い醜聞では終わらない。


 王宮の実務が、今この場で切断されようとしている。


「セレスティア」


 ジュリアスが、初めて少し焦った声で言った。


「君も国を思うなら、仕事を投げ出すような真似はしないだろう」


 セレスティアは彼を見た。


 投げ出す。


 その言葉が、胸のどこかに触れた。


 彼女は十年間、投げ出さなかった。どれほど眠れなくても、どれほど感謝されなくても、どれほど自分の名前が消されても、投げ出さなかった。


 けれど今、彼は婚約破棄を告げたその口で、なお彼女に働けと言っている。


「殿下」


 セレスティアは静かに言った。


「私は、先ほど婚約を破棄されました」


「それはそうだが」


「王太子妃候補としての立場を失った以上、その立場に付随する義務も失います」


「だからといって、急に手を引くなど無責任だ」


「では、私が王太子妃候補として担っていた業務について、正式な役職と報酬をいただけるのでしょうか」


 ジュリアスが言葉に詰まった。


 大広間がまた静まる。


 セレスティアは、自分でも意外なほど落ち着いていた。


 言葉は刃物ではなく、ただの記録だった。

 帳簿に数字を書くときのように、事実を並べているだけだった。


「私はこれまで、王太子妃候補として無償で務めてまいりました。婚約がなくなった以上、私が同じ業務を継続する根拠はございません」


「君は……そんなことを言う女だったのか」


 ジュリアスの声には失望があった。


 セレスティアは、その失望すら不思議だった。


 彼は彼女を捨てた。


 それなのに、捨てられた彼女が従順でないことに傷ついている。


 リリアナが涙声で言う。


「お姉様、私たちを困らせたいの?」


 セレスティアは妹を見た。


「困るの?」


「だって……お姉様が急にそんなことを言うから」


「急にではないわ。私は先ほど、婚約を破棄されたの」


「でも、家族でしょう?」


 その言葉に、父グレアムが咳払いをした。


「セレスティア。これ以上、場を乱すな。いったん屋敷に戻り、話し合う」


 屋敷。


 その言葉に、セレスティアは一瞬だけ瞼を伏せた。


 彼女の部屋は、屋敷の北側にある小さな部屋だった。王太子妃候補として支度部屋は与えられていたが、妹の部屋ほど明るくはない。そこに詰め込まれた本と書類と、王妃からもらった古い羽根ペン。


 あれが、自分の居場所だと思っていた。


 けれど父の声を聞いて分かった。


 屋敷に戻っても、彼女の話を聞く者はいない。

 婚約を失った娘として、叱責されるだけだ。

 リリアナを支えろと言われるだけだ。

 これまで通り、家のために黙れと言われるだけだ。


 そのとき、カインが口を開いた。


「セレスティア嬢を、今夜エルフォード公爵邸へ戻すことはお勧めしません」


 グレアム公爵の顔色が変わる。


「宰相閣下。それは我が家の問題です」


「いいえ。亡き王妃陛下の遺言執行対象者です。彼女の身柄と関連資料の保全は、宰相府の監督下に入ります」


「身柄とは、穏やかではありませんな。まるで私が娘に危害を加えるように聞こえる」


「少なくとも、彼女宛ての王宮文書が今後適切に扱われる保証を確認する必要があります」


 カインの声は平坦だった。


 だがその平坦さが、グレアム公爵の怒気を封じていた。


 セレスティアは、思わずカインを見た。


 彼は彼女を見ていない。

 ただ、制度と法を見ている。


 そのはずなのに。


 初めて誰かが、自分の前に立ったような気がした。


 甘い言葉ではない。慰めでもない。

 けれど、「守る」という行為は、こういう形をしているのかもしれない。


 カインは封書を法務官に手渡したあと、セレスティアに向き直った。


「セレスティア嬢」


「はい」


「君に確認したいことがある」


 その声音は、先ほどまでよりわずかに柔らかかった。


「亡き王妃陛下は、君に権限を残した。だが、それを行使するかどうかは君の意思に委ねられている」


 セレスティアは黙って聞いた。


「君は、奪われたものを取り戻す気があるか」


 奪われたもの。


 婚約者。

 未来。

 居場所。

 名前。

 十年分の働き。

 感謝されるはずだった言葉。

 王妃からの信頼。

 自分自身の価値。


 それらが一度に胸の中へ押し寄せた。


 セレスティアは唇を引き結ぶ。


 泣きたくはなかった。

 ここで泣けば、また誰かの物語の脇役にされる気がした。


 可哀想な令嬢。

 婚約者を妹に奪われた姉。

 王太子に捨てられた女。


 違う。


 それだけでは終わらせない。


 彼女はゆっくりと顔を上げた。


 ジュリアスが見ている。

 リリアナが怯えた顔で見ている。

 父が険しい顔で見ている。

 貴族たちが息を潜めて見ている。


 セレスティアは、初めて自分のために声を出した。


「ございます」


 たった一言だった。


 けれどその一言で、大広間の空気が変わった。


 カインの瞳が、わずかに細められる。


「ならば、宰相府は君の権限を保護する」


 ジュリアスが叫ぶように言った。


「叔父上!」


 カインは王太子を見た。


「殿下。婚約破棄は、すでに宣言されました。撤回なさいますか」


「それは……」


 ジュリアスはリリアナの手を握ったまま、言葉を失った。


 撤回はできない。

 この場でリリアナを選んだ以上、王太子としての面子がある。


 カインは淡々と告げる。


「では、今後セレスティア嬢に業務を依頼する場合、正式な文書を宰相府へ提出してください。王太子殿下個人の命令ではなく、公的な業務依頼として扱います」


「なぜ私が、セレスティアに頭を下げるような真似を」


「必要がないとお考えなら、依頼しなければよろしい」


 その一言で、ジュリアスの顔が赤くなった。


 リリアナは不安そうに彼を見上げる。


「殿下……」


「心配するな、リリアナ。君に任せると言っただろう」


 ジュリアスはそう言った。


 だがその声には、先ほどまでの自信がなかった。


 セレスティアは、深く礼をした。


「では、失礼いたします」


 誰に対しての礼だったのか、自分でも分からなかった。


 王太子に。

 王宮に。

 十年間の自分に。


 あるいは、ここで終わるはずだった人生に。


 背を向けた瞬間、背後で父の声がした。


「セレスティア。勝手な真似は許さんぞ」


 セレスティアは立ち止まらなかった。


 代わりに、カインが答えた。


「公爵。今の発言は記録させていただく」


 父が黙る気配がした。


 大広間の扉が近づく。


 花の香りが遠ざかる。楽団の沈黙が背後に沈む。貴族たちの視線が、肌に刺さる。


 セレスティアは扉を越えた。


 夜風が頬に触れた。


 王宮の回廊は、舞踏会の熱とは別世界のように静かだった。石造りの壁に灯る燭台の明かりが、細長い影を作っている。


 カインが隣に並んだ。


「歩けるか」


 セレスティアは少し遅れて頷いた。


「はい」


「無理なら言え」


「無理ではありません」


「そうか」


 それきり、カインは何も言わなかった。


 慰めも、同情も、不要な励ましもない。


 その沈黙が、セレスティアにはありがたかった。


 しばらく歩いたところで、彼女は小さく口を開いた。


「宰相閣下」


「何だ」


「王妃陛下の遺言状のこと、私は存じませんでした」


「そうだろうな」


「なぜ、今日まで」


「遺言状には開封条件があった」


「条件?」


 カインは足を止めずに言った。


「君が王太子妃候補の立場を失ったとき。もしくは、君の権限が不当に奪われる危険が生じたとき」


 セレスティアは息を呑んだ。


 王妃は、分かっていたのだ。


 いつかこうなるかもしれないと。


 セレスティアが、王宮に尽くした末に、何も持たずに追い出される日が来るかもしれないと。


「王妃陛下は……」


 声が少し震えた。


「私に、そこまでしてくださっていたのですね」


 カインはすぐには答えなかった。


 回廊の先、宰相府へ続く扉の前で、彼はようやく言った。


「陛下は、君を高く評価していた」


「私は、ただ教えられたことをしていただけです」


「違う」


 短い否定だった。


 セレスティアは顔を上げる。


 カインは彼女をまっすぐに見ていた。


「君は十年、王宮を支えた。だが王宮は、君を一度も守らなかった」


 その言葉は、優しくはなかった。


 むしろ冷たいくらい明確だった。


 だからこそ、胸の奥に深く刺さった。


 セレスティアは、唇を噛みそうになって、やめた。


 ここで泣くわけにはいかない。

 まだ、泣く場所ではない。


 カインは扉を開けた。


「まずは休め。明朝、法務官と監査官を交えて、君の権限を整理する」


「明朝からで構いません。今夜のうちに北方三州の救済費だけでも確認を」


「駄目だ」


 即答だった。


 セレスティアは瞬いた。


「ですが、期限が」


「君が倒れたら、期限どころではない」


「私は倒れません」


「倒れる者ほど、そう言う」


 セレスティアは言い返せなかった。


 カインは少しだけ視線を緩める。


「茶を用意させる。温かいものを飲め」


「……ありがとうございます」


 その言葉を口にしたとき、セレスティアは不思議な感覚を覚えた。


 今日、初めて誰かに礼を言いたいと思った。


 義務ではなく、礼儀でもなく、ただ自然に。


 宰相府の奥へ案内される前に、カインは法務官に何かを指示した。

 その中に、セレスティアの私物保全、王宮会計室への通達、エルフォード公爵家への正式通知という言葉が混じっていた。


 すべてが静かに動き始めている。


 彼女が舞踏会を去っただけで。


 一方、大広間にはまだ花の香りが満ちているだろう。

 王太子は、リリアナの手を握ったまま取り繕っているだろう。

 父は怒り、母は困惑し、貴族たちは今夜の醜聞を囁くだろう。


 彼らはまだ知らない。


 明日の朝、北方三州への救済費が止まることを。

 明後日、隣国大使への返書が出せなくなることを。

 王太子の演説原稿が、誰にも書けないことを。

 リリアナが引き継いだ机の上に、彼女には読めない書類が山のように積まれることを。


 そして、亡き王妃が残した帳簿が、ただの遺品ではないことを。


 セレスティアは宰相府の窓から、夜の王宮を見た。


 春の月が、白い塔の上に浮かんでいる。


 十年を捧げた場所は、美しいままだった。


 けれどもう、あそこに戻る理由はない。


 彼女はそっと、空になった左手を見る。


 王太子の婚約者として身につけていた指輪は、先ほど外した。

 重いと思ったことはなかった。

 だが外してみると、指が少し軽かった。


 扉の向こうで、カインの声が聞こえる。


「王妃基金関連資料を封印しろ。セレスティア嬢本人の許可なく、誰にも触れさせるな」


 その言葉に、セレスティアは静かに目を閉じた。


 奪われた夜。

 失った夜。

 捨てられた夜。


 けれど同時に。


 彼女の名前が、初めて彼女自身のものになった夜だった。

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