第59話 監査補佐官にも、私生活はあります
寄付者向け概要報告書制度案は、赤字だらけの紙から始まり、三日後には正式な承認案になっていた。
最初の第一稿を見返すと、セレスティアは少しだけ苦笑したくなる。
硬い。
とにかく硬い。
寄付者に読ませるというより、法務局の棚に収めるための文書のようだった。
だが、今の案は違う。
規程本文は厳密に。
概要版は読みやすく。
寄付者の名誉を記録しつつ、支援先の尊厳と安全を守る。
支援分野の希望は受けるが、最終配分は基金が行う。
人気分野と不足分野を四半期ごとに示す。
感謝状と使途報告を分ける。
多くの人の手が入った。
ローレン副監が数字を整え、オルドが法務上の穴を塞ぎ、ミリアが四半期更新の実務案を出し、ローゼン侯爵夫人が社交界向けの言葉を磨き、バルツァー夫人が寄付者側の納得できる表現へ修正した。
そして、セレスティアはその全体をつないだ。
誰か一人の文書ではない。
だからこそ、強い。
承認会議は、王宮会計室の中会議室で開かれた。
出席者は、宰相府、会計室、法務局、儀礼局、寄付者代表、社交界側調整役。
以前なら、寄付者代表がこうした制度設計に加わることはなかっただろう。
寄付者は金を出す。
王宮は礼を言う。
その先は曖昧。
それが、変わり始めている。
セレスティアは、完成した承認案を読み上げた。
「寄付者向け概要報告書は、王妃基金への寄付がどの支援分野へ用いられたかを、寄付者および関係者に分かりやすく伝えるために作成します。ただし、支援先の事情により秘匿が必要な場合は、名称や詳細を伏せ、支援分野と目的を示す形とします」
バルツァー夫人が小さく頷く。
ここは、彼女が強く主張した箇所だった。
セレスティアは続ける。
「寄付者名の公表は本人同意制とします。また、支援先名の公表についても、支援先の同意または王妃基金の判断に基づきます。寄付者の名誉ある貢献を記録しつつ、支援を受ける方々や団体の尊厳と安全を守るためです」
ローゼン侯爵夫人が、満足そうに扇を閉じた。
この一文は、共同修正で生まれた。
寄付者を抑えるためだけではない。
寄付者と支援先の双方を守る制度。
そう言える形になった。
ローレン副監が、次の頁を引き取る。
「支援分野ごとの不足状況は、四半期ごとに更新します。燃料支援、食事支援、衛生支援、地方産品継続購入、輸送費、記録整備費などの分類を設け、寄付希望者が基金全体の状況を見た上で支援分野を希望できるようにします」
ミリアの頬が、少しだけ赤くなっていた。
自分の案が正式な制度文に入ったからだ。
セレスティアは横目でそれを見て、少し嬉しくなる。
カインが、会議の最後に言った。
「異議は」
しばらく沈黙。
バルツァー夫人が手を上げた。
「異議ではありません。確認を」
「どうぞ」
「大口寄付者側への説明会は、私とローゼン夫人で一度引き受けます。ただし、王妃基金監査補佐官にも一度は同席していただきたい」
視線がセレスティアへ向く。
セレスティアは、すぐに答えた。
「同席します。ただし、制度説明としてです。個別寄付や縁談、私的親交の相談は受けません」
言った瞬間、バルツァー夫人が目を細めた。
「まあ。先手を打たれましたわね」
ローゼン侯爵夫人が小さく笑う。
「最近のセレスティア様は、断るのも早くなられました」
「必要な手続きです」
セレスティアがそう答えると、カインがわずかに口元を緩めた。
「よし」
その一言で、会議の空気が決まった。
寄付者向け概要報告書制度案は、正式承認された。
王妃基金改革の第二段階が、形になったのだ。
承認後、会議室を出ると、ミリアが小走りで追いついてきた。
「セレスティア様」
「はい」
「四半期不足状況表、正式に入ってしまいました」
「入ってしまいました、なのですか」
「嬉しいのですが、責任が急に重くなりました」
その顔があまりに真剣で、セレスティアは微笑んだ。
「それなら、正しい反応です」
「怖いです」
「怖いまま確認しましょう。私も手伝います」
「ありがとうございます」
ミリアは、少し息を吐いた。
「セレスティア様も、最初はこんな気持ちでしたか」
「今もです」
「今も?」
「はい。制度文に自分の言葉が入るのは、今も怖いです」
ミリアは驚いたように目を丸くした。
「そうなのですか」
「怖くなくなったら、たぶん危険です」
セレスティアは、手元の承認案を見た。
「怖いから、もう一度確認する。怖いから、誰かに見てもらう。怖いから、記録に残す。そういう怖さは、悪いものではないと思います」
ミリアは、ゆっくり頷いた。
「では、怖がりながら作ります」
「はい。それがよいと思います」
その会話の途中で、廊下の向こうから若い侍従が近づいてきた。
彼は恭しく礼をし、封筒を差し出す。
「セレスティア・エルフォード様へ。ハルヴィン侯爵家より、茶会のご招待です」
セレスティアは、封筒を見た。
美しい薄紅色の紙。
香りがついている。
嫌な予感がした。
「王妃基金関連でしょうか」
侍従は少し困った顔をした。
「表向きは、寄付者向け概要報告書制度についてご意見を伺いたいとのことですが……」
「表向きは」
ミリアが小さく呟く。
セレスティアは封を開けずに、差出人欄を確認した。
ハルヴィン侯爵家。
昨日、縁談の打診を寄付相談に混ぜてきた家の一つだ。
彼女は静かに言った。
「宰相府文書室へ回してください。王妃基金関連の相談として受けるか、私的招待として扱うか確認します」
侍従は少し驚いた。
「ご本人が直接お読みにならなくてよろしいのですか」
「確認分類が先です」
セレスティアは、はっきり答えた。
「私的な茶会招待であれば、現在は受けません。王妃基金に関する正式相談であれば、宰相府または王宮会計室を通じた面談にしてください」
侍従は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
彼が去ると、ミリアが感心したように言った。
「今の、すごく自然でした」
「内心は少し疲れました」
「でも、断れています」
「分類しただけです」
「それが大事なのですね」
「はい。分類してから断ると、少し楽です」
自分で言って、セレスティアは気づいた。
そうか。
断ることも、感情だけではなく手順にできる。
私的招待か。
職務相談か。
寄付関連か。
縁談含みか。
分類してから対応する。
それだけで、相手の曖昧さに引きずられにくくなる。
これもまた、制度だった。
その日の午後、セレスティアの机には、分類表が増えた。
『私的招待・寄付相談・縁談打診の分類基準』
ミリアが、半分呆れ、半分楽しそうに言った。
「本当に制度になりましたね」
「必要なので」
「項目が細かいです」
「曖昧にすると入り込まれます」
分類はこうなった。
一、王妃基金に関する正式相談
二名以上の関係者同席、宰相府または王宮会計室で実施。
二、寄付者向け概要報告書に関する意見交換
個別茶会ではなく、複数寄付者との会合で実施。
三、私的茶会招待
当面辞退。
四、縁談または婚姻を前提とした親交打診
統一回答文で辞退。
五、王妃基金相談に縁談・親交要素が混在する場合
分離を求め、王妃基金部分のみ公的窓口へ。
ミリアが五番を見て、深く頷いた。
「一番多そうです」
「私もそう思います」
「『混在する場合』という言葉が、最近の私たちらしいですね」
「混ぜられたものを分けるのが、仕事になってきましたから」
そこへカインが来た。
分類表を見る。
無言で最後まで読む。
「採用」
早い。
セレスティアは瞬いた。
「まだ草案です」
「十分だ。宰相府内の対応基準にする」
「そこまでですか」
「君が倒れる前に、周囲が分けられるようにする」
その言葉に、セレスティアは少しだけ胸が詰まった。
自分を守るためだけではない。
周囲が分けられるように。
ミリアも、文書室も、侍従も、いちいちセレスティア本人へ曖昧な招待状を回さずに済む。
それは、職務環境を守る制度だった。
「ありがとうございます」
「礼を言うところではない。必要だからやる」
「それでも、ありがとうございます」
カインは少しだけ目を逸らした。
「……そうか」
その反応が珍しくて、ミリアが見ないふりをしていた。
セレスティアも見ないふりをした。
夕方、寄付者向け概要報告書制度案の正式承認通知が社交界へ送られた。
同時に、バルツァー夫人とローゼン侯爵夫人の連名で、大口寄付者向け説明会の案内も出された。
そこには、こう書かれていた。
『本制度は、寄付者の善意をより確実に必要な場所へ届けるとともに、支援先の尊厳と安全を守るためのものです』
『寄付者の名誉ある貢献は、適切に記録されます。ただし、支援先を見世物とするような宣伝や、不公平な使途指定は認められません』
強い。
だが、以前の第一稿よりずっと受け取りやすい。
セレスティア一人では、こうはならなかった。
それがよく分かる。
ローゼン侯爵夫人から短い手紙も届いた。
『制度案、よい形になりました。バルツァー夫人が乗ったのは大きいです。敵にすると面倒な方ですが、味方でも面倒です。大切に使いなさい』
使いなさい。
人を道具のように、と一瞬思ったが、社交界ではそれくらいの感覚が必要なのだろう。
追伸があった。
『縁談分類表の噂を聞きました。非常によろしい。私的招待と職務相談を分けることは、今後あなたを守ります。ついでに、宰相閣下との噂も多少は薄まるでしょう。多少は』
最後の「多少は」に、セレスティアは目を閉じた。
完全には消えないという意味だ。
分かっている。
分かっているが、わざわざ書かなくてもよい。
ミリアが横から覗き込んで、少し笑いをこらえている。
「ミリア」
「すみません」
「笑っていますね」
「多少は」
セレスティアはため息をついた。
「皆さん、最近言い方が似てきました」
「よい傾向です」
「本当に?」
「かなり」
もう完全に楽しんでいる。
セレスティアは、怒る気になれなかった。
その頃、エルフォード公爵邸では、グレアムが正式承認通知の写しを読んでいた。
寄付者向け概要報告書制度。
支援分野不足状況の四半期更新。
寄付者名と支援先名の公表確認。
最終配分権は基金側。
よくできている。
そう思った。
同時に、苦かった。
セレスティアは、王妃基金を仕組みとして整えている。
かつて自分が「家のため」「王太子府のため」と曖昧にしてきたものを、ひとつずつ分類し、記録し、報告し、断れる形にしている。
そこへ、エヴァンジェリンが入ってきた。
「また、セレスティアからの通知ですか」
「宰相府からだ。寄付者向け報告制度が正式承認された」
「そうですか」
エヴァンジェリンは、少し嬉しそうに微笑んだ。
グレアムは文書を差し出す。
「読んでみろ」
彼女は受け取り、ゆっくり目を通した。
「……丁寧ですね。厳しいけれど、丁寧です」
「あの娘らしい」
グレアムは、思わずそう言った。
エヴァンジェリンが顔を上げる。
少し驚いたような、少し嬉しそうな顔だった。
「あなたが、そう言うのですね」
グレアムは苦い顔をした。
「言って悪いか」
「悪くありません」
エヴァンジェリンは静かに答える。
「ただ、以前はあの子の丁寧さを、細かすぎると言っていましたから」
その言葉は刺さった。
グレアムは反論しなかった。
できなかった。
「細かすぎるくらいで、よかったのだろうな」
彼は低く言った。
「細かく見なかった結果が、今だ」
エヴァンジェリンは、何も言わなかった。
グレアムは、もう一枚の紙を見た。
セレスティアの縁談分類表の写しではない。
だが、公爵家にも似た対応基準が必要だと、宰相府から助言が届いている。
私的打診と職務相談を分けること。
本人の意思確認なく縁談を進めないこと。
王妃基金の役職を家の交渉材料にしないこと。
最後の一文が、特に重い。
王妃基金の役職を家の交渉材料にしない。
かつての自分なら、使ったかもしれない。
いや、使っただろう。
娘が王宮で役職を得た。
ならば、公爵家の名誉回復に使える。
縁談にも、政治にも、社交にも。
そう考えただろう。
今、その道は文書で塞がれている。
そして、塞いだのは娘自身だ。
「エヴァンジェリン」
「はい」
「セレスティアは、私たちから遠ざかったのではなく……自分の境界線を引いたのだな」
エヴァンジェリンは、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「その境界線の向こうに、私たちはもう勝手に入れない」
「はい」
「……当然のことなのに、ひどく遠いな」
グレアムの声には、疲れが滲んでいた。
エヴァンジェリンは、夫を責めなかった。
ただ、静かに言った。
「遠いと感じるなら、そこから話すしかありません」
「話す?」
「境界線を越えるのではなく、境界線の前で」
グレアムは、妻を見た。
以前の自分なら、そんな言葉を弱いと言っただろう。
だが今は、分かる。
境界線の前で話す。
それが、今の自分に許された父親としての距離なのかもしれない。
夜、セレスティアのもとに、エヴァンジェリンから手紙が届いた。
『セレスティアへ』
『寄付者向け概要報告書制度の正式承認を知りました。厳しいけれど丁寧な制度だと思います』
『あなたの父が、「あの娘らしい」と言いました。以前なら、同じことを「細かすぎる」と言ったと思います』
『少しずつですが、こちらも変わっています』
『縁談や職務について、あなたの境界線を尊重します。私も、社交界でそう伝えます』
セレスティアは、その手紙をしばらく見つめた。
母からの言葉。
父が「あの娘らしい」と言ったこと。
境界線を尊重するということ。
胸がじんわり痛む。
けれど、不快な痛みではなかった。
遅すぎる。
それは変わらない。
でも、少しずつ言葉が届いている。
自分が引いた線が、相手を拒絶するだけではなく、正しい距離を教えているのかもしれない。
覚書には、こう書いた。
『寄付者向け概要報告書制度案、正式承認』
次に。
『支援分野の不足状況を四半期ごとに示す。ミリアの案が制度になった』
さらに。
『私的招待・寄付相談・縁談打診の分類基準を作った。宰相府内で採用』
少し手を止めてから、母の手紙について書く。
『母は、境界線を尊重すると書いた。父は「あの娘らしい」と言ったらしい』
最後に。
『私生活と役職を分ける。私の名前は、仕事にも使う。でも、仕事だけに奪わせない』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は承認日だったな」
「はい。第二段階が形になりました」
「よくやった」
今日は素直に言われた。
胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
「分類基準も悪くない」
「こちらも承認されるとは思いませんでした」
「必要だった」
「私を守るためですか」
「君だけではない。周りも守る」
セレスティアは、静かに微笑んだ。
「はい」
「それと」
「はい?」
「私的招待は、本当に分類してから開けろ」
「分かっています」
「香りつき封筒には特に注意しろ」
セレスティアは、思わず笑ってしまった。
「それは経験則ですか」
「社交界の罠だ」
「宰相閣下も、そういう言い方をされるのですね」
「事実だ」
扉の向こうで、少しだけ声が柔らかかった。
「寝ます」
「ああ」
灯りを落とす。
王妃基金改革の第二段階が、正式に動き出した。
寄付者も、社交界も、支援先も、少しずつ制度の中へ入っていく。
自分の役職と私生活を分ける基準もできた。
その境界線は、冷たい壁ではない。
自分を守り、仕事を守り、相手との距離を正しくするための線だ。
セレスティアは、暗い部屋の中でゆっくり息を吐いた。
明日もまた、紙を書く。
ただし、自分の生活まで紙に奪われないように。
そのことを忘れずに。




