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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第58話 断れる娘を、父は初めて見ました

 寄付者向け概要報告書制度案の修正会議は、前日の会合よりも少し柔らかい空気で始まった。


 ただし、柔らかいだけではない。


 テーブルの上には、赤字だらけの制度案が広げられている。


 王妃基金監査補佐官としてのセレスティアの第一稿。

 王宮会計室の修正。

 法務局の追記。

 ローゼン侯爵夫人の社交界向け表現。

 そして、バルツァー財務卿夫人の容赦ない赤字。


 紙面は、ある意味で戦場だった。


 ミリアが小さな声で言った。


「……思ったより赤いですね」


 セレスティアは、赤字の入った頁を見つめた。


「はい。かなり」


 バルツァー夫人は、涼しい顔で紅茶を飲んでいる。


「遠慮は不要と伺いましたので」


 ローゼン侯爵夫人が扇の陰で笑った。


「遠慮しなさすぎですわ」


「王妃基金監査補佐官殿が、望むところです、とおっしゃいましたから」


 セレスティアは、少しだけ背筋を伸ばした。


 言った。


 確かに言った。


 だから受ける。


「ありがとうございます。確認しながら進めさせてください」


「ええ」


 カインは上座で黙っている。


 今日は主にセレスティア、ローレン副監、オルド、ローゼン侯爵夫人、バルツァー夫人が制度文を詰める会議だ。


 宰相であるカインは、必要なときだけ口を出す。


 それでも彼がいるだけで、場は引き締まる。


 セレスティアは第一頁を開いた。


「まず、概要報告書の目的文です。私の第一稿では『寄付者の善意を、必要な場所へ確実に届けるため』としていました」


 バルツァー夫人が頷く。


「そこはよろしいと思います。ただ、その次の文が硬すぎます」


「どこでしょう」


「ここです。『寄付者は基金の最終配分権に服する』」


 セレスティアは少しだけ目を伏せた。


「……確かに硬いですね」


「硬いだけではなく、寄付者を服従させるように読めます」


 ローレン副監が小さく咳払いした。


「会計規程としては間違っていないのですが」


 ローゼン侯爵夫人が即座に言う。


「会計規程として正しくても、茶会で読ませたら三人は帰りますわ」


 ミリアが筆を止めかけた。


 セレスティアは、思わず笑いそうになるのをこらえた。


「では、概要版ではどう表現すべきでしょうか」


 バルツァー夫人は、赤字を指した。


「『寄付者のご希望は尊重しつつ、基金全体の支援状況を踏まえて配分を決定します』ではどうでしょう」


 セレスティアは、少し考えた。


 柔らかい。


 だが、最終配分権は基金側に残る。


「よいと思います。ただし、規程本文には最終配分権を明記します」


「もちろんです」


 バルツァー夫人はあっさり頷いた。


「概要版は読ませる文、規程本文は守らせる文ですもの」


 ローゼン侯爵夫人が微笑む。


「さすが財務卿夫人。分かっていらっしゃる」


「お褒めいただいたのか、巻き込まれたのか分かりませんわね」


「両方です」


 場が少しだけ和んだ。


 セレスティアは、その空気を感じながら、文案を修正する。


 敵に回すのではない。


 巻き込む。


 昨日、彼女は大口寄付者と向き合った。


 今日は、そのうち一人が赤字を入れている。


 これは反発ではある。


 同時に、制度に関わり始めたということでもある。


 セレスティアは、その違いを慎重に受け止めた。


 次の論点は、寄付者名の公表だった。


 第一稿ではこう書いていた。


『寄付者名の公表は本人同意制とし、支援先の尊厳を損なう宣伝を禁じる』


 バルツァー夫人の赤字は、ここに大きく入っていた。


『寄付者の名誉ある貢献を適切に記録する』

『ただし、支援先を過度に従属的・哀れみの対象として描写しない』

『支援先の名称公表は、当該支援先の同意または王妃基金の判断に基づく』


 セレスティアは赤字を読み、ゆっくり頷いた。


「支援先の名称公表にも同意が必要、という視点は抜けていました」


 オルドが即座に反応した。


「法務上も入れた方がよいです。孤児院、施療院、保護対象者が関わる場合、名称公表による訪問者増加や風評被害があり得ます」


 ローレン副監も言う。


「会計報告では支援先を特定できますが、概要版では匿名化も選択肢にすべきですね」


 バルツァー夫人は、少しだけ満足そうに頷く。


「寄付者名ばかり制限されると反発を招きます。支援先名の扱いも同時に整えれば、これは双方を守る制度になる」


 セレスティアは、その言葉を紙に書き留めた。


「双方を守る制度」


 ローゼン侯爵夫人が言った。


「よい言葉ですわ。概要版の柱にできます」


 セレスティアは考えた。


「では、概要版ではこうしましょう」


 彼女はペンを走らせる。


『寄付者の名誉ある貢献を記録しつつ、支援を受ける方々や団体の尊厳と安全を守るため、寄付者名・支援先名の公表範囲を確認します』


 ミリアが、書きながら顔を上げた。


「分かりやすいです」


 バルツァー夫人も頷いた。


「ええ。これなら、寄付者を一方的に疑っているようには読めません」


 セレスティアは、胸の奥で少しだけ息をついた。


 第一稿では、寄付者を抑えることに意識が向きすぎていたのかもしれない。


 支援先を守る。


 基金の公平性を守る。


 それは変わらない。


 だが、制度として長く続けるなら、寄付者の名誉も正しい場所に置かなければならない。


 名誉を否定するのではなく、名誉が支援先を傷つけない形に整える。


 その方が、強い制度になる。


 最も揉めたのは、「使途希望」の欄だった。


 バルツァー夫人は、寄付者が選べる支援分野を増やすべきだと主張した。


「孤児院、施療院、地方産品支援、教育支援、燃料支援。少なくともこの程度は選択肢として示した方がよろしいでしょう」


 ローレン副監は難色を示した。


「細かくしすぎると、人気分野と不人気分野の差が可視化されます」


「可視化して悪いことがありますか?」


「不人気分野に寄付が集まらないと分かると、そこを基金一般財源で補う必要があります。予算計画が複雑になります」


 バルツァー夫人は、すぐに返す。


「それこそ報告書の出番でしょう。不人気分野ほど、なぜ必要かを説明すればよいのです」


 セレスティアは、思わず顔を上げた。


 バルツァー夫人の口から、その言葉が出た。


 なぜ必要かを説明する。


 昨日まで反発していた側が、制度の使い方を話し始めている。


 ローゼン侯爵夫人が、ちらりとセレスティアへ目を向けた。


 見たでしょう、と言いたげだった。


 セレスティアは小さく頷いた。


 巻き込まれている。


 少しずつ。


 セレスティアは、二人の間に入った。


「では、支援分野の選択肢を設けます。ただし、寄付者に選ばせるだけではなく、各分野の不足状況を併記するのはどうでしょう」


 ローレン副監が目を細める。


「不足状況?」


「はい。たとえば、燃料支援は現在不足、地方産品継続購入は安定、孤児院食事支援は一部充足、というように。寄付者が希望を出す際に、基金全体の状況を見られるようにします」


 バルツァー夫人が扇を閉じた。


「それなら、寄付者も自分の寄付がより必要な場所へ向かう実感を持てますわね」


 ローレン副監も頷く。


「会計室としても、分野ごとの不足状況を出す意義があります。ただ、更新頻度を決めないと」


「四半期ごとでは?」


 ミリアが控えめに言った。


 全員の視線が集まる。


 ミリアは少し驚きながらも続けた。


「三か月ごとの職務見直しや返還金再配分報告の時期とも合わせやすいかと」


 セレスティアは頷いた。


「よいと思います」


 ローレン副監も賛成する。


「実務上も可能です」


 カインが初めて口を開いた。


「採用」


 短い一言。


 ミリアが、少しだけ嬉しそうに筆を走らせた。


 セレスティアは、その様子を見て微笑んだ。


 制度は、一人で作るものではない。


 また一つ、その実感が増えた。


 会議は昼過ぎまで続いた。


 終わる頃には、寄付者向け概要報告書制度案はかなり形を変えていた。


 だが、芯は残っている。


 寄付者の善意を、必要な場所へ届ける。

 支援先の尊厳と安全を守る。

 使途希望は受け付けるが、最終配分は基金が行う。

 寄付者名と支援先名の公表範囲を確認する。

 不人気だが必要な支援分野を可視化する。

 感謝状と使途報告を分ける。


 第一稿より強くなった。


 ただ寄付者を抑える制度ではない。


 寄付者を正しく巻き込み、支援先を守り、基金の判断を見えるようにする制度になり始めていた。


 バルツァー夫人は、修正案を読み終えて言った。


「これなら、私からも大口寄付者側に説明できます」


 セレスティアは顔を上げた。


「夫人から、ですか」


「ええ。私も赤字を入れましたから。逃げられませんでしょう?」


 ローゼン侯爵夫人が楽しそうに言う。


「見事に巻き込まれましたわね」


「あなたもでしょう、ローゼン夫人」


「もちろんですわ」


 二人の夫人は、視線だけで軽く笑い合った。


 社交界は厄介だ。


 だが、その厄介さを逆に制度へ使えるなら、強い。


 セレスティアは、深く頭を下げた。


「ご協力ありがとうございます」


 バルツァー夫人は、少しだけ真顔になった。


「セレスティア様」


「はい」


「私は、昨日あなたに大口寄付者を敵に回すおつもりかと尋ねました」


「はい」


「今日、少し考えが変わりました。あなたは、敵に回すのではなく、逃げられない場所に引っ張り出すのですね」


 セレスティアは、一瞬言葉を失った。


 かなり鋭い。


 そして、たぶん間違っていない。


「……必要な方には、そうするかもしれません」


 バルツァー夫人は声を立てずに笑った。


「やはり頑固ですわ」


「必要な部分だけです」


「またそれを言う」


 今度は、部屋に自然な笑いが起きた。


 一方、エルフォード公爵邸には、セレスティアが縁談打診に対して出した統一回答文の写しが届いていた。


 正確には、公爵家宛てに来ていた打診にも同じ文面を使うよう、宰相府確認済みの回答例が送られてきたのだ。


 グレアムは、当主執務室でその文面を読んでいた。


『現在、セレスティア・エルフォードは王妃基金監査補佐官としての職務に専念しており、私的な縁談および将来的な婚姻を前提とした親交については検討しておりません』


『王妃基金への寄付、支援相談、行事参加の審査は、縁談および私的親交の有無とは一切関係なく、基金規程と支援目的に基づき行われます』


 明確だった。


 礼儀はある。


 だが、揺れない。


 縁談は検討しない。


 寄付や支援相談と私的親交は分ける。


 娘が、自分の名前で断っている。


 グレアムは、文面から目を離せなかった。


 かつて、セレスティアの婚約は、彼と王宮の間で整えられた。


 もちろん、本人にも説明はした。


 だが、それは選択というより、受け入れるべき道として示しただけだった。


 公爵家のため。

 王家との関係のため。

 娘の将来のため。


 彼は、そう信じていた。


 セレスティアも頷いた。


 だから、それでよいと思っていた。


 だが、今この回答文を読むと、胸が苦しくなる。


 娘は、本当に選んでいたのか。


 それとも、断る言葉を知らなかっただけなのか。


 扉が開き、エヴァンジェリンが入ってきた。


「宰相府からの文面ですか」


「ああ」


 グレアムは、紙を差し出した。


 エヴァンジェリンは読み、静かに息を吐いた。


「はっきりしていますね」


「お前は、どう思う」


「安心しました」


「安心?」


「ええ。あの子が、断る言葉を持てたことに」


 グレアムは、目を伏せた。


 同じことを考えていた。


 だが、妻に言われると痛みが増す。


「私は、あの子から断る機会を奪っていたのだろうか」


 ぽつりと漏れた言葉だった。


 エヴァンジェリンは、すぐには答えなかった。


 しばらくして、静かに言った。


「奪っていたと思います」


 容赦はなかった。


 だが、今のグレアムには、その容赦のなさが必要だった。


「私も同じです。あの子が受け入れるのは当然だと思っていました。優秀だから。長女だから。公爵家の娘だから」


 エヴァンジェリンは、文面を見つめる。


「でも、優秀な子ほど、断る言葉を教えなければならなかったのですね」


 グレアムは、黙った。


 断る言葉。


 確認保留権。


 職務範囲。


 過重負担時の申し出。


 セレスティアが作っている制度は、王妃基金のためだけではない。


 彼女自身が、かつて持てなかったものを、他の誰かが持てるようにしている。


 それを、グレアムはようやく理解し始めていた。


「公爵家宛ての打診にも、この文面で返す」


 グレアムは言った。


 エヴァンジェリンが少し驚く。


「よろしいのですか」


「本人が断っている」


「はい」


「なら、家が勝手に受けることはできない」


 その言葉を言うのに、こんなに時間がかかった。


 グレアムは、自分の遅さを苦く思った。


 エヴァンジェリンは、静かに頷いた。


「では、私からも社交界で同じように伝えます。セレスティアは職務を優先している、と」


「ああ」


 少し間があった。


 グレアムは低く言った。


「……あの子は、もう戻らないのだな」


 エヴァンジェリンは、夫を見る。


「屋敷に、という意味ですか」


「それもある。私の決めた道に、という意味でもある」


「戻らなくてよいのです」


 その答えは、優しいのに厳しかった。


「戻らなくてよい場所に、あの子を長く置きすぎました」


 グレアムは、何も言えなかった。


 机の上には、娘の断り文がある。


 それは、娘が遠ざかる紙でもあり、娘がようやく自分の場所に立った証でもあった。


 その夜、セレスティアのもとへ、父から短い手紙が届いた。


 個人印の封筒。


 もう、それを見るだけで身構えることは少なくなった。


 完全にではない。


 でも、以前ほどではない。


 封を開ける。


『セレスティアへ』


『縁談打診への回答文を読んだ』


『公爵家宛てに来たものにも、同じ文面で返す』


 そこまで読んで、セレスティアは息を止めた。


 父が、家に来た打診を勝手に動かさない。


 そう書いている。


『お前が断ったものを、家が受けることはしない』


 その一文で、胸の奥が痛んだ。


 なぜ、これほど当たり前のことが、こんなに重いのだろう。


 当たり前ではなかったからだ。


 少なくとも、自分にとっては。


 続きがある。


『かつて、お前にそのように言うべきだったのだと、今になって思っている』


 セレスティアは、便箋を机に置いた。


 すぐには返事を書けなかった。


 怒りがある。


 今さら、と言いたい気持ちもある。


 でも、父はまた一つ認めた。


 遅い。


 けれど、認めた。


 彼女は、しばらくしてから短く返事を書いた。


『グレアム・エルフォード様』


『手紙を受け取りました』


『公爵家宛ての打診にも同じ文面で返すとのこと、確認しました』


『私が断ったものを家が受けないという対応を、受け取ります』


 少し迷い、最後に書いた。


『今後も、私的な縁談と王妃基金の職務は分けて扱います』


 署名。


 セレスティア・エルフォード。


 返事は短い。


 けれど、線は引けている。


 夜の覚書には、今日のことを書いた。


『寄付者向け概要報告書制度案、バルツァー夫人と共同修正』


 次に。


『寄付者を敵にするのではなく、逃げられない場所へ引っ張り出す、と言われた』


 少し考えてから。


『支援先名の公表にも確認が必要。双方を守る制度』


 さらに。


『使途希望欄に、不足状況を併記する。ミリアの四半期更新案を採用』


 そこまで書いて、父の手紙についても記す。


『父が、私が断ったものを家が受けることはしないと書いた』


 手が止まる。


 胸が少し痛む。


 最後に一行。


『断る言葉が、家にも届いた』


 ペンを置く。


 扉の外から、いつもの声がした。


「寝ろ」


「今日は一枚です」


「珍しい」


「成長しています」


「では明日も一枚だな」


「それは保証できません」


「補佐官」


「はい」


「制度は継続が大事だ」


 セレスティアは小さく笑った。


「努力します」


「そこは、はい、だ」


 ローゼン侯爵夫人と同じことを言われた。


「……はい」


 扉の向こうで、微かに笑う気配がした。


「今日はよくまとめた」


「ありがとうございます」


「バルツァー夫人を巻き込めたのは大きい」


「はい。かなり強い味方になりそうです」


「敵にすると厄介だ」


「味方でも厄介そうです」


「その通りだ」


 セレスティアは笑った。


 灯りを落とす。


 寄付者側も、少しずつ制度に巻き込まれている。


 父も、少しずつ娘の断る言葉を受け入れ始めている。


 どちらも遅い。


 どちらも簡単ではない。


 でも、紙は進んでいる。


 制度も、人も、少しずつ変わっている。


 セレスティアは、その事実を胸に置いて目を閉じた。

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