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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第57話 善意は、誰のために飾られるのか

 大口寄付者との会合は、王宮西翼の小会議室で開かれた。


 広すぎない部屋だった。


 それが、かえってよかった。


 大広間で開けば、寄付者たちは社交の顔を作る。

 豪華な応接室で開けば、寄付額と家格の比べ合いになる。

 けれど、この小会議室には、そういう余白が少ない。


 机がある。

 資料がある。

 記録官がいる。

 会計官がいる。

 法務官がいる。


 そして、王妃基金監査補佐官として、セレスティアがいた。


 彼女の前には、寄付者向け概要報告書制度案。


 表紙には、正式に新しい役職名が入っている。


『作成補佐:王妃基金監査補佐官 セレスティア・エルフォード』


 その文字を見ても、今日はもう手が震えなかった。


 怖さはある。


 だが、ここは自分の仕事の場だ。


 会議室には、大口寄付者の代表として三名が招かれていた。


 財務卿家のバルツァー夫人。

 王都でも古い慈善団体を後援するモルヴィル侯爵夫人。

 新興商家と縁の深いダレン伯爵夫人。


 そして、社交界側の調整役としてローゼン侯爵夫人。


 宰相府からはカイン。

 会計室からローレン副監。

 法務からオルド。

 記録官としてミリア。


 セレスティアは、会議が始まる前に一度だけ台本を見た。


 今日は読み上げるための台本ではない。


 論点を忘れないための短い箇条書きだけだ。


 一、寄付者への感謝は否定しない。

 二、使途報告は信頼のため。

 三、支援先の尊厳を守る。

 四、人気分野への偏りを防ぐ。

 五、最終配分権は基金側に残す。

 六、断るべきものは断る。


 最後の一文だけ、少し強い。


 けれど、必要だった。


 扉が開き、バルツァー夫人が入ってきた。


 灰色がかった銀髪をきっちり結い上げ、深い葡萄色のドレスを着ている。年齢は母エヴァンジェリンより上だろう。目元には柔らかい皺があるが、視線は鋭い。


 彼女はセレスティアを見ると、礼儀正しく会釈した。


「王妃基金監査補佐官殿。ご任命、おめでとうございます」


「ありがとうございます、バルツァー夫人」


「昨日まで公爵令嬢とお呼びしていた方を、今日は役職名で呼ぶことになるとは。王宮という場所は、変わる時は早いものですわね」


 穏やかな声だった。


 だが、軽い牽制も混じっている。


 セレスティアは、静かに答えた。


「役職名に恥じないよう努めます」


「ええ。期待しております」


 期待。


 その言葉を、今日は鎖にしない。


 期待は受け取る。

 だが、飲み込まれない。


 続いて、モルヴィル侯爵夫人とダレン伯爵夫人が入ってきた。


 挨拶が済むと、カインが短く会議の開始を告げた。


「本日は、寄付者向け概要報告書制度案について意見を聞く。ただし、王妃基金の基本方針はすでに明確だ。基金は、寄付者の名誉を飾るためではなく、支援を必要な場所へ届けるためにある」


 いきなり核心だった。


 ダレン伯爵夫人が、少しだけ眉を上げる。


 バルツァー夫人は表情を変えない。


 ローゼン侯爵夫人は、涼しい顔で紅茶に手を伸ばした。


 セレスティアは立ち上がった。


「本制度案の目的をご説明いたします」


 会議室の視線が集まる。


 昨日の試行茶会ほど大人数ではない。


 けれど、今日の視線は別の意味で重い。


 ここにいるのは、金を出す側の代表者たちだ。


「これまで、王妃基金への寄付に対しては、主に感謝状や年次報告で対応してまいりました。しかし、寄付が具体的にどの支援へ用いられ、いつ、どのような形で届いたのかは、十分に見えない部分がありました」


 バルツァー夫人が軽く頷く。


「それは確かですわね。私どもも、寄付後の使途を細かく伺うのは失礼とされてまいりました」


「はい。ですが、確認しないことが信頼ではありません。今後は、寄付者の善意をより確実に必要な場所へ届けるため、感謝状とは別に使途概要報告書を作成します」


 ローゼン侯爵夫人が、わずかに目を細めた。


 あの一文。


 寄付者の善意をより確実に必要な場所へ届けるため。


 夫人の助言を入れた表現だ。


 柔らかい。


 だが、その先にある制度は柔らかいだけではない。


 セレスティアは続ける。


「寄付者の方は、支援分野の希望を示すことができます。ただし、最終的な配分は王妃基金の審査に基づきます」


 そこで、ダレン伯爵夫人が手を上げた。


「失礼。そこが少し分かりにくいのです。寄付する側が『孤児院の食事支援へ』と望んだ場合、それを基金側が別の用途に回すこともある、という意味ですか」


「はい。あります」


 セレスティアは正直に答えた。


 部屋の空気が少し硬くなる。


 ダレン伯爵夫人は困惑したように笑った。


「それでは、寄付者の意思が軽んじられませんか?」


「軽んじるのではありません。支援全体の公平性を守るためです」


「公平性」


「はい。たとえば、孤児院の食事支援は分かりやすく、寄付が集まりやすい分野です。一方で、灯油、輸送費、保管費、衛生用品、支援先報告書作成のための事務費などは、目立ちにくく寄付が集まりにくい」


 ローレン副監が資料を差し出す。


「こちらをご覧ください。過去の寄付希望分野の偏りです」


 表を見た三人の夫人たちの表情が変わった。


 孤児院、病児支援、茶会用地方産品には多く集まる。


 だが、輸送費、燃料、記録整備、倉庫管理、衛生用品には少ない。


 モルヴィル侯爵夫人が、小さく息を吐く。


「まあ……燃料支援は、ここまで少ないのですか」


「はい」


 セレスティアは頷いた。


「ですが、北方施療院の例のように、灯油が不足すれば夜間診療室の暖房時間が短くなります。支援は、見栄えのよい品だけでは成り立ちません」


 バルツァー夫人が言った。


「理屈は分かります。けれど、大口寄付者の中には、自家の名が明確に残る支援を望む者も多いでしょう。名誉があるからこそ、寄付が続く面もあります」


「その点は否定しません」


 セレスティアは答えた。


「寄付者名の記録と感謝は必要です。本人が望む場合、公表も可能です」


「では、なぜ宣伝を制限するのです」


 バルツァー夫人の声が少し鋭くなる。


「制度案には『支援先の尊厳を損なう宣伝を禁じる』とあります。寄付者を疑っているようにも読めますわ」


 来た。


 セレスティアは、台本ではなく、相手の目を見た。


「疑っているのではありません。守るためです」


「寄付者を?」


「支援先を、です」


 会議室が静まった。


 セレスティアは、机の上に置いた一枚の資料を開く。


「過去に、ある孤児院への寄付後、寄付者側の広報文に『我が家の慈悲により救われた哀れな子どもたち』という表現が使われました」


 ダレン伯爵夫人が、気まずそうに視線を落とす。


 おそらく、似た文言を見たことがあるのだろう。


「その文を読んだ院長から、王妃基金へ非公式に相談がありました。寄付はありがたい。けれど、子どもたちが見世物のように扱われるのはつらい、と」


 バルツァー夫人の表情が変わった。


「そのような相談が?」


「はい。記録に残す仕組みがなかったため、これまで表には出ていません」


 ローゼン侯爵夫人が、静かに口を挟んだ。


「善意は、相手を小さく見せるためのものではありませんわね」


「ローゼン夫人、もちろんです。しかし、全ての寄付者がそのような宣伝をするわけではありません」


「ええ。だからこそ制度にするのです」


 ローゼン侯爵夫人は穏やかに微笑んだ。


「品位ある寄付者ほど、線引きがある方が助かります。下品な宣伝と同列に見られずに済みますもの」


 強い。


 セレスティアは内心でそう思った。


 同じ内容でも、社交界側の言葉で言うと届き方が違う。


 バルツァー夫人は、扇を閉じた。


「なるほど。線引きは、寄付者を疑うためではなく、寄付者の品位を守るためでもある、と」


「はい」


 セレスティアは頷いた。


「その通りです」


 ダレン伯爵夫人が、少し不安そうに言った。


「でも、名が出ないなら寄付しないという方もいるのでは?」


 セレスティアは、そこを否定しなかった。


「いると思います」


「それでは基金が困りませんか」


「困ります」


 正直に言うと、夫人は目を瞬かせた。


「ですが、名が出なければ支援しないという寄付だけを前提に制度を作ると、王妃基金は寄付者の名誉を飾る場所になります。それは、亡き王妃陛下の理念とは異なります」


 カインが静かにこちらを見る。


 セレスティアは続けた。


「名を出したい方には、適切な形で感謝を示します。けれど、支援先を見下す表現、過度な宣伝、寄付者の意向による不公平な配分は認めません」


 バルツァー夫人が、しばらく黙った。


 会議室に、紙の擦れる音だけがした。


 やがて、彼女は言った。


「セレスティア様」


「はい」


「あなたは、大口寄付者を敵に回すおつもり?」


 ミリアの筆が一瞬止まりかけた。


 だが、セレスティアは逃げなかった。


「いいえ。敵に回すつもりはありません」


「では?」


「王妃基金の仕組みに、協力していただきたいと思っています」


 セレスティアは、少しだけ声を柔らかくした。


「寄付者の方々は、基金にとって大切な支えです。だからこそ、寄付が確実に必要な場所へ届いたと報告できる制度を作りたいのです。善意が疑われず、支援先も傷つかず、基金も公平性を守れるように」


 バルツァー夫人は、じっと彼女を見ていた。


「綺麗事にも聞こえます」


「綺麗事だけではありません」


 セレスティアは答えた。


「使途報告を出せば、寄付者からの質問も増えます。基金側の仕事も増えます。支援先からの実施後確認も必要になります。面倒です」


 ローレン副監が小さく頷いた。


 実務の重さを知る者の頷きだった。


「ですが、面倒だからこそ、曖昧な流用や不適切な差額処理を防げます」


 その一言で、ラドクリフ商会の件が場に戻る。


 誰も名前は出さない。


 だが、全員が分かっている。


 確認しなかった結果、何が起きたのか。


 モルヴィル侯爵夫人が、ゆっくり口を開いた。


「私は、概要報告書には賛成いたします」


 バルツァー夫人がそちらを見る。


「モルヴィル夫人?」


「理由は単純です。私の家も長年寄付をしてまいりましたが、正直に申しますと、どこへどう届いたのか、十分には知りませんでした。知ろうとしなかったとも言えます」


 彼女は少しだけ苦笑した。


「その状態で善意を誇るのは、少し怖いことですわ」


 ダレン伯爵夫人も、迷いながら言った。


「私は、使途希望を完全に無視されるのは不安です。でも、分野希望が出せて、報告が来るなら……納得する寄付者もいると思います」


 バルツァー夫人は、二人の顔を見た。


 そして、セレスティアへ戻る。


「概要版の文言は、もう少し寄付者への敬意を強めるべきです」


「はい。修正します」


「ただし、規程本文の核心は変えない、と」


「はい」


 セレスティアは、はっきり答えた。


 バルツァー夫人は、少しだけ笑った。


「頑固ですわね」


「必要な部分だけです」


「それを頑固と言います」


 ローゼン侯爵夫人が横で楽しそうに紅茶を飲んでいる。


 カインは、何も言わない。


 だが、その沈黙は否定ではなかった。


 バルツァー夫人は、最後に言った。


「よろしい。大口寄付者側として、制度案の修正協議には応じます。ただし、寄付者への説明文は私も確認します」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは早いですわ。かなり直します」


「望むところです」


 セレスティアがそう答えると、バルツァー夫人は一瞬だけ目を丸くし、それから声を立てずに笑った。


「あなた、本当に王太子妃候補だった頃より面白くなられましたね」


 セレスティアは少し困った。


「褒め言葉として受け取ってよいのでしょうか」


「かなり」


 ローゼン侯爵夫人と同じ言い方だった。


 思わず、会議室に小さな笑いが起きた。


 張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。


 会合後、セレスティアは廊下で深く息を吐いた。


 思っていたより疲れた。


 正面から反対されるのは、やはり体力を使う。


 だが、崩れなかった。


 寄付者の名誉も認めた。

 寄付意欲の現実も認めた。

 それでも、支援先の尊厳と基金の公平性は譲らなかった。


 カインが隣に来る。


「初戦としては上出来だ」


「初戦、ですか」


「ああ。これから何度もある」


「励ましではありませんね」


「事実だ」


 セレスティアは少し笑った。


「でも、今日は倒れませんでした」


「倒れられても困る」


「そこは、よくやった、と言うところでは」


 カインは、少しだけ間を置いた。


「よくやった」


 素直に言われると、逆に照れる。


「……ありがとうございます」


「ただし、疲れている。今日は早く終われ」


「報告書の修正を」


「明日だ」


「一項目だけ」


「明日だ」


「……はい」


 以前より、諦めるのが早くなった気がする。


 これも成長だろうか。


 たぶん、そうだと思いたい。


 夕方、リリアナへ会合の簡単な報告を送った。


『あなたの「支援を受ける側なら嫌だ」という意見は、今日の会合の考え方に役立ちました』


 そう書くと、すぐに返事が来た。


 今回は短かった。


『お姉様へ』


『私の意見が役に立ったなら嬉しいです。でも、寄付者の方々に怒られませんでしたか?』


『支援先の尊厳という言葉は、少し難しいですが、大切だと思います。明日、辞書で調べます』


『今日も規程を読みます。寄付者向け報告書も読みたいです』


 セレスティアは、その手紙を読んで微笑んだ。


 辞書で調べます。


 リリアナらしい。


 でも、それが大切なのだ。


 分からない言葉を、分からないままにしない。


 夜、セレスティアは覚書を書いた。


『大口寄付者との会合』


 次に。


『寄付者の名誉と、支援先の尊厳が正面からぶつかった』


 さらに。


『善意は否定しない。でも、善意で相手を小さく見せてはいけない』


 少し手を止める。


 今日、一番大事だった言葉を書く。


『寄付者の善意を、必要な場所へ確実に届ける。そのために、寄付者の希望にも線を引く』


 さらに。


『バルツァー夫人は強かった。だが、修正協議には応じてくれた』


 最後に小さく。


『頑固と言われた。必要な部分だけ、と答えた』


 書き終えると、扉の外から声がした。


「寝ろ」


「今日は一枚です」


「本当か」


「本当です」


「確認するか」


「しないでください」


 扉の向こうで、わずかに笑う気配がした。


「今日はよくやった」


 胸が、静かに温かくなる。


「ありがとうございます」


「明日は修正だ」


「はい」


「だから寝ろ」


「はい」


 引き出しを閉じる。


 灯りを落とす。


 寄付者の名誉。


 支援先の尊厳。


 どちらも、言葉だけなら美しい。


 けれど、ぶつかることがある。


 その時、王妃基金監査補佐官として、自分はどちらをどう守るのか。


 今日、少しだけ分かった。


 善意を否定しない。


 でも、善意を飾りにしない。


 必要な場所へ届く仕組みにする。


 そのために、明日もまた紙を書く。

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