第60話 足りないものほど、目立たない
第一回四半期不足状況表の作成は、思った以上に地味だった。
華やかな茶会の準備でもない。
寄付者たちを説得する会合でもない。
社交界を揺らす処分文書でもない。
ただ、紙を並べる。
支援先ごとの報告書。
会計室の支出一覧。
寄付希望分野の集計。
輸送費の控え。
燃料価格の推移。
倉庫保管料。
施療院や孤児院から届いた小さな要望書。
その一つ一つに目を通し、分類し、同じ支援分野ごとに束ねていく。
派手さはない。
だが、セレスティアはこの作業こそ、王妃基金の土台になると感じていた。
なぜなら、目立つ支援は放っておいても見つけてもらえる。
孤児院の食事。
病気の子どもの薬。
地方産品を使った茶会。
寒い地域への毛布。
それらは、寄付者の心を動かしやすい。
もちろん、大切だ。
大切ではある。
けれど、今日机の上に並んでいる紙の多くは、もっと地味なものだった。
『輸送費不足により、薬草納入を二回分まとめる必要あり』
『灯油保管用の樽が老朽化。交換希望』
『施療院記録係の人手不足。報告書提出遅延』
『孤児院の厨房修繕費。雨漏りにより乾燥食材保管に支障』
『地方産品の品質検査費が不足。適正価格算定に遅れ』
どれも、茶会で聞けば盛り上がりにくい。
でも、これが止まれば、支援全体が止まる。
ミリアが表の左端に分類名を書き込みながら、眉を寄せた。
「輸送費が、思っていたより多いです」
セレスティアは頷いた。
「地方産品支援を増やすほど、輸送費も増えます。品物だけ買っても、届かなければ支援になりません」
「でも、寄付者の方々に『輸送費へ寄付してください』と言っても、集まりにくそうですね」
「はい。だから不足状況表に載せます」
ミリアは、少しだけ苦笑した。
「地味なものほど、表に出さないと見えないのですね」
「そうです」
セレスティアは、帳簿の端にあった小さな記録を指で示した。
「この厨房修繕費もそうです。保存果実や蜂蜜を送っても、厨房の保管棚が雨漏りで使えなければ、食材を駄目にしてしまいます」
「菓子より棚、ですか」
「茶会では盛り上がりませんね」
「かなり」
二人は少しだけ笑った。
しかし、笑いながらも手は止めない。
そこへローレン副監が、さらに分厚い資料束を抱えて入ってきた。
「お二人とも、よい知らせと悪い知らせがあります」
ミリアが顔を上げた。
「よい知らせからお願いします」
「第一回四半期不足状況表の分類案は、かなり実用的です」
「悪い知らせは?」
「不足が多すぎます」
ローレン副監は、どさりと資料束を置いた。
紙が机の上で低い音を立てる。
「特に目立つのは、輸送費、燃料保管費、支援先記録整備費、品質検査費。どれも寄付者人気が低い分野です」
セレスティアは、資料束を見て静かに息を吐いた。
「やはり、表に出す必要がありますね」
「ええ。ただ、出し方に注意しないと、寄付者が読む前に閉じます」
「閉じますか」
「閉じます」
ローレン副監は真顔だった。
「『輸送費』『記録整備費』『品質検査費』とだけ並べると、会計官以外は眠くなります」
ミリアが小さく言った。
「私も少し眠くなります」
「正直でよろしい」
セレスティアは、少し考えた。
足りないものを、そのまま出すだけでは届かない。
でも、飾りすぎてもいけない。
必要性が分かる言葉に変える。
それが概要報告書の役割だった。
「では、項目名の横に『これが不足すると何が起きるか』を書きましょう」
ローレン副監が目を上げた。
「具体例を入れるのですか」
「はい。たとえば、輸送費なら『薬草や保存食を必要な時期に届けられない』。燃料保管費なら『灯油を安全に保管できず、冬の支援量が減る』。記録整備費なら『支援先の状況が分からず、次回配分が遅れる』」
ミリアがすぐに筆を取る。
「分かりやすいです」
「ただし、煽りすぎないようにします」
「煽りすぎる?」
ミリアが首を傾げる。
「『輸送費がなければ子どもたちは飢えます』のような書き方は避けたいです。感情を動かすために、支援先を追い詰めた描写へ寄せすぎると、尊厳を損ないます」
ローレン副監が頷いた。
「なるほど。必要性は示すが、見世物にしない」
「はい」
そこへ、いつの間にか扉の近くに立っていたカインが言った。
「その線で作れ」
セレスティアは少しだけ驚いた。
「宰相閣下、いつから」
「輸送費で眠くなるあたりから」
ミリアが明らかに気まずそうな顔をした。
「申し訳ありません」
「事実だ。眠くなる表は読まれない」
カインは机の上の資料を一枚取り上げる。
「四半期不足状況表は、寄付者に人気投票をさせるためのものではない。必要性を見えるようにするためのものだ」
「はい」
「なら、項目ごとに『不足時の影響』と『支援後の変化』を入れろ」
セレスティアは頷いた。
「支援後の変化も、ですか」
「ああ。不足だけを見せると暗くなる。支援すれば何が改善するのかも示せ」
確かに、その通りだった。
足りない。
困っている。
苦しい。
それだけでは、寄付者は重さに疲れる。
だが、支援後に何が変わるかが見えれば、関わる意味が分かる。
ミリアが書き込む。
『不足時の影響』
『支援後の変化』
セレスティアは、その二つの見出しを見て頷いた。
「よいと思います」
「では、作れ」
「はい」
「ただし、昼食は食べろ」
セレスティアは、手元の資料から顔を上げた。
「今、その話ですか」
「今言わないと忘れる」
「忘れません」
ミリアとローレン副監が同時に視線を逸らした。
セレスティアは二人を見る。
「……忘れそうに見えますか」
ミリアが小さく答えた。
「少し」
ローレン副監も咳払いした。
「かなり」
カインが短く言った。
「食べろ」
セレスティアは、諦めて頷いた。
「食べます」
昼食後、第一回四半期不足状況表の概要版作成に、リリアナも呼ばれた。
試読協力者としてである。
リリアナは、王太子府での講習を終えてから来たらしく、少し疲れていた。
それでも、机の上に広げられた表を見ると、表情を引き締めた。
「今日は、何を読めばよろしいですか」
セレスティアは、概要版の草案を渡した。
「第一回四半期不足状況表です。寄付者向けに、今どの支援分野が足りないかを示すものです」
リリアナは、表紙を見て目を瞬かせた。
「不足状況……」
「はい。読んで、分かりにくい箇所に印をつけてください」
「分かりました」
リリアナは椅子に座り、真剣に読み始めた。
最初の数行で、すぐに眉を寄せる。
セレスティアは待った。
ミリアも、ローレン副監も待つ。
以前より、待つことに慣れてきた。
やがて、リリアナが顔を上げる。
「お姉様」
「はい」
「『記録整備費』という言葉が、最初はよく分かりませんでした」
ミリアがすぐにメモを取る。
「どこで分かりましたか?」
「『支援先の状況が分からないと、次の配分が遅れる』という説明で、少し分かりました。でも、まだ硬いです」
セレスティアは頷いた。
「では、どう言えばよいと思いますか」
リリアナは少し考えた。
「支援先からの報告を集めて、次に何が必要か分かるようにする費用……では長いですか」
「長いですが、分かりやすいです」
ローレン副監が言った。
「概要版なら、そのくらいでもよいかもしれません」
リリアナは少しほっとした顔をした。
「あと、輸送費のところですが」
「はい」
「『物を運ぶ費用』だけだと、当たり前すぎて軽く見えるかもしれません。『必要な時期に届けるため』と入れた方がいいと思います」
セレスティアは、胸の奥が少し温かくなる。
「よい指摘です」
「本当ですか」
「はい。輸送費は、ただ運ぶ費用ではなく、必要な時期に届けるための費用です」
ミリアが表に書き加える。
リリアナは、さらに次の頁をめくった。
「それから、燃料保管費ですが……これは、灯油を買うお金とは違うのですか」
「違います。灯油を安全に保管する樽や倉庫の管理費です」
「では、そこを書かないと分かりにくいです。私、最初は灯油代と同じだと思いました」
セレスティアは頷く。
「入れましょう」
ローレン副監が感心したように言った。
「リリアナ様の視点は、やはり概要版には必要ですね」
リリアナは、少し顔を赤くした。
「私は分からないところが多いだけです」
「それが役に立っています」
セレスティアが言うと、リリアナは恥ずかしそうに笑った。
「では、もっと分からないところを探します」
「頼もしいです」
その言葉に、リリアナの背筋が少し伸びた。
作業の途中で、ジュリアスが小会議室を訪れた。
王太子府の講習資料を届けに来たらしい。
彼は、机の上に広がった不足状況表を見て、少し足を止めた。
「これは?」
リリアナが答えた。
「第一回四半期不足状況表です。寄付者の方々に、どの支援分野が足りないかを分かりやすく伝えるためのものです」
ジュリアスは、表を覗き込んだ。
「輸送費、燃料保管費、記録整備費……地味な項目が多いな」
言ってから、少しだけ気まずそうにする。
以前の自分なら、その地味さを理由に見なかっただろうと気づいたのかもしれない。
セレスティアは言った。
「地味な項目ほど、不足しています」
「そうか」
ジュリアスは、しばらく表を見ていた。
「王太子府の行事でも、輸送費や保管費は事務方に任せきりだった」
「多くの行事がそうです」
「だが、そこを見ないと、また同じことが起きる」
彼の声は静かだった。
セレスティアは頷く。
「はい」
ジュリアスは、ふとリリアナを見る。
「リリアナは、どこを確認していたんだ?」
「分かりにくい言葉です。記録整備費とか、燃料保管費とか」
「難しいな」
「はい。でも、分からないと言うのが仕事です」
リリアナは、少し誇らしげに言った。
ジュリアスが小さく笑う。
「いい仕事だ」
リリアナは、ぱっと頬を赤くした。
「殿下にそう言われると、緊張します」
「私も勉強中だ。偉そうには言えない」
そのやり取りを見て、セレスティアは少しだけ目を細めた。
二人の関係も、変わってきている。
以前の華やかな婚約者候補と王太子ではない。
規程を読み、分からない言葉に印をつけ、地味な支援費を眺める二人。
それは地味だ。
けれど、以前よりずっと健全に見えた。
午後の終わり頃、第一回四半期不足状況表の概要版は、ようやく形になった。
表の上部には、短い説明文を置いた。
『この表は、王妃基金において現在不足している支援分野を示すものです。目立つ品物だけでなく、輸送費、保管費、記録整備費など、支援を継続するために必要な分野も含みます』
続いて、分類表。
一、燃料支援
不足状況:高
不足時の影響:冬季の診療室・保護施設の暖房時間が短くなる恐れ。
支援後の変化:夜間診療や保護施設の生活環境を安定させる。
二、輸送費
不足状況:高
不足時の影響:薬草、保存食、燃料などを必要な時期に届けられない。
支援後の変化:支援物資を適切な季節・時期に届けられる。
三、記録整備費
不足状況:中
不足時の影響:支援先の状況把握が遅れ、次回配分が遅れる。
支援後の変化:必要な支援を早く把握し、無駄や偏りを減らす。
四、品質検査費
不足状況:中
不足時の影響:地方産品の適正価格算定や継続購入判断が遅れる。
支援後の変化:生産者へ正当な対価を払い、寄付者へも説明しやすくなる。
五、食事・栄養補助
不足状況:一部不足
不足時の影響:孤児院や施療院の冬季栄養補助が減る。
支援後の変化:食欲の落ちる子どもや患者への補助食品を確保できる。
セレスティアは、完成した概要版を読んで、静かに息を吐いた。
地味だ。
でも、必要な地味さだ。
ローレン副監が満足そうに頷く。
「これは使えます」
ミリアも言った。
「眠くなりません」
「よかったです」
リリアナは、表の端に小さく印をつけた。
「お姉様」
「はい」
「この表を見たら、寄付者の方は地味な支援にも寄付してくださるでしょうか」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
希望だけで答えたくなかった。
「全員ではありません」
「はい」
「でも、一部の方は気づいてくださると思います。燃料や輸送費がなぜ必要なのか、見えれば」
リリアナは頷いた。
「一部でも、変わりますか」
「変わります」
そこへカインが言った。
「制度は、一部から変わる」
リリアナは、少し驚いたように彼を見た。
「一部から、ですか」
「ああ。全員が一度に変わると思うな。だが、一部が変われば、次の一部が動く」
セレスティアは、その言葉を胸にしまった。
一部から変わる。
王妃基金もそうだった。
リリアナもそうだった。
父も、母も、王太子府も、寄付者たちも。
一度に全部ではない。
でも、一部が変わる。
そこから次へ進む。
夕方、第一回四半期不足状況表は、寄付者向け概要報告書制度の試行資料として発送準備に入った。
大口寄付者向け説明会にも添付される。
社交界では、また反応が出るだろう。
「輸送費に寄付?」と笑う者もいるかもしれない。
「灯油保管費など、夢がない」と言う者もいるかもしれない。
「でも必要なのね」と気づく者もいるかもしれない。
その少しの気づきを拾うために、この表はある。
セレスティアは、署名欄に名前を書いた。
『王妃基金監査補佐官 セレスティア・エルフォード』
その隣に、王宮会計室、法務局、記録官の確認欄が並ぶ。
もう、一人の名前だけではない。
それが安心だった。
夜、エルフォード公爵邸にも、第一回四半期不足状況表の写しが届いた。
エヴァンジェリンは、それをリリアナのために取り寄せたのだが、グレアムも目を通した。
「燃料支援、輸送費、記録整備費……」
彼は、低く呟いた。
どれも、かつてなら目を滑らせた項目だ。
華やかな支援ではない。
社交界で語りやすいものでもない。
だが、表の横には不足時の影響が書かれている。
『薬草、保存食、燃料などを必要な時期に届けられない』
『支援先の状況把握が遅れ、次回配分が遅れる』
グレアムは、しばらくその文面を見つめていた。
自分は、どれほど目立つものだけを見ていたのだろう。
家格。
王太子府との関係。
社交界での体面。
大口寄付者の名。
茶会の成功。
その裏で、輸送費や記録整備費のようなものを、どれだけ軽んじてきたのか。
エヴァンジェリンが静かに言った。
「地味ですが、大切なのですね」
「ああ」
グレアムは、珍しく素直に頷いた。
「こういうものを見なかったから、私は……いや、私たちは間違えたのだろう」
エヴァンジェリンは、何も言わなかった。
沈黙が、責めるものではなく、受け止めるものになっていた。
その夜、セレスティアは覚書を書いた。
『第一回四半期不足状況表、作成』
次に。
『目立たない支援分野ほど不足している。燃料保管費、輸送費、記録整備費、品質検査費』
さらに。
『リリアナが、記録整備費と燃料保管費の分かりにくさを指摘。輸送費は必要な時期に届けるため、と修正』
少し手を止めて、カインの言葉を書く。
『制度は、一部から変わる』
最後に。
『足りないものほど、目立たない。だから表に出す』
ペンを置く。
扉の外から声がした。
「寝ろ」
「今日は一枚です」
「よし」
「少し得意げに言ってしまいました」
「継続できれば得意げでいい」
「明日も一枚とは限りません」
「補佐官」
「はい」
「制度は継続が大事だ」
またそれだ。
セレスティアは笑った。
「はい。努力します」
「今日はよく見えるようにした」
「足りないものを、ですか」
「ああ。見えないものは、支えられない」
その言葉が、胸に残った。
「はい」
「だから寝ろ」
「はい」
灯りを落とす。
今日、地味な不足が紙の上に出た。
燃料保管費。
輸送費。
記録整備費。
品質検査費。
誰も拍手しないかもしれない。
誰も華やかだとは言わないかもしれない。
でも、これがなければ支援は届かない。
足りないものほど、目立たない。
だからこそ、見えるようにする。
それが、王妃基金監査補佐官としての自分の仕事なのだと、セレスティアは静かに思った。




